「ビクターさん、お願いがあるのですけれど」
「ビクターで結構ですよ。どうなさった?」
「実は将軍閣下のお食事のことなんですけれどね、こうしたらどうでしょうか」
「?」
マーシャから仕事に入るように言われて一度客室に戻り、身支度を整えて将軍の私室へ向かおうとしたジュリエットは、ふとあることを思いついて再び厨房へ向かった。
しばらくしてジュリエットは銀のトレイを抱えて厨房から出て来た。それに目ざとく気がついたマーシャが何事かといった様子で咎めた。
「何ですかそれは」
「しっ!……グリーンウッド将軍閣下のお食事です。これならお目が見づらくても食べられるかと思って」
「?」
トレイにはリネンの布巾がかかった皿がのせられていた。その布巾を少しめくって中身を確認したマーシャが、またいつものように唇の端を歪めてなんとも言えない顔になった。
「またあなた様は……余計なことはするなと申し上げましたよね? だいたいこんなものを旦那様がお喜びになられるわけがない」
「そうでしょうか。でもマーシャさんも閣下のお身体がご心配なのでしょう? であれば試してみる価値はあるとお思いになりません?」
「……」
このマーシャさんという方はきっとわたくしと会話する時にはこういうお顔を《《しなければならない》》とご自分に誓いを立てられているのね、とジュリエットは思うことにしたので、もう気にならなかった。苦虫を噛み潰したような表情で黙っているマーシャに、ジュリエットは食い下がった。
「あなたにご迷惑はおかけしません。ですから……」
「今度こそお怒りを買って追い出されてもわたくしは知りませんよ?」
「そうなったらそうなった時にまた考えます。それに、それこそがあなたのお望みでしょうに、心配して下さるなんておかしいわ」
マーシャはもう一度トレイに視線をやってから、けんもほろろに答えた。
「……お好きなようになさいまし」
そのまま二人は階段を上り、固く閉じられた扉の前に立った。
「旦那様、お手紙をお持ちしました」
「……入れ」
昨日と同じように先に立ったマーシャの後について将軍の私室に入ったジュリエットの目に、これまた昨日とほぼ変わらない光景が映った。
閉じられた窓、散らかった室内、寝椅子の上で物憂げにゆっくりと身体を起こす赤毛の男……。ジュリエットはテーブルにトレイを置くと、膝を曲げてお辞儀をしながら丁寧に挨拶を述べた。
「おはようございます、グリーンウッド将軍閣下。早速今日からお手紙を朗読してお返事を書かせて頂きます。わたくしも不慣れなこと故、何か不手際があるかもしれませんが、その時にはどうかご遠慮なく仰って下さいまし」
「……無駄口はいいから、早くしろ」
「それでは窓を開けてお部屋を明るくさせて頂きますね。これでは暗くて何も読めませんから」
「……」
将軍の沈黙を同意と受け取ったジュリエットが窓のほうに向かおうとすると、マーシャが目で制して代わりにカーテンと鎧戸を開けてくれた。朝の陽射しと風が室内を満たすと、グリーンウッド将軍が眩しさに見えない目を細めた。それに気づいたマーシャが慌ててレースのカーテンを閉めて日差しを少し遮った。その間にジュリエットはインク壺とペン、それから金で縁取られた紋章入りの便箋が書斎机に置いてあることに気づいて、その横にロンドンから持って来た小さなノートを置き、いつでも仕事に取り掛かれるよう準備を整えた。
「ありがとうございます、マーシャさん。あとはわたくし一人で大丈夫ですから、どうぞお仕事にお戻りあそばせ」
「ですが……」
「マーシャ。仕事に戻れ」
何か言いかけたマーシャをグリーンウッド将軍が制した。仕方なく彼女はテーブルの上に麻紐でくくられたいくつかの封筒を置くと、お辞儀をして部屋を出ていった。
さあ、いよいよだわ。ジュリエットは深呼吸を一つしてから、相変わらず何もかもどうでも良いといった様子で寝椅子にぞんざいに腰かけている将軍に向き直り、精一杯明るい声で言った。
「さて、閣下」
「……何だ?」
「朝食はお済みになられましたか?」
「!」
