漢字(かんじ)漢字(かんじ)漢字(かんじ)漢字(かんじ)漢字(かんじ) 漢字(かんじ)漢字(かんじ)漢字(かんじ)
 例えばある人が高級なものに囲まれるときれいであるように、ある人が規範の中できれいであるように、僕は目の前の人を笑顔にすると楽しくて、きっときれいだった。
 僕は、僕として生まれたからにはきれいに生きたいと願っている。だが、きれいに生きるのは案外難しかった。なぜなら、話しかけられる方全てと話していると、相手を笑顔にしたくてもできないときが来たからだ。特に、相手と離れたい意思を示すと、相手が笑顔にはならないことが多かった。まず、連絡先を交換してほしいと言われたとき相手が悲しむ顔を見たくなくて交換をした。次に、ご飯やお茶に行きたいと誘われた。段々と全く読んでいない文章が溜まっていった。あるいは人がたまに声をかけてきたときは、僕も興味を持って、相手の好きなものを調べ、円滑に会話するために好かれようとすることもあった。社会に溶け込むための、社会に必要とされるための真っ当な努力を僕はしている。しかも、社会に必要とされるための真っ当な努力が僕には楽しくて仕方がなかった。毎日、僕の周囲の方々が笑顔になってほしいと楽しく行動した結果、時偶は必要とされてしまい、心の支えだと言われてしまった。ついには、周囲の方々を笑顔にすることの快楽を知ってしまった。しかし、快楽の代償として普段僕はいつか人に刺されるのではないかと背中を気にして隠していた。だが、今の僕は、背中を刺されることはないだろう。なぜなら僕は今、彼女のお風呂場から一ヶ月近く出ていないからだ。
 彼女のお風呂場は生きるために不自由なことは何もなかった。しかし、僕は自由に行動することはできなかった。そのために時間だけが有り余る今、僕にできるのは今まで出会ったたくさんの方々を頭の中で整理していくくらいだった。しかしその前に、まずは今自分にできることを整理しようと思いなおした。
 自分にできることは二つほどあった。一つ目はご飯を食べることだった。食事は一日三食、僕が入っているお風呂場のドアを開けて、彼女が持ってきてくれた。美味しくて温かくて待ち望み続ける有り難いご飯だった。
 ドアが開く前、ドアが開くことを待ち望んでいて、外で楽しいことをしようと想像した。青い空、青い海、美しい花々が外にはあり、きっと見に行くこともできた。次こそは出ようと思った。そしてドアが開くときには、いい匂いがした。彼女が好むお香のような香りと彼女が作ってくれた美味しいご飯の匂いがした。そして何もしないまままたドアは閉じ、社会から隔絶された。ドアが閉まると僕はまたドアが開くことを待ち望んでいた。
 自分にできることの二つ目は歯や体、服をきれいにすることだった。今僕がいる部屋は広い脱衣所のようになっていて、奥のガラス扉を開けるとお風呂場があった。お風呂場にはいくつかの洗い場と鏡があり、白く光るジャグジー付きのお風呂があった。他にも脱衣所にはトイレがあって、大きな鏡がついた洗面台もあった。換気扇も彼女がつけてくれているから、換気もできていた。洗濯乾燥機もあって、彼女が使ってもいいと言ってくれたので使うことができた。初日に着ていた服と、彼女の可愛らしくて大きめのゆったりとした服を貸してもらって、交互に着ていた。多少狭いが、正直彼女のお風呂場は僕が暮らすのに申し分がなかった。
 しかし、僕と連絡が取れないことで沢山の方々にご迷惑をおかけしていることは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。けれど、今は彼女と向き合いたい、向き合わなければいけないとも本気で思っていた。
 彼女は所有することが好きだった。知識も、家具も、おそらく人も。僕はどうやら彼女に収集されたらしかった。きれいな彼女にきれいに収拾されるなら、収集品になるのも悪くはないかもしれなかった。
 同時に、彼女が僕を外に出したいと思うのはどのようなときだろうかと考えた。僕は、収集品もたまには人に見せて自慢したいという考えの人間だから、彼女も僕を自慢したくなれば外に出したくなるかもしれなかった。彼女が僕を好きになったのはどのようなところだっただろうか。彼女と僕はアイドルと役者の仕事をしているのだけれど、役者として尊敬しているときが一番彼女の僕を見る目に愛おしさが含まれている気がした。それなら、役者の仕事をしたいから外に出たいというのが一番効果的かもしれなかった。次のお昼の時間に彼女に話そうと、彼女の反応が良かった言葉を反芻して組み合わせて考えた。
 正午一二時に扉が開くまで、集中して彼女に話すことを考えようとしていた。だが、いつの間にか僕は今まで会った方々のことを思い出していた。
 
 僕が仕事を始める前は、街中でよく女性から声をかけられて、話すことがあった。特に、休日の渋谷に行った際には、歯医者から駅に着くまでの間に何人もの知らない方に話しかけられて、話をした。そもそも休日の渋谷は、どこの通りに行こうとも人から逃れることはできなかった。
 ふいに小さな展示室が目に入った。展示室の中では個展を開いているようで、落ち着いたお洒落な空間に惹かれて中に入った。中には白っぽい壁に植物を可愛らしく擬人化した絵が飾ってあった。すぐに一周して見終わり、入口付近に戻ってくると、机の上に可愛らしい絵はがきが置いてあった。近くには、ご自由にお持ちくださいと書いてあった。欲しいと思って、手に取った。本当に可愛らしい絵はがきだった。でもすぐに、自分がものを大切に扱えずに、鞄の中でぐしゃぐしゃになり、捨ててしまう人間であることを思い出した。欲しいけれど誰か別の人が大切に扱うのだろうと思い、また絵はがきが入っていた箱に戻した。もちろん自分が欲しいものを手に入れなかったことは寂しかったが、どこか安心していた。
 展示室を出てなるべく道の端側を歩いていると、ペットショップのガラス窓の中に白いぬいぐるみのような子猫が猫用のベッドの中で丸まっていた。近づいてみると、ぬいぐるみのように毛がもこもこしているだけではなく、細い毛がつんつんと立っていることが分かった。大きな青い虹彩の中に蛇のように縦長の瞳孔が入っていた。その下には薄桃色の逆三角形の鼻があって、存在するかもあやしいほどに小さい口があった。
 「ペットショップ見ますか。」
 唐突に後ろから声を掛けられた。子猫に見入っていたことに気づいて少し恥ずかしくなりながら振り向いた。何か洒落たことを言おうと混乱し、
 「服を買いに行こうと思ったのですが、通りかかったら可愛くて見入ってしまっていて。」
 と答えた。冷静に考えて、見知らぬ人に急に話しかけられて真面目に答えなくても良い気もするが、街中で急に刺される事件もあるからあまり無下に対応するのも危険な気がした。
 「それなら服を一緒に見ましょう。」
 「え?服を一緒に見るということですか?大丈夫ですよ?」
 「実は先輩から会う約束を破られてしまって、長崎から上京して来たので東京のこと全然分からなくて。」
 「うーん。でも本当に服を買うだけなので大丈夫ですよ。」
 「それなら服を見ながら見極めてください。」
 断ってもどうしても服を一緒に見ると言った。また、長崎から来た大学生くらいに見える方に渋谷のことを少し教えられるだろうかと思うと少し高揚した。そのままの流れで向かいにあった複合商業ビルに入った。
 黒ばかりの服を見ながら、女性は興味がないだろうなと思った。また、値札を見るにもお金ばかりを気にしているようで見づらいなどと思っていると「このシャツとかどうですか?」と彼女が言いながら服を指さしていた。指の先を見ると、黒地に白の水玉のシャツがあった。正直水玉は集合体じみていて苦手だった。
 「水玉、お好きですか?」
 「ばれました?どうですか、このシャツ。」
 反応に少し困って笑った。
 「その反応は好きじゃないですね。」と彼女も笑った。半年前に遠距離恋愛をしていた福岡の彼氏と別れたと話していたから元彼が水玉を好きだったのだろうかなどと思った。
 しばらく店の中を回ってから店を出た。もう一軒見ようかと歩いていくと、人通りの少ない窪みの方に寄っていくようだった。店があるとでも勘違いしてしまったのだろうかと着いていくと、「ご飯とか行きません?絶対楽しませますよ。やっぱり困ります?」と言った。やはり困ったような反応しかできなかった。
 「そういえば渋谷ではどこが一番買い物で有名ですかね?」と彼女が言ったので、女性で言えばやはりと道玄坂下交差点に面した鋭角の角地に立つファッションビルを挙げた。
 「それ以外であれば僕的には今いるビルですかね。」
 「田舎者でこのビルがどこか分かりません。」と言ったので、ここの名前はこれですねと言って、ビル名が記載された看板を指した。渋谷で見知らぬ男性に声をかけておいて、渋谷の通り名を付けたことでも有名なこの施設を知らないなんて本当だろうかと内心疑った。本当はもう少し話してみたいと思ったけれど、渋谷で異性に声をかける方は危ない人だという固定観念に引きずられて解散し、もう会うこともなかった。最後に別れるときの「本当にダメですか?」という悲しげな言葉だけが心に残り続けた。
 せっかくなのでもう少し服を見ようかと思い、公園通りのスペインのファッションチェーンのお店あたりを通ると、突然道の端にいた女性がふらりと歩いてきた。IT系で働いていると話す彼女は、お茶をしたいと言うので、できないと伝えると握手をしてほしいと言うので握手をして別れた。
 その後ファストファッションの前あたりを通ると、水色のパーカーを着て鞄を持っていない女性に声をかけられた。女性は少しあやしい呂律で「そっちのコンビニでコンビニデートをしましょう。」と言った。できないと言って去った。
 スクランブル交差点を渡り切ってようやく駅前、ハチ公前広場に着いた。
 「おつかれ。」
 急に横から女性に声をかけられて思わず笑ってしまった。オーストラリアによくいる動物を模したチョコレート入りのビスケットが入っているのであろう六角柱のお菓子の箱を持っていた。
 「あなたの好きなお酒とお菓子がありますよ。ハグをしましょう?ん?帰るの?気を付けてお帰りください。」
 知らない方と話すのは少し怖かったが、話さなければ知りもしなかった方が気を付けてと言ってくれたのはありがたいと思った。だが、相手から話しかけたのに、二人での食事を断るととても悲しそうになって僕が罪悪感を抱くのは少し解せない気もした。僕はせっかく一期一会で話せたからには相手を笑顔にして別れたいのに、なかなか相手を笑顔にして別れることは難しかった。
 僕は、気づくと芋づる式に一期一会の出会いを思い返し始めていた。
 
