カラン
「いたい.....いたい...っ!」
私は枕元にあるナースコールに手を伸ばした。朝ごはんを食べている時、突如的な痛みを感じたのだ。時間帯はすでに朝になっており、電気をつけなくても太陽の明るさで部屋が照らされる状態になっていた。
『どうされました?』
コールの先には、佐野さんの声が聞こえた。もう耳が遠のいているが、確かに彼女の声がした。
「はやく、はやくきて!」
私は電話越しに叫ぶようにして佐野さんを呼んだ。いつの間にか電話は切れており、無防備な姿をした佐野さんが部屋の中に入ってきたのを見た。
「空音ちゃーん?大丈夫?」
佐野さんはポケットにいれてある聴診器を取り出して私の胸に当てた。
「少し点滴追加するねー。」
今にも意識が飛びそうになった。痛みがもはや感じないほどになっていた。胸が体から飛び出そうな痛みなはずなのに、なんでだろう。
「先生呼ぶね。」
意外にも記憶は鮮明に残っている。佐野さんは落ち着いて丁寧に対応してくれた。
「はぁ....いたいいたいたいよっ———!」
「空音ちゃん?意識持ってねー。」
ついに痛みが最高点に達し、私は意識を失いかけた。
ガチャガチャ!
「白夜さん?容態は?」
「新たに点滴追加しました。」
半目になった時、私は自分の手が温かくなっていることに気がついた。
「せん....せい?」
そこには、眼鏡をかけて寝癖のついた先生がいた。薄い前髪が目にかかっており、いつもに増して寝不足感満載だった。
「.....空音?気をしっかり待て。」
彼は左手で私の手を握りながら右手で点滴を打ったり、作業をしたりしていた。その横に、佐野さんもいた。
「そこの薬投与しよう。あと援護も頼む。」
「分かりました。空音ちゃん?もうすぐ落ち着くからね。」
病室に佐野さんの声と先生の声が交互に行き交っていた。
先生が来てくれた安心のせいで、私は意識を失ってしまった。視界が真っ暗になり、最後の最後まで先生と佐野さんの声が聞こえて心が落ち着いた気がした。
♢
教室で数学の授業の受けている時、担任が教室にものすごい勢いで入ってきた。そして、空音が意識を失ったと告げられた。
私は担任から押されて病院に行ってあげろと言われた。そこから大急ぎで荷物を整理して手配してもらったタクシーで病院に向かった。
「はぁ、はぁ、はぁ。」
タクシーを降りた瞬間に走って空音のいるところに向かった。ギリギリに閉まりそうになったエレベータに乗せてもらい、4階のボタンを押した。
エレベーターの中にいた人たちは奇怪な者を見る目でこちらを見つめていた。そんなこと、どうでもよかった。
「すみません先降ります。」
私はお辞儀をしながらエレベーターを降りた。そしてそのままの勢いでナースカウンターに向かった。
「すみません!」
私はナーフカウンターの前に立って誰かを呼んだ。すると、奥から一人の看護師がやってきた。
「どうされました?」
「あ、あの。白夜空音の友人の者なんですけど。」
その瞬間、彼女の表情が強張ったのを、私は見逃さなかった。
「白夜さんは、先ほど集中治療室に入られまして。今は面会謝絶の状態なんです。」
自分の息が派手に荒れているのが分かった。息が上がっていて、まともに話をできる状態じゃなかった。
「窓越しでもいいので、会わせてくださいっ!」
「いや、でも.....」
「お願いします。」
私はカウンターに額をつけるようにしてお辞儀をした。彼女が折れるまで、私はいつでも願いを下げまいとしていた。
空音に会えるならそれでいい。それだけだ。
「.....分かったから、顔を上げて。確認してみるから。」
私は顔を上げて口角を上げた。そしてお礼を言った後、気が緩んでしまい再び下を向いてしまった。
「はぁ。」
一呼吸置いた後、息を呑んだ。空音が無事であることは確かでありそうだった。
「葉那ちゃん?」
「はい。あ、佐野さん。」
奥から空音の担当看護師である佐野さんが歩いてきた。彼女は目の下にクマを溜めていた。
「あの、空音は?」
「大丈夫だから、落ち着いて。空音ちゃんは今朝胸の痛みで意識を失ったの。でもいつもより体調の回復が早いから大丈夫だよ。」
「はぁ、よかった。」
私は安堵して両手を膝につけた。
「少し会ってく?」
佐野さんが私の肩を触りながら顔を覗いてきた。私は体を起こして前を向いた。佐野さんは少しだけ微笑んでいた。その目には少しばかりの涙のようなものが浮かんでいた。
「.....はい。」
「こっち。」
佐野さんはゆっくりと歩き出した。私もそれに続いて同じ方向に足を進めた。
「今日学校?」
佐野さんは目線をこちらに向けながら話しかけてきた。
「学校です。」
「授業抜け出してきたの?」
「走ってきました。」
「そうだったんだ!」
佐野さんは腕を組んで大きく笑っていた。
彼女はいつも空音に一直線、という雰囲気が漂っていた。嫉妬ではないし、言い方も悪いが、空音を溺愛しているような人だと思っていた。
しかし今初めて面と面を向けて話してみると、そんなことでもなかったな〜と内省した。
私たちはしばらく歩いて、ついに空音のいる集中治療室の手前まで来た。ここまでの道のりは決して楽とは会えなかった。佐野さんが何度か話しかけてくれたけど、それでも手のひらの震えが止まることはなかった。