将軍の顔にさっと赤みが差し、なぜおまえがそれを知っているんだとでもいうような悔しげな表情が浮かんだ。ジュリエットは銀のトレイを持ち上げて将軍の目の前に置くと、皿にかぶせてあった布巾を外した。皿の上にはビネガーとマスタードで味付けしたハムとクレソンを、バターを塗った田舎風のパンで挟んだ小ぶりのサンドイッチが盛られてあった。
「差し出がましいとは思いましたが、お手に取りやすいものをお持ちしました。これなら……」
「黙れ! 私に指図する気か! 生意気な!」
ジュリエットの言葉を遮って、将軍が大声を上げた。
「いいえ、指図などめっそうもない。ですが閣下、どうかお食事をおとりになって下さいませ。このままではお身体が……」
「止めろ! 黙れと言っているのがわからないのか!……今さら、今さら身体など気遣って何になる。どいつもこいつも親切めかして、陰で私をあざ笑って、憐れんでいるのだろう? 食事一つまともにできない、赤子以下の存在に成り下がってしまった私を……私は憐れみなど欲しておらぬし、同情されるなどまっぴらご免だ!」
「同情? 同情などしておりませんわ。お間違いにならないで下さいまし、グリーンウッド将軍閣下」
「……何?」
やり場のない怒りと苛立ちを吐き出して荒れる将軍が、テーブルに置かれた皿をトレイごと床に叩き落とそうと腕を大きく振った。だが狙いが外れたのか、その右手は虚しく宙を舞うだけだった。顔を背けて両手の拳をぶるぶると震わせている大きな背中に向かって、ジュリエットは至極冷静に将軍の言葉を否定した。
「甘ったれるのも大概になさいませ、グリーンウッド将軍閣下。あなたはそれでも大英帝国にただ一人の救国の英雄と呼ばれるお方ですか?」
「……」
「今の閣下は口を開けば泣き言と八つ当たりばかり。お気持ちはお察しいたします。でもマーシャさんとビクターがどれほどあなた様のお怪我に胸を痛め、我がこと以上に嘆き悲しんでおられるか、一度でもお考えになったことがございますか?」
「……昨日今日現れた余所者のあなたに何がわか……」
「ええ、余所者ですわ。だからこそ申し上げているのです。閣下、赤子のように扱われるのが我慢ならぬと仰せになるのであれば、大人に相応しい振る舞いをなさって下さいませ。お辛いことではございましょうが、グリーンウッド将軍ほどのお方なら、おできになるはずです。……閣下は、生きていらっしゃるのですから。あの戦いで不運にも死んでいかねばならなかった四百名の兵たちに顔向けできないようなお姿を、これ以上わたくし達にお見せにならないで下さいまし。」
今度こそ追い出されるだろうと、ジュリエットは覚悟を決めた。だが意外にもグリーンウッド将軍はしばらくしてからつと顔を上げると、ゆっくりとテーブルの上のお皿に手を伸ばして一切れのサンドイッチを探し当て、口に運んだ。そして、もう一切れ……。ジュリエットは黙ってそれを見守った。途中、将軍がむせそうになったのでティーカップにお茶を注ぎ、持ち手が将軍の右手に触れるようにそっと渡すと、将軍は素直にそれを受け取り、お茶を飲み終わると左手で器用にソーサーを探し当てて、きちんとカップを元に戻した。
「確かに、これなら食べられるな」
お皿が空になると、将軍は悪い夢から醒めたかのような表情でぽつりと言った。
「それは良うございました。お腹が空いていると気持ちも暗くなりがちですわ。明日から朝食はこの方法でお出しするよう、ビクターに伝えておきましょう」
「そうだな、そうしてくれ」
将軍はもう一度、手探りでティーカップを探し当てると、残っていたお茶を飲み干した。そしてジュリエットの声のするほうに顔を向けて言った。
「待たせてすまなかった。始めよう。まず手紙はどこから何通届いているか教えてくれ」
「はい。海軍から二通、ロンドンのタウンハウスの執事の方から二通、あとは社交のお誘いが三通届いております」
「……それだけか?」
「? はい、これだけですが」
「……」
不意に黙り込んでしまった将軍の様子にジュリエットは首を傾げた。何か、届くのを待っておられるほど大切なお手紙がおありなのかしら?
