クーパー家とクインズビー家には、どちらも血筋はそこそこ良く、爵位も同じ子爵という共通点があり、両家は交友関係にあった。
だが貴族社会における立ち位置には違いがあった。
ジュリエットの実家のクインズビー家はどちらかというと政治家畑で、当主のトーマスもいくつかの要職に名を連ねてはいたが、どれも名誉職に近いものが多く、俸禄は決して多くない。しかも数代前の先祖が商売に失敗したあおりで田舎の領地はほとんど手放してしまい、幸い借金はないもののめぼしい財産と言えばロンドンにあるさほど大きくないタウンハウスだけ、であった。つまり、身も蓋もない言い方をすると没落貴族に近い。
それに対してクーパー家は代々商才に長けた実利主義の家柄で、次男のウィリアムが生まれた頃には既にイングランド各地にいくつかの荘園や農場を持っていた。
両家の間には、ずっと以前から子供達を結婚させるという話が出ていた。
発端は二人の子爵夫人の夢物語である。両家の当代の子爵夫人は同じ修道院付属の寄宿学校で女子教育を受けていた縁で、とても仲が良かった。年頃になり互いに子爵家に嫁いで滅多に顔を合わせる機会がなくなっても、二人は頻繁に手紙をやり取りし、幼い頃に見た夢を温め続けた。
いつかお互いの子供を結婚させて、わたくし達の友情の誓いを形にしたい……。
そして結果的にクーパー家に息子が三人、クインズビー家に娘が二人生まれたことで、この夢物語は俄然、現実味を帯びてくる。
クーパー家の爵位と財産はすべて長男のレオナルドが相続することが決まっていたので、残る二人の息子は割のいい就職先を見つけなければならなかった。三男のアダムは身体があまり丈夫ではなく、また本人も世俗への関心が薄い性分だったので聖職者になることを選んだ。ウィリアムは当時の貴族の次男坊としてごく一般的であった軍人の道へ進んだが、本人はあくまで職業軍人として数年務めてからそこそこのところで退役し、別の生き方を探すつもりでいたのは明白だった。
対してクインズビー家には、家督を継がせられる男子が生まれなかった。このままでは子爵家が断絶してしまう。それを避けるためには長女のジュリエットが婿を取るしか道がなかった。誰か適当な相手はいないか、爵位や家柄にこだわる必要はない。ただできれば実家が太く、いくばくかの領地や財産を持たせてもらえる貴族の青年ならば最高なんだが……そこでクインズビー子爵ははたと膝を打った。なんだ、簡単な話じゃないか、ウィリアムだよ。彼以上の適任者がどこにいる? クーパー子爵も次男が子爵の称号を手に入れられるのは願ったり叶ったり、農園の一つぐらい結婚祝いに持たせてやることなど痛くも痒くもない、ということで、二つ返事でこの話に乗った。こうして母親たちの淡い夢と父親同士の思惑がぴたりと一致して、両家の縁談はジュリエットがまだ赤ん坊だった頃にはすでにほぼ決定事項となっていた。
こういう書き方をするとまるであたかもウィリアムとジュリエットの婚約はまるっきり家どうしの話で、当人達の意思は置き去りにされていたと思われるかもしれないが、そんなことはない。確かに大人の事情と思惑ありきで始まった話ではあったが、実際のところウィリアムとジュリエット、さらにジュリエットと一歳違いの妹フラニーの三人は、幼い頃からとても仲が良かった。五つ年上のウィリアムは幼いジュリエットにとっていつも優しくて頼り甲斐のある理想のおにいさまで、姉妹は毎年夏になると湖水地方にあるクーパー家の美しいコテージに遊びに行ける日を指折り数えて待ち望んだ。
やがてジュリエットが十六歳になって社交界にデビューする頃には、彼女は『大英帝国海軍中尉ウィリアム・クーパー子爵令息』の筆頭婚約者候補として周知されるようになっていた。まだ正式に婚約が発表されていないためウィリアムが表立ってジュリエットをエスコートして夜会に現れることはなかったが、彼は顔を合わせればにこやかに会話を楽しみ、最初のダンスはいつもジュリエットと踊った。若い二人の結婚式の招待状が家々に届くのはもう秒読みだろうと、誰もが思っていた。
