その日はそのまま何事もなく過ぎた。
グリーンウッド将軍から託された手紙をマーシャはいつも通りの冷たい表情で黙って受け取ったので、ジュリエットもそれ以上踏み込むことはできず、その一件はそれで終わった。翌朝早くマーシャは街へ出かけて行ったので、言いつけ通り手紙を郵便局に持って行ったのだろう。
ジュリエットがここへ来てから、いつの間にか将軍の朝食を私室へ運ぶのは彼女の仕事のようになっていた。今日も同じようにトレイをテーブルに置いて退出しようとしたジュリエットを、なぜか将軍が呼び止めた。
「クインズビー嬢」
「はい、閣下」
「あなたは時々どこかへ出かけているようだが」
「……え?」
突然、予想だにしなかった質問を投げられて、ジュリエットは少なからず驚いた。疎まれこそすれ、まさか将軍から自分のことについて質問される時が来るなど、ゆめゆめ考えてもいなかったからだ。
「あ……はい、空いた時間にはだいたい散歩に出ております」
「散歩? どこを?」
嘘をついても仕方がないので事実をそのまま述べたのだが、それが一層将軍には不思議に思えたらしい。だがジュリエット自身も、将軍の質問の意図が全く読めなくて困惑するばかりだ。
「どこと仰いましても、この荘園の敷地ですわ。お屋敷の前庭や裏庭はもちろんですが、時には牧草地のほうまで足を延ばすこともございます」
ごく自然に答えたつもりだったが、将軍は不思議そうに首を傾げたままだ。ジュリエットの困惑が不安に変わった。もしかしたら、勝手に出歩いてはいけなかったのかしら。閣下のお怒りを買ってしまっていたとしたら困ったわ……。
「あの、何か問題がございましたでしょうか?」
「いや、別に。ただこの土地にそれほどあなたを惹きつけるものがあるなどと思えなかったので、少し意外だっただけだ」
「まあ、何を仰いますの? ここは本当に美しいところではございませんか。牧草地も雑木林も丘の向こうの泉も見るたびに表情が違います。何度訪れても飽きるどころか、時間を忘れてしまうことがあるほどですわ」
「ここを気に入ってくれたのならば喜ばしいことだ。だがここにはロンドンのような華やいだ場所も娯楽も……失礼」
言いかけた将軍ははっとして口を噤んだ。ジュリエットがぐっと息を呑む音を敏感に察知したのだ。将軍には見えていないが、ジュリエットの表情は一瞬にして強張った。将軍自身もロンドンでのジュリエットの評判を改めて思い出したのだろう。だが気まずそうに黙り込んだ将軍にジュリエットは明るく声をかけた。
「確かにロンドンは刺激の多い都会ではございますが、実を申しますとわたくし、子供の頃からロンドンが苦手ですの。……とは言え、うちは領地を持っておりませんからロンドンでの生活しか存じ上げないのですが」
「領地がない……そうか、ロンドンにはそういった貴族の家も多数あったな」
「ええ。ですからわたくし、初めてここを訪れた時は本当に驚きました。なんと美しく清らかな、心洗われるような場所なのかと。ここならわたくしのような人間でも生まれ変わ……いえ、何でもございません」
ジュリエットはあの湖水のほとりのカントリーハウスをこの場所と重ね合わせていた。幼い頃にウィリアムと共に過ごした、まぶしい夏の記憶……だが今、目の前にいるのがグリーンウッド将軍であることを思い出して慌てて会話を終わらせた。
「そうか。都会育ちの人にはそう見えるのだな。ここは代々我が家が所有している荘園で、子供の頃から知っているから、俺にはさほど新鮮なものには思えないのだが……でもそうだな、特に最近は滅多に外に出ることもなくなって、この土地の良さを忘れかけていたかもしれないな」
将軍はロンドンのことには敢えてそれ以上踏み込まず、ジュリエットの言葉を受け取って、一つ一つ噛みしめるように言った。その様子を見ていたジュリエットは思い切ってある提案を持ち出してみた。
「あの、閣下。もしお身体に差し障りがなければですが……閣下も庭園を散歩なさってみてはいかがでしょうか。その……もうずっとお部屋に籠り切りでいらっしゃいますから……色々と……」
