怒涛のような一日が過ぎ、翌朝早く目覚めたジュリエットはベッドから降りてバルコニーへ向かった。

 重いカーテンを左右に開き、フレンチドアから外へ出ると、日の出直前の澄んだ空気に体中が包まれる。初夏が近いとはいえ、早朝の空気はかなり冷たくかすかな湿り気を含んでいて、ショールをかけた胸元をひんやりとした風が通り抜けた。

 ジュリエットは大理石で造られたバルコニーの手すりに頬杖をついて、太陽が昇ってくるのを待った。やがて薄墨色だった空が東のほうからゆっくりと明るくなり、はるか遠くの雑木林の向こうから太陽が顔を覗かせて、ジュリエットの全身をじんわりと温めた。ロンドンの通りの向こうから見ていた太陽とはまるで違う、大きくて明るい光の塊。ジュリエットはやはりここへ来てよかったとしみじみと思った。一週間後、自分がここにいられるかは分からない。けれど今この瞬間に感じている自由と開放感は、この先何が待っていようとも忘れられないものになるはずだ。

 ふと屋敷の反対側の棟に視線を移すと、鎧戸を固く閉じてひっそりと静まり返っている部屋があることに気づいた。あそこは昨日ひと悶着あったグリーンウッド将軍の私室だ。この先の一週間で少しでも自分のことを認めてもらうには何から始めればよいのだろうと思案しながら、ジュリエットは部屋に戻った。

 乱れたベッドを簡単に直し、夜着から着替えようとしてジュリエットははたと手を止めた。

『その喪服は脱いで頂きます』

 マーシャの言葉を思い出す。

(どうしましょう、困ったわ……)

 まさかこんなことになるとは思ってもいなかったので、喪服以外は本当に限られた普段着しか持ってきていない。ゆうべ旅行鞄の中身を取り出して吊るしておいた衣装箪笥の前で、ジュリエットはしばし立ち尽くした。喪服以外で着て人前に出られそうなものといったら、白いモスリンのデイ・ドレスと、薄いブルーグレーのシルクのディナードレスだけ。そして今は朝、であれば選択肢は一つしかない。このデイ・ドレスももうくたびれかけてはいるが、ここには限られた人間しかいないし、ここだけの話ジュリエットが何を着ていようがグリーンウッド将軍には見えないのだから、悩む必要もないだろう。そう考えたジュリエットは白いデイ・ドレスを箪笥から取り出して身に着けると、水差しの水を洗面器に移して顔と手を洗い、栗色の髪にブラシをかけて後ろで簡単に結った。それから少し肌寒かったので深緑色のスペンサーと呼ばれる丈の短い上着を羽織ってから、客室を出て階下に向かった。

 屋敷のどこに何があるのかはまだほとんど把握していなかったが、客間と玄関ホールを挟んで反対側にある扉の向こうから人の気配がしていた。少し開いた扉の陰から中を伺うと、小柄な男性がこちらに背を向けてオーブンの前に立ち、鍋をかき混ぜているのが目に入った。やはりここが厨房だったようだ。ジュリエットは控えめに扉をノックして声をかけながら扉を開けた。

「おはようございます」

 すると振り向いた男性と目が合った。ジュリエットよりかなり年上で、鳥ガラのように痩せて筋張っている。彼は膝を屈めて挨拶をしようとするジュリエットを押しとどめるかのように軽く手をあげてにやっと笑うと、陽気な声で言った。

「おお、あなたが旦那様の手伝いをして下さる……ええと」
「ジュリエット・クインズビーと申します。ジュリエットとお呼び下さい。あの、あなたは?」
「ワシですか? ワシはコックのビクターでさあ。お見知りおきを、ジュリエット……様。昨日の夕食はお口に合いましたかな?」
「ええ、大変美味しゅうございました」
「そりゃ良かった。おっと」

 (ほが)らかにジュリエットと言葉を交わしつつも、鍋の中身に気を配ることは忘れない。そのまま数回鍋をかき混ぜてからビクターは再び振り向いてジュリエットに言った。

「で、どうしなすったね、こんな朝早くに?」
「ええ、あの、ゆうべお食事は都度お部屋に運んで頂けるというお話を伺ったのですけれど、それだと毎回マーシャさんのお手を煩わせてしまいますでしょう?」
「はあ」
「ですから、こちらのテーブルでお食事を摂らせて頂けないかと思いまして。時間になりましたらわたくしのほうから出向きますから」
「え、こちらって、このテーブルですかい? いやまあワシは構いませんが……」

 厨房の真ん中に置いてある大きな木のテーブルを指差しながら、ビクターは不思議そうな顔で言った。そのテーブルは調理台になったり使用人が食事を摂ったりするもので、およそ貴族の令嬢が日々の食事に使うものではないから、不思議がるのも無理はないだろう。だがジュリエットが笑いながら理由を説明するとビクターも思わず顔をほころばせた。

「ええ、マーシャさんもお忙しいでしょうし、それにせっかくのお料理が冷めてしまうのがもったいなくて。ビクターさんのお邪魔はいたしませんから、お願いしますわ」
「そういうことなら喜んで。じゃあ早速朝食にしましょう。ちょっと待っててくだせえ」