 浮羽さんは華やかで、軽やかだった。もともと、僕と浮羽さんは映画で共演したことがきっかけで出会うことができた。可哀想なことに浮羽さんは多忙で今にも寝そうなときもあったが、寝そうなときでさえ蝶のように重力を感じさせないまま美しく人は惹きつけられた。歴史のある作品の主役も、重い背景を持った主人公も、歴史上の人物も、浮羽さんが演じれば軽やかに馴染んで、当たり前のように画面や街中を飾った。浮羽さんは様々な人間になりすぎて、もはや何者なのか分からなかった。でも、浮羽さんの体自体は熱量も重力もやはり感じさせず、目を細めて顎を引いて笑っていた。
 浮羽さんは体重も軽かった。時々頬がこけている、胸が小さいなどと好き勝手なことを書き込まれていた。
 浮羽さんはあまりにも軽すぎて、空に飛んでいってしまうことを恐れているのか、時々重いものを好んだ。愛とはなにかといった哲学の本を読んで、感銘を受けたと話していた。愛とか、恋とか、失恋の歌とかを好んでいたのは、不変ではないものを或いは愛していたのかもしれなかった。
 ある日、映画関係者での関係構築を目的として、浮羽さんを含めて監督や役者、関係者等大人数で食事に行った。僕がどうしても気になってしまったのだが、周囲に親しい人間がいなかったためか、浮羽さんは緊張しているように見えた。浮羽さんは真顔に近い強張った顔をして、声は小さく、あまり話に入れていないようだった。以前僕と二人で話していたときに自分の分からない話ばかりされて話に入れない時間が苦痛だと言っていたのを思い出した。それなら、僕の目の前にいる間だけでも、浮羽さんが少しでも笑顔になれたらいいと思った。浮羽さんの目を細めた笑顔を見たいと思った。初めは浮羽さんが食べていなさそうな食べ物を勧めたりしていた。偶然僕は、その場の浮羽さん以外の方全員と面識があったから、浮羽さんが話したそうだったら段々と浮羽さんに話を振り、浮羽さんの発言や作品等を褒めて浮羽さんが会話の輪に入りやすくなるようにした。浮羽さん以外の方のことが僕は好きで、皆さんの良いところもたくさん知っていた。だから、僕を介して互いに互いの良いところを知って、今日が浮羽さんを含めた皆さんにとって楽しい出会いになれば良いと思った。加えて、浮羽さんに話をふると間違いなく場が盛り上がった。僕の場合には不満を言ってはいけないという固定観念があって無理にやや偽善的に話してしまうような話でも少し本音のように感じさせながら小さい声で不満を話したりした。可愛くて優しい子が可愛らしい笑顔をこぼして「ひどくないですかー。」なんて不満を言ってくれると大層盛り上がった。
 また僕が、監督に注文を促す流れで苦手な食べ物を再確認する際にも浮羽さんと監督を繋げつつ、浮羽さんの力を借りることで楽しんでいただくことができた。特に、監督の堂島さんの苦手な食べ物を当てるという流れになったときには、浮羽さんは負けず嫌いなのか何としても正解しようとした。
 「堂島さん苦手な食べ物少ないですよね。」
 「一つしかないね。」
 「ちなみに堂島さんの苦手な食べ物、浮羽さん、思い浮かんだりします?」
 「えー、難しいです、ヒントをください。」
 「頭の回転が早い浮羽さんだとすぐ当てちゃいそうだから、分かりにくいヒントにしますね。ヒントは海のものです。」
 「海のもの?わかんない、勘です、わかめ!」
 「浮羽さんはわかめが苦手なのですか?他にはない食感ですよね。動きが少ないっていう点では正解に近いです。」
 「ふふ。私はわかめが苦手なのですよー。悔しい。そしたら帆立とか?」
 「帆立、よりも広く言うと?」
 「広く言うと?貝類とか?」
 「そうです。堂島さんの苦手な食べ物は貝類です!」
 「え?帆立でも正解ですよねー?でもすごくないですかー?私は2回目で当てましたよー!」
 「すごいです。海のもので苦手なものがあるっていうところで共通点がありましたね、堂島さん。」
 「うん。浮羽さんと同じものが一つでもあって嬉しいなー。」
 ともかく停滞していた会話でも、浮羽さんに話をふると盛り上がり、皆笑顔になった。僕が話をふり、浮羽さんが不満を漏らしたりしてどんどん場に馴染んでいく様子があまりにも気持ちよくて、さらに浮羽さんを褒めたり料理を勧めたりして反応を楽しんでしまった。初めから変わらず最後まで浮羽さんが顔を強張らせたままだったらと思うと本当に浮羽さんの笑顔が見られてよかったと思った。ただ、浮羽さんに助けられたのは僕の方だったから浮羽さんが嫌ではなかったか心配になった。
 盛り上がる中で一つ目のお店を出て、もう一軒行くか迷う流れになった。そろそろ帰って寝たくなったことと、一番盛り上がったままの雰囲気で帰りたかったので僕が帰る意思を伝えた。ふいに、少し離れたところに立つ浮羽さんの方が視界に入ると、浮羽さんがなにか言いたげに僕の方を見ているのを感じた。浮羽さんの視線にしては珍しく、真剣さと熱がこもっているように見えた。浮羽さんの様子があまり軽くないことに驚いて僕は完全に腰が引けてしまった。浮羽さんの言いたいことが何であれ、周囲に会話を聞かれてしまったらあまり良くない気がした。僕は浮羽さんの言いたいことに好奇心をそそられつつも、ありがとうございましたと言って場を去った。
 撮影が終わって一週間ほどたった週末の日、唐突にSNSを通して浮羽さんから二人でお茶に行かないかと連絡が来た。僕は驚いた。同時に、仕事でもないのに二人でどこかに行くなんて正気だろうかと思った。やり取りをしていくうちに二人の相性とか二人の恋愛とかいう言葉が出てきて、どうやら本気で恋人を前提に関係を縮めていきたいという意思が伝わってきた。またしても僕は正気だろうかと思った。そもそも、何を根拠に恋人になりたいと考えたのだろうか。会話をふったことか、食べものを勧めたことか、外見だろうか。いずれにしても、彼女と一緒にいた時間はそこまで長くはなかった。それに対して僕は毎日会っているような相手でないと恋人になりたいとは思えなかった。たとえば恋人になったとして、失うものの多さを彼女は考えていたのだろうか。ともかく、彼女と恋人になるのは彼女のためにも自分のためにも利が薄いだろうと思った。だが、彼女の目的が恋人になることではない可能性もあるいはあったかもしれなかった。もしかしたらどうしても相談したいことがあるのかもしれなかった。もしも困っているのなら全力で力になりたいと思った。
 お茶がしたいということだったのだが、やはり自分の家に来てくれないかということだったので、浮羽さんの家に行くことになった。確かに外で会うにも二人で会うとなると人の目があって危険だった。それにもしかしたら家になにか問題があって相談がしたいのかもしれなかった。正直女優の家に一人で行くのは性犯罪を疑われるとか、写真を撮られて仕事が無くなるとか僕が身を滅ぼす十分な理由になると考えられた。だが、好奇心には勝てなかった。たとえば浮羽さんは僕に好意を向けているのだろうかとか、どんなふうに話を展開するのだろうかとか、浮羽さんの家には何があるのだろうとか予想できる新しい情報の量に興奮せずにはいられなかった。
 浮羽さんの家の入り方を教えてもらって、呼び鈴を鳴らした。浮羽さんは笑顔で出てきて中に入れてくれた。家の中はいい香りがした。家の中に入ったはずなのにあまり生々しい生活感がなく、喫茶店にでもいるような気がした。青い壁の前には足が交叉しているフラワーテーブルがあって、上にはガラスのフラワーベースが置かれていた。中には黄色とオレンジの花が1輪ずつ入っていた。本当に忙しいだろうにきれいにしているのかと考えると尊敬を超えて感動してしまった。
 部屋がきれいなだけではなく、浮羽さんは忙しい中クリームシチューを作ってくれたということだった。クリームシチューはお店で出されるような持ち手がついた小さい鍋のような器に入っていた。味もお店のようでとても美味しかった。料理のお礼を伝えると、僕も料理をするかと聞かれた。僕も料理をすると言うと浮羽さんは嬉しそうにした。正直なことを言えば、料理を作ることはあまり好きではなかった。僕は料理を作るとき、自分ではなくてもできるのではないかと感じてしまった。そして冷淡なことに、かける時間や労力に対して、対価が見合っていないと感じてしまった。でも、料理を作る姿が、浮羽さんの目に一番魅力的に映るのであれば、毎日時間をかけて料理をしたいと思った。
 話も深まってきて、恋人の話になった。彼女は二次会の深い話が好きと言うだけあって楽しそうだった。
 「一木さんは彼女とかいつからいないのですか?」
 「僕?いや全然いないですよ。浮羽さんは?」
 「うーん、前の彼とは仕事とかで会えない日が増えて、返事もできなくて、気づいたら連絡がつかなくなっていました。他の人もサイコパスとか、モラハラとか、二股する人とか、男運ないのですかね?私。」
 「そっか。浮羽さんが優しいからつい相手が甘えてしまうのですかね。」
 しばらく浮羽さんの元恋人の話を聞き、やはり大変だと感じつつ浮羽さんは忙しい中のどの時間を使って恋人を作って恋愛をしているのだろうと感心した。そもそも、なぜ恋人を作りたいのかどうしても気になったため、恥ずかしながら聞いてしまった。
 「恋人って終わりが来るけど、友人ならあまり終わりが来る感じがしないから、友人関係はいいなと僕は思います。ちなみに、浮羽さんはどうして恋人を作ろうと思ったのですか?」
 「他にいい人がいないからじゃないですかね?いい人がいたら、行動しなきゃ何も変わらないって思っています。」
 「そうですか。仕事だと、女性の恋愛観とか直接聞けることが少ないので新鮮です。」
 浮羽さんにとって恋人は、今現在認識する一番魅力的な相手であるらしかった。つまり、他に魅力的な相手が現れれば恋人は変わると認識していたし、発言していた。それに対して僕は恋人として付き合うのなら、一生の伴侶になりたい人としか付き合おうとは思わなかった。だからこそ、恋人になることには慎重になるし浮羽さんはあまりにも軽く、一生添い遂げる唯一の伴侶として考えると浮羽さんの軽さと華やかさが怖かった。おそらく、年若い男性が現れれば迷いなく年若い男性を魅力的に感じるだろうし、行動するだろう。僕は浮羽さんの軽さが怖くて、浮羽さんと二人ではもう会わないことにしようと決めた。浮羽さんには、「浮羽さんの今後のことを考えると、二人で会うべきではないと思う。」と伝えた。浮羽さんは驚いたようで、何度か話をしたいと誘ってはくださったのだけれど、回数を重ねるほど、恋人に近づいてしまいそうでお断りをした。でも時々、浮羽さんのことを思い出した。あの軽やかさで、僕の一時の彼女に、一時の華に、過ぎ去ってきれいな思い出だけを互いに残す存在になれはしないかと思った。
 
 赤井さんは正しくて、高貴なものの中で輝く女性だった。次に共演した赤井さんとは、正義感の強い女子高生と教師が劇的な出会いをして、互いに成長していくというあらすじの映画がきっかけで出会った。この映画の始まりでは赤井さんが学校でいじめっ子を糾弾したことが原因で報復としていじめを受けた。そこで、赤井さんは担任の教師に相談するが、先生から気に入られていたいじめっ子は処分を受けず、赤井さんが欲しかった学校への推薦枠も手に入れた。悲しいことに、正しさが世界に存在しないと感じて絶望した赤井さんは学校の屋上から飛び降りようとした。しかし、飛び降りる寸前にたまたま休憩に来た僕が赤井さんを羽交い締めにして飛び降りるところを止めた。最後は、大人になった赤井さんが高校の元後輩と結婚をして子どもを作り映画は終わった。
 映画ではなく現実の世界でも赤井さんは正しかった。たとえ正論を言うと嫌われると分かっている場合でも言わずにはいられないようだった。また、赤井さんは悪を正す正義の人が好きだった。そのためか、真実や正義を追い求める探偵や刑事の作品を好み、汚職やいじめ等の社会問題に関心を持っていた。特にいじめは嫌いなようで、いじめで人が傷つくことよりも、いじめをする人が裁かれずに良い評価を得ることが許せないようだった。
 少し困ったことには、赤井さんはよく大きな声を出した。「ああっ!」と突然言うので何事かと思って振り向くと、「卵を買わなければ。」と言った。咄嗟に何か怪我でもしたのかと備えた頭が一瞬で解けてつい笑ってしまった。まるで赤井さんは、不安なことを増幅しないではいられないような癖があるようだった。ただ時偶僕の耳元で叫ぶのは、少し僕の耳に良くなかった。
 赤井さんは不安なことを解決するためなのか、良いものを好んでいた。特に、赤井さんは良い卵が好きだった。たとえば、医学部で作った荏胡麻を飼料とした卵や有精卵等の良い卵を良いスーパーで買った。卵以外もおそらくは良い材料を使って、良いガスレンジや良いグリルで美味しい料理を作っていたようだった。
 そして赤井さんは、良いものを好むだけではなく、良いものがとても似合っていた。映画の中で、僕が恋人とフランス料理を食べに行き、僕が恋人との予定を優先しないことを理由に別れを告げられたところを偶然赤井さんに見られるという場面を撮影したことがあった。赤井さんはきれいにフォークとナイフを使ってフランス料理を食べた。僕は赤井さんのように綺麗に食べることができなくて、赤井さんのフォークの使い方を見てはいつも綺麗だと思っていた。当たり前のように赤井さんは効率よく、正確に、精密機械のように食事をした。また、特にルビーや真珠等の宝石はよく似合っていた。赤井さんが耳に宝石をつけると別人のように見えた。それでいて、宝石は赤井さんの耳にあるべきものに見えた。たとえ少し古い造りのものをつけても、まるで王室のティアラのように受け継がれてきた歴史あるものに見えた。高価な装飾品や食品等はなぜあるのか、僕にはあまり理解ができなかったが、赤井さんのためにあるのだと理解できた。
 
 八木さんは、優しくて、面白かった。八木さんとはドラマで夫婦役として共演した。映画の中で大学生であった八木さんと高校生の僕の間に子どもができて、家族や子どもに振り回されながらも成長していくという人間ドラマだった。ドラマの中で僕は、高校生で子どもができたことに混乱した。家族やアルバイト先に相談していく中で、子どもがいても学校を卒業することも、就職活動をすることも、できるのではないかと考えた。周囲の協力を得てなんとか新卒として就職をして、社会に出た。そして社会に出てからも、時短勤務をしながらなんとか子育てに関わっていくという話でドラマは続いた。僕は結婚をしたこともないし、子どもができたこともないから、父親を演じる自信が全くなかった。そんなときに八木さんは何度でも相談に乗ってくれたし、経験をしたことのないものを演じる心構えを教えてくれた。それだけではなく、僕は八木さんから優しさの概念を教えてもらった気がする。もともと、仕事をする際に周囲の人を笑顔にしようと考えたのはおそらく八木さんを真似したところから始まった。
 八木さんは、優しくて、しかも面白かった。優しいだけでも十分なのに、しかも面白いなんてずるいと思った。しかし、八木さんが優しいということに気づくまでにはとても時間がかかった。なぜなら、八木さんは優しさを隠すことがとても上手だったからだ。でも、優しさを隠す意味が僕には分からなかった。なぜなら、僕にとっては優しさも、努力も、見せることで他人から応援を得るための手段の一つだったからだ。
 なぜ八木さんが優しさを隠していたのかと考えたが、おそらく八木さんは野生の天使だったからだった。「野生の」とつけてしまうほどに、八木さんの見えるようでいて見えない優しさは野に放っておくにはあまりにも危険に感じられた。
 しかし、八木さんとはドラマの仕事が終わってしまうのと同時に会えなくなってしまった。だから僕は、八木さんをなぞらえて周囲を笑顔にすることで、八木さんの存在を今でも感じている。
 
 後藤さんは、規範そのもので、粘り強かった。後藤さんはトーク番組の先輩だった。そして、後藤さんは僕が失敗をしても僕のことを見捨てなかった。初めに僕が番組に参加するようになったときにはすでに、後藤さんは番組の顔だった。いつでも後藤さんは番組のために一番尽力していて、後藤さんが一言意見を話せば後藤さんの意見が規範になった。
 規範を作りだす後藤さんの前で、僕は何度も失敗した。特に少し年上の相手と話すとき、僕は失敗に失敗を重ねた。たとえ話したいことがいくつも浮かんでも、何を話しても失礼なのではないかと考えてしまい、何も話せなかった。また考えて、何も話せない状況に追い込まれてやっと話せたことは度々見事に相手の地雷を踏み抜いてしまった。
 僕が過ちを犯すと、後藤さんは僕に注意をしてくれた。注意をされると僕は話す力を完全に失って、真顔で「はい。」と答えることしかできなくなった。ついには、頑張ったことが認められなくて悔しくなり、態度は生意気になった。もはや頑張っても認められないのなら頑張る意味はないと考えてしまった。ただ、注意されたことは繰り返さないように書き残した。なんとか、言われたことだけは直すという当たり前のことだけが僕にもやっとできる仕事の仕方だった。一度後藤さんには、「言葉にすれば分かるのだね。」と言っていただいたことがあった。そのとき、僕は僕に限らず皆言葉にしなければ分からないだろうと思ってしまった。実際に、後藤さんは僕に小さなことでも言葉で伝えたいことを伝えてくださるようになった。失礼なことに、生意気な態度をしてしまった僕に、言葉で伝えて頂けるなんてありがたいと思った。だから、後藤さんから言葉にしてもらったものをすべて書き残して学んでいこうと思った。
 同じ番組に田中さんという年下の女性がいたのだが、田中さんは相手の突っ込んでほしいところを突っ込み、地雷には絶対に近寄らず、さり気なく相手を褒めて認めた。残念なことに失敗ばかりの僕とは本当に逆だった。田中さんにとっては、僕が言葉で伝えて頂かなければ分からないことが自然と分かっているようにも見えた。それに対して僕は、いつ後藤さんに見損なったと思われるかと怯えながら、後藤さんが僕を見捨てないでくださっていることに本当に感謝して日々勉強をした。
 不思議なことに後藤さんは、僕の動作や口調で品がいいと初めから好ましく感じてくださっていたようだった。僕は、後藤さんに認められたいと思った。だが、後藤さんは僕より先に番組を卒業してしまった。後藤さんが卒業してから徐々に、後藤さんが求めていた規範を周囲は忘れていった。規範がなくても、番組は最初から変わらなかったかのように楽しく進んだ。その中で僕だけが規範にしがみついていて、いつどの程度手放せばいいのか分からなかった。なぜなら、僕の中の後藤さんは僕のことをずっと見ているように感じたからだ。でも実際には後藤さんは後藤さんが働く場所で無我夢中に働いていて、輝いていた。実際には、僕のいる場所には、もう後藤さんはいなくなっていた。だから僕は、無我夢中の働きをする後藤さんに恥じない僕であろうと思った。僕は僕が今働いている場所で、今一緒に働く人と精一杯働こうと思った。
 