「何? 今の私に外へ出ろと? 冗談は止してくれ。あなたは私に恥をかかせたいのか?」
将軍の虚ろな黒い瞳が激しく揺れ、言葉に棘が混じる。思っていた通りの反応に、ジュリエットは言葉を選びながら答えた。
「いえ、恥をかかせるなど、滅相もございません。でも閣下、今のような生活はお身体によくありませんわ。脚が弱って、このままでは歩けなくなってしまわれます。わたくしは医者ではありませんから、その……お目のことは何とも申し上げられませんが……いつでも戻れる……ように……閣下のことをお待ちになっているお方のために……」
目のことを持ち出した以上、将軍の逆鱗に触れることも覚悟していたが、意外にも彼はジュリエットの言葉に真摯に耳を傾けていた。ジュリエットが曖昧に語尾を濁して口を噤むと、将軍は静かに言った。
「俺を待っていてくれる人のために、か。そうだな、そうだった。ではまずはこの屋敷の中ぐらいは一人で歩けるようにならねば。……全くクインズビー嬢、あなたはやはり評判通りの令嬢だな」
評判通り、その言葉は初めて会った時の将軍から発せられたものであればジュリエットの心を深く傷つけたかもしれない。だが、不思議と今のジュリエットにとってそれは以前ほど重い意味を持つものではなくなっていた。ジュリエットは小さく笑みを漏らすと、明るい声で将軍に言った。
「お褒めに預かり恐縮ですわ、閣下。ではマーシャさんに手伝って頂くよう、わたくしのほうからお願いして……」
「あなたが手伝ってくれれば良いだろう。マーシャは忙しいのだから。よし、まずは手始めに庭に出よう」
「え? え? わたくしが、ですか?」
思ってもみなかった話の流れに、ジュリエットは我が耳を疑った。だが目の前の将軍は平然とした顔で右手を前に差し出すとこう言った。
「別に問題はないだろう。さあ、何をしている、俺を衣装箪笥の前まで連れて行ってくれ。歩数を数えたい」
かなり年上とは言え、独身の殿方の手に触れるなど……ジュリエットは途方に暮れたが、言い出した以上しかたない。そこで恐る恐る将軍の右手を取って、身体の向きを左に変えさせた。そのまま部屋の隅にある衣装箪笥まで誘導すると、将軍は伸ばした左手で箪笥を開け、手探りで上着を取り出して袖を通した。
「さあ、次はどうやって廊下に出る?」
「では右をお向きになって、まっすぐお進み下さい。そこでもう一度右を向いて、今度は壁伝いに……そうです、そこがドアです。ドアを出られて左に進むと図書室があるのはお分かりでいらっしゃいますわね。図書室を通り越して少し進むと飾り柱がありますから、それを目印に……」
朝食の時もそうだったが、やはりグリーンウッド将軍はずば抜けた洞察力と記憶力で、あっという間に二階の私室から螺旋階段を降りて玄関ホールへ抜けるまでの道筋と距離を頭の中に完璧に構成してしまった。ジュリエットはその頭の回転の速さに改めて驚いた。そして気が付くと将軍はジュリエットの手に導かれながら、数ヶ月ぶりに屋敷の外へ足を踏み出していた。
「車寄せに到着しましたわ、閣下」
将軍は顔を上げて、太陽のほうを向いた。初夏の日差しがその見えない瞳に反射する。将軍は何度か瞬きをすると、ゆっくりと右側にいるジュリエットのほうを向いた。その瞬間、何も見えていないことはわかっているはずなのに、ジュリエットは胸がどきりとした。
「見えないが、明るくなったのは分かる。暗闇にも色々あるのだな。……ありがとう、クインズビー嬢。あなたの真摯な言葉のおかげで、俺は一歩踏み出すことができた」
ジュリエットの鼻の奥がツンと痛くなった。もしこのまま視力が戻らないままだとしても、必ずこの方はもう一度力強く立ち上がるだろう。わたくしも、強くなりたい。いいえ、なってみせるわ。将軍の右手を握り返して、ジュリエットは明るく声をかけた。
「今日は散歩にはもってこいの日ですわ、閣下。さて、どちらへご案内しましょうか?」
「東の花壇のそばにベンチがあったはずだ。まずはそこへ連れて行ってくれ」
「かしこまりました。では参りましょう。お足元にお気をつけ下さいまし」