 しばらくするとビクターがテーブルに湯気の立つスープとスライスしたパンを並べてくれた。ハムが一切れと作り立てのバターにルバーブのジャム、それから半熟卵もついている。いかにも美味しそうにスープを口に運ぶジュリエットをビクターはにこにこしながら見ていた。

「この食材はこの荘園で取れたものなのですか?」
「そうですよ。小麦はさすがに足りんので外から買い付けてるが、野菜や卵のほとんどはここで育ててますな」
「ロンドンで食べているものとは全然違います。来た甲斐がありましたわ」

 良かった、このビクターという方とはうまくやっていけそう。わたくしの噂をご存じないだけかもしれないけれど、少なくともマーシャさんのように頭ごなしにわたくしを否定したりはなさらない気がする……。ジュリエットは気さくで優しいビクターとの会話をもう少し楽しみたかったが、食べ終わるのとほぼ時を同じくして背後から聞こえてきたマーシャの声に急に現実に引き戻された。

「ここで何をなさっておいでですか、ジュリエット様?」

 ジュリエットは口の中に残っていた最後のパンの一切れを慌てて飲み込むと振り返って答えた。

「おはようございます、マーシャさん。早く目が覚めてしまったのでビクターさんに無理をお願いして朝食を頂いてましたの。そうそう、これからお食事はここで頂くことにしましたので、もう毎回部屋まで運んで下さらなくても大丈夫ですわ」
「ここで……って、ご冗談でしょう? ここは使用人が使う場所ですよ?……ハァまったく……次から次へと……」
「ええ、でもわたくしもゲストではありません。どちらかと言えば使用人に近いですわ。それにただでさえお忙しいマーシャさんのお手を煩わせるのは申し訳なくて」
「そういう問題ではございません」

 マーシャは一体この小娘はどこまで常識知らずなんだとでも言いたげに眉をひそめたが、ビクターが助け舟を出してくれた。

「別にいいじゃないか、マーシャ。あんたも膝が辛いっていつも言ってるだろう。階段の上り下りが減るぞ」
「ビクター! あんたまで!」
「厨房はワシの場所だからな、ワシがいいと言えばいいんだよ。……ところで旦那様、今朝も相変わらずか?」

 ビクターに話を逸らされたマーシャは、ほとほと困ったという顔で手にしたお盆に目線を落とした。ジュリエットもつられてそちらに視線をやったのだが、お盆の上の皿に盛られた料理は皆ひどい有様になっていた。スープは深皿から半分以上も受け皿にこぼれてしまっているし、バターは上手く(すく)えなかったのか、大きな塊がこびりついたままのバターナイフが投げやりに置かれたままだ。ハムもばらばらになってしまってあちこちに散らばり、とどめのティーカップは横向きに転がってお盆の上に紅茶が水たまりを作っていた。このぶんだと辛うじて口に入れられたのは何もついていないパンと半熟卵ぐらいだろう。ジュリエットは思わずマーシャに訊ねた。

「あの、これはもしや、将軍閣下のお目が見えないせいで……?」
「あなたには関係のないことです」

 マーシャは昨日と全く同じ調子でぴしゃりとジュリエットの言葉を遮ったが、それでも気持ちの置き所が見つからないらしく、溜息を吐きながら独り言のように呟いた。

「……もうわたくしは、どうしたら良いのか見当もつかないわ……」

 ビクターが労わるようにそれに答えた。

「相変わらず癇癪をあんたにぶつけてるのかい? 困ったもんだな……お気持ちはわかるが、お食事は摂って頂かないと……」
「癇癪? それはなぜ?」

 またしても一蹴されるかと思ったが、マーシャも誰かに吐き出したかったのか、それともビクターの言葉にほろりとしたのか、思いのほかすらすらとジュリエットにも説明してくれた。

「今まで当たり前のようにおできになっていたことが、全て誰かの手を借りないとままならなくなってしまって、ご自分に腹を立てておいでなのですよ。でもいざご自分でなさろうと思うと、現実はお食事一つまともに摂れない……かと言ってわたくしが手を出し過ぎると馬鹿にするなと逆上なさって、怒鳴りつけられることなど日常茶飯事で……ただこれでも最近は少し落ち着いてきたほうで、以前はお盆ごとテーブルから叩き落されたことも何度もございました」
「そうなのですか……お見受けしたところカトラリーの扱いにお困りになっているようですが?」

 皿からこぼれたスープや投げ出されたバターナイフを見ながらジュリエットが質問すると、マーシャは一瞬頷きかけたが、すぐにはっと冷静になって話を終わらせた。

「とにかく、わたくし達にできるのは今まで通り誠心誠意お仕えすることだけですわ。ジュリエット様、早速ですが手紙がかなり溜まっておりますのでお仕事に入って下さいませ。旦那様の私室に届けておきます。よろしいですね?」

 ジュリエットは神妙な面持ちで頷くと立ち上がり、身支度を整えるために客室へ戻った。