 田中さんは、冷静で、落ち着いていた。田中さんとは映画で共演したあと現在もトーク番組を一緒にやっているのだが、田中さんと僕は仕事以外の付き合いが一切なかった。ただ、映画の内容は田中さん演じる女子高生が僕演じる冴えない塾講師に迫ってくるというものだった。
 映画の演出上、田中さんと僕は体を近づける場面が多くあったのだが、田中さんと体同士が近づくと、近づくことへの違和感に唾を何度も飲まずにはいられなかった。まるで、僕と田中さんは近づくべきじゃないから脳が離れろと命令をするようだった。作品を見た方々からは初々しく意識しているように見えると書かれることもあった。しかし、僕はむしろ無意識に体が離れようとするのを意識的に近づこうと努力していた。
 トーク番組の仕事をする以上はあまり仲が悪そうに見えても、視聴者に不快感を与えるだろうと考えた。だから僕は、仕事のために田中さんの考え方を知ろうと努めた。そして僕が田中さんと出会ってから数日くらいのある日、田中さんに笑いかけながら話をした。それに対して田中さんは笑っている口の形を作って、体をのけぞらせて笑っていることを表現した。驚いたことに、僕は僕の体温が氷点下まで下がったのを感じた。おそらく田中さんは、楽しくなくても笑っていることを全身で主張して、今まで生きてきたのだと思った。そして、笑っていることを全身で表現しなければいけない相手だと僕のことを認識したのだと思うと悲しくなった。まるで笑うことは田中さんの中の自然の摂理の内には存在しないようで、人と関係を構築するための道具でしかないことを懸念した。失礼なことに、何が楽しくて生きているのだろうかと本気で心配になってしまった。ただ、会ってから日を重ねるごとに次第に自然に笑っているように見えたからとても安心した。おそらく慣れない相手とは特に笑うことが難しいのだろうと勝手に予測をした。もしかすると、笑うことが得意ではないが笑いたいと苦労を重ねた結果笑うことを主張したのかもしれなかった。ただ、正直なことを言えば現在も、内心では何を考えているか分からなかった。
 田中さんと仕事をし始める前、僕は八木さんと仕事をしていた。八木さんと関わる中で、僕は完全に自分への自信を失っていた。なぜなら八木さんは野生の天使だったからだ。野生の天使に比べると僕はどうしようもなく馬鹿で幼くて、配慮が足らなかった。だから、大人になりたいと、人間になりたいと何度も切望した。
 完全に自分への自信を失った僕に、田中さんは何度も仕事の仕方を聞いてくれた。僕は僕にもできることがあるのだと段々自信をつけていった。もちろん田中さんに限らず、年下の方に対しては、僕は何でもしたくなった。いつでも後輩の力になりたくて、願わくは後輩に初めて何かを教えた存在として覚えられたいと思うと体が勝手に動いた。
 しかし段々と、田中さんが知らなくて僕が知っていることはほとんど無くなった。しかも、田中さんは話し方も、年上の方への頼り方も上手で、よく好かれた。たとえば、僕のことを初めに明るい人間として評価したものの、細かい配慮が抜けていたことに気付いて失望する方がいたのに対して、田中さんはどんどん信用を重ねて、多くの方に信頼されていった。すぐに、トーク番組でも僕が年下の田中さんにフォローをしてもらうという役割で笑いを取るという流れが定着した。格好悪いことに、僕は恥ずかしかった。初めから僕が年上で田中さんが年下という関係性でなければ、田中さんの目に僕が映らないことは分かっていた。残念なことに、僕にできることは田中さんの悪いところを見つけて自分を慰め、たまに田中さんの悪口を言ってしまっては自分の印象を悪くするくらいだった。
 田中さんの知人には言わないように心がけている田中さんの欠点を言わせてもらうならば、田中さんは相手がいないところで、悪口を言った。僕が言えたことではないが、思えば田中さんは表面上何も起きないことを重視しすぎているように見えた。また、田中さんは、表面上は相手を嫌いであることが分からないようにしていることがあった。たとえば、今までの方法を全て変えるように命令した相手や、努力して田中さんが考えたものを頭から否定した相手を田中さんは本当に嫌いで早く辞めてほしいと話していた。しかし、田中さんが嫌っていることを話すまでは僕は田中さんが嫌っていることに全く気付かなかった。むしろ僕は嫌なことがあるとすぐに反抗的な顔をしてしまうのに対して、田中さんは笑顔で「やめてくださいよ。」と言っていたから、意地悪なことを言われても上手に対応できていて羨ましいと感じていた。大人気ないが、僕は田中さんを怖いと思った。おそらく僕が田中さんを苦手だと思う以上に田中さんは僕を苦手だと思っていることが予想された。そして田中さんは、たとえ僕のことを嫌いでも笑いかけるのだろうと思うと、頭の芯から冷たさが広がっていくような感覚がした。時々、僕が嫌われて陰口を言われている場面を想像すると、僕はうまく笑えなくなった。さらに、田中さんが嫌いな人に対して笑いかけていたことを思うと、僕は全員が自分のことを嫌いであるように見えて誰にも笑いかけることができなくなった。しかし視点を変えれば、僕も時々苦手な相手に苦手な点を指摘しているにも関わらず、やはり田中さんに笑いかけながらも、一方で田中さんの優秀さに嫉妬して悪口を言ってしまうことがあった。そう考えるとあるいは陰口は、嫌いかどうかに関わらず、単に相手の評価を落とすことを目的とした攻撃であると解釈することもできた。もし陰口が相手の攻撃を目的としているのであれば、僕はうまく笑って徹底抗戦をする自信があった。自己中心的な考え方だが、僕が笑うことを目的とするのであれば陰口を言う人間が何を考えているにしろ、僕に嫉妬した僕への攻撃だと見なすことは有効だった。とはいえ、仮に可愛くて小さくて優しい田中さんが僕の陰口を言ったとすれば、僕はあまりの動揺に何も考えられずに白旗を掲げただろう。
 話は変わるが、田中さんは時偶嘘をついた。たとえば、特に急用ではないのに本当に用事があると言って帰ったりした。田中さんにとっては、現実的に考えて嘘とわかる嘘はむしろ大人として波風を立てないための伝達手段だったのかもしれなかった。だからなのか、現実的に考えて方便と呼べる範囲内の嘘をよくついた。そして僕は田中さんが嘘をついたとき、自分が田中さんに嘘をつかせてしまったことを残念に感じた。同時に、使わなくてもいい方便で、信用を少し失えばいいとさえ感じた。とはいえ僕も、帰らなきゃいけないと理由にならない理由を言い残し、あからさまに走って帰ることがあった。冷静に考えて、田中さんも僕も誤魔化している点では変わらなかった。変わらないけれど、僕は少しでも嘘を本当にしたくなった。田中さんは多分嘘を方便にしたがったのかもしれなかった。
 他に田中さんは向かい合って通り過ぎるときに見なかったふりをすることも、明らかに聞こえていた話を聞こえなかったふりをすることもあった。田中さんは、気づかないふりをするという嘘をついてでも、沈黙を相手に伝えていたのかもしれなかった。もしかすると、沈黙を愛して、守り抜いていたのかもしれなかった。あるいは僕は楽しさを愛していて、田中さんは多分沈黙を愛していた。田中さんにとって沈黙は多分正に金だったのだろう。
 時折田中さんは自分に利益をもたらさない年下の人間が目に入らないのか、挨拶をされても無視をしてしまうことがあった。僕は、田中さんにとって沈黙は大切な伝達の手段であることを知っていたし、悪意を込めて無視をしているのではないことを知っていた。
 ときには、田中さんが怖いから仕事を辞めたいと後輩から相談を受けることもあった。その際には、田中さんも忙しくて心に余裕がないときもあるし、もしかしたら先輩として少し格好をつけているのかもしれないですねなどと冗談めかして伝えて少し笑ってくれないか試してみた。後輩は、「そうですよね、田中さんも忙しいですもんね。」とひとまず辞めずに踏みとどまってくれた。後日田中さんにも、後輩への対応の仕方について聞いてみる機会があった。
 「そういえば田中さん、後輩に対してこんなふうに接していきたいなっていう方針とかあったりするの?」
 「急にどうしましたか?そんな偉そうなこと考えてないですよ。」
 「そうなの?偶に後輩に対して怖く接しているみたいに見えるときもあるから、やっぱり先輩として後輩の気持ちを引き締めたり、発言力を高めたりとか考えているのかなって思って。」
 「怖い?私のことが怖いですか?」
 「うーん。中には怖い先輩がいて仕事を辞めたくなってしまうっていう子もいるみたいだから、例えば挨拶とか話しかけられたときに一応悪意がないことを示していただけると後輩も安心できると思う。もちろん、田中さんも忙しいことも多いと思うから心に余裕があるときに心に留めておいていただけるとありがたいな。」
 「いや私は怖くないと思いますけど。」と言いながらも、その後田中さんの後輩への対応が柔らかくなった気がしますという後輩からの報告を受け、ひとまず安心をした。
 おそらく僕は周囲の温度を上げることが得意で、田中さんは下げることが得意だった。僕だけでは熱を下げる術を持たないまま熱に浮かされ続けてしまった。たとえば好奇心に抗えず、楽しければいいと思ってしまう僕の行動も田中さんが見ていると感じると動けなくなった。また、楽しさを優先させて御座なりになってしまいがちな現場の雰囲気も田中さんがいるとはっきりと引き締めてくださった。僕も時々は田中さんの後輩への冷たい行動に悪意がないことを伝え、田中さんへの誤解が減らせたらありがたいと望んでいた。もちろん、互いが存在していることで消えてしまう僕らの良さもあったのだろう。でも、互いが存在しているからこそ止められる過ちがあり、生まれる奥深さや面白さがあると感じた。
 特に田中さんは、誰とでもそつなく関係性を構築できて、信頼されていた。僕は信頼される自信はなかったが、誰とでも親しくなれる自信があった。二人とも関係を構築する術は持ち合わせているはずなのに、それでも田中さんと僕は、驚くほどに考え方が真逆で、話が噛み合わないことがあった。僕はなんでも楽しい方がいいだろうと考えていた。なかでも新しいものをいつも探していて、見つけては興奮していた。できることなら新しいことを一生知り続けたかった。
 しかし、田中さんは新しいことがあまり起こらず、冷静でいられることをおそらくは望んでいた。ただ、田中さんの考えはあまりにも理解ができないので、僕の考えでは推測の域を出ることができない。実は全く違うことを考えているのかもしれない。たとえすべてを理解できたとしても、互いに本気で思っているのか信じられないのだろう。
 そして僕にとって多分田中さんは天敵でもあった。冷静沈着な人が苦手だなんて僕自身も変だと思った。ただどこか、自分だけが悪に気づいているかのような高揚感がまるで映画のようで興奮した。田中さんからすれば、僕が楽しいことを探してはいつも他の人と笑って話しているだけで周囲と親しくなっていることが理解できないようだった。
 また、田中さんと話していると、自分の嫌な面が出てしまった。思わず田中さんに嫌な言葉をぶつけてしまった。優しくしようと何度思っても嫌な言葉が出てくるのは最悪だった。田中さんと話していると、田中さんにも周囲の方々にも僕の嫌な面を見せてしまうことになるから、なるべく田中さんと話すのは避けたくなった。
 田中さんと僕は真逆だということばかり僕は感じてしまったが、探せば共通点もあった。時々、番組に遊びに来てくださることがあった八木さんに好かれたことだ。僕は初め真逆の僕たちのどちらも好いてくれる八木さんが理解できなかった。八木さんは田中さんも僕も周囲をよく観察しているところが似ていると言った。周りを観察したうえで、田中さんは周囲の現実を改善した。だが、僕は現実を変えようと努めるのは得意ではなかった。だからせめて僕は周囲の考えを受容して周囲を笑顔にしようとした。ほとんどの人は田中さんの方を信頼していた。田中さんもまた、きちんと専門的に仕事をする人間を信頼していた。それば当たり前のことだった。現実の課題に対して真面目に取り組まない人間を応援も信頼もしたいとはあまり思わなかった。田中さんに比べたら、僕は笑ってばかりで役に立たない寄生虫に思えることもあった。例外として僕のような人が僕のことを好いてくれたときもあったが、僕のような人は田中さんのことが苦手であることが多かった。もしかすると、八木さんにとっては、周りをよく観察していることが重要で、現実を改善しても、笑顔にしても、状況を変えようと奮闘することに魅力を感じてくれたのかもしれなかった。僕と田中さんにとっては価値観が真逆でも、八木さんにとっては同じように評価してもらえることは、僕にとっては救いだった。八木さんはやはり僕を救い、教え導いてくれる天使だった。
 それでもやはり、田中さんの価値観は僕の価値観とはあまりにも真逆だったので、田中さんの価値観は俺の価値観を理解するためにとても効果的だと感じた。だから、田中さんと一緒に仕事ができてよかったと思うこともあった。だけど、田中さんと俺が二人で同じ意思を決定することはとても難しかぅた。なぜなら、お互いにお互いの考えが全く理解できなかったからだ。
 だから、田中さんとは仕事で繋がりが無くなったら、本当に一生会うことはないのだろうと思った。でもだからこそ、理解ができなくて必死に相手を理解しようとする今が少し愛おしく感じたし、仕事で出会うことができてよかったと感じた。
 以前、六つある円卓のどの位置の座席に自分の知り合いが座ってほしいか想定をする心理テストをやったことがあった。この心理テストの一番の目玉は、自分の左隣に座ってほしいと思う人物が自分の本命の相手であるというものだった。それに対して、自分の向かいに座ってほしいと思ったのは田中さんだった。向かいに座って欲しいのは、恋愛感情はないが、一番信頼している人間だそうだ。一番信頼している方と一緒に仕事をできるなんて、なんて幸せなことだろうと感じた。
 僕にとって田中さんはまさに仕事でしか会わない人だった。そして、仕事で出会えたことがありがたい人だった。
 