グリーンウッド将軍から託された手紙をマーシャはいつも通りの冷たい表情で黙って受け取ったので、ジュリエットもそれ以上踏み込むことはできず、その一件はそれで終わった。翌朝早くマーシャは街へ出かけて行ったので、言いつけ通り手紙を郵便局に持って行ったのだろう。
ジュリエットがここへ来てから、いつの間にか将軍の朝食を私室へ運ぶのは彼女の仕事のようになっていた。今日も同じようにトレイをテーブルに置いて退出しようとしたジュリエットを、なぜか将軍が呼び止めた。
「クインズビー嬢」
「はい、閣下」
「あなたは時々どこかへ出かけているようだが」
「……え?」
突然、予想だにしなかった質問を投げられて、ジュリエットは少なからず驚いた。疎まれこそすれ、まさか将軍から自分のことについて質問される時が来るなど、ゆめゆめ考えてもいなかったからだ。
「あ……はい、空いた時間にはだいたい散歩に出ております」
「散歩? どこを?」
嘘をついても仕方がないので事実をそのまま述べたのだが、それが一層将軍には不思議に思えたらしい。だがジュリエット自身も、将軍の質問の意図が全く読めなくて困惑するばかりだ。
「どこと仰いましても、この荘園の敷地ですわ。お屋敷の前庭や裏庭はもちろんですが、時には牧草地のほうまで足を延ばすこともございます」
ごく自然に答えたつもりだったが、将軍は不思議そうに首を傾げたままだ。ジュリエットの困惑が不安に変わった。もしかしたら、勝手に出歩いてはいけなかったのかしら。閣下のお怒りを買ってしまっていたとしたら困ったわ……。
「あの、何か問題がございましたでしょうか?」
「いや、別に。ただこの土地にそれほどあなたを惹きつけるものがあるなどと思えなかったので、少し意外だっただけだ」
「まあ、何を仰いますの? ここは本当に美しいところではございませんか。牧草地も雑木林も丘の向こうの泉も見るたびに表情が違います。何度訪れても飽きるどころか、時間を忘れてしまうことがあるほどですわ」
「ここを気に入ってくれたのならば喜ばしいことだ。だがここにはロンドンのような華やいだ場所も娯楽も……失礼」
言いかけた将軍ははっとして口を噤んだ。ジュリエットがぐっと息を呑む音を敏感に察知したのだ。将軍には見えていないが、ジュリエットの表情は一瞬にして強張った。将軍自身もロンドンでのジュリエットの評判を改めて思い出したのだろう。だが気まずそうに黙り込んだ将軍にジュリエットは明るく声をかけた。
「確かにロンドンは刺激の多い都会ではございますが、実を申しますとわたくし、子供の頃からロンドンが苦手ですの。……とは言え、うちは領地を持っておりませんからロンドンでの生活しか存じ上げないのですが」
「領地がない……そうか、ロンドンにはそういった貴族の家も多数あったな」
「ええ。ですからわたくし、初めてここを訪れた時は本当に驚きました。なんと美しく清らかな、心洗われるような場所なのかと。ここならわたくしのような人間でも生まれ変わ……いえ、何でもございません」
ジュリエットはあの湖水のほとりのカントリーハウスをこの場所と重ね合わせていた。幼い頃にウィリアムと共に過ごした、まぶしい夏の記憶……だが今、目の前にいるのがグリーンウッド将軍であることを思い出して慌てて会話を終わらせた。
「そうか。都会育ちの人にはそう見えるのだな。ここは代々我が家が所有している荘園で、子供の頃から知っているから、俺にはさほど新鮮なものには思えないのだが……でもそうだな、特に最近は滅多に外に出ることもなくなって、この土地の良さを忘れかけていたかもしれないな」
将軍はロンドンのことには敢えてそれ以上踏み込まず、ジュリエットの言葉を受け取って、一つ一つ噛みしめるように言った。その様子を見ていたジュリエットは思い切ってある提案を持ち出してみた。
「あの、閣下。もしお身体に差し障りがなければですが……閣下も庭園を散歩なさってみてはいかがでしょうか。その……もうずっとお部屋に籠り切りでいらっしゃいますから……色々と……」