「あの、閣下?」
「……あ、ああ、何でもない。続けよう。まず社交は全部断ってくれ。理由はまだ療養中につき、で通せば良い。文面は任せるが、怪我のせいで右腕があまり動かせないので代筆にて失礼するということを、どこかにそれとなく紛れ込ませておいてくれ」
「かしこまりました」
「よし次は……ロンドンからの書簡は執事のエリックからか? ではそちらを頼む」
こうしていよいよ朗読兼代筆係としてのジュリエットの一日が始まったのだが、いざ実際にやってみるとこれはなかなかに骨が折れた。というのも、手紙に書かれている用語がジュリエットには理解が追いつかないものが多数あったのだ。ロンドンからの手紙はまだ使用人の処遇だとかタウンハウスの厩舎の修繕だとか、そういった細々とした内容だったので何とかなったが、問題は海軍からの事務連絡や頼み事のほうだった。ところどころ単語を噛んだり訊き返したりしながらなんとか全ての手紙の内容をグリーンウッド将軍に伝え、彼からの回答をメモに書き取り終えた時、ジュリエットはまさに疲労困憊になっていた。
「ふう……」
「そう簡単にはいかないことが分かったか?」
ペンを置きながら思わずため息を漏らすと、将軍から言葉をかけられてジュリエットは驚いた。まさか向こうから話しかけられるとは思ってもいなかったからだった。しかもその声が先ほどまでと変わってどこか穏やかで、この状況を楽しんでいるようにも取れる調子だったことが、さらにジュリエットを驚かせた。
「お恥ずかしながら、これほど難しい内容だとは思っておりませんでした。お聞き苦しくて申し訳ございません。ロンドンにいる間に少し勉強はしたのですが……」
ついさっき救国の英雄を甘ったれだと叱責した威勢はどこへやら、縮こまって頭を下げるジュリエットだったが、将軍は特段気にしていないようだった。
「いや、今日のところは及第点だ。初めてであれだけ読めれば十分だろう。そうかロンドンで……」
ロンドンで、と言いかけて将軍はそのまま黙ってしまった。ジュリエットの胸に、ウィリアムと共に過ごした日々が蘇る。軍人のウィリアムに相応しい人間であろうと、父の書架にあった海軍用語の本を意味も理解できないまま読み漁って、淑女がそんな小難しい本を読む必要はないと叱られたりしたあの日々が。あの頃の二人は、もうどこにもいない……。
いけない、一瞬でも気を抜けば追憶の淵に沈みこんでそのまま抜け出せなくなってしまう。そんな自分の弱さに立ち向かうかのように、気づまりな沈黙を振り払って、ジュリエットは顔を上げた。
「それでは失礼いたします、閣下。午後の時間で頂戴した内容をまとめてお返事を仕上げて参ります。下書きが出来上がりましたら間違いがないか閣下に改めて頂こうと思っておりますが、よろしいでしょうか?」
「問題ない」
ジュリエットはノートを閉じて立ち上がるとテーブルに近づき、銀のトレイを持ち上げてからお辞儀をして私室を出た。階段を降りて厨房に戻るとマーシャとビクターが一斉に振り向いてトレイの上を凝視したので、ジュリエットは笑って空になったお皿を二人のほうにかざして見せた。マーシャが信じられないとでもいうように口をポカンと開けてお皿とジュリエットの顔を交互に見た。
「召し上がって下さいましたわ」
「おお、何ということ。それにしても、いったいどんな手をお使いになったのですか」
「腫れ物に触るように扱うのを止めただけですわ。だって、閣下は救国の英雄、大英帝国の懐刀と呼ばれるほどのお方で、ご立派な紳士でしょう? そのような方が一から十まで他人の世話に頼られることを良しとなさるはずはなどございません。ましてや同情や憐れみなど……。ですから、普通に振舞わせて頂きましたの。一か八かの賭けでしたけれど、うまくいって良かったですわ」
ジュリエットが事も無げに答えると、ビクターはしてやったりとでもいうようにニヤリと笑い、マーシャは悔しそうにふんと鼻を鳴らした。まだあなたを認めたわけではないわよ、とでもいうように。だがその表情は、今朝までのようなただ冷たいだけのものではなくなっていた。
