「え?二人って知り合いなの?」
先生は交互に私たちを見つめた。
「知り合いっつうか、話したことあるんだよね〜。」
「何で話したことあるのさ?」
「いや、私はこんな人‥‥あ!」
『あ、俺、小林悠仁。耳鼻咽喉科で働いてるんだー!君の名前は?』
「あーー!!!!!小林さん!」
「そうそう!小林悠仁!覚えてた?」
「覚えてます覚えてます!」
私は彼のことを思い出した。確か、検査準備中に廊下で待っていた時、突然話かけてきた人。そして、佐野さん曰く二人の研修時代からのお友達。二人というのは、小林さんと先生。まさかの繋がりに、驚いたのを覚えている。
そして今、全てが繋がったのだ。
「ここで話すのもなんだし、部屋ん中入る?」
「いやいや、白夜さんもうすぐ消灯時間だし。」
「そうですそうです!ありがたいけど、今日はもう」
しかし、小林さんは私も先生の忠告を聞かずに私たちの腕を掴んで部屋の中に放り込もうとした。
「ちょ!ちょっと!」
ガチャン!
「お前何すんだよ。」
「いいじゃんいいじゃん!」
「ったくなんなんだよ。」
先生は頭を掻き回しながら椅子に座った。私は点滴に手を触れながら立ちつくしていた。
すると、小林が手ぶりで呼んできた。
「こっち座んなよ。汚くてごめんね〜。あ、あたりめいる?」
「あ、ありがとうございます。」
よくわからないが、とりあえずお礼を言った。私は先生の隣に座って小林さんが持っているあたりめを一つもらった。
耳鼻咽喉科の部屋かと思ったが、耳鼻咽喉科用の休憩室のようだった。丸い机には大量の資料が広げられており、すぐそばにはホワイトボードには人体の絵とともに矢印がたくさん書かれていた。
「これすごいっしょ。涼ちゃんが書いてくれたんだ〜。涼ちゃんって心臓系のお医者さんでしょ?だから今日までにめちゃくちゃ人体の絵を書いてるわけよ?ほんとにうますぎるんだよ書くのが!ね!涼ちゃん!」
「あーもううるさいうるさい。最近寝不足なんだから静かにして‥‥。」
陽気な小林先生とは正反対に、先生は大人しかった。机に突伏せてもうすでに寝てしまっているのではと思うほどだった。
「あぁ〜寝ちゃったねこれは。」
「そうです、ね?」
私は先生の顔を覗き込んだ。先生はびくともしなかった。少しだけだが、寝る時の吐息が聞こえてきた。
「コイツさ〜無愛想でだんまりしてるでしょー?」
小林さんは頬杖をつきながらこちらを向いて話してきた。私は顔と体の向きを彼の方に向けた。
「いや、そんなことないと思います。」
「えぇー!マジー?研修の時なんかだんまりしてて地味な奴と思ったわ。って、そういえば俺らって研修時代からの友達なんだよね。知ってた?」
「一応。佐野さんから聞いてました。」
「あいつか〜。佐野ちゃんは口軽いからそういうことすぐ言っちゃう性格なんだよね〜。」
「そうだったんですね。」
「うん。なんか飲む?烏龍茶とコーヒーと他にもあるけど。」
「白湯でお願いします。」
「おっけー。」
小林さんは立ち上がって奥の部屋に行ってしまった。辺りを見回すと、やっぱりここは病院なんだなと改めて思う。こんな大人の男性と話してて、たまに自分を見失うことがある。でも周りを見れば病院世界に連れ戻される。
「もう部屋戻ったら。」
すると、先生が顔だけこちらに向けて呟いた。先生はさっきまで寝ていたのに、急に起きていてさらにこちらを向いていて驚いた。
「先生こそ、ちゃんと寝た方がいいかと思います。」
「はぁ〜!そうだな。じゃあ子守唄でも歌ってよ。そしたら寝れるわ。」
「子守唄?何言ってんですか。ちゃんと寝てください。」
「お前が歌わないと寝れない。」
「はぁ〜‥‥ね〜んねん、ころ〜り〜よ。」
この時間は、なんなんだ。笑えてくるよ。だけど、不覚にもこの瞬間は幸せに感じた。
目を瞑っている先生は、とっても綺麗な顔をしていた。腕は下にぶら下げていた。私はいつの間にか先生の背中をさすっていた。
何やってんだろ私。
もうすぐ死ぬっていうのにこんなことして。恋なんてしても実るわけがないのに。
「すぅ〜、すぅ〜。」
先生の顔を見て、私は少しだけ笑ってしまった。
その顔に、自分がときめいていることに気がついた。
「は〜い白湯持ってきたよ。」
「ありがとうございます。」
私は急いで先生の背中から手を離して白湯が入ったコップを受け取った。手にじわっと温かみが伝わってきた。
「いただきます。」
お腹がスゥーッとあったかくなった。
「美味しい〜!やっぱ紅茶が一番美味しいんだよ。」
小林さんはやたらと独り言を呟いていた。私は無視をしていたが、一応目線は向けていた。
「空音ちゃんの目ってまんまるで大きいよね〜。お父さん譲り?お母さん譲り?」
