時は一八〇六年。季節は春が終わろうとする頃。

 本格的な社交シーズンを前に華やぐ人々の喧噪に背を向けるかのように、一台の馬車がひっそりと大英帝国の都ロンドンを離れようとしていた。

「身体に気をつけるんだよ、ジュリエット」
「……はい、お父様」

 トーマス・クインズビー子爵は、座席に腰かけて(うつむ)いている愛娘に向かって、(いた)わるような、それでいてようやく心配事から解放されて肩の荷が下りた、とでも言わんばかりのどこかほっとしたような口調で言葉をかけた。

「こちらのことは心配しなくていい。なに、いずれほとぼりも冷める。それまでの間ロンドンから……」
「わかってますわ、お父様。それよりあの子を、フラニーをお願いします」
「ああ、もちろんだ。時間は必要だろうが、フラニーももう子供じゃない。受け入れてくれるだろう」

 父と娘のぎこちない会話は、時を告げるビッグベンの鐘の音で遮られた。御者のバートがそれを合図に鞭を振り上げて、ゆっくりと馬車が動き出した。それまで黙ってトーマスの横に立っていたジュリエットの母親が、これもまた他人行儀な口調でおずおずと言った。

「……ごめんなさい、ジュリエット」
「大丈夫よ、お母様。わたくし……」

 会話の最後はスピードを上げた馬の蹄の音にかき消されて聞こえなかった。両親の姿が小さくなり、やがて見えなくなるとジュリエットは小さな溜息をついて座席に座り直した。

(いずれほとぼりも冷める)

 そうでしょうか、お父様……。
 父の言葉に、ジュリエットは声を出さずに呟いて、もう一度小さな溜息をついた。それから黒い手袋を嵌めた手でハンドバッグを開けて、一通の擦り切れた封筒を取り出した。

 もう何度読み返したかわからない、この手紙。今ではそこに書かれていることの最初から最後まですべて、一字一句残さず覚えてしまっていた。それでもなお便箋に綴られた文字を追うたびに、いつもジュリエットの睫毛(まつげ)は震え、鳶色(とびいろ)の瞳は涙に濡れる。

 馬車が動き出すまで、ジュリエットはほんの少し希望を抱いていた。もしかしたら両親が、いよいよというところで引き留めてくれるのではないか、と。ロンドンを離れる必要などない、お前は私達が守る、と力強く言ってくれるのではないか、と……。だが父も母も、表向きは傷心の愛娘を思いやる(てい)を装いながらも、自分たちはもうこの騒ぎの幕を引きたいのだ、察してくれとそれとなくジュリエットに理解させたがっているのは明白だった。

……お前は賢い娘だ、わかるだろう、ジュリエット?

 だからジュリエットは、自らの意思でロンドンを離れることを決めたのだった。

 少しづつ道が悪くなり、馬車の揺れが段々と大きくなるのを感じて、ジュリエットは今度こそ自分がロンドンから、社交界から完全に弾き出されてしまったのだということをはっきりと認識した。

 もう後には戻れない。振り落とされないように座席に深く腰掛け直して、ジュリエットは目尻に残った涙を指先で拭って前を向いた。

(わたくしは居場所を失ってしまったのね……でも、何一つ後悔はしていないわ)