「大丈夫?」
隣にいる佐野さんが背中をさすってきた。その温もりに思わず涙が零れそうになる。
「.....大丈夫です。」
「じゃあ、こちらに。」
佐野さんに消毒液を渡されて手のひらに消毒液を吹きかけた。
そして、私は自分の手と手を握り合って前を向いた。念入りに消毒をした後、息を呑みながら中に入った。
ピー、ピー、ピー、ピー
「うそ.....」
中に入った瞬間、私は、言葉を失った。
何も感じなかった。室内の温かさも、冷たさも。鳥肌が立つわけでもなく、涙が零れることもなかった。ただ目の前の窓越しに、たくさんの管で繋がれた空音が目を瞑っている姿だけが目に映った。
扉には”医療関係者以外立ち入り禁止”の文字が書かれた紙が貼られていた。
「容態が不安定だったんだけど、徐々に回復してきてね。本当によかった。」
閑静な病室に、佐野さんの鼻水混じりの声が響いた。
彼女の方に目を向けると、ぽつりと一粒、透明な涙が頬を伝ったっていた。
「.....そらね。」
私は一言、彼女の名前を呟いた。
そして、一気に全身の力が抜けてその場に座り込んだ。膝から崩れ落ちるという感覚をいま、初めて味わった。膝から崩れ落ちる経験なんてそうそうにない。まるで全身の骨が粉々になったのかと思った。
薄汚れた白色の床に膝をついた後、次は計りきれないほどの涙が溢れ出てきた。自作の琵琶湖が出来るんじゃないかと思うほどね。
つい昨日まで、私は空音の病室にいた。私が学校の話をすれば、彼女は大きく笑ってくれた。笑いすぎて涙が出るほどに。そして、共通の嫌いな先生の悪口を言いあえばさらに笑ってくれた。
『空音笑いすぎだって!』
『いやだって葉那がそういうこと言うからっ!』
はぁ。次から次へと空音の笑顔が頭に浮かんでくるなぁ。もしかしたらあの笑顔が見たくて私は、今を生きているのかもしれないな。
「うぅ、うぅ‥‥!」
私は手の甲を瞼や頬にあてた。涙が止まることなんてないはずなのに、反動的に止めようとした。
「葉那ちゃん?」
「あぁ....あぁぁぁ...!」
自分の鼓膜が破れそうになる。床にポタポタと溢れんばかりの涙が零れ落ちていた。
私は、泣くことしか出来なかった。
空音のために何かできるかなんて、そんな遠い夢叶うわけなかった。私にできることは、ただ泣くことだけだと。
「君、大丈夫?」
がむしゃらに泣いていると、上から聞いたことのない声が聞こえた。低くて耳の奥をくすぐられるような声質をしていた。
誰かと思い私は顔を上げた。
そこには、私が一目惚れした”彼”がいたのだ。
「もしかして、はなちゃん?」
「へ.....?」
「やっぱりそうだ。」
彼は明るい声で言った。その顔立ちは、確かにあの人だった。
「小林くん?!なんでここに。」
「二人が入っていくのをたまたま見かけてね。」
「そうなんだ。」
佐野さんは私の肩に添えていた手をパッと離して彼と視線を合わせた。その瞬間、ドッと孤独感が全身に広がった。しかし、二人の話し声はあたたかった。
「ほれほれ、大丈夫かい?立てる?」
彼はそう言いながら私に手のひらを見せてきた。私はその手を握るのを少し躊躇った。
「ん。」
「ありがとうございます。」
私は彼の目の圧から逃げられず、手を伸ばして立ち上がった。
「あの、なんで私の名前を?」
「だって、空音ちゃんから聞いたんだもん!身長が高くてスラっとしてる子がいるって。私の大親友だー!って言ってたよ?」
『じゃあ、葉那のこと話しておくよ。』
まさか、本当に?
私が悪ふざけで言った半分のことを、空音は本人に伝えてくれたのか?
「え、あ.....」
「ちょちょちょっと待って!どうしたどうした。」
私は興奮気味になってしまい、余計に涙が溢れた。彼が来てから少し落ち着いたと思ったら、そんなことなかった。
「落ち着いて。一回、あっちに行こっか。佐野ちゃん、お願いできる?」
「いや、小林くんが一緒に行ってあげて。」
「え?」
「葉那ちゃん?小林先生が落ち着いた場所に連れて行ってくれるって。だから落ち着こう。」
佐野さんはそう言って私の肩を彼に向かって優しく押した。私の体はその反動で彼の体に少し近づいた。
「.....はなちゃん行こう。」
彼は私の背中をさすりながら歩き出した。そしたら自動的に私の足も進まざるを得なかった。
私は後ろを振り向き、佐野さんを見た。
彼女はこちらを腕を組んでこちらを向いていた。そして、こちらに向かって小さくガッツポーズをした。
今思えば、そのポーズの意味がなんだったかなんて、容易に想像がついてしまう。
ガチャン
二人で集中治療室を出た。
「ついてきて。」
彼は左手はポケットにしまいながら対して右手は常に私の背中をさすってくれた。たった一つの手にすぎないが、私は信じられない安心感に包まれた。もしいまここでこの手が離されたら、私は体ごと崩壊してしまうだろう。
私は彼とともに人気の少ないラウンジに来た。ここでは人の気配がまるでしなかった。まるで廃墟になった古いビルのようだった。
「ここ座ってて。」
彼にソファに座るよう促された。その瞬間、彼のネームプレートがチラッと見えた。そこには、『小林悠仁』と書かれてあった。