 佐伯は、自分に素直で、器が大きかった。自分に素直になることに価値があることさえ、僕は佐伯に言われるまで考えようともしていなかった。佐伯といると、自分に素直になろうと意識して考えることができた。
 佐伯に小説の話をすると、情事の場面はあるのかとまず聞かれた。僕自身は情事の場面はあまりにも他の作品と同じような動きをしていると飽きてしまう方だった。わざわざ同じ動きを大切な行数を割いて書く意味が僕には理解ができていなかった。彼がわざわざ情事の場面があるか聞くのは場に笑いを提供することや秘密を共有することで距離を縮めようとしてくれているのかと考えていた。実際情事の話はいわば全人類に共通する内輪話のようだった。他人同士の壁を壊し、距離を縮めるには最善の方法の一つにも感じられた。
 佐伯は何も怖いものがなく器が大きく万能で、いつも余裕があるように見えた。でも、佐伯が情事に関わる話をするとき、彼は少しだけ、縋るような目をしていることに気づいた。彼は、他人が情事に関心があることを本気で望んでいて、信じたいようだった。
 佐伯は、僕と同じアイドルグループに所属している仲間だった。いつも明るく空腹であるとき以外は本当に不機嫌になるところを見たことがなかった。歌も踊りもいつの間にかできてしまっていて、失敗しても彼が笑うと周囲も自然と笑顔になってしまった。まるで佐伯の周囲だけ、オレンジ色で丸い空間がある気がした。
 佐伯は無邪気だった。自分を脅かす存在や、自分の周囲のものに手を出す存在全てに敵意を向けている僕から見ると佐伯は完璧な人間に見えた。佐伯のことを考えると、自分のことばかりで焦燥感に駆られていたことが馬鹿らしくなって落ち着くことができた。落ち着くと、張り詰めていた神経が和らいで、自分が近視眼的になっていたことに気づいた。そして、見えていなかったものが見えてくるようになった。しかも、佐伯といると、自分ができないと思いこんでいたことが、できていることに気づいた。その中の一つは、計画的に少しずつ仕事を進めることだった。もともと僕は、瞬間的に気力と体力を爆発させることでしか自分を働かせることができないと考えていた。なぜか僕は集中しようとすると半日ほどで疲れて、二日で限界を迎え、半月ほどで判断能力を失い、以降は惰性で動くことしかできなくなった。だから、僕は僕がやりたいことを継続することを半ば諦めていた。でも佐伯がいれば神経が張り詰めて、張り詰めて、爆発四散する前に和らいで、仕事をすることができた。正に佐伯は僕を永久機関にするために欠かせない人間だった。
 僕は佐伯とずっと一緒にいたいと思った。そもそも、佐伯はおそらく、食べものと情事のこと以外関心がなかった。そのため、僕が自意識過剰であろうと、気恥ずかしい夢を持っていようと、他人の動きに合わせることができなかろうと、自己中心的であろうと、どうでもいいと思っているように見えた。僕の心の中で、僕が自己中心的であることが自然なのであれば受け容れる器の広さがあった。だから、僕の自意識への佐伯のおおらかな無関心さに僕は大変に救われた。
 しかし段々と、僕は佐伯に執着心を持ち始めた。僕が佐伯を求めるように、佐伯も僕を求め返してほしいと期待してしまった。
 ある日の朝、僕は朝五時三〇分に目が覚めた。布団の上で全身が高揚して一分でも長く佐伯のことを考えていたいと思った。毎日寝不足で眠いはずなのに、毎日が恐ろしく楽しく、自分を高揚する成分が脳から分泌され続けているのを感じた。いつか恋が終わったとき、脳からその成分が分泌されなくなるのが怖かった。時には、佐伯のことを目で追っているときに佐伯が自分の方を向き、慌てて顔を伏せた。時には、どこに行っても佐伯のことを思い出し、不意に涙ぐんだ。時には、佐伯との幸せなやり取りに思いを巡らせるあまり、目の前にいる方の言葉が耳に入らなかった。時には、脈があるか判断するための記事をひたすらに読み漁った。時には、女性から食事に誘われたときには好きな人がいるからと伝えて断るようになった。時には、佐伯とやりたいことや、もらったものをメモ帳にまとめ続けた。時折、自分が典型的な恋に落ちた子どものような馬鹿げた行動をしていることに失望した。また、自分の行動が佐伯の好意を得るために必ずしも有効ではないことにも気づいていた。たとえ、好意を得るために有効な方法を他の方に対してであればいくらでも実践できたとしても、佐伯を前にすると冷静に実践することが不可能だった。ただ僕は、佐伯が発して僕が聞き取れたすべての言葉をメモ帳に書き留めて、永遠に僕への気持ちを探し続けた。
 時折佐伯は帰るとき、誰かに止めてほしそうだった。誰でもいいから誰かと一緒にいたいならその誰かに僕がなりたかった。でもその誰かが僕じゃない誰かだったなら、僕が止めるのは間違っていた。それなら、僕は必ず佐伯に笑顔でお疲れ様と言おうと決めた。
 あるとき、僕は佐伯が笑顔を向ける相手を観察した。佐伯は計算ができて計画的に細かい仕事ができる人が好きなようだった。佐伯は大らかで細かい計算が得意ではないように見えたから、器用に俯瞰して佐伯を助けられる存在は佐伯が活躍するために必要な存在であると感じた。そして、佐伯が好み、佐伯を助けられる存在は僕とは真逆の人間だった。佐伯が笑顔を向ける相手は僕と佐伯が毎週トーク番組をしている女性アナウンサーの小泉さんだった。
   小泉さんは、僕が持っている高い自尊心や理屈っぽさを持っていないように思えた。そして、小泉さんは何事も一人で進めようとする気力のようなものも持っていなかった。小泉さんは仕事でもお金でもいつも計算をしていて、自分が少しでも得をするように振る舞っているようだった。僕は初め、少しでも得をしようとする小泉さんが小賢しく感じてあまり良い印象を持てなかった。でも、佐伯が好意を向ける相手として見てみると、人を見下すことや、支配しようとすることはなく自分だけが少し得をしようと計算している小泉さんは実はとてもさっぱりとした機械的な無機質さがあって、きれいな存在なのではないかとも思えてきた。いずれにしても、僕は無機質な人間になれる気はしなかった。また、小泉さんは真ん中や普通を好む人だった。ときには、全体を俯瞰したうえで人々の中でどのように振舞うべきか計算をして器用に立ち回ることができた。ある意味では僕と同じように誰とでも関われるようだった。しかし、僕は自分の世界の内側に引き込むことでしか周囲と関われないのに対して、小泉さんは外側から広い視野で見ることで場面に適応して必要な役割をこなすことができた。まるで、外側から広い視野で観測しようとする小泉さんを内側に引き込めず僕が苦労するように、小泉さんとまともに向き合うと苦労するのだろうと感じられた。また、小泉さんは普通の家庭で育った、問題のない普通の人を好むようだった。その結果、僕は小泉さんの前で大人しくて優しい僕だけが見えるようにしていた。
 佐伯が小泉さんを好きでいるなら、僕は小泉さんになりたいと思った。小泉さんが困っている様子のときは手を差し伸べ、疲れている様子のときには話を聞いて小泉さんの頑張っているところを褒め、優しい言葉だけを投げかけ続けた。話を聞くうちに小泉さんが上司との関係に悩んでいることや、周囲が結婚をしていて焦りつつあることを聞くことができた。おそらく小泉さんは様々な人に適応できる分、器用に適応し続けることに疲れてしまうことがあるようだった。小泉さんの悩みが僕の中に入ってくるたび、僕は小泉さんが手に入っているような気がして楽しかった。結果として、僕は小泉さんにはなれなかった。小泉さんの悩みや考え方を知ったところで僕は小泉さんの器用さも、細やかさも、豊満な肉体も、色気も身につけることはできなかった。代わりに、小泉さんが僕に好意を向けるようになった。僕が佐伯に向け、佐伯が小泉さんに向け、小泉さんが僕に向けた好意は自分の尾を噛んで輪を作る蛇のようだった。
 段々と佐伯のあまりの僕への無関心さに、僕は、佐伯に強く当たってしまうことがあった。佐伯は、考えていないと言葉で言って、やはり考えているようで、考えていないようだった。佐伯を傷つけてしまったかもしれないと思うたび、僕一人で絶望をして無関心な佐伯によくわからない言い訳をした。その結果、僕は佐伯に対して、本当に恥ずかしい姿ばかりを見せた。理不尽なことに、僕は恥ずかしいものに触れようとする人は全て傷つけてしまった。まるで、僕の中の佐伯の周りには数え切れないほどの地雷が埋められたようだった。
   同じように、僕が小泉さんに無関心であれば、どのように傷つくのか、想像をせずにはいられなかった。まるで、地雷が作られないように優しくし、地雷を爆破させないように優しくするようだった。そしてまるで、僕の中に数多くの地雷が埋められたことで、地雷が多い人は優しい人だと僕は学んだような気がした。そして僕の目には、恋をする人は本当に愛おしく、傷つきやすく映った。
 初めは佐伯が僕の自意識に無関心だったことに救われたが、段々と佐伯の無関心さに僕は耐えられなくなってきた。そして僕は小泉さんのように自分の強い自意識を表に出さないようにしていることに気づいた。同時に、僕が佐伯の一番になることを望む限り、僕は僕ではいられないのだと気づいた。僕が、目の前の人間に好かれていなければ生きられない人間ではなかったのなら僕は佐伯の前でも僕でいられたのかもしれなかった。でも、僕は佐伯の一番になれないのに佐伯の目の前にいられるほど、正常な自意識を持ち合わせていなかった。僕のことを好きにならない人間が僕は嫌いだった。
 僕は佐伯と一緒に活動することを辞めようと決めた。佐伯のように自分に素直な人間が僕は好きだったはずなのに嫌いに思えてしまったことが辛かった。さらに、ときには佐伯の姿を見ると無意識に佐伯の不幸を願ってしまう自分が、本当に悲しかった。僕は僕が佐伯の側にいるべき人間だとは思えなかった。また、僕が側にいるのに佐伯が他の誰かを選ぶくらいなら、僕が側にいなくなってから佐伯が他の誰かを選んだほうが僕は耐えられた。一刻も早く佐伯と離れたかったし、別れを告げたかった。誰にも相談しないまま、自分の中で決めた最後の公演で、僕は佐伯に口づけをして、そのままきれいな海がある島国にでも行って、二度と誰とも会わないようにしようと決めた。
 公演の日、佐伯は相変わらず僕が求める感情を僕に向けてはいなかった。僕にとって最後の開演の合図だけを待つ暗い舞台袖で、佐伯を盗み見た。佐伯の万能さを感じさせず何も考えていなさそうな頬が、男らしく骨ばった尺骨がきれいだった。また、佐伯は袖のない衣装を着ていて、白い肩が露わになっていた。肩は、体と腕の間にあって、まるでどちらからも仲間外れにされながらも存在感を示して、二つを繋いでいるように感じた。佐伯の白い肩を見ていると、佐伯の白い裸を想像せずにはいられなかった。佐伯が僕以外の大勢に、白い肩を見せるのかと思うと嫌になった。段々と、今日が最後かと思うと堪らなくなり佐伯の手を掴んだ。佐伯はこちらを見て、手を重ねた。開演の合図が鳴った。すぐに佐伯は手を離して、舞台に上がった。僕も佐伯に続いた。音楽が始まった。僕達に向けられるうちわや色とりどりな光を見ながら、僕は自分勝手だと思った。僕が突然消えたら、何人の方にご迷惑をおかけするのだろうと考えた。僕がどうして消えたのかほとんどの方には予想がつかないだろう。でも、今の僕にはどうでもよかった。いち早く佐伯の側から消えたかった。
 佐伯が木製の水色の椅子に座って歌っていた。佐伯はバラードを口ずさみながら、目を伏せてスポットライトを浴びていた。口づけをするなら今だと公演の構成が決まってから考えていた。演出の流れに従って佐伯の方へ近づきながら歌い、佐伯の後ろに立って手を絡ませた。衣装にかけられた香水の匂いが鼻をついた。佐伯は自分で香水を選ぶことはないのだろうと考えながら唇を重ねた。佐伯の唇は柔らかかった。客席から歓声が上がった。佐伯は目を伏せたまま演出の流れに戻って歌った。僕だけが心臓を高鳴らせていて、佐伯が何を考えているのか本当に分からなかった。
 何とか家に帰りつき、しばらくは何もできずにただ床に座り込んでいた。何とか立ち上がって、シャワーを浴びながら、考えを巡らせた。そもそも、僕だけが佐伯を求めているというのは勘違いではなかったのだろうか。佐伯は僕が手に触れれば、手を重ねてくれた。唇を重ねれば僕を見てくれた。佐伯は僕に笑いかけてくれた。佐伯は僕への思いを口には出さないけれど、僕も佐伯への思いを口には出していなかった。佐伯は実は僕のことを大切に思ってくれているからこそ、口には出さないのかもしれなかっあ。なぜなら、僕は佐伯を大切に思っているからこそ佐伯に思いを伝えていなかったのだから。もう一度、佐伯に会いたかった。もう一度、佐伯に触れたかった。佐伯の一挙手一投足に僕への思いの欠片を探したかった。佐伯の手に触れて、佐伯が手を重ねた感触をまた残したかった。僕は佐伯に会いたいと一生全ての細胞で願っておきながら、佐伯の側にいたくないと思うのだろう。佐伯へのすべての行動が自分ではないもののように思われて、過去の自分を消し去りたくなった。だが、少なくとも今は、いつか会えなくなる日まで、会えるときには一つでも多くの奇跡を感じていたいと思った。
 僕が佐伯の中にあるかもしれない僕への思いを探す中で、僕は小田さんと仲良くなった。僕が小田さんと仲良くなろうと思った理由の一つには、佐伯に嫉妬してもらいたいという思いがあった。別の人間と仲良くしているところを見たら、僕が欲しくなって追いかけてくれるのではないかと期待した。もう一つは、佐伯は色々な経験がある人が好みなのかと考えた。なぜなら、小泉さんが色々な男性と関係を持っていることは公然の秘密だったからだ。その後分かったことには、佐伯の前では僕は小泉さんになってしまったけれど、小田さんの前で僕は僕でいることができた。
 