「お母さんだと思います。母は私が小さい頃に事故で亡くなってしまったらしいです。」
「そうだったの?!じゃあお顔も見たことがないの?」
「はい。」
「へぇ〜。きっと空音ちゃんに似て綺麗な人だったんだろうなぁ〜。」
「何言ってんですか。冗談はよしてください。」
小林さんは、ごめんごめん、と言いながら再び口に紅茶を運んだ。こういうところは少し先生に似ていた。
「それでさ〜!コイツの注射が下手くそで!もう俺の腕血だらけだなの!」
「そんなに下手だったんですか?」
「うん。今もそうじゃない?」
「確かに。実は私、入院してから先生の注射を受けたことがないんです。基本は佐野さんがやってくれてて。」
「あー何か納得できるわ。佐野ちゃん院内で一番注射がうまいって言われてるし。」
私たちはしばらくの間雑談をした。先生は研修医時代、注射を打つのが大の苦手だったらしい。練習台かつ実験台として小林さんの腕を使って練習をしたが、針がうまく通らず何度も刺した末に腕が血だらけになり殺人事件のようになってしまったらしい。これは彼らがいた代の中で武勇伝として受け継がれている。
「小林さんは研修どうだったんですか?」
「俺はね〜耳鼻咽喉科の長さんに反抗してて嫌われてたよ。何か言われたらすぐ言い返してたからお前は医者に失礼だって何度も言われたんだ〜。俺は今その人の下で働いてるんだけどね。」
小林さんは笑いながら話しているが、当時はきっと相当な研修医だったんだろうな、と第三者の私が思う。
「はぁ〜にしても眠すぎる!」
ガン!
「いってぇ〜。」
小林さんは頭を思い切り机に叩きつけた。鈍い音とともに私は思わず目を背けた。彼は佐野さんと似て全ての行動の流れが滑らかだった。滑らかというか、もはや忙しすぎて私には早すぎた。
「すぅ〜、すぅ〜。」
あれ?
小林さんがなかなか起き上がらないので、私はそっと耳をすましてみた。すると、小さな吐息が微かに聞こえた。二人揃って寝てしまったのだ。
「はぁ。」
私はため息をついた。普段ならくだらないな、とか、何やってんだよと思う。だけど、今は二人のことを寝かせてあげたいと思う。だって周りを見てみなよ。信じられない量の資料があるんだもん。そこには何度も書き直した跡や走り書きで書いたものがあったりした。使い古した鉛筆や角の削れた消しゴム。
「‥‥‥。」
私は近くにあったクマさん柄の毛布を二人にかけた。お揃いで買ったのか、色違いの同じような毛布だった。
二人に毛布をかけた後、私はもともと座っていた席に着いた。大きく背伸びをした後にあくびをした。時計の時刻を確認すると22時を回っていた。とっくに就寝時間は過ぎていて、早く部屋に戻らないとと思った。だけど同時にもっとここにいたいとも思った。ここにいて話していれば時間が過ぎていくし、楽しいと思える。二人の仲の良さを見ていられるのは、とっても幸せなことなんだと気づいた。
私も先生と同じ体勢になり、頬を自分の腕で支えて上半身だけを寝転んだ。
「‥‥‥。」
普段は大きな二重瞼をして私を見つめるからなかなか顔を見れない。
でも今だけは、先生は目を瞑っているから何時間も見ていられる。よく見ると、根本からしっかりと生えたまつ毛が何本もあった。まつ毛の長さすら勝てないんだな。それに堀も深くて鼻がとんがってる。顎もシュッとしてて。もし男性に生まれ変われるなら先生の顔で生まれたいな。
かっこいい‥‥。
いつからだろう。先生のことを特別な目で見るようになったのは。入院したての頃はただの善良な医者だと思っていた。検査に間違いはないし聴診器の音も正確に測れる。
いたの日か、雨で髪の毛が濡れてしまった時、先生がタオルを持ってきて私の頭を拭いてくれたことがあった。ゴシゴシと力強く拭かれたから少し痛かったのを覚えてる。
その後、お礼を言うと先生は優しく頭を撫でた。
『どういたしまして。』
『え?』
『俺は先に戻ってますよ。』
多分私はあの日から、先生のことを好きになったと思う。撫でた手の暖かさが妙にドキンとした。感じたことのない感情に襲われて当時は混乱するしかなかった。
少し、わかった気がする。この感情。
「かっこい。」
私はそう言いながら先生の頬を触った。すると、先生は優しく微笑んだような気がした。
私は、こんな人を好きになってしまったのか。
先生は人を救う人なのだ。病気の人のために、家族のために、友人のために。
って、何考えてるんだろ私。もうすぐで死ぬっていうのに。人を好きになるのに時間はいらないというが、やっぱり時間は必要だと思う。
「ふわぁ〜!」
私は再び大きなあくびをした。眠気に勝とうと考え事をしていたのかもしれない。だけどもう限界だった。腕を組んでゆっくりと目を瞑った。
ピピー!ピピピ!