そういえば、空音にも佐野にも彼の名前を言われたのにも関わらず、すっかり忘れていた。もう泣きすぎて全ての記憶がシャッドダウトされていた。
「大丈夫?ティッシュいる?」
私は下を俯いていると、横から箱ティッシュが登場した。
「.....ありがとうございます。」
小林は私の膝に箱ティッシュを置いたのち、自分も席に座った。
彼は腕と足を組み、ため息をついた。
「空音ちゃんね〜。君のことよく話してたよ。」
「私のこと?」
私は小林の顔を見た。
小林は前を向いたまま話を続けた。
「空音ちゃんと話をしている時、俺が止めない限りずっと君のこと。はなってすごくいい子なんですよ〜、可愛いんですよ〜って。」
私は涙が出るどころか、恥ずかしさで死にそうになった。
「もう……」
「なに笑ってんだよ。」
「すみません。」
私はクスッと少し笑った。小林も片方の口角をクイっと上げた。その場の空気がガラッと変わった瞬間だった。
すると、小林が持っていた携帯電話が鳴り響いた。
「はい小林です。分かりました。了解でーす。」
彼が電話をしている間、静かに鼻をかんだ。
「それじゃ、俺はこれで。」
「え?」
小林は立ち上がって背伸びをした後、どこかに行こうとした。私は彼を呼び止めようと、少し遅れて立ち上がった。
「ティッシュ、ありがとうございました!」
「どういたしまして。」
私たちの間には、3メートルほどの距離があった。遠く見えて、近く感じた。
小林は優しく笑った。そして、駆け足でどこかへ行ってしまった。
「はぁ……。」
私はソファに座ってため息をついた。自分の身体が一気に軽くなったと感じる。まるで全身の水分が抜けたように。
私は背もたれに思い切り寄りかかってシミだらけの天井を見つめた。
♢
彼女の元に行く足が重い。進んで近づくにつれて鉛のようなものがのしかかってくる。歩きながら何度も深いため息をついた。
「おはようございますって、朝倉先生どうしたんですか?いつもより元気ないじゃないですか。」
廊下で足をひきづりながら歩いていると、一人の医者が話しかけてきた。彼は小児科の先生である。
俺はペコリとお辞儀をして、その場を離れた。今は誰かと話す気分にはなれない。
しかし再び歩き出すと、やっぱり人と話していたいと思う。
今日はいつもと変わらない人混みであった。受付の前に置いてある長ソファは全て埋まっていた。
エレベーターの前まで来て、ボタンを押した。
ピンポーン
乗り込んですぐに4階のボタンを押した。中には複数の看護師や医師がいたが、俺は挨拶を軽くするだけであとはなにも話さなかった。
「先降ります。」
狭苦しいエレベーターを降りた。降りてすぐのことだった。ある一人の患者に話しかけられた。
「朝倉先生。」
「山本さん。どうされました?」
「最近、あの子見ないけど、まさか、大丈夫じゃよね?」
彼は空音と同じ階に入院している山本さん。なぜか二人は接点があると、佐野さんから聞いた。
彼はカラフルな杖をつきながら腰を曲げて私の目を見た。
「大丈夫です。元気にしてますよ。」
「そうかそうか!よかったのぉ〜。」
山本さんは顔にたくさんの皺を寄せて微笑んだ。彼は俺の言葉を聞いて、安堵してくれたのだろう。
「では。」
俺はその場を後にした。あのまま彼の顔を見てたら、きっと涙が止まらなくなるだろう。
「朝倉先生。」
「すまない。今立て込んでるんだ。」
ナースカウンターから出てきた佐野が話しかけてきた。俺はその願いを断った。佐野の顔を見ると、何かを悟ってくれたような表情をしていた。その顔を見て俺も安心した。
そのままの足で集中治療室と書かれてある部屋まで歩いた。
ガチャ
「‥‥..」
自分のわずかな吐息だけが聞こえた。ここ最近は暑さが和らいできたのに無駄汗をかいていた。
俺はゆっくりと彼女のいる部屋に向かった。目の前までくると、やはりこの感情になる。
近くに置いてあるパイプ椅子に手を伸ばして腰を下ろす。
「そらね....。」
俺は小さく呟いた。呟いたところで彼女の瞳孔は開かない。わずかな頼みにかけて名前を呼んでいる。
そして、赤子のような手のひらを見つめた。自分の中で躊躇いを覚えたが、俺は彼女の手を握った。自分の手と手の間に空音の手を握った。
温かい。
冷たいはずの指先が、確かに生きようとしていた。
昨日まで意識不明になり、一時は心肺不安定に陥った。しかしそこから急激な回復力を見せた。みるみる呼吸が落ちついて心肺も安定。我々も驚かされたものだ。
そんな彼女の言わない生きる姿を目の当たりにして、心の中で何かが変わった気がした。
「そらね.....好きだ。」
思いもよらぬ一言が口から飛び出した。
一週間後......
「うぅ、う、」
なんだか息が苦しい。ふかふかの感覚が服を着ていても分かる。これは私が大好きな洗濯終わりの白いシーツだと。
「そらね?」
私の見えている空間は、薄暗い景色から明るみを帯びた景色へと変化した。
そして、横にはお父さんが立ち尽くしていた。
「先生!先生!空音が‥‥!」
お父さんは走ってどこかへ行ってしまった。大きな足音に耳を塞ぎたくなった。
私はなぜ、ベッドに寝転んでいるんだろうか。今の状況が、把握できない。
体を起こそうと思っても重くてびくともしない。手先を動かすので精一杯だった。
ピヨピヨピヨ!