 ガタン、と音がして僕は即座に意識を現実に戻した。一瞬彼女の身に何か起こったのかと心配になった。お風呂場の外では彼女がお昼ごはんの準備をしてくれているのであろう音がした。よかった。おそらく鍋か食器などが音を立てたのだろう。僕はようやく彼女のことを思い返そうとしていた。
 彼女は、女王様で、たくさんのものを持っていた。彼女はたくさんのものを持っていて、ずるいと言われて、ずるいと言われたことを自慢げに話す女性だった。そんな彼女のことを鼻につくと言う人も少なくなかった。実際彼女は理屈っぽくて上から目線で、面倒くさい性格をしていた。加えて彼女には都合が悪くなると勢いで押し通そうとする癖があった。実際に彼女が笑顔でやりたいと言えば空気は変わり、異議を唱えにくい雰囲気になった。唱えられなかった異議は、少しずつ積もっていって、彼女を非難できる空気ができたときには見たことがないほどに非難された。非難されると彼女は見るからに落ち込んだ。ひどいときには体調を崩した。
 彼女はとても危なっかしかった。彼女は人を惹きつける力を持っているのに、人に好かれることを目的とした力を持っていなかった。人に好かれたいと思っていなかった。そして、嫌われたくないとも思っていなかった。お恥ずかしいことに、人に好かれることが目的で人を惹きつける力を持ちたいと思う僕にとっては、人に好かれることを目的としない彼女が何かが欠けているように見えてしまった。時折、僕と彼女は似ていると思ったけれど、彼女を見るうちに僕の方は自分が好かれるために何もかもを手に入れたい強欲な人間であることを知った。きっと彼女の方は、好かれることに割く力を自分の能力の研鑽に割きたいと考えていた。たとえば、僕が固執してきた好かれるための力を、彼女のために使うことができたならどんなにいいかと思った。あるいは、僕の利己的な時間の積み重ねが、利他的なものに少しでもなりはしないかと期待した。
 また、彼女はものを集めることが好きで、色々な種類や大きさの家具やランプを集めていた。他にも、彼女は連絡先をとにかく集めていた。おそらく、彼女にとっての連絡先は、種類の違うランプと似ていた。彼女はまるで目の前にいる人間を知り合いという題名のついた箱に加えてみたいという収集癖があるようだった。彼女にとってはたくさんのものを集めることに価値があった。彼女にとってのもっているという言葉は持つことに伴う努力を当たり前に指すものだった。
 
 ある日の歯医者でのお会計の待ち時間、子どもがいる俳優がつい女性を口説いてしまうとお酒を飲みながら笑って話している番組を見ていた。彼は子どものような笑顔をしていて、輝いていて、楽しそうだった。気になって彼が出ている動画を見てみると、彼は俳優仲間と仕事の在り方についてやはり子どものような懸命な目をして話していた。彼は裏表なく正しく純粋で、真っすぐに見えた。
 突然、吐き気が込み上げてきて、急いでお手洗いに駆け込んだ。内容物が胃から食道を通り喉の奥にせりあがった。大丈夫。大丈夫。色々な考えが脳内で掻き回された。歯医者の手洗いで吐いて出たら臭いや汚れで僕が吐いたと分かってしまうかもしれなかった。でも外に出てから人前で吐いてしまったら嫌だった。僕は一生公共の場で吐いた人になってしまうかもしれないと想像すると恐ろしかった。
 以前〇時発車の電車の中で飲みすぎてしまったのか吐いてしまった人を見たことがあった。大学生くらいの男性が座席で横になっていたのだが、何かの気配を感じたように体を起こし、脚を開き、下を向いた。しばらく何かを待つように下を向いたままでいたと思うと零れ落ちるように痰のような白い液体を垂らした。また座席に横になりしばらくするとまた下を向いて座った。今度はさらに多く吐き出し、吐き出し、何度も吐きなおした。しばらくして落ち着いたのか、また座席に横になった。二皿分のクリームシチューくらいの液体が彼の足元に広がっていた。消化されかけた肉と麦芽のような香りがエアコンの風に乗って流れてきた。彼と床の様子に気づいた乗客がちらほらと他の車両に移っていった。彼はスマートフォンを落として、拾った。段々彼自身も周囲の様子に気づいてか座席に横になりながら液体をスニーカーで隠そうとした。液体が少し伸びた。臭いに耐えがたくなって自分ももよおしそうになってきたころ、彼は立ち上がって隣の車両の方に消えていった。彼が立ち去った後、吐しゃ物から一番近いのは僕になり、僕のものと思われるかと気になった。しかし、偶然次の駅が下車駅だと電車の画面に表示されたのですぐに下車した。ホームを歩きながら自分とは逆方向に進む電車の中で彼を探そうとしたが、見つけることはできなかった。その後エスカレーターで前に立つ女性の背中を見ながら、自分にも臭いがついていないか少しだけ気になった。
 また、ある政治家の夫が、妻を介抱したという記事を読んだことがあった。そのとき夫婦であれば介抱するだろうと思った。また、見知らぬ男性が、気持ちが悪くなった女性を介抱して女性が恋に落ちるという少女漫画を読んだことがあった。読んだ時には出会いの演出としては弱いと思った気がした。実際に見知らぬ人が目の前で吐いていると胃の内容物はあまりにも刺激が強くて動くことはできなかった。同時に人前で吐くことは体調が悪い中で周囲からも嫌がられて本当に辛いだろうと思った。辛い思いをしている人がいるとき、さらに辛い思いをさせる人間になりたくはないとは思った。
 現実に帰ってみれば、今吐きそうなのは僕だった。ワイヤレスイヤホンを耳にはめ、一番きれいだと思う男性歌手の歌に頭を預けた。大丈夫だ。外に出ても彼の歌のフィルターを通して世界を見るならば、きっと大丈夫だ。お手洗いを出ると丁度名前を呼ばれたのでお会計を済ませて歯医者を出た。
 先ほど気持ち悪くなったのが感染症であれば周囲に迷惑をかけてしまうし、念のため病院に行こうと考えて、以前訪れた新宿の高層階にある病院に向かった。身分証明書をかざし、受付の女性の案内に従って受付を済ませた。待合室の窓からは新宿のビル群の下に歩いてきた道を見下ろすことができ、車は幼児が遊ぶおもちゃの車のようにも見えた。室内も広くきれいで、大画面のテレビや曲線状のソファが寛げる様に配置されていた。ふいに旅の雑誌と漫画が気になって、本棚の横の空いていた場所に座った。
 旅のきれいな写真を見ていたが、ふと人の気配がして顔を上げると、向かいの席にピンクのニットに花柄の黒いスカートを着たきれいな女性がソファのひじ掛けに寄りかかって座っていた。女優の小田さんに雰囲気が似ていると感じた。帽子を目深に被っていたが、骨格や目鼻立ちがくっきりとしていて人を惹きつけるが同時に近寄りがたい雰囲気があった。女性はなすすべがなさそうに震えていて、よく見ると血の気がなく、脂汗も浮いているように見えた。彼女はふいに何かに突き動かされるように下を向いた。彼女はどこか諦めているような趣があった。すぐに、彼女と電車で嘔吐した男性が重なって見えた。そして、彼女の美しい胸元が、口元が、足元が、汚れてしまう様子が思い浮かんだ。きれいなものが汚れてしまうのは間違っていると強く思った。そして、彼女が今以上に辛い思いをするのは間違っているとも思った。
 気づくと彼女の横に座って彼女の口元に僕の白いバックをあてていた。ひとまず彼女の胃の中身を受け止めることができたことと、彼女が汚れていないことを確認した。彼女が落ち着いた様子であることを確認すると、急に周囲の情報が自分の中に入り込んできた。自分も吐き気を催していたことに気づき、女性の口元だけ僕のハンカチで軽く拭ってハンカチを女性の隣に置き、持ち物をすべて持ってお手洗いに駆け込んだ。
 お手洗いを出ると、先ほどの場所に彼女の姿はなかった。お手洗いに行ったのか、病室にいるのか分からなかった。いずれにせよ今いる場所は病院であるし、自分にできることはもうないだろうと思った。ときには自分のことをどうしようもない人間だと思うこともあったが、彼女のきれいな足元が汚れなかったのだと思うと自分にも価値があるような気がした。
 受付をした手前、急に病院から帰るのは申し訳なく思ったが、バックの中身の処理もしなければいけなかったし、受付の女性に急用ができたと伝えて、そのまま家へ帰った。
 その後、やはり感染症の検査をしたほうがいいかと心配になり、また病院へ戻った。またどこかに彼女の痕跡が見つかれば有り難いとも思った。
 エレベーターを降り、病院の入口がある方向へ向かって廊下を歩きながら、彼女がいるのではないか、と思った。いると思うのと同じくらいの強さで現実的に考えているわけがないとも強く思った。体の向きを変えて入口から待合室に足を踏み入れながら二つの強い考えに頭は熱くなっていた。
 彼女はいた。僕が初めて見たときに時間が戻ったのかと思うほど同じ場所で同じ美しさで座っていた。高揚して顔がにやけてしまうのを抑えながら先ほどと同じ受付の女性の方へ話しかけた。
 「先程受付だけして急用で帰ってしまった者なのですが、今からよろしいでしょうか。」
 申し訳なく思いながら聞くと、快諾していただいたので安堵し、念の為また身分証明書を出した。
 「あの、間違っていたら申し訳ないのですが、先ほどあちらの女性に声をかけられていた方ですか?」
 「え?おそらく、そうですね。」
 思えばあのとき、女性の許可もなく近づいて触れたかもしれない。性犯罪者だと思われたら今からの人生を性犯罪者として生きていくのだろうかなどと色々な考えが頭を巡った。
 「あちらの女性が、あなたに貸してもらったハンカチを返したいということでした。あなたが来るかもしれないということで出口のところにいるつもりだったようですけれど、体調が悪いのに外にいるのも良くないと思って、そちらで座っているようにお声がけしております。」
 「ありがとうございます。」
 彼女の方へ振り向くと、彼女は話しかけに行こうかどうしようかと迷っている様子だった。僕が彼女の方に向かうと、彼女が立ち上がろうとしたので、「よろしければ座ったままでいてください。」と言って手で椅子を示した。
 立ったまま彼女を見下ろすのも憚られて先ほど座っていた彼女の向かいの席に腰を下ろした。
 「体調は、大丈夫ですか?」
 「大丈夫です。あの、先ほどはありがとうございました。バッグとか、中の物とか、弁償させていただきます。」
 「はは。僕が勝手にやったことですから、お金を受け取ったら当たり屋みたいになっちゃいますよ。僕に格好つけさせていただけると助かります。」
 「え?それは流石に私が困ります。お礼は本当にさせてください。」
 「そういえば、気になっていたお粥のお店がありまして、お洒落すぎて僕一人じゃ行きにくくて。もしよかったら付き添ってくださるとありがたいです。もちろん、無理そうだったら連絡していただければ大丈夫ですし。」
 「え?はい。ひとまず、それで大丈夫なら。あ、でも連絡って、そしたら、交換します?」
 「ありがとうございます。これ僕のQRコードです。おー!本棚の写真ってことは、本好きなのですか?」
 「はい。本棚見ると幸せな気持ちになります。」
 「分かります。僕小学生のころ、歩きながら本を読んでいました。名前は、小田さんであっていますか?僕一木っていいます。」
 「いつきさん。よろしくお願いします。」
 「よろしくお願いいたします。じゃあ、細かい待ち合わせとかはまた連絡で大丈夫ですか?」
 「はい。あの、今日はありがとうございました。本当に助かりました。」
 「はい。小田さん、無理しやすい性格なのかもしれないですけど、体お大事にされてくださいね。」
 「ありがとうございます。私は月に一度辛いだけなので大丈夫です。いつきさんこそ、大丈夫ですか?」
 「ええ。小田さん辛い時点で大丈夫じゃないですよ。僕は感染症の検査をしようかなって思って。あ、ごめんなさい!僕はあんまり小田さんと近づかないように気を付けていたのに、少し近づいてしまっていましたよね。離れますね。」
 「そんなの気にしないですよ。でも、いつまでも病院で話しているのも良くないですよね。今日はありがとうございました。」
 「こちらこそ、ありがとうございます。」
 その後、受付の女性にもお礼を言った。診察の順番が来て、事情を説明し、感染症の検査をした。医師から問診をされた。
 「ストレスとかは無いですか?」
 「無いと思います。そもそもストレスってどんなものかよく分かっていなくて。すみません。きちんと答えられなくて。」
 「うーん。外部からの刺激とそれに対する心身の反応をあわせてストレスと呼ぶことがありますね。睡眠不足や人間関係でストレスを感じる方は多くいらっしゃいます。」
 「そうですよね、睡眠をもっととれるように心がけてみます。人間関係は、周囲の方々に嫌われないように行動しすぎて、偶に自分が嫌になるくらいですかね。でも、周りの方々は本当に良い方々なので人間関係のストレスはやっぱり無いと思います。」
 「そうですか。ストレスから起こるこころや体調の変化に気づくことは大切なことですからね。誰かに相談することや、日記に書くことで解消できるようですから、やってみてくださいね。」
 「はい。ありがとうございます。やってみます。」
 お礼を言って診察室を出た。医師と話すのは緊張してしまった。自分が痛い、辛いというのは恥ずかしかった。まるで拷問のようだと思った。自分の弱い部分を覗かれるようで、医師を前にするとすぐに逃げたくなってしまった。せっかく恥ずかしい思いをして、やると言ってしまったのだし、日記や相談をしてみようかと考えた。
 彼女には、連絡しない方がいい印象のままで終われるだろうかとも思ったけれど、本好きの方に久しぶりに会えたのでやはり話してみたいと思った。まずは、一つも知らないおしゃれなお粥の店を調べるところから始めようと思った。