「ビクターで結構ですよ。どうなさった?」
「実は将軍閣下のお食事のことなんですけれどね、こうしたらどうでしょうか」
「?」
マーシャから仕事に入るように言われて一度客室に戻り、身支度を整えて将軍の私室へ向かおうとしたジュリエットは、ふとあることを思いついて再び厨房へ向かった。
しばらくしてジュリエットは銀のトレイを抱えて厨房から出て来た。それに目ざとく気がついたマーシャが何事かといった様子で咎めた。
「何ですかそれは」
「しっ!……グリーンウッド将軍閣下のお食事です。これならお目が見づらくても食べられるかと思って」
「?」
トレイにはリネンの布巾がかかった皿がのせられていた。その布巾を少しめくって中身を確認したマーシャが、またいつものように唇の端を歪めてなんとも言えない顔になった。
「またあなた様は……余計なことはするなと申し上げましたよね? だいたいこんなものを旦那様がお喜びになられるわけがない」
「そうでしょうか。でもマーシャさんも閣下のお身体がご心配なのでしょう? であれば試してみる価値はあるとお思いになりません?」
「……」
このマーシャさんという方はきっとわたくしと会話する時にはこういうお顔を《《しなければならない》》とご自分に誓いを立てられているのね、とジュリエットは思うことにしたので、もう気にならなかった。苦虫を噛み潰したような表情で黙っているマーシャに、ジュリエットは食い下がった。
「あなたにご迷惑はおかけしません。ですから……」
「今度こそお怒りを買って追い出されてもわたくしは知りませんよ?」
「そうなったらそうなった時にまた考えます。それに、それこそがあなたのお望みでしょうに、心配して下さるなんておかしいわ」
マーシャはもう一度トレイに視線をやってから、けんもほろろに答えた。
「……お好きなようになさいまし」
そのまま二人は階段を上り、固く閉じられた扉の前に立った。
「旦那様、お手紙をお持ちしました」
「……入れ」
昨日と同じように先に立ったマーシャの後について将軍の私室に入ったジュリエットの目に、これまた昨日とほぼ変わらない光景が映った。
閉じられた窓、散らかった室内、寝椅子の上で物憂げにゆっくりと身体を起こす赤毛の男……。ジュリエットはテーブルにトレイを置くと、膝を曲げてお辞儀をしながら丁寧に挨拶を述べた。
「おはようございます、グリーンウッド将軍閣下。早速今日からお手紙を朗読してお返事を書かせて頂きます。わたくしも不慣れなこと故、何か不手際があるかもしれませんが、その時にはどうかご遠慮なく仰って下さいまし」
「……無駄口はいいから、早くしろ」
「それでは窓を開けてお部屋を明るくさせて頂きますね。これでは暗くて何も読めませんから」
「……」
将軍の沈黙を同意と受け取ったジュリエットが窓のほうに向かおうとすると、マーシャが目で制して代わりにカーテンと鎧戸を開けてくれた。朝の陽射しと風が室内を満たすと、グリーンウッド将軍が眩しさに見えない目を細めた。それに気づいたマーシャが慌ててレースのカーテンを閉めて日差しを少し遮った。その間にジュリエットはインク壺とペン、それから金で縁取られた紋章入りの便箋が書斎机に置いてあることに気づいて、その横にロンドンから持って来た小さなノートを置き、いつでも仕事に取り掛かれるよう準備を整えた。
「ありがとうございます、マーシャさん。あとはわたくし一人で大丈夫ですから、どうぞお仕事にお戻りあそばせ」
「ですが……」
「マーシャ。仕事に戻れ」
何か言いかけたマーシャをグリーンウッド将軍が制した。仕方なく彼女はテーブルの上に麻紐でくくられたいくつかの封筒を置くと、お辞儀をして部屋を出ていった。
さあ、いよいよだわ。ジュリエットは深呼吸を一つしてから、相変わらず何もかもどうでも良いといった様子で寝椅子にぞんざいに腰かけている将軍に向き直り、精一杯明るい声で言った。
「さて、閣下」
「……何だ?」
「朝食はお済みになられましたか?」
「!」