窓から小鳥の鳴き声が聞こえてきた。耳を潤すような鳴き声に、思わず声を漏らした。
「あぁ……。」
酸素マスクが苦しくてどんな声を出そうとかき消されてしまう。小動物に打ち勝つことすらできないだなんて、なんて惨めなんだと思う。
ガチャン
「白夜さん!よかったぁ。」
いきなり病室の扉が勢いよく開いた。廊下から父親が慌てた様子で病室に入ってきた。もう一人、先生がボサボサ髪のままで部屋に来た。
そして、私の方に近づいて一言呟いた。
「よかった。」
先生の大きな瞳孔に、私の姿がくっきりと写っている。
「本当に、ありがとうございます。」
先生の一歩後ろにいた父親が、深くお辞儀をした。私はただその景色を眺めることしか出来なかった。
「本当によかったです。」
先生は父親の肩に触れて何度か揺らした。
「このまま容態が安定すれば、一週間後には元の病棟に戻れますね。」
「そうですよね。ありがとうございます。」
父親はもう一度深いお辞儀をした。
お辞儀をした後、私の方に来て落ち着かない様子で言った。
「父さん、仕事が大量に残ってるから行ってくるな。また来るから!」
私は返事をすることができなかった。その代わりに小さく頷いた。
「それじゃ、よろしくお願いします。」
父親は脇に置いてあった荷物を持って早歩きで病室を出た。部屋からいなくなる際に大きく手を振った。その姿は今でも脳裏に焼きついている。
父親が出て行った後、室内は私と先生だけとなった。
「気分は平気?」
先生はパイプ椅子をこちらに近づけて腰を下ろした。
「はい。」
少しの音ですら重なったら消されるような返事をした。先生は優しく微笑んだ。その笑顔に、信じられない安心感を覚えた。
「君はね、一週間前の朝食の時に意識を失った——」
先生がここまでの経緯を丁寧に話してくれた。私は何度か頷きながら話を真摯に受け止めた。私の予測に過ぎないが、彼はあえて柔らかい表現を使って私に恐怖心を与えないような喋り方で話してくれていると思う。ほんと、予想だけど。
先生は一通りの話を終えた後、私の目を見てゆっくりと口を開いた。
「でも大丈夫。君の周りには君を思う人がたくさんいるから。」
生を連想させるような一言をつぶやいた。
「え?」
私は思いもよらない一言に驚いた。それから先生は何も言わずに、たまに目を合わせてくれるだけだった。
一度目が合うとスッと逸らしてくる。その度に鼓動が早まり、寿命が縮んでいく気がした。
「それじゃあ、患者さんの診察があるから、また。」
「お疲れ様です。」
先生はパイプ椅子から立ち上がり元の位置に戻した。そして、私の頭を優しく撫でた。
「またね。」
先生はそう言って病室を後にした。
その瞬間、全身の体温がグッと上がっていくのを肌身で感じた。
スマホを手に取り、画面に映る自分の姿を見て余計に熱くなってくる。
「はぁ。」
いけない関係だなんて分かってる。でも、先生を目の前にするとそんなことも忘れてしまうほど幸せな気持ちで満たされる。
私はベッドに寝転んだまま先生の顔を思い浮かべた。
コンコンコン
「空音ちゃん?よかったぁ。」
すると、佐野さんがおぼんにゼリーをのせて運んできた。
「目覚めたんだね。」
佐野さんは枕元の机にそのおぼんを置いた。そして体温計で私の体温を測った。
「熱はないね。ゼリー持ってきたらよかったら食べて。また何かあったら呼んでね。」
彼女はいつもより暗い表情をしていた。普段だったら明るく空音ちゃーん!と言ってくる。しかし今日に限っては全ての物事がゆっくりになり落ち着いた佐野さんになっていた。
「ありがとうございます。」
私は出て行こうとする佐野さんに向かって挨拶をした。すると彼女はこちらを向いて頬を少し赤らめて可愛らしく笑った。そして何事もなかったように部屋を出た。
「よいしょっと。」
彼女の変化に少し驚きながらも私はゼリーに視線を向けた。不甲斐にもブドウ味で美味しそうだった。
私はゆっくりと自分の体を起こした。ついさっき目を覚ましたばかりだけど、その時よりかは体は軽くなっていた。
しかし、まだ筋肉痛のような痛みは抜けていなかった。
スプーンを手に取りゼリーの蓋をゆっくりと開けた。ビニール製の蓋を開けるのにこんなにも力がいるなんて、なんて惨めなんだと思う。
「いただきます。」
やっと蓋を開けることができた私は、すくったブドウゼリーを口に運んだ。