 偶然、小田さんが主人公のドラマに出演できることになった。僕と小田さんとの病院での出会いとは全く関係がなく、偶然関係者の方から僕と小田さんに声がかけられた。ドラマは高校生が主人公の少女漫画を原作としていた。あらすじは小田さん演じる学校には内緒でVチューバーをやっている主人公を、僕達演じる男子生徒らが取り合うというものだった。
 僕は、今回の現場が初対面の関係者が多くいらっしゃった。そのため、現場の方との親交を深め、現場の方が笑顔になれば嬉しいと思って、少し高いお店のチョコレートの差し入れをした。なるべく手渡しできる方には日頃のお礼を言いながら渡すと、喜んでくれる方が多いようだった。
 僕はそれから何かの節目には差し入れをするようになった。前回よりも良いものにしようとか他の方よりも良いものにしようなどと考えていると、お金は消えていった。お金は消えるとしても、差し入れをした人として僕のことをよく思ってくれるのなら、楽しかった。時々、何もあげるものがないと、今日は何も無いのかと思われているような気がした。逆に、自分もあげなければいけない気がするからなのか少し嫌というような反応をする方もいた。それでも僕は誰々が好きそうだとか、会話ができそうだとか考えることが楽しくて、気づいたら差し入れをせずにはいられなくなった。
 また、人の誕生日に贈り物をすることも難しいものだった。当たり前のことだが、全員にあげない限りは、誰かにあげると自然と誰かにあげないということになってしまった。誕生日自体を知らない方もいれば、あげる雰囲気ではない方もいた。また意地の悪いことに、誕生日を言われると、祝うことが前提になるようで逆に意地でも祝いたくなくなってくるときもあった。あるいは誕生日一日中二人で過ごしたいと言われた日には、自分の全身が溶けてなくなるまで相手を喜ばせなければいけないような気がした。しかも、誕生日に言われた言葉は通常の日に言われた言葉よりも残りやすいことを色々な方から聞いていたから自分の発した一言に相手を傷つける可能性があると考えると自分に務まる仕事ではないと感じた。だが、誕生日の一週間前くらいには意気揚々と相手が喜びそうな行き先を考えて、相手に嬉々として提案してしまった。そして三日前には相手の誕生日の重みに潰れそうになり、自分が体調不良になればいいのにとさえ考えてしまった。誕生日の時間を共に過ごすのはあまりに重たくて、逃げたくなってしまった。そして当日、相手と会ってしまえば、楽しくて、相手が良い誕生日を過ごせればよいと願って、楽しめる方法を考えていた。一方でどこか期待外れだと思われているのではないかと、恐れてもいた。そして、鞄に手を入れるたび、あげるものがないことを失望されているのではないかと気になった。だが所詮、僕から見た相手が喜ぶことは、僕の価値観から見た相手が喜ぶことだ。最終的には自分勝手なことに相手が喜ぶことは僕にわかるわけがないから、僕の喜ぶことを僕のお金で、相手の誕生日にやっている可能性があるのは心苦しい気もした。あるいは祝うことを難しく考えなくても、相手の誕生日を祝う言葉があれば、十分なのかもしれなかった。
 逆に、自分の誕生日もまた緊張した。誕生日祝いを貰ってしまうと、相手の誕生日を忘れたら絶交されるのではないかと心配になってしまった。また、誕生日祝いに食事に連れて行ってもらうとなると、ご馳走してもらえることが多いから、相手の顔色を伺いながら誕生日祝いのご飯を食べてしまった。たかが毎年来るただの生まれた日なのに、まるで自分の価値が表れてしまうようで本当に緊張した。あるいは祝ってくれたなら素直にありがたいと思えばよいだけなのかもしれなかった。
 
 ドラマの中には、全国大会をかけた僕のサッカーの試合を小田さんが応援に来て、見事全国大会に出場するという場面があった。サッカーをする場面を撮る数週間前から、僕はサッカーを勉強しようと考え、サッカーの動画を見ていた。すると、サッカーの動画がよくおすすめに出てくるようになった。日本代表が誕生日祝いをしていたり、着替えるとしっかりとした筋肉を持っていたりするのを見ていると、彼らは何もかも持っているのだと思った。少し勉強をして、サッカー選手のように格好いい動きをしたら少し格好良く見えるだろうかなどと考えた。
 サッカー場は、つくりものだと強く感じる場所だった。もちろんサッカー場が自然にできるわけはないが、外にいるのに、自然界に存在してない場所であると強く感じて少し寂しくなった。人工芝が太陽の光に照らされてきれいな緑色を放っていた。
 撮影の間、少し空いた時間でサッカー場を使わせていただいた。サッカーは、難しかった。球が上手に扱えずに、小田さんにもあまり格好良いところを見せられなかった。最後には小田さんも試合に参加したが、小田さんのほうが上手だった。でも、小田さんと一緒に汗をかいて、笑い合えたのは、きっと一生忘れないだろうと思った。
 
 小田さんと僕は偶然同じ野外フェスに出ることになった。
 出演者用に提供されている屋台の食べ物を食べてから、小田さんが出ている舞台を袖で見た。太陽に照らされる汗と輝く笑顔を見ながら、女神はここにいたのだと思った。ステージの下ではたくさんの人が太陽の光を浴びながら、シャツを着て、短いズボンに黒いスパッツを重ね赤や青のタオルを首にかけ、黒いリュックや斜めがけの鞄をかけ、リストバンドをしていた。
 僕が小田さんの家に行ったことがあると言って、あの客席に飛び出したら、僕は骨も残らないかもしれないと思った。小田さんのグループ単体のコンサートよりは音楽目的で来場している方や他のバンド目的で来ている方々が多いから少しましだろうか。それでも、ステージ近くで揉みくちゃになっている方々を見るとあまり正気には見えなくて、少し恐ろしくなった。
 揉みくちゃになっている方々もきっと、月曜日になれば、問い合わせの電話に対応したり、窓口に立ったり、後輩に仕事を教えたり、社会人としての顔をするのだろう。そしてまた揉みくちゃになる日を夢見て、仕事をして、フェスの日には朝早くに起きて日焼け止めを塗り、友人が運転する車に乗り、また揉みくちゃになった。彼らはきっと休日のために働いていた。
 僕は学生の頃、お台場の広場での企画で幼児向けアニメの音楽に合わせながら、その場に居合わせた大人たちがぐるぐると円を描いて回っている動画を見たことがあった。アニメの音楽と共に踊る大人も、働く大人もどちらも大人に見えた。そして、僕は将来、平日は真面目に懸命に誰かのために働きながら、休日は踊る大人になりたいと思った。
 もともと僕は学生時代、社会人になってしまうことが堪らなく格好悪く感じてしまう時期があった。なぜなら学生でいれば、自分を飾る必要がなく、自分の言葉で話せる何者でもない自分でいられる気がしたからだ。できることならば一生学生でいたかった。なぜなら社会人になれば、雇い主からお金を貰って、雇い主が規定する言葉を話さなければいけない気がしたからだ。
 年を取り、そのうち学生ではいられなくなった。実際に学生ではなくなってから、時偶服装や仕事の仕方を指示されることはあったが、雇い主が規定する言葉以外も話すことはできた。大人になってからも職業を変えることはできたし、夢も持てた。さらに、仕事でなければ一生行動を共にしないであろう人を理解しようと必死になることも案外楽しかった。そして、人間として多くのことが勉強できていると感じた。
 でも、年を取るごとにできなくなることも増えていく気がした。たとえば、医師免許や教員免許を取ることなどは難しかった。時々看護師の資格が欲しいと思うこともあるが、学校に通い、実習をするとなると、働きながらでは厳しそうだった。現在のところは大人は窮屈で、自由だと思っていた。
 そして自由は、個人の持つ能力にも依存すると考えた。学生を卒業して初めてのお台場での企画で、僕は嬉々として広場に向かった。僕は楽しそうに踊る大人を見ながら、後ろで立っていることくらいしか出来なかった。僕は学生でも大人でも関係がなく、人前でアニメの音楽と共に踊って、ときには動画に残されるのは恥ずかしくなってしまう人間だと気づいた。現在のところは、羞恥心を取り払う能力を自分が持っていないことを知ることができた。もっと人生を通して勉強をしたら、羞恥心を取り払う能力を得た大人になれるかもしれないから、そのときを待ちたいと、今も思っている。
 気づくと小田さんが歌い終えていた。小田さんは深く一礼して、舞台の反対側に歩き出した。一瞬振り返って僕の方に人懐っこい笑顔を向けた気がした。もしかしたら幻覚かもしれないし、後ろのメンバーと笑っていた気もした。僕は成すすべもなく心を掴まれて固まった。彼女達は舞台に熱と煌めきの余韻を残して去っていった。彼女達を一目見たいという思いを抑えながら彼女達と会わないように仲間のもとに準備に戻った。
 徐々に僕達の出番が近づいた。そして、会場は思っていたよりも暑かった。確かあのあたりで小田さんがお辞儀をしていた、あのあたりで僕の方を見た気がするなどと考えながら舞台を映した画面を見ていると、ふいに仲間に腕を引っ張られて打ち合わせに戻った。
 「一木は、今のところ喉の調子良さそう?」
 「うん。多分大丈夫。」
 「じゃあ、打ち合わせどおりの構成で。」
 「うん。ありがとう。」
 「集中しろよ。」
 背中を叩いて去っていく仲間の背中を見た。背中から伝わってきた手の感覚が後から心臓を掴んで揺らした。今のやり取りは少し親友らしかったと思い、高揚した。今日僕たちは初めての野外フェスに出ることができた。今までは僕たちをいつも応援して僕達の公演のために高いお金を払ってくださる方々の前で、歌うことが多かった。でも、今日は違った。僕達を初めて見る方々も少なくなかった。舞台は怖く、緊張した。そもそもフェスの舞台に立つ多くの人は自分で曲と詞を作って自分で演奏をしていた。加えて曲の種類も僕達の曲とは違ってしっとりとしたバラード系の曲のバンドは人気があるらしかった。フェスの舞台に対してお金を払っているお客さんに対して求められているものを提供できるのだろうか。普段、嫌なお客さんの対応をして稼いだお金を、肉体を酷使して稼いだお金を、今この時間に使うことを後悔しないだろうか。僕達のことを舞台にふさわしくない場違いな人間だとは思わないだろうか。
 いよいよ舞台の袖に立った。小田さんも舞台の袖で緊張をしながらも、ときには周囲の年下の後輩に笑顔を向けて舞台に立ったのだろうかと想像した。大丈夫だ。小田さんのことを考えると僕は自信を持っていこうと思えた。自分を大事にしようと思った。嫌われるかもしれないことをしても大丈夫だと思えた。小田さんが見ているから大丈夫だ。たとえ小田さんが僕を見ていないとしても、小田さんが世界に存在しているのなら僕は大丈夫だ。僕は僕でいられる。
 僕達が歌うための機材を舞台上に運んでくださっている方々を見た。バンドとは違う機材が舞台上に運ばれてくるのを見て、他のステージに移動するお客さんがいれば、入ってくるお客さんもいた。
 「まもなくです。」と係の方が声をかけてくださった。司会の方の紹介とともに舞台に足を進めた。真っ青な空の下に縦長に人が並んで自分たちの方を見ていた。決められた立ち位置に立った。聞き慣れた曲が流れ始めた。僕達の声が青空に吸い込まれていった。まるで世界を手にしたかのような気分になった。
 声の調子も良く、段々とお客さんの顔を見る余裕が出てきた。今夜舞台の最後を飾るロックバンドの名前が入ったシャツを着て、同じロックバンドの名前が入ったタオルを首にかけたお姉さんが目に入った。早く最後のロックバンドの歌が聞きたいから僕達の歌が早く終わって夜になってほしいと思っているのだろうか。お姉さんの気持ちを想像すると少し申し訳なく、早く舞台を降りてあげたい気持ちになった。いや、違う。今僕が立っている舞台はさっき小田さんが立って輝かせた舞台であり、今僕達が立っている舞台だった。今という時間は夜が来るまでは消えるべき時間ではなかった。彼女に何としても今という時間があってよかったと思ってほしかった。
 最後の曲が終わり、僕達の出番が終わった。楽しかった。夜を待つ彼女も心無し楽しんでくれていたような気がした。小田さんの姿を見つけることはできなかったけれど、今ではなくても、いつか、どこかで僕の歌う姿を見てくれるだろう。先程よりは少し夕焼けを含んだ空に寂しさを感じながら、深く一礼をして仲間とお客さんを振り返りながら舞台を去った。
 本当はすべてのお客さんが僕達を好きになってくれるような時間にしたかった。でも、音楽を聞きに来たお客さんの心をどうしたら動かせるのか、お客さんの顔を見たら分からなくなった。いつか、舞台の上から人の心を動かせるような人になれるよう勉強していきたいと思った。
 