「何? 今の私に外へ出ろと? 冗談は止してくれ。あなたは私に恥をかかせたいのか?」
将軍の虚ろな黒い瞳が激しく揺れ、言葉に棘が混じる。思っていた通りの反応に、ジュリエットは言葉を選びながら答えた。
「いえ、恥をかかせるなど、滅相もございません。でも閣下、今のような生活はお身体によくありませんわ。脚が弱って、このままでは歩けなくなってしまわれます。わたくしは医者ではありませんから、その……お目のことは何とも申し上げられませんが……いつでも戻れる……ように……閣下のことをお待ちになっているお方のために……」
目のことを持ち出した以上、将軍の逆鱗に触れることも覚悟していたが、意外にも彼はジュリエットの言葉に真摯に耳を傾けていた。ジュリエットが曖昧に語尾を濁して口を噤むと、将軍は静かに言った。
「俺を待っていてくれる人のために、か。そうだな、そうだった。ではまずはこの屋敷の中ぐらいは一人で歩けるようにならねば。……全くクインズビー嬢、あなたはやはり評判通りの令嬢だな」
評判通り、その言葉は初めて会った時の将軍から発せられたものであればジュリエットの心を深く傷つけたかもしれない。だが、不思議と今のジュリエットにとってそれは以前ほど重い意味を持つものではなくなっていた。ジュリエットは小さく笑みを漏らすと、明るい声で将軍に言った。
「お褒めに預かり恐縮ですわ、閣下。ではマーシャさんに手伝って頂くよう、わたくしのほうからお願いして……」
「あなたが手伝ってくれれば良いだろう。マーシャは忙しいのだから。よし、まずは手始めに庭に出よう」
「え? え? わたくしが、ですか?」
思ってもみなかった話の流れに、ジュリエットは我が耳を疑った。だが目の前の将軍は平然とした顔で右手を前に差し出すとこう言った。
「別に問題はないだろう。さあ、何をしている、俺を衣装箪笥の前まで連れて行ってくれ。歩数を数えたい」
かなり年上とは言え、独身の殿方の手に触れるなど……ジュリエットは途方に暮れたが、言い出した以上しかたない。そこで恐る恐る将軍の右手を取って、身体の向きを左に変えさせた。そのまま部屋の隅にある衣装箪笥まで誘導すると、将軍は伸ばした左手で箪笥を開け、手探りで上着を取り出して袖を通した。
「さあ、次はどうやって廊下に出る?」
「では右をお向きになって、まっすぐお進み下さい。そこでもう一度右を向いて、今度は壁伝いに……そうです、そこがドアです。ドアを出られて左に進むと図書室があるのはお分かりでいらっしゃいますわね。図書室を通り越して少し進むと飾り柱がありますから、それを目印に……」
朝食の時もそうだったが、やはりグリーンウッド将軍はずば抜けた洞察力と記憶力で、あっという間に二階の私室から螺旋階段を降りて玄関ホールへ抜けるまでの道筋と距離を頭の中に完璧に構成してしまった。ジュリエットはその頭の回転の速さに改めて驚いた。そして気が付くと将軍はジュリエットの手に導かれながら、数ヶ月ぶりに屋敷の外へ足を踏み出していた。
「車寄せに到着しましたわ、閣下」
将軍は顔を上げて、太陽のほうを向いた。初夏の日差しがその見えない瞳に反射する。将軍は何度か瞬きをすると、ゆっくりと右側にいるジュリエットのほうを向いた。その瞬間、何も見えていないことはわかっているはずなのに、ジュリエットは胸がどきりとした。
「見えないが、明るくなったのは分かる。暗闇にも色々あるのだな。……ありがとう、クインズビー嬢。あなたの真摯な言葉のおかげで、俺は一歩踏み出すことができた」
ジュリエットの鼻の奥がツンと痛くなった。もしこのまま視力が戻らないままだとしても、必ずこの方はもう一度力強く立ち上がるだろう。わたくしも、強くなりたい。いいえ、なってみせるわ。将軍の右手を握り返して、ジュリエットは明るく声をかけた。
「今日は散歩にはもってこいの日ですわ、閣下。さて、どちらへご案内しましょうか?」
「東の花壇のそばにベンチがあったはずだ。まずはそこへ連れて行ってくれ」
「かしこまりました。では参りましょう。お足元にお気をつけ下さいまし」