カランコロン
「はぁ。」
私は力がスッと抜けてしまいスプーンを落とした。
いくら軽いスプーンとはいえ、私にとってはダンベルのように感じた。すくって食べようとしてもすぐに落としてしまう。
私は拾うのが嫌になり、床に落ちたスプーンをしばらく見つめた。
「空音ー!!!!」
すると、扉から光の如くの速さで葉那が入ってきた。彼女はノックもせずにいきなり入ってきた。
「は、な。」
「わぁぁぁぁぁ!!!!!もうほんとに心配かけやがってっ。」
葉那は革バッグを床に投げ捨てて私の方に来た。そして力強くハグをされた。
「ほんとに、ほんとによかった。」
葉那は鼻を何度も啜りながら私の肩で涙を拭いた。
「葉那、学校は?」
「ん?あぁ、もう授業すっ飛ばしてこっち来ちゃった。」
「えー。ちゃんと授業受けないと。」
「あんたと授業だったらどう考えたってあんたの方来るよ。」
葉那は顔を真っ赤にしていた。私はそばにあったティッシュを渡した。彼女はティッシュを取ろうとしたが、少し躊躇っていた。
「使わないの?」
私が尋ねると、少し間を置いてから使うと言って箱ごと奪い取ってきた。
「ありがと。」
葉那は何度も鼻をかんだ。そして床に落ちてあるスプーンを見て拾ってくれた。
「はいこれ。」
「ありがと。」
私は葉那にお礼を言った。彼女がどのタイミングでスプーンの存在に気づいたのか、分からないがこういうところが友達を辞められないところだ。
「もう体調は平気なの?」
私は首を横に振った。すると葉那はよかったと言いながらニコッと愛くるしく笑った。彼女の笑顔は誰にも負けないくらい素敵だった。
「えへへ〜。てかさ!」
「なになに?」
「クラスの河原っているじゃん?あいつがさ———」
葉那は学校で起こった出来事を事細かく笑い混じりで話してくれた。
私たちは時間を忘れて二人の時間を満喫した。
「はなちゃん?そろそろ面会時間終わりだよ〜。」
佐野さんが病室に入ってきた。
「は〜い。またねー!」
「ありがとー!」
あっという間に面会時間が終わり、葉那は重たそうな革バッグを持って帰宅した。
佐野さんは部屋に留まり、夕食前の診察の準備をしていた。
「今日の夜ご飯なんですかー!」
私の体調は葉那のおかげでスッとよくなってしまった。笑う回数に比例して回復力も向上していた。
「もうすぐ先生来るからね。」
私は心構えとまではいかないが、軽く心の準備をした。
コンコンコン
「空音ちゃ〜ん。夕食持ってきましたよ。」
診察を終えた後、佐野さんが夕食を持ってきた。
「ご飯の量はいつもと変わらないけど、無理しない程度に食べてね。」
「ありがとうございます。」
今日は鳥と野菜のトマト煮込みだった。白米との相性が良く、病院食の中でも私の大好物だった。
「それじゃまた来るね。」
佐野さんはおぼんだけを回収してトコトコと病室を出た。私はその姿を見届けて彼女が見えなくなったころに視線を食事に向けた。
「いただきます。」
苦手だったトマトでも今は平気で食べられるようになった。それは病院食のありがた迷惑の一つであった。
一人で食べるトマト煮込みは、とっても美味だった。
「いたい.....いたい...っ!」
私は枕元にあるナースコールに手を伸ばした。朝ごはんを食べている時、突如的な痛みを感じたのだ。時間帯はすでに朝になっており、電気をつけなくても太陽の明るさで部屋が照らされる状態になっていた。
『どうされました?』
コールの先には、佐野さんの声が聞こえた。もう耳が遠のいているが、確かに彼女の声がした。
「はやく、はやくきて!」
私は電話越しに叫ぶようにして佐野さんを呼んだ。いつの間にか電話は切れており、無防備な姿をした佐野さんが部屋の中に入ってきたのを見た。
「空音ちゃーん?大丈夫?」
佐野さんはポケットにいれてある聴診器を取り出して私の胸に当てた。
「少し点滴追加するねー。」
今にも意識が飛びそうになった。痛みがもはや感じないほどになっていた。胸が体から飛び出そうな痛みなはずなのに、なんでだろう。
「先生呼ぶね。」
意外にも記憶は鮮明に残っている。佐野さんは落ち着いて丁寧に対応してくれた。
「はぁ....いたいいたいたいよっ———!」
「空音ちゃん?意識持ってねー。」
ついに痛みが最高点に達し、私は意識を失いかけた。
ガチャガチャ!