 以前小田さんが主演のドラマで僕と共演した透が結婚した。僕と小田さんが出会って、仲良くなってからの作品だったから、楽しくも、仲良く見えすぎないように気を遣った覚えがあった。
 結婚式の帰り、それぞれの親戚と久しぶりに僕の両親の家に行くことになった。たこ焼き器があったので、皆でたこ焼きパーティーをすることにした。
 向こうで小田さんが、僕の姉の腕の中の姪に手を振っていた。産まれて間もない女の子だが、手を振るように動かしたり、笑ったような顔をしたりしていた。小田さんは普段、聡明で、大人びた雰囲気を絶えず発していた。何をしていても、どこか頭を使っているように見えた。でも、赤ん坊に手を振る小田さんは僕の頭が混乱するほどに違うように見えた。何が違うのかは分からなかった。でもなぜか僕の心が小田さんに釘付けになった。小田さんと、子どもを作りたいと思った。小田さんの子どもはきっと、聡明で、力のある大きな目をしているのだろう。
 「最近どうなの?」
 僕の視線を辿るように母が聞いた。母には自分の気持ちを誰にも言えず苦しいときに小田さんへの気持ちを話してしまっていた。おそらく小田さんよりも、小田さんへの僕の気持ちを知っていた。
 たこ焼きに火が通るように転がしながら周囲には聞こえないように答えた。
 「どうって、難しいよ。」
 「ふうん。小田さん、可愛いものね。」
 「うん。」
 僕よりお金持ちの人、頭が良い人、優しい人、面白い人、計画的な人、品がある人、才能がある人、努力ができる人、華がある人で小田さんと子どもを作りたい人はいくらでもいた。それでも、もし小田さんが僕を選んでくれるのなら、一生他の男ではなく僕を選んでよかったと思えるような僕でありたかった。
 たこ焼きを祖父の小皿に置きながら、話しかけた。
 「おじいちゃんは、赤痢になって、特攻に行けなくならなかったら、お母さんも、僕も、産まれていなかったのでしょう?」
 「おおう。皆特攻して死んじゃった。このあたりで残っているのは俺一人。」
 「すごいですね。」
 すごい。小田さんがいつの間にか祖父の横、僕の斜め右に座っていた。小田さんが僕に一番目のたこ焼きを乗せてくれた。お礼を言って、小田さんが育ててくれたたこ焼きを口の中に入れた。美味しい。小田さんが育ててくれたたこ焼きはこの世で一番美味しいたこ焼きだった。世界が今止まってくれれば良かった。僕の汚いところも嫌なところも今以上に知らないまま、小田さんが育ててくれたたこ焼きを一つずつ食べたかった。贅沢を言うならば、中が多少生焼けでも、お腹を壊してもいいから小田さんの一番目のたこ焼きが食べたかった。
 小田さんのためにも焼きたいと思って、たこ焼き器を見た。小田さんが育てている途中のたこ焼きがあった。今小田さんの皿に置いたら、もう少し育てたかったのに、もう少し焼かれている方が好みなのに、順番的に他の人に置きたかったのになどと思うだろうか。ぐるぐる考えている間に小田さんは目まぐるしくたこ焼きを人々の皿に入れていった。小田さんは慣れた手つきでたこ焼きを取り分けられる人間だったのだと感心した。小田さんは他の男性にもよく取り分けていたのだろうか。小田さんはきっと、笑顔で、素早く、綺麗に、取り分けることができただろう。でも大丈夫だ。小田さんは今は僕に取り分けてくれていた。ありがたいことだ。
 
 段々、周囲に関係が分かっても理解されるのではないか、何をしても周囲は可愛いと許してもらえるなどとどこかで思っていたところ、小田さんのマンションから出るところを、僕は撮られた。小田さんは、叩かれた。「グループとして大事な時なのに信じられない。」「ファンを辞めます。」「お金をかけたのに返してほしい。」「信頼していたのに裏切られて悲しい。」「グループの他のメンバーが可愛そう。」「他のメンバーはどこまで知っていたのだろう。」「過去には動画で彼氏の存在を仄めかすことを言っている。」など様々なことが書かれた。
 今まで何をしても可愛い、あまりにも尊いと言ってくれていたのに皆一気に掌を引っくり返したように見えた。だがきっと違った。彼女の上から目線の言動や、失言しがちなところ、何事も勢いで誤魔化しがちなところやあまり謙遜しないところ、他のメンバーよりも仕事が多いことなどをどうしても受け入れられない方々はこれまでもいたのだ。でも、小田さんのファンは多かったから、小田さんを褒めれば良い反応が返ってくるし、小田さんを批判すれば反応が無いか批判した人が批判された。小田さんへの表現できない批判は溜まっていった。
 そして今、アイドルの小田さんに彼氏がいて批判される真っ当な理由ができた。同時にテレビやネット記事でアイドルが熱愛をしたという情報だけを持った大勢の人が小田さんの名前の下に雪崩込んできた。ファンを辞めますといった言葉はとても強いから沢山の反応が返ってきた。
 争いの片隅で、小田さんを世界の中心だと信じて一番応援してくれていたファン達は小田さんに注がれる攻撃の数々に本気で絶望した。今まで、小田さんの名前の周りには可愛いとか大好きだとか温かくて平和な言葉だけが溢れていた。彼等が戦う残酷な社会の中で小田さんの文字そのものが平和で美しい世界だった。今や小田さんの名前の周りには、きたない言葉が並んでいた。見ないほうが良いことは分かっていても、仕事中でも、何をしていても、小田さんが何を言われているのか何度も気になって見てしまった。小田さんが傷つく言葉を見るたび自分の心が抉られて傷を負っていった。もはや小田さん以外を応援することが小田さんにとっても実は有り難いことなのではないかと考えだした。混乱した頭でそれでも小田さんが僕達を笑顔にしてくれた時間は本当だから感謝したいと投稿した。その投稿に対し、彼氏持ちに本気になっているのが気持ち悪いと反応が来たりした。もはや、小田さんを中心としている美しい世界が一瞬で掌を返したように醜く姿が変わったように見えてしまった。
 もし僕が小田さんと会っていなかったなら、まるで世界で一番きれいなものが穢されてしまったような気になると思った。小田さんの意思とは関係がなく、僕の見ている世界が壊されてしまったと一人で絶望しただろう。小田さんに彼氏がいることでファンがどれだけ絶望するかきっと小田さんには分からなかった。分からせたくなかった。アイドルに彼氏ができた直後のSNSは誰一人として見て良いものではなかった。
 僕もアイドルをやっていたからもちろん叩かれたし、仕事も無くなった。世界中から早く消えろと言われている気がしたし、実際に投稿もされていて、いつ殺されてもおかしくないと思った。実際あまりにも非難されている人間は多少傷付けても罪が軽くなるようにさえ思えてきた。
 また、僕が小田さんを好きだからこそ、ファンが僕を殺したくなる気持ちが痛いほどわかった。なんなら、僕が僕を一番殺したかった。小田さんが笑顔になるためなら何度でも僕は僕を殺した。小田さんも同じことをすると思った。でも僕が死んだら、流石に小田さんも後味が悪いだろうと思った。小田さんの彼氏に自死は相応しくなかった。そもそも小田さんの彼氏に僕は相応しくなかった。ひとまず僕のことはどうでもよかった。自分自身のことを考えると気が狂いそうになるのも理由の一つにはあった。ともかく、小田さんのことだけを考えていたかった。
 今や何をするにも面倒で、机の上にも床の上にも片付けられないごみだけが溜まっていった。拾うという考えができないまま、ただ何もできなかった。次第に時が過ぎることに焦燥を覚え、髪が根元から白くなっていくような感覚があった。昼も夜も暗い部屋の中で唯一光を放つスマートフォンだけは片時も離さず、家にいるときはほとんどの時間を寝ながら過ごすようになった。
 時々膀胱が熱く腐り始めるような感覚がして蹌踉めきながらお手洗いに向かった。行く先々の床はものだらけで全てのものを踏みつけながら歩いた。もし僕が買ったり、貰ったりしなければ、僕に踏まれるものたちは誰かに大切に扱われていたのかもしれなかった。きっと、僕が所有するものたちは不幸だ。今まで僕は、ものを大切に扱うことができないからなるべくものを持ちたくなかった。なるべく捨てるようにしていた。だけど僕は今、ものを踏みつけながら歩いていた。何も僕の周りに来なければいい。何もないままきれいに朽ち果てていけたら僕は一番幸せだと思った。
 小田さんが、小田さんの家に来るように連絡をくれたのはそんな時だった。小田さんの仕事のことを考えれば小田さんの家に行っていいわけがなかった。小田さんの事務所からも、僕の事務所からも小田さんの家に行くなと言われてはいないけれど、一番してはいけない行動の一つであることは明らかだった。周囲の方々とその家族の生活が、僕たちのために今必死で動き回ってくださっている努力が僕たちの一挙手一投足で水の泡になるかもしれなかった。現に僕の仕事は無くなっていて、詳細は分からないが周囲の方々とその家族の生活に影響が出ているのかもしれなかった。何より、僕はお風呂に入っていなかったので、小田さんに会える状況ではなかった。
 せめてビデオ通話の方がいいのではないかと考えた。もちろん小田さんの家に行くということは事務所の方に送迎は頼めないし、僕は車を持っていないから公共の交通手段を使うしかなかった。タクシーを呼ぶこともできるが、他人が運転する車に乗るのは怖かった。
 小田さんには、「小田さんの仕事のことを考えたら、僕が行くことで迷惑をかけることになるから行かない方がいいと思う。」「ひとまず電話をしたい。」と文を送った。小田さんが文を読んだことが示された。しかし、返事がなかった。小田さんは僕以上に大変だろうし、僕のことにばかりかまけてもいられないだろうと解釈した。
 空いた時間で、小田さんがどうしたら一番笑顔になれるかばかりを考えた。例えば、小田さんは僕に無理矢理付き合わされていると示すのはどうだろう。駄目だ。小田さんは報道について何も言及していないのに、僕が言及すれば言及せざるをえなくなるかもしれなかった。僕の言動がどのような反応を引き起こすのか予想ができなさすぎて何もすることができなかった。
 地下駐車場のチャイムが鳴った。画面を見ると小田さんが映っていた。体中が熱くなって一瞬で色々な考えが頭を巡った。ひとまず、僕の家にいるところを撮られたら小田さんがさらに非難されるかもしれないと考え、すぐにドアを開いた。
 僕の部屋のドアのチャイムが鳴った。すぐにドアを開けた。
 「すぐに来てほしいの。」
 小田さんが言った。何を言っているのか分からなった。頭の中で声にならない考えだけが巡っていた。せっかく僕のマンションの前で撮られないように気をつけていたのに、今度はわざわざ二人で出て行くのか。今自分達がどのような状況が本当に分かっているのか。周囲の方々に今以上に迷惑をかけるのか。どうして来たのか。小田さんは本当にきれいだな。もしかして誰かに脅されているのか。僕が行かなかったら小田さんが酷い目に遭うのではないか。もしかしたら僕は今行かなければ一生後悔するのではないか。
 「少し待っていて。」
 スマートフォンと充電器と財布と鍵だけを持ち、すぐに小田さんのもとへ戻った。小田さんが僕の手を取った。
 地下駐車場へ降りるとどうやら時間貸で借りたらしい車が止まっていた。車内はほとんど無言のまま小田さんの家の地下駐車場に着いた。そのまま小田さんの居間の椅子に座らされ、小田さんは少し出ると言って出て行った。
 何もわからないまま、僕は小田さんの部屋に一人で残された。目の前には小田さんと初めて会ったときに話した大きな本棚があった。大きさごとに分類されていて、きれいに並んでいた。また、小田さんは家具を集めることも好きだったから、様々な大きさや形のランプがあった。
 なるべく見ないようにしていたが、耐えきれずスマートフォンで小田さんの名前を調べた。内心自分でも今調べるのは異常だと思った。だけど見逃せなかった。小田さんに纏わる言葉の数々、流れ、小田さんが見たら死んでしまうのではないかと思うほど傷つける言葉がたくさん並んでいた。「まだ必死で擁護しようとしているファンが気持ち悪い。」「もともとどこかおかしいと思っていた。」「人の感情を読み取ることができないサイコパス。」「上から目線で好きじゃないと思っていた。」「理屈っぽくて面倒くさい。」「人のこと見下して誰も信用してなさそう。」「辞めてくれたほうがグループは活躍できるよ。」「メンバーも内心辞めて欲しいって思っているでしょ。」
 小田さんが責められるなら初めから僕と会わなければよかった。食事をしたいなんて、会いたいなんて言わなければよかった。小田さんとの楽しかった時間は無くても良かった。小田さんが汚い言葉に塗れるのは間違っていた。僕が小田さんを汚いところに追いやった。僕なんて存在しなければ良かった。
 小田さんが帰ってきた。
 「少し、お手洗いの中に居てくれる?」
 小田さんが言うので、何か意味があるのだろう。僕はお手洗いの中に入って外の様子を伺った。重いものが動かされる音がした。大きい本棚には車輪がついていたから本棚を動かしているのだろうか。本棚はお手洗いの前あたりで止まり、車輪を固定している音がした。何が起こっているのだろう。僕はすぐにでも飛び出せるように構えていた。
 「一木さんにはここにいてほしいの。」
 小田さんの声が外から聞こえた。
 「分かった。」
 ひとまず今の時間を見ようとポケットを探った。スマートフォンが無かった。先ほど座っていた机の上に置いてきたようだった。僕は社会から隔絶されてしまった。 
 