将軍の顔にさっと赤みが差し、なぜおまえがそれを知っているんだとでもいうような悔しげな表情が浮かんだ。ジュリエットは銀のトレイを持ち上げて将軍の目の前に置くと、皿にかぶせてあった布巾を外した。皿の上にはビネガーとマスタードで味付けしたハムとクレソンを、バターを塗った田舎風のパンで挟んだ小ぶりのサンドイッチが盛られてあった。
「差し出がましいとは思いましたが、お手に取りやすいものをお持ちしました。これなら……」
「黙れ! 私に指図する気か! 生意気な!」
ジュリエットの言葉を遮って、将軍が大声を上げた。
「いいえ、指図などめっそうもない。ですが閣下、どうかお食事をおとりになって下さいませ。このままではお身体が……」
「止めろ! 黙れと言っているのがわからないのか!……今さら、今さら身体など気遣って何になる。どいつもこいつも親切めかして、陰で私をあざ笑って、憐れんでいるのだろう? 食事一つまともにできない、赤子以下の存在に成り下がってしまった私を……私は憐れみなど欲しておらぬし、同情されるなどまっぴらご免だ!」
「同情? 同情などしておりませんわ。お間違いにならないで下さいまし、グリーンウッド将軍閣下」
「……何?」
やり場のない怒りと苛立ちを吐き出して荒れる将軍が、テーブルに置かれた皿をトレイごと床に叩き落とそうと腕を大きく振った。だが狙いが外れたのか、その右手は虚しく宙を舞うだけだった。顔を背けて両手の拳をぶるぶると震わせている大きな背中に向かって、ジュリエットは至極冷静に将軍の言葉を否定した。
「甘ったれるのも大概になさいませ、グリーンウッド将軍閣下。あなたはそれでも大英帝国にただ一人の救国の英雄と呼ばれるお方ですか?」
「……」
「今の閣下は口を開けば泣き言と八つ当たりばかり。お気持ちはお察しいたします。でもマーシャさんとビクターがどれほどあなた様のお怪我に胸を痛め、我がこと以上に嘆き悲しんでおられるか、一度でもお考えになったことがございますか?」
「……昨日今日現れた余所者のあなたに何がわか……」
「ええ、余所者ですわ。だからこそ申し上げているのです。閣下、赤子のように扱われるのが我慢ならぬと仰せになるのであれば、大人に相応しい振る舞いをなさって下さいませ。お辛いことではございましょうが、グリーンウッド将軍ほどのお方なら、おできになるはずです。……閣下は、生きていらっしゃるのですから。あの戦いで不運にも死んでいかねばならなかった四百名の兵たちに顔向けできないようなお姿を、これ以上わたくし達にお見せにならないで下さいまし。」
今度こそ追い出されるだろうと、ジュリエットは覚悟を決めた。だが意外にもグリーンウッド将軍はしばらくしてからつと顔を上げると、ゆっくりとテーブルの上のお皿に手を伸ばして一切れのサンドイッチを探し当て、口に運んだ。そして、もう一切れ……。ジュリエットは黙ってそれを見守った。途中、将軍がむせそうになったのでティーカップにお茶を注ぎ、持ち手が将軍の右手に触れるようにそっと渡すと、将軍は素直にそれを受け取り、お茶を飲み終わると左手で器用にソーサーを探し当てて、きちんとカップを元に戻した。
「確かに、これなら食べられるな」
お皿が空になると、将軍は悪い夢から醒めたかのような表情でぽつりと言った。
「それは良うございました。お腹が空いていると気持ちも暗くなりがちですわ。明日から朝食はこの方法でお出しするよう、ビクターに伝えておきましょう」
「そうだな、そうしてくれ」
将軍はもう一度、手探りでティーカップを探し当てると、残っていたお茶を飲み干した。そしてジュリエットの声のするほうに顔を向けて言った。
「待たせてすまなかった。始めよう。まず手紙はどこから何通届いているか教えてくれ」
「はい。海軍から二通、ロンドンのタウンハウスの執事の方から二通、あとは社交のお誘いが三通届いております」
「……それだけか?」
「? はい、これだけですが」
「……」
不意に黙り込んでしまった将軍の様子にジュリエットは首を傾げた。何か、届くのを待っておられるほど大切なお手紙がおありなのかしら?