「白夜さん?容態は?」
「新たに点滴追加しました。」
半目になった時、私は自分の手が温かくなっていることに気がついた。
「せん....せい?」
そこには、眼鏡をかけて寝癖のついた先生がいた。薄い前髪が目にかかっており、いつもに増して寝不足感満載だった。
「.....空音?気をしっかり待て。」
彼は左手で私の手を握りながら右手で点滴を打ったり、作業をしたりしていた。その横に、佐野さんもいた。
「そこの薬投与しよう。あと援護も頼む。」
「分かりました。空音ちゃん?もうすぐ落ち着くからね。」
病室に佐野さんの声と先生の声が交互に行き交っていた。
先生が来てくれた安心のせいで、私は意識を失ってしまった。視界が真っ暗になり、最後の最後まで先生と佐野さんの声が聞こえて心が落ち着いた気がした。
♢
教室で数学の授業の受けている時、担任が教室にものすごい勢いで入ってきた。そして、空音が意識を失ったと告げられた。
私は担任から押されて病院に行ってあげろと言われた。そこから大急ぎで荷物を整理して手配してもらったタクシーで病院に向かった。
「はぁ、はぁ、はぁ。」
タクシーを降りた瞬間に走って空音のいるところに向かった。ギリギリに閉まりそうになったエレベータに乗せてもらい、4階のボタンを押した。
エレベーターの中にいた人たちは奇怪な者を見る目でこちらを見つめていた。そんなこと、どうでもよかった。
「すみません先降ります。」
私はお辞儀をしながらエレベーターを降りた。そしてそのままの勢いでナースカウンターに向かった。
「すみません!」
私はナーフカウンターの前に立って誰かを呼んだ。すると、奥から一人の看護師がやってきた。
「どうされました?」
「あ、あの。白夜空音の友人の者なんですけど。」
その瞬間、彼女の表情が強張ったのを、私は見逃さなかった。
「白夜さんは、先ほど集中治療室に入られまして。今は面会謝絶の状態なんです。」
自分の息が派手に荒れているのが分かった。息が上がっていて、まともに話をできる状態じゃなかった。
「窓越しでもいいので、会わせてくださいっ!」
「いや、でも.....」
「お願いします。」
私はカウンターに額をつけるようにしてお辞儀をした。彼女が折れるまで、私はいつでも願いを下げまいとしていた。
空音に会えるならそれでいい。それだけだ。
「.....分かったから、顔を上げて。確認してみるから。」
私は顔を上げて口角を上げた。そしてお礼を言った後、気が緩んでしまい再び下を向いてしまった。
「はぁ。」
一呼吸置いた後、息を呑んだ。空音が無事であることは確かでありそうだった。
「葉那ちゃん?」
「はい。あ、佐野さん。」
奥から空音の担当看護師である佐野さんが歩いてきた。彼女は目の下にクマを溜めていた。
「あの、空音は?」
「大丈夫だから、落ち着いて。空音ちゃんは今朝胸の痛みで意識を失ったの。でもいつもより体調の回復が早いから大丈夫だよ。」
「はぁ、よかった。」
私は安堵して両手を膝につけた。
「少し会ってく?」
佐野さんが私の肩を触りながら顔を覗いてきた。私は体を起こして前を向いた。佐野さんは少しだけ微笑んでいた。その目には少しばかりの涙のようなものが浮かんでいた。
「.....はい。」
「こっち。」
佐野さんはゆっくりと歩き出した。私もそれに続いて同じ方向に足を進めた。
「今日学校?」
佐野さんは目線をこちらに向けながら話しかけてきた。
「学校です。」
「授業抜け出してきたの?」
「走ってきました。」
「そうだったんだ!」
佐野さんは腕を組んで大きく笑っていた。
彼女はいつも空音に一直線、という雰囲気が漂っていた。嫉妬ではないし、言い方も悪いが、空音を溺愛しているような人だと思っていた。
しかし今初めて面と面を向けて話してみると、そんなことでもなかったな〜と内省した。
私たちはしばらく歩いて、ついに空音のいる集中治療室の手前まで来た。ここまでの道のりは決して楽とは会えなかった。佐野さんが何度か話しかけてくれたけど、それでも手のひらの震えが止まることはなかった。
「大丈夫?」
隣にいる佐野さんが背中をさすってきた。その温もりに思わず涙が零れそうになる。
「.....大丈夫です。」
「じゃあ、こちらに。」
佐野さんに消毒液を渡されて手のひらに消毒液を吹きかけた。
そして、私は自分の手と手を握り合って前を向いた。念入りに消毒をした後、息を呑みながら中に入った。
ピー、ピー、ピー、ピー
「うそ.....」
中に入った瞬間、私は、言葉を失った。
何も感じなかった。室内の温かさも、冷たさも。鳥肌が立つわけでもなく、涙が零れることもなかった。ただ目の前の窓越しに、たくさんの管で繋がれた空音が目を瞑っている姿だけが目に映った。
扉には”医療関係者以外立ち入り禁止”の文字が書かれた紙が貼られていた。
「容態が不安定だったんだけど、徐々に回復してきてね。本当によかった。」
閑静な病室に、佐野さんの鼻水混じりの声が響いた。
彼女の方に目を向けると、ぽつりと一粒、透明な涙が頬を伝ったっていた。
「.....そらね。」
私は一言、彼女の名前を呟いた。
そして、一気に全身の力が抜けてその場に座り込んだ。膝から崩れ落ちるという感覚をいま、初めて味わった。膝から崩れ落ちる経験なんてそうそうにない。まるで全身の骨が粉々になったのかと思った。
薄汚れた白色の床に膝をついた後、次は計りきれないほどの涙が溢れ出てきた。自作の琵琶湖が出来るんじゃないかと思うほどね。
つい昨日まで、私は空音の病室にいた。私が学校の話をすれば、彼女は大きく笑ってくれた。笑いすぎて涙が出るほどに。そして、共通の嫌いな先生の悪口を言いあえばさらに笑ってくれた。
『空音笑いすぎだって!』
『いやだって葉那がそういうこと言うからっ!』
はぁ。次から次へと空音の笑顔が頭に浮かんでくるなぁ。もしかしたらあの笑顔が見たくて私は、今を生きているのかもしれないな。
「うぅ、うぅ‥‥!」
私は手の甲を瞼や頬にあてた。涙が止まることなんてないはずなのに、反動的に止めようとした。
「葉那ちゃん?」
「あぁ....あぁぁぁ...!」
自分の鼓膜が破れそうになる。床にポタポタと溢れんばかりの涙が零れ落ちていた。
私は、泣くことしか出来なかった。
空音のために何かできるかなんて、そんな遠い夢叶うわけなかった。私にできることは、ただ泣くことだけだと。
「君、大丈夫?」
がむしゃらに泣いていると、上から聞いたことのない声が聞こえた。低くて耳の奥をくすぐられるような声質をしていた。
誰かと思い私は顔を上げた。
そこには、私が一目惚れした”彼”がいたのだ。
「もしかして、はなちゃん?」
「へ.....?」
「やっぱりそうだ。」
彼は明るい声で言った。その顔立ちは、確かにあの人だった。
「小林くん?!なんでここに。」
「二人が入っていくのをたまたま見かけてね。」
「そうなんだ。」
佐野さんは私の肩に添えていた手をパッと離して彼と視線を合わせた。その瞬間、ドッと孤独感が全身に広がった。しかし、二人の話し声はあたたかった。
「ほれほれ、大丈夫かい?立てる?」
彼はそう言いながら私に手のひらを見せてきた。私はその手を握るのを少し躊躇った。
「ん。」
「ありがとうございます。」