「空音ちゃん!空音ちゃん!」
「うぅ〜ん。」
小鳥の鳴き声が微かに聞こえてきた。10月に入って全国で秋晴れが始まった頃。冷房が必要なくなった今日はとっても幸せな起床ができる。
私は目が覚めると、フカフカのベッドに寝転んでいた。
「診察の時間だよ〜。」
あれ?いつの間にか、朝になっていた。
「しんさつ?」
「うん。もう先生来てるよ?」
私は急いで起き上がって入り口を見た。そこにはいつもと変わらない先生が立っていた。ボードに資料を挟んで睨めっこをしていた。
「あれ?私昨日ってここにいました?」
「昨日?何言ってるの?」
佐野さんは呆れた顔でこちらを見つめた。
私の最後の記憶だと、小林先生と話して二人とも寝ちゃって毛布をかけた。そこから私も寝てしまった。なんで私、ベッドにいるの‥‥?移動した覚えないんだけど。
「何寝ぼけてんのよっ!先生、お願いします。」
「白夜さんおはよう。心音聞くね。」
先生は何事もなかったように近くのパイプ椅子に座り私の前にきた。
首に巻いていた聴診器を外して私の胸に当てようとした。
「先生昨日って」
私は先生に昨日のことを聞こうとした。しかし先生は私の目を見て首を振った。まるで“何も言うな“というふうに言っているようだった。
それから私も話さなくなり、下を向いたまま診察が終わるのを待った。
「うん。大丈夫だね。」
「ありがとうございます。」
私は立ち上がる先生を見上げた。昨日の謎とは裏腹に、先生の顔は清々していた。
「空音ちゃん?朝ごはん持ってくるね!」
佐野さんは先生の横からひょこっと顔を出して言った。
その声で我に返り、私は目線を先生から別の方向に向けた。
「それじゃあ、失礼します。」
先生は私にお辞儀をして部屋を出ようとした。それに続いて医療重機を運びながら佐野さんも一緒に出て行った。二人が病室を出て、扉が閉まるまで二人のことを見続けた。
「ほんと、どうゆうこと‥‥。」
私は独り言をぶつぶつと呟きながら布団に寝転んだ。考えるのはやめよう。
朝食が来るまで、目を瞑った。
「ごちそうさまでした。」
私は箸を置いた後、手と手を合わせた。今日はわかめご飯に大根の味噌汁、金平牛蒡と鮭の塩焼きという何とも日本人らしい朝食だった。
私は立ち上がって外出用の靴を履いた。厚底で身長が少し盛れる靴だ。両手にお盆を待ちながら左手の小指と薬指で点滴を押した。いつもなら佐野さんが回収しにきてくれるが、今日はすぐにでも中庭に出たかったため、自分で食器を返しに行った。
病室の扉を閉めたあと、お盆を落とさないようにいつもよりゆっくりと歩いた。
食器が割れたらたくさんの人に迷惑がかかる。だから慎重にいかなくてはならないのだ。
「すみませーん。」
ナースカウンターの前まで来れた。カウンター内にはたくさんの看護師がいたが、佐野さんの姿は見当たらなかった。
「あ、空音ちゃん!お盆返しにきてくれたの?」
「はい。これお願いします。」
一人の看護師さんがこちらに駆け寄りながら話してきた。無論、彼女も知り合いだった。
「ありがとう〜!」
彼女は笑顔にお礼を言ってきた。私は対応に困り軽くお辞儀をした。どこの看護師も笑顔が眩しい。疲れているはずなのにそんな気を感じさせない。もはやプロの技だった。
私はそのままの足でエレベーターに向かった。すでに中央広場では多くの人で賑わっていた。ほとんどがじじばばだけど。彼らもまた、お互いを認知していた。
ピンポーン
ボタンを押していないのにも関わらず、運良く下に行くエレベーターがきてくれた。
少し小走りになりながら乗り込んだ。中から佐野さんが出てきた。
「あれ?空音ちゃんどうしたの?」
「中庭に行くところです。」
「そっか〜!気をつけてね!