 正午一二時、扉が開いた。お盆にクリームシチューを乗せた小田さんが入ってきて、折り畳み式の机にクリームシチューを置こうとした。反芻していた言葉を一度飲み込んで、吐き出した。
 「小田さん、今大丈夫?」
 「うん。どうしたの?」
 「僕、最近役者の仕事やりたくなってきちゃった。」
 「そっか。」
 「それに小田さんも、仕事している俺がかっこいいって言ってくれたでしょ?」
 「うん。出る?」
 「うん。え?小田さんは?いいの?」
 「うん。私もそろそろ、仕事している一木さんを見たいと思っていたから。一木さんは、周りの人みんなと仲良くなれるし、笑顔にできるよね。ときには自分を犠牲にしてでも誰かのために動けるよね。一木さんを手に入れられれば、一木さんの力が手に入る気がしたの。でも、違った。実際には一木さんがどんなふうに誰かのために動いているのか見て、勉強するのが大事だと思ったの。だから、私は遠くから一木さんを見て、勉強することにする。」
 「え?それってもう会わないってこと?」
 「うん。それにもう、会いたくないでしょ?」
 「ううん。小田さんが自分の大切なものを手元に置いておきたい性格だって僕は理解しているつもりだから、僕のことを閉じ込めておきたいっていうくらい大切だって思ってくれたってことでしょ?僕は小田さんが僕のことを大切に思ってくれたなら嬉しいよ。」
 「ありがとう。一木さんは優しいね。一木さんが優しいこと言ってくれているときも、私のこと理解してくれているって思うときも、堪らなくうれしくなる。でも一木さんは周りの人みんなにも優しくするって思うと苦しくなるの。だからもう一木さんとは、会いたくない。」
 「そっか。分かった。僕は小田さんと出会えて楽しかった。嫌なところばかりの僕とずっと一緒にいてくれて、ありがとう。折角小田さんが作ってくれたから、クリームシチュー、食べてもいい?」
 「うん。折角だから、私も食べてもいい?」
 「うん。食べよう。ありがとう。」 
 小田さんの家のお風呂場から久々に出るとき、小田さんに手を取られ、僕は久々にお風呂場以外の床を踏んだ。居間の机には、僕が席を立ったときそのままの状態でスマートフォンが置かれていた。小田さんが少し待っていてねと言って席を外した。僕はすぐに小田さんの名前を調べた。初めに目に飛び込んできたのは「小田ちゃん大好き。」という言葉だった。他にも、「攻撃している人は小田ちゃんが活躍し過ぎだから引きずりおろそうとしているだけでしょ。」「流石に彼氏がいたくらいで叩きすぎ。」といった言葉が並んでいた。
 分かっていた。一方的に非難されすぎている人間を見ると、おかしいと思う人間が一定層いた。おかしいという声が増え始めると段々擁護する人間の声が拡散されやすくなった。
 僕が何度も見てきた、いつもの流れだ。気になって日付を見ると、お風呂場に入った日から1ヶ月ほどが経っていた。
 小田さんがクリームシチューを持ってきて、僕の斜め左の席に座った。いただきますと伝えてクリームシチューを木のスプーンで口に入れた。暖かくて、美味しくて、安心した。僕がいつも作る鶏肉のクリームシチューよりも、高級に感じられた。
 「小田さん、聞いてもいい?」
 「何?」
 「なんで会いたくないっていうの?急に僕の部屋に来たのも、僕を部屋につれてくるなり居なくなったのも、その後なぜ僕をお手洗いに入れたままにしていたのかも分からない。」
 「私が仕事している姿が好きって言ったから仕事したいって言ったよね。でも、違うの。自分の仕事が無くなって、何もする気がなかったよね。なんで自分の仕事のために動こうとしなかったの?自分の仕事のこと気にしたとしても周囲に嫌われるとか迷惑がかかるとかくらいだよね。人の意見ばっかりずっと伺っているのはいいけどさ、もう少し自分の仕事に集中してよ。仕事していても周りの顔色ばっかり伺ってさ。笑顔で仕事してほしいっていうのは分かるよ?でも仕事はしようよ。流石に座長が仕事してなかったら私だったら正直座長降りてほしいなって思うよ?
 仕事に集中したら自分の嫌な面を見せることになるのが嫌だって思っているでしょ。言っておくけど、あなたはあなたの周りの人をあなただと思っているかもしれないけど、あなたの周りの人はあなたじゃないの。少なくとも私は人徳とか好感度とかあなたほど気にしていない。興味がないの。あなたは前に欠けている気がするっていう表現をしたよね。そうなの。欠けているの。でも好感度に興味がないから自分の能力を活かすことに集中できる。だから、あなたは私が色々と言われて気になっているみたいだったけど、本当に興味がないの。心配してくれてありがとうね。でも気にしていないって言うのは本音なの。SNSで今の自分の好感度を測る暇があったら、私は新しいことを学んでいたいの。
 私があなたの仕事を好きっていうのは、あなたの能力が好きっていうことなの。
 仕事をしない人は嫌い。自分の能力を最大限活かす気がない人はもっと嫌い。会いたくない。分かった?それ以外の質問は、あなたのことが嫌いだから、答えない。」 
 
 小田さんがきっと、僕とはもう会うことはないと思っていると感じたとき、聞いたことのない音がした。胸が絞られて、中の空気が全て抜けた。抜けて真空になった空間に何色かも液体か気体かもしれないようなものが吹き込もうとした。だがそれは吹き込んでいいものか惑って永遠に身体の内に外に吹き荒れていた。彼女がいなければ、僕は何もできないと思った。似たような感情をどこかで見たことがあるような気もしたが、違う気もした。
 「小田さんは、相当俺のことが好きでしょう。」
 「ん?」
 「俺は、生きていてよかった。小田さん、俺と一緒にいてくれてありがとう。」
 
 「どういたしまして。」
 朝七時四〇分。洗面台を譲ってもらったことに対してお礼を言うと息子がゆっくりと答えた。彼はいつも動きがゆっくりとしていて、表情が読み取りにくかった。初対面の方から見ると、彼の話し方は感じが悪いと思われて誤解を与えやすいらしかった。だが、彼は勉強も習い事も一度始めたら地道に最後までやり切って、驚くような成果を残したりした。子どものときから、色々なものに目移りしてしまって、机に座っていられなかった僕とは大違いだった。だから、彼の地道に努力ができる力が欲しくて、僕は息子をいつも尊敬していた。
 いつも用が済んだら洗面台からすぐ移動するように娘から言われていることを思い出し、すぐに移動しようと手早く手を洗う。
 「パパ、わたしの靴、どこお?」
 下駄箱の方から娘の声がする。
 「ん?どこだっけ。昨日上の方に入れた気がするな。お、あった。」
 「さすがパパ。ありがとう!」
 「どういたしまして。いい笑顔にいいお礼だなあ。だけどそこまで語尾を伸ばすのは流石に友達に嫌われないか?」
 「んー。みんなの前ではやらないよ?可愛い子たちに嫌われたくないしねー。」
 「はは。流石僕の娘だ。」
 「ありがと!行ってきます。」
 「気をつけて。」
 「いってらっしゃい。気をつけてね!」
 部屋の奥から妻の声がした。今日もいい日だ。
 妻に娘と息子との四人家族。正直、自分が手に入れていいものか分からないくらい幸せな家庭だ。いや、手に入れるというのも変な表現だ。今偶々僕たちは生活を共にしていて、一人ひとりが違う人生を生きていた。きっとすぐに形は変わっていく。それなら、変わっていく形を楽しめるような家族でありたいと近頃は思った。
 
 正午一二時。トーク番組の本番前に、小泉さんに話しかけられた。
 「お子さんはお元気ですか?」
 「はい。小泉さんと佐伯のお子さんにも負けないくらい、今日も元気いっぱいで可愛い子どもたちです。」
 「ふふ。私達の子達も負けていませんよ。でも仕事との両立はやっぱり大変ですよね?」
 「そうですよね。でも小泉さんは佐伯の世話も子どもの世話もあるからさらに大変でしょう。」
 「本当にそうですよ。分かってくれるのは一木さんくらいです。正直もっと優しいスパダリを旦那にしたいですよ。」
 番組が始まる合図がして、唾を飲み込んだ。番組の冒頭では、子育てと仕事を両立する人として、僕と小泉さんが紹介された。そのまま時短勤務をしながら仕事と子育てを両立する社会人の様子を撮った動画を見た。続いて、動画への感想を話したあと仕事への姿勢を聞かれた。
 「どんなふうに仕事をしたいと考えていますか?」
 「家族や僕の大切な方々が笑顔になるような仕事をしたいですね。照れ臭いですけど。最終目標は、皆の生きる理由の一つになることです。」
 僕は、まるでカメラの向こうから僕に見つめられているような気がした。僕はきっと、気持ちが悪くなっただろう。気持ちが悪くなったならばいい。どう足掻いたってきっと僕はずっと気持ちが悪かった。
 「そして、自分の能力を最大限に活かしたいと思っています。そうでないと大好きな奥さんに嫌われてしまいますから。」
 
 日本で最たる映画賞後の会にて、自分も妻も受賞者であったことも、二人とも参加していたことも知っていたが、一緒にいるのも気恥ずかしいので僕は仲間と集まって談笑していた。遠くのテーブルには僕が仕事を始める前から好きで、世界でも最たる賞を受賞している監督も参加していた。僕は監督をちらちらと見ながらも自分が話しかけるのは格好悪いかもしれないという反発心が働いて話しかけられずにいた。また、年上の方に嫌われずに何を話せばいいのかも分からず、会はこのまま終わるのだろうと考えていた。急に妻が俺を肘で突いたことに気づいた。
 「ねえ、監督さんに挨拶しなくていいの?昔からあなた、監督さんの作品が好きだと業界に入る前から思っていると言っていたじゃない。あなたって本当に憧れている人には声をかけられない性分でしょう?」
 「ん?ああ。いいよ。今日は面皰ができている。皆が挨拶している中で俺も行ったらちょっと格好悪い気もするし。それに今は、あの監督さんは俺のことを嫌いじゃないかもしれない。でも、話したら俺のこと嫌いになっちゃうかもしれないだろ。それにほら、俺だけ抜け駆けしたら皆に嫌われちゃうかもしれない。」
 「そうなの。私、監督さんと一緒にあなたが仕事をするところ、見たいな。」
 「分かった。行こう。」
 申し訳ないという顔で話していた仲間に手を合わせた。仲間達は少し同情のこもった笑顔で送り出してくれた。
 妻が手を引き、前を歩いた。少し照れながら、監督の席に近づいていった。自分達に向けられる目が怖かった。同情、羨望、疑問、異分子への怒りなどがあるだろうかと想像をした。妻の横顔を後ろから伺った。妻の目には、監督の作品に参加する僕だけが映っているように思えた。きっと妻の目に映るためには僕は必死で自分の能力を最大限に活かすしかなかった。
 監督が他の方と話し終えたところを、妻が声をかけた。
 「旦那が、監督の作品を業界に入る前から好きだったと話しています。ぜひよろしくお願いいたします。」
 監督が自分達に関心の目を向けた。どうしよう。関心の目に応えられるような話題が無かった。監督に嫌われたくなかった。自分に挨拶に来る人を媚びているとは感じない人だろうか。常識のない行動を嫌わない人だろうか。何を言えば嫌われないかばかりが頭を巡ってやはり何も話せなくなった。こんなことなら仲間と一緒に監督を遠くからちらちらと盗み見るだけで十分だった。
 「失礼ですが、時計、新作ですよね。私も同じブランドを愛用しています。」
 監督の顔が目に見えてほころんだ。
 「そうですか?奥さんが愛用しているなんて、だいぶ渋いですね。」
 「ええ。昔から渋くて良いものを集めるのが大好きです。」
 正直時計のブランド、それも新作なんて分からなかった。完全に勉強不足だった。加えて、監督と妻があまりにも楽しそうに話していて、監督と妻どちらにも嫉妬をして目眩を起こすようだった。
 「ごめんなさい。時計の話こんなにできる方なかなかいらっしゃらなくて、楽しく話してしまいました。あなたがもともとは話したそうにしていたのにね。」
 「いや、監督と妻が楽しそうに話しているところを見られただけで僕は満足です。ありがとうございます。」
 「はは。本当にいい奥さんを持って羨ましい限りですね。」
 「そうですね。僕は妻に置いていかれないように日々勉強させていただいております。」
 五年後に映画は実現した。五年間、様々な方と出会い、様々なことを勉強して、やっと妻と監督の目に映ることができたと思いたかった。
 やはり五年前と同じ賞の授賞式にて僕はスピーチをしていた。スピーチの中で、僕は妻のおかげで監督と初めて話すことができたときのことを話した。
 「監督とはじめにお話することができたのはそのときでした。その後偶然僕の作品を見ていただいて気になってくださったようで、今作品に参加することができました。妻がいなければ本当に僕は弱いですし、妻がいるから自分が自分でいられます。僕は妻に一生頭が上がりません。本当にありがとうございます。」
 壇上からでは、たとえ妻がどこにいるのか分からなくても、妻が僕を見ているのが分かった。それでも僕は家に帰って、結婚指輪をはめた左手で妻の右手を握りたいと思った。
 一木さんは、裏表がなくて、どこにいても楽しそうだった。まるで地球のように、ある一面を見ればある一面は見えなくなったが、見えなくなった部分は裏側というよりも、あまりにも遠すぎて見えなくなった部分に思えた。まるで、一木さんの世界はどこまでもつながっていて、境界線が無いようだった。だからなのか、いい意味でも悪い意味でも一木さんは誰とでも親しくなった。たとえ二人で出かけたとしても、一木さんは色々な人に話しかけられた。そして、一木さんも当たり前のように要望に応えた。時々、誰とでも話す人間の隣に毎日いるのは疲れたけれど、同時に自分が自分の力を発揮するには最適な相方だった。そして、毎日会っている人間を一木さんは絶対に嫌いにはならなかった。どんなに理解ができなくても、理解ができないことがあることを理解していた。逆に会わなくなる期間が空けば、その期間に会った人との出来事が色濃く上書きされた。当たり前のように、会っていない人間の存在はあっさりと薄くなった。おそらく一木さんにとっては、近くに人がいれば誰とでも色濃い思い出を残すことができて当たり前だった。だから、会っていない人間の存在を忘れたとしても、相手も自分以外と色濃い思い出を作っているはずだから、申し訳ないとは思わないようだった。むしろ、自分と離れれば、すぐに新しい人に大事にされると思い込んでいるようで、いつでも大事な人を手放したがった。確かに一木さんはいくらでも自分を大事にしてくれる人間と出会えるようだった。
 どの世界でも生きられるという自信があるからなのか、一木さんは自分の世界で生きていた。たとえば、周囲に誰もいないときには、一人でとても楽しそうに話していた。また、外ですれ違うときには、一人で楽しそうに空を見上げていることが多かった。あまりにも一木さんは自分の世界で生きていたから、周囲に人がいたときには、周囲の世界に合わせることに必死になりすぎているように見えた。そして、見目麗しい人間が端から見れば理解ができないほどに必死になっている様は周囲の嗜虐心を刺激した。また、格好をつける必要がないような相手にまで良く見られようとする様は滑稽だった。そして、一木さんは普段は何も計算ができないことを表すように少年のような顔をして笑ったが、一度誰かに踏みつけられると、面白いほどに反抗的な顔をした。少年のように笑う顔と反抗的な顔は、全く違うように見えて、やはり同じようにも見えた。
 普段子どものように笑う一木さんはお金を手放して人を喜ばせるときに殊更嬉しそうに笑った。お金を扱うのが得意ではないことはもちろん、お金を手放すことが快感であるようだった。お金だけではなく、自分が価値のあるものを所有しているのが耐えられないように見えた。あたかも、一木さんの存在そのものが青空のようで、上から落ちてきたものも、下から投げられたものも、下に落とすことしかできないようにも見えた。あるいは、目の前の人を大切にしてしまうのも、大切な人を留めてはおけないことを恐れているためなのかもしれなかった。