だが運命は非情だった。
トラファルガーの海戦で名誉の戦死を遂げたウィリアム・クーパー海軍中尉の葬儀の日、墓地に集まった参列者たちの間からは、驚きと困惑の声が次々に上がった。
「なぜジュリエット嬢は参列されないのかしら?」
「婚約寸前のお相手がこの場にいらっしゃらないなんて、こんな前代未聞なお葬式がありまして? 死者への冒涜ですわ」
「……まさか、ジュリエット様は元々この婚約にご不満でいらしたのではございません? ええ、きっとそうですわ、だからご自分は参列されず、あまつさえ……」
喪服に身を包み、頭の先から足元までかかる黒いヴェールを被ってウィリアムの柩に白い薔薇の花を投げたのは、なぜか婚約目前だったジュリエットではなく、妹のフラニーだった。教会での葬儀から墓地での埋葬に至るまで、結局ジュリエットは一度も姿を現さず、クーパー子爵夫人にあてたお悔やみのメッセージが読み上げられることもなかった。
この出来事は瞬く間に噂になって社交界を駆け巡った。
正式な婚約発表こそされていないものの、ウィリアムとジュリエットの二人の仲睦まじい関係は既に誰もが知るところだった。その最愛の人が世間で蛇蝎のごとく嫌われている侵略者ボナパルトとの戦いで名誉の戦死を遂げたとあって、当初ジュリエットは皆の同情を一身に集めた。だが人は同時に残酷な一面を持つ。暇を持て余し、常に何か面白いゴシップはないかと鵜の目鷹の目がうごめいている社交界の面々ともなればなおさら容赦なく、足を掬われるのはあっという間だった。
息子を喪って悲嘆に暮れている未来の姑に寄り添うこともせず、葬儀に出席すらしないで妹を代理によこすとは何事か。様々な憶測が飛び交ううちに、いつしかジュリエットはそもそもこの縁談に乗り気ではなくウィリアムのことを忌み嫌っていたのだ、だから彼女は死者に敬意を払うことなくこれ幸いと葬儀を欠席し、妹にその代役を押し付けたのだという方向に話がねじ曲がっていってしまった。更に悪いことに、ウィリアムの葬儀から一週間もしないうちにジュリエットが父親にエスコートされてとあるパーティーに出席していたことが明らかになると、そのことにも様々に尾ひれや背びれがついて、皆のそれまでのジュリエットへの同情は急転直下、一瞬にして悪評へと変わっていった。
冬の間、そこここで開かれた社交の席のいくつかで、喪服に身を包んで壁際にひっそりと立っているジュリエットの姿を認めるたびに、貴婦人や令嬢は薄い絹地と象牙でできた扇子の陰でコソコソと囁きあった。どす黒い好奇心と悪意と憶測を、哀れみというとろけるように甘美な砂糖の衣に包んで。
(ご覧になって、死者の魂に後ろ足で砂をかけた薄情なお方があちらに)
(しおらしい顔をして、内心ではウィリアム様が亡くなって清々なさっているのよ)
(喪に服す気持ちなどないのに喪服をお召しになって、白々しい、同情を買おうとされているのね)
(辛いお役目を押し付けられたフラニー様がお気の毒だわ)
とりわけ、一部の令嬢達からの攻撃は容赦なかった。
ウィリアムは背はそれほど高くないがすらりと上品な身体つきに、輝くような金髪と深いブルーの瞳という美青年だった。しかも性格は明朗快活で会話はユーモアに富み、女性へのマナーも完璧。つまり、多くの令嬢が想いを寄せる憧れの独身男性の一人だった。
対してジュリエットは深い栗色の髪に鳶色の瞳で、透き通るように白くきめが細かい肌の持ち主ではあったが、その顔立ちも人目を惹くほど特別に美しいというわけではなく十人並みの、無口で内気な令嬢だった。
あんな地味でつまらない令嬢がなぜあんなに素敵なウィリアム様と……と、我こそはとウィリアムの婚約者の座を狙っていた令嬢達にとって、ジュリエットは従前から面白くない存在だった。そこに今回の騒動が合わさって、その年の冬が終わり本格的な社交シーズンを迎える頃には、ジュリエットはどこに行っても密かにこう呼ばれるようになっていた。