私は彼の目の圧から逃げられず、手を伸ばして立ち上がった。
「あの、なんで私の名前を?」
「だって、空音ちゃんから聞いたんだもん!身長が高くてスラっとしてる子がいるって。私の大親友だー!って言ってたよ?」
『じゃあ、葉那のこと話しておくよ。』
まさか、本当に?
私が悪ふざけで言った半分のことを、空音は本人に伝えてくれたのか?
「え、あ.....」
「ちょちょちょっと待って!どうしたどうした。」
私は興奮気味になってしまい、余計に涙が溢れた。彼が来てから少し落ち着いたと思ったら、そんなことなかった。
「落ち着いて。一回、あっちに行こっか。佐野ちゃん、お願いできる?」
「いや、小林くんが一緒に行ってあげて。」
「え?」
「葉那ちゃん?小林先生が落ち着いた場所に連れて行ってくれるって。だから落ち着こう。」
佐野さんはそう言って私の肩を彼に向かって優しく押した。私の体はその反動で彼の体に少し近づいた。
「.....はなちゃん行こう。」
彼は私の背中をさすりながら歩き出した。そしたら自動的に私の足も進まざるを得なかった。
私は後ろを振り向き、佐野さんを見た。
彼女はこちらを腕を組んでこちらを向いていた。そして、こちらに向かって小さくガッツポーズをした。
今思えば、そのポーズの意味がなんだったかなんて、容易に想像がついてしまう。
ガチャン
二人で集中治療室を出た。
「ついてきて。」
彼は左手はポケットにしまいながら対して右手は常に私の背中をさすってくれた。たった一つの手にすぎないが、私は信じられない安心感に包まれた。もしいまここでこの手が離されたら、私は体ごと崩壊してしまうだろう。
私は彼とともに人気の少ないラウンジに来た。ここでは人の気配がまるでしなかった。まるで廃墟になった古いビルのようだった。
「ここ座ってて。」
彼にソファに座るよう促された。その瞬間、彼のネームプレートがチラッと見えた。そこには、『小林悠仁』と書かれてあった。
そういえば、空音にも佐野にも彼の名前を言われたのにも関わらず、すっかり忘れていた。もう泣きすぎて全ての記憶がシャッドダウトされていた。
「大丈夫?ティッシュいる?」
私は下を俯いていると、横から箱ティッシュが登場した。
「.....ありがとうございます。」
小林は私の膝に箱ティッシュを置いたのち、自分も席に座った。
彼は腕と足を組み、ため息をついた。
「空音ちゃんね〜。君のことよく話してたよ。」
「私のこと?」
私は小林の顔を見た。
小林は前を向いたまま話を続けた。
「空音ちゃんと話をしている時、俺が止めない限りずっと君のこと。はなってすごくいい子なんですよ〜、可愛いんですよ〜って。」
私は涙が出るどころか、恥ずかしさで死にそうになった。
「もう……」
「なに笑ってんだよ。」
「すみません。」
私はクスッと少し笑った。小林も片方の口角をクイっと上げた。その場の空気がガラッと変わった瞬間だった。
すると、小林が持っていた携帯電話が鳴り響いた。
「はい小林です。分かりました。了解でーす。」
彼が電話をしている間、静かに鼻をかんだ。
「それじゃ、俺はこれで。」
「え?」
小林は立ち上がって背伸びをした後、どこかに行こうとした。私は彼を呼び止めようと、少し遅れて立ち上がった。
「ティッシュ、ありがとうございました!」
「どういたしまして。」
私たちの間には、3メートルほどの距離があった。遠く見えて、近く感じた。
小林は優しく笑った。そして、駆け足でどこかへ行ってしまった。
「はぁ……。」
私はソファに座ってため息をついた。自分の身体が一気に軽くなったと感じる。まるで全身の水分が抜けたように。
私は背もたれに思い切り寄りかかってシミだらけの天井を見つめた。
♢
彼女の元に行く足が重い。進んで近づくにつれて鉛のようなものがのしかかってくる。歩きながら何度も深いため息をついた。
「おはようございますって、朝倉先生どうしたんですか?いつもより元気ないじゃないですか。」
廊下で足をひきづりながら歩いていると、一人の医者が話しかけてきた。彼は小児科の先生である。
俺はペコリとお辞儀をして、その場を離れた。今は誰かと話す気分にはなれない。
しかし再び歩き出すと、やっぱり人と話していたいと思う。
今日はいつもと変わらない人混みであった。受付の前に置いてある長ソファは全て埋まっていた。
エレベーターの前まで来て、ボタンを押した。
ピンポーン
乗り込んですぐに4階のボタンを押した。中には複数の看護師や医師がいたが、俺は挨拶を軽くするだけであとはなにも話さなかった。
「先降ります。」
狭苦しいエレベーターを降りた。降りてすぐのことだった。ある一人の患者に話しかけられた。
「朝倉先生。」
「山本さん。どうされました?」
「最近、あの子見ないけど、まさか、大丈夫じゃよね?」
彼は空音と同じ階に入院している山本さん。なぜか二人は接点があると、佐野さんから聞いた。
彼はカラフルな杖をつきながら腰を曲げて私の目を見た。
「大丈夫です。元気にしてますよ。」
「そうかそうか!よかったのぉ〜。」
山本さんは顔にたくさんの皺を寄せて微笑んだ。彼は俺の言葉を聞いて、安堵してくれたのだろう。
「では。」
俺はその場を後にした。あのまま彼の顔を見てたら、きっと涙が止まらなくなるだろう。
「朝倉先生。」
「すまない。今立て込んでるんだ。」
ナースカウンターから出てきた佐野が話しかけてきた。俺はその願いを断った。佐野の顔を見ると、何かを悟ってくれたような表情をしていた。その顔を見て俺も安心した。
そのままの足で集中治療室と書かれてある部屋まで歩いた。
ガチャ
「‥‥..」
自分のわずかな吐息だけが聞こえた。ここ最近は暑さが和らいできたのに無駄汗をかいていた。
俺はゆっくりと彼女のいる部屋に向かった。目の前までくると、やはりこの感情になる。
近くに置いてあるパイプ椅子に手を伸ばして腰を下ろす。
「そらね....。」
俺は小さく呟いた。呟いたところで彼女の瞳孔は開かない。わずかな頼みにかけて名前を呼んでいる。
そして、赤子のような手のひらを見つめた。自分の中で躊躇いを覚えたが、俺は彼女の手を握った。自分の手と手の間に空音の手を握った。
温かい。
冷たいはずの指先が、確かに生きようとしていた。
昨日まで意識不明になり、一時は心肺不安定に陥った。しかしそこから急激な回復力を見せた。みるみる呼吸が落ちついて心肺も安定。我々も驚かされたものだ。
そんな彼女の言わない生きる姿を目の当たりにして、心の中で何かが変わった気がした。
「そらね.....好きだ。」
思いもよらぬ一言が口から飛び出した。
一週間後......
「うぅ、う、」
なんだか息が苦しい。ふかふかの感覚が服を着ていても分かる。これは私が大好きな洗濯終わりの白いシーツだと。
「そらね?」
私の見えている空間は、薄暗い景色から明るみを帯びた景色へと変化した。
そして、横にはお父さんが立ち尽くしていた。
「先生!先生!空音が‥‥!」
お父さんは走ってどこかへ行ってしまった。大きな足音に耳を塞ぎたくなった。
私はなぜ、ベッドに寝転んでいるんだろうか。今の状況が、把握できない。
体を起こそうと思っても重くてびくともしない。手先を動かすので精一杯だった。
ピヨピヨピヨ!