「あの、閣下?」
「……あ、ああ、何でもない。続けよう。まず社交は全部断ってくれ。理由はまだ療養中につき、で通せば良い。文面は任せるが、怪我のせいで右腕があまり動かせないので代筆にて失礼するということを、どこかにそれとなく紛れ込ませておいてくれ」
「かしこまりました」
「よし次は……ロンドンからの書簡は執事のエリックからか? ではそちらを頼む」
こうしていよいよ朗読兼代筆係としてのジュリエットの一日が始まったのだが、いざ実際にやってみるとこれはなかなかに骨が折れた。というのも、手紙に書かれている用語がジュリエットには理解が追いつかないものが多数あったのだ。ロンドンからの手紙はまだ使用人の処遇だとかタウンハウスの厩舎の修繕だとか、そういった細々とした内容だったので何とかなったが、問題は海軍からの事務連絡や頼み事のほうだった。ところどころ単語を噛んだり訊き返したりしながらなんとか全ての手紙の内容をグリーンウッド将軍に伝え、彼からの回答をメモに書き取り終えた時、ジュリエットはまさに疲労困憊になっていた。
「ふう……」
「そう簡単にはいかないことが分かったか?」
ペンを置きながら思わずため息を漏らすと、将軍から言葉をかけられてジュリエットは驚いた。まさか向こうから話しかけられるとは思ってもいなかったからだった。しかもその声が先ほどまでと変わってどこか穏やかで、この状況を楽しんでいるようにも取れる調子だったことが、さらにジュリエットを驚かせた。
「お恥ずかしながら、これほど難しい内容だとは思っておりませんでした。お聞き苦しくて申し訳ございません。ロンドンにいる間に少し勉強はしたのですが……」
ついさっき救国の英雄を甘ったれだと叱責した威勢はどこへやら、縮こまって頭を下げるジュリエットだったが、将軍は特段気にしていないようだった。
「いや、今日のところは及第点だ。初めてであれだけ読めれば十分だろう。そうかロンドンで……」
ロンドンで、と言いかけて将軍はそのまま黙ってしまった。ジュリエットの胸に、ウィリアムと共に過ごした日々が蘇る。軍人のウィリアムに相応しい人間であろうと、父の書架にあった海軍用語の本を意味も理解できないまま読み漁って、淑女がそんな小難しい本を読む必要はないと叱られたりしたあの日々が。あの頃の二人は、もうどこにもいない……。
いけない、一瞬でも気を抜けば追憶の淵に沈みこんでそのまま抜け出せなくなってしまう。そんな自分の弱さに立ち向かうかのように、気づまりな沈黙を振り払って、ジュリエットは顔を上げた。
「それでは失礼いたします、閣下。午後の時間で頂戴した内容をまとめてお返事を仕上げて参ります。下書きが出来上がりましたら間違いがないか閣下に改めて頂こうと思っておりますが、よろしいでしょうか?」
「問題ない」
ジュリエットはノートを閉じて立ち上がるとテーブルに近づき、銀のトレイを持ち上げてからお辞儀をして私室を出た。階段を降りて厨房に戻るとマーシャとビクターが一斉に振り向いてトレイの上を凝視したので、ジュリエットは笑って空になったお皿を二人のほうにかざして見せた。マーシャが信じられないとでもいうように口をポカンと開けてお皿とジュリエットの顔を交互に見た。
「召し上がって下さいましたわ」
「おお、何ということ。それにしても、いったいどんな手をお使いになったのですか」
「腫れ物に触るように扱うのを止めただけですわ。だって、閣下は救国の英雄、大英帝国の懐刀と呼ばれるほどのお方で、ご立派な紳士でしょう? そのような方が一から十まで他人の世話に頼られることを良しとなさるはずはなどございません。ましてや同情や憐れみなど……。ですから、普通に振舞わせて頂きましたの。一か八かの賭けでしたけれど、うまくいって良かったですわ」
ジュリエットが事も無げに答えると、ビクターはしてやったりとでもいうようにニヤリと笑い、マーシャは悔しそうにふんと鼻を鳴らした。まだあなたを認めたわけではないわよ、とでもいうように。だがその表情は、今朝までのようなただ冷たいだけのものではなくなっていた。