ああ、あの人でなしのジュリエット、と。
だが貴族社会における立ち位置には違いがあった。
ジュリエットの実家のクインズビー家はどちらかというと政治家畑で、当主のトーマスもいくつかの要職に名を連ねてはいたが、どれも名誉職に近いものが多く、俸禄は決して多くない。しかも数代前の先祖が商売に失敗したあおりで田舎の領地はほとんど手放してしまい、幸い借金はないもののめぼしい財産と言えばロンドンにあるさほど大きくないタウンハウスだけ、であった。つまり、身も蓋もない言い方をすると没落貴族に近い。
それに対してクーパー家は代々商才に長けた実利主義の家柄で、次男のウィリアムが生まれた頃には既にイングランド各地にいくつかの荘園や農場を持っていた。
両家の間には、ずっと以前から子供達を結婚させるという話が出ていた。
発端は二人の子爵夫人の夢物語である。両家の当代の子爵夫人は同じ修道院付属の寄宿学校で女子教育を受けていた縁で、とても仲が良かった。年頃になり互いに子爵家に嫁いで滅多に顔を合わせる機会がなくなっても、二人は頻繁に手紙をやり取りし、幼い頃に見た夢を温め続けた。
いつかお互いの子供を結婚させて、わたくし達の友情の誓いを形にしたい……。
そして結果的にクーパー家に息子が三人、クインズビー家に娘が二人生まれたことで、この夢物語は俄然、現実味を帯びてくる。
クーパー家の爵位と財産はすべて長男のレオナルドが相続することが決まっていたので、残る二人の息子は割のいい就職先を見つけなければならなかった。三男のアダムは身体があまり丈夫ではなく、また本人も世俗への関心が薄い性分だったので聖職者になることを選んだ。ウィリアムは当時の貴族の次男坊としてごく一般的であった軍人の道へ進んだが、本人はあくまで職業軍人として数年務めてからそこそこのところで退役し、別の生き方を探すつもりでいたのは明白だった。
対してクインズビー家には、家督を継がせられる男子が生まれなかった。このままでは子爵家が断絶してしまう。それを避けるためには長女のジュリエットが婿を取るしか道がなかった。誰か適当な相手はいないか、爵位や家柄にこだわる必要はない。ただできれば実家が太く、いくばくかの領地や財産を持たせてもらえる貴族の青年ならば最高なんだが……そこでクインズビー子爵ははたと膝を打った。なんだ、簡単な話じゃないか、ウィリアムだよ。彼以上の適任者がどこにいる? クーパー子爵も次男が子爵の称号を手に入れられるのは願ったり叶ったり、農園の一つぐらい結婚祝いに持たせてやることなど痛くも痒くもない、ということで、二つ返事でこの話に乗った。こうして母親たちの淡い夢と父親同士の思惑がぴたりと一致して、両家の縁談はジュリエットがまだ赤ん坊だった頃にはすでにほぼ決定事項となっていた。
こういう書き方をするとまるであたかもウィリアムとジュリエットの婚約はまるっきり家どうしの話で、当人達の意思は置き去りにされていたと思われるかもしれないが、そんなことはない。確かに大人の事情と思惑ありきで始まった話ではあったが、実際のところウィリアムとジュリエット、さらにジュリエットと一歳違いの妹フラニーの三人は、幼い頃からとても仲が良かった。五つ年上のウィリアムは幼いジュリエットにとっていつも優しくて頼り甲斐のある理想のおにいさまで、姉妹は毎年夏になると湖水地方にあるクーパー家の美しいコテージに遊びに行ける日を指折り数えて待ち望んだ。
やがてジュリエットが十六歳になって社交界にデビューする頃には、彼女は『大英帝国海軍中尉ウィリアム・クーパー子爵令息』の筆頭婚約者候補として周知されるようになっていた。まだ正式に婚約が発表されていないためウィリアムが表立ってジュリエットをエスコートして夜会に現れることはなかったが、彼は顔を合わせればにこやかに会話を楽しみ、最初のダンスはいつもジュリエットと踊った。若い二人の結婚式の招待状が家々に届くのはもう秒読みだろうと、誰もが思っていた。