窓から小鳥の鳴き声が聞こえてきた。耳を潤すような鳴き声に、思わず声を漏らした。
「あぁ……。」
酸素マスクが苦しくてどんな声を出そうとかき消されてしまう。小動物に打ち勝つことすらできないだなんて、なんて惨めなんだと思う。
ガチャン
「白夜さん!よかったぁ。」
いきなり病室の扉が勢いよく開いた。廊下から父親が慌てた様子で病室に入ってきた。もう一人、先生がボサボサ髪のままで部屋に来た。
そして、私の方に近づいて一言呟いた。
「よかった。」
先生の大きな瞳孔に、私の姿がくっきりと写っている。
「本当に、ありがとうございます。」
先生の一歩後ろにいた父親が、深くお辞儀をした。私はただその景色を眺めることしか出来なかった。
「本当によかったです。」
先生は父親の肩に触れて何度か揺らした。
「このまま容態が安定すれば、一週間後には元の病棟に戻れますね。」
「そうですよね。ありがとうございます。」
父親はもう一度深いお辞儀をした。
お辞儀をした後、私の方に来て落ち着かない様子で言った。
「父さん、仕事が大量に残ってるから行ってくるな。また来るから!」
私は返事をすることができなかった。その代わりに小さく頷いた。
「それじゃ、よろしくお願いします。」
父親は脇に置いてあった荷物を持って早歩きで病室を出た。部屋からいなくなる際に大きく手を振った。その姿は今でも脳裏に焼きついている。
父親が出て行った後、室内は私と先生だけとなった。
「気分は平気?」
先生はパイプ椅子をこちらに近づけて腰を下ろした。
「はい。」
少しの音ですら重なったら消されるような返事をした。先生は優しく微笑んだ。その笑顔に、信じられない安心感を覚えた。
「君はね、一週間前の朝食の時に意識を失った——」
先生がここまでの経緯を丁寧に話してくれた。私は何度か頷きながら話を真摯に受け止めた。私の予測に過ぎないが、彼はあえて柔らかい表現を使って私に恐怖心を与えないような喋り方で話してくれていると思う。ほんと、予想だけど。
先生は一通りの話を終えた後、私の目を見てゆっくりと口を開いた。
「でも大丈夫。君の周りには君を思う人がたくさんいるから。」
生を連想させるような一言をつぶやいた。
「え?」
私は思いもよらない一言に驚いた。それから先生は何も言わずに、たまに目を合わせてくれるだけだった。
一度目が合うとスッと逸らしてくる。その度に鼓動が早まり、寿命が縮んでいく気がした。
「それじゃあ、患者さんの診察があるから、また。」
「お疲れ様です。」
先生はパイプ椅子から立ち上がり元の位置に戻した。そして、私の頭を優しく撫でた。
「またね。」
先生はそう言って病室を後にした。
その瞬間、全身の体温がグッと上がっていくのを肌身で感じた。
スマホを手に取り、画面に映る自分の姿を見て余計に熱くなってくる。
「はぁ。」
いけない関係だなんて分かってる。でも、先生を目の前にするとそんなことも忘れてしまうほど幸せな気持ちで満たされる。
私はベッドに寝転んだまま先生の顔を思い浮かべた。
コンコンコン
「空音ちゃん?よかったぁ。」
すると、佐野さんがおぼんにゼリーをのせて運んできた。
「目覚めたんだね。」
佐野さんは枕元の机にそのおぼんを置いた。そして体温計で私の体温を測った。
「熱はないね。ゼリー持ってきたらよかったら食べて。また何かあったら呼んでね。」
彼女はいつもより暗い表情をしていた。普段だったら明るく空音ちゃーん!と言ってくる。しかし今日に限っては全ての物事がゆっくりになり落ち着いた佐野さんになっていた。
「ありがとうございます。」
私は出て行こうとする佐野さんに向かって挨拶をした。すると彼女はこちらを向いて頬を少し赤らめて可愛らしく笑った。そして何事もなかったように部屋を出た。
「よいしょっと。」
彼女の変化に少し驚きながらも私はゼリーに視線を向けた。不甲斐にもブドウ味で美味しそうだった。
私はゆっくりと自分の体を起こした。ついさっき目を覚ましたばかりだけど、その時よりかは体は軽くなっていた。
しかし、まだ筋肉痛のような痛みは抜けていなかった。
スプーンを手に取りゼリーの蓋をゆっくりと開けた。ビニール製の蓋を開けるのにこんなにも力がいるなんて、なんて惨めなんだと思う。
「いただきます。」
やっと蓋を開けることができた私は、すくったブドウゼリーを口に運んだ。
カランコロン
「はぁ。」
私は力がスッと抜けてしまいスプーンを落とした。
いくら軽いスプーンとはいえ、私にとってはダンベルのように感じた。すくって食べようとしてもすぐに落としてしまう。
私は拾うのが嫌になり、床に落ちたスプーンをしばらく見つめた。
「空音ー!!!!」
すると、扉から光の如くの速さで葉那が入ってきた。彼女はノックもせずにいきなり入ってきた。
「は、な。」
「わぁぁぁぁぁ!!!!!もうほんとに心配かけやがってっ。」
葉那は革バッグを床に投げ捨てて私の方に来た。そして力強くハグをされた。
「ほんとに、ほんとによかった。」
葉那は鼻を何度も啜りながら私の肩で涙を拭いた。
「葉那、学校は?」
「ん?あぁ、もう授業すっ飛ばしてこっち来ちゃった。」
「えー。ちゃんと授業受けないと。」
「あんたと授業だったらどう考えたってあんたの方来るよ。」
葉那は顔を真っ赤にしていた。私はそばにあったティッシュを渡した。彼女はティッシュを取ろうとしたが、少し躊躇っていた。
「使わないの?」
私が尋ねると、少し間を置いてから使うと言って箱ごと奪い取ってきた。
「ありがと。」
葉那は何度も鼻をかんだ。そして床に落ちてあるスプーンを見て拾ってくれた。
「はいこれ。」
「ありがと。」
私は葉那にお礼を言った。彼女がどのタイミングでスプーンの存在に気づいたのか、分からないがこういうところが友達を辞められないところだ。
「もう体調は平気なの?」
私は首を横に振った。すると葉那はよかったと言いながらニコッと愛くるしく笑った。彼女の笑顔は誰にも負けないくらい素敵だった。
「えへへ〜。てかさ!」
「なになに?」
「クラスの河原っているじゃん?あいつがさ———」
葉那は学校で起こった出来事を事細かく笑い混じりで話してくれた。
私たちは時間を忘れて二人の時間を満喫した。
「はなちゃん?そろそろ面会時間終わりだよ〜。」
佐野さんが病室に入ってきた。
「は〜い。またねー!」
「ありがとー!」
あっという間に面会時間が終わり、葉那は重たそうな革バッグを持って帰宅した。
佐野さんは部屋に留まり、夕食前の診察の準備をしていた。
「今日の夜ご飯なんですかー!」
私の体調は葉那のおかげでスッとよくなってしまった。笑う回数に比例して回復力も向上していた。
「もうすぐ先生来るからね。」
私は心構えとまではいかないが、軽く心の準備をした。
コンコンコン
「空音ちゃ〜ん。夕食持ってきましたよ。」
診察を終えた後、佐野さんが夕食を持ってきた。
「ご飯の量はいつもと変わらないけど、無理しない程度に食べてね。」
「ありがとうございます。」
今日は鳥と野菜のトマト煮込みだった。白米との相性が良く、病院食の中でも私の大好物だった。
「それじゃまた来るね。」
佐野さんはおぼんだけを回収してトコトコと病室を出た。私はその姿を見届けて彼女が見えなくなったころに視線を食事に向けた。
「いただきます。」
苦手だったトマトでも今は平気で食べられるようになった。それは病院食のありがた迷惑の一つであった。
一人で食べるトマト煮込みは、とっても美味だった。