だが運命は非情だった。
トラファルガーの海戦で名誉の戦死を遂げたウィリアム・クーパー海軍中尉の葬儀の日、墓地に集まった参列者たちの間からは、驚きと困惑の声が次々に上がった。
「なぜジュリエット嬢は参列されないのかしら?」
「婚約寸前のお相手がこの場にいらっしゃらないなんて、こんな前代未聞なお葬式がありまして? 死者への冒涜ですわ」
「……まさか、ジュリエット様は元々この婚約にご不満でいらしたのではございません? ええ、きっとそうですわ、だからご自分は参列されず、あまつさえ……」
喪服に身を包み、頭の先から足元までかかる黒いヴェールを被ってウィリアムの柩に白い薔薇の花を投げたのは、なぜか婚約目前だったジュリエットではなく、妹のフラニーだった。教会での葬儀から墓地での埋葬に至るまで、結局ジュリエットは一度も姿を現さず、クーパー子爵夫人にあてたお悔やみのメッセージが読み上げられることもなかった。
この出来事は瞬く間に噂になって社交界を駆け巡った。
正式な婚約発表こそされていないものの、ウィリアムとジュリエットの二人の仲睦まじい関係は既に誰もが知るところだった。その最愛の人が世間で蛇蝎のごとく嫌われている侵略者ボナパルトとの戦いで名誉の戦死を遂げたとあって、当初ジュリエットは皆の同情を一身に集めた。だが人は同時に残酷な一面を持つ。暇を持て余し、常に何か面白いゴシップはないかと鵜の目鷹の目がうごめいている社交界の面々ともなればなおさら容赦なく、足を掬われるのはあっという間だった。
息子を喪って悲嘆に暮れている未来の姑に寄り添うこともせず、葬儀に出席すらしないで妹を代理によこすとは何事か。様々な憶測が飛び交ううちに、いつしかジュリエットはそもそもこの縁談に乗り気ではなくウィリアムのことを忌み嫌っていたのだ、だから彼女は死者に敬意を払うことなくこれ幸いと葬儀を欠席し、妹にその代役を押し付けたのだという方向に話がねじ曲がっていってしまった。更に悪いことに、ウィリアムの葬儀から一週間もしないうちにジュリエットが父親にエスコートされてとあるパーティーに出席していたことが明らかになると、そのことにも様々に尾ひれや背びれがついて、皆のそれまでのジュリエットへの同情は急転直下、一瞬にして悪評へと変わっていった。
冬の間、そこここで開かれた社交の席のいくつかで、喪服に身を包んで壁際にひっそりと立っているジュリエットの姿を認めるたびに、貴婦人や令嬢は薄い絹地と象牙でできた扇子の陰でコソコソと囁きあった。どす黒い好奇心と悪意と憶測を、哀れみというとろけるように甘美な砂糖の衣に包んで。
(ご覧になって、死者の魂に後ろ足で砂をかけた薄情なお方があちらに)
(しおらしい顔をして、内心ではウィリアム様が亡くなって清々なさっているのよ)
(喪に服す気持ちなどないのに喪服をお召しになって、白々しい、同情を買おうとされているのね)
(辛いお役目を押し付けられたフラニー様がお気の毒だわ)
とりわけ、一部の令嬢達からの攻撃は容赦なかった。
ウィリアムは背はそれほど高くないがすらりと上品な身体つきに、輝くような金髪と深いブルーの瞳という美青年だった。しかも性格は明朗快活で会話はユーモアに富み、女性へのマナーも完璧。つまり、多くの令嬢が想いを寄せる憧れの独身男性の一人だった。
対してジュリエットは深い栗色の髪に鳶色の瞳で、透き通るように白くきめが細かい肌の持ち主ではあったが、その顔立ちも人目を惹くほど特別に美しいというわけではなく十人並みの、無口で内気な令嬢だった。
あんな地味でつまらない令嬢がなぜあんなに素敵なウィリアム様と……と、我こそはとウィリアムの婚約者の座を狙っていた令嬢達にとって、ジュリエットは従前から面白くない存在だった。そこに今回の騒動が合わさって、その年の冬が終わり本格的な社交シーズンを迎える頃には、ジュリエットはどこに行っても密かにこう呼ばれるようになっていた。
ああ、あの人でなしのジュリエット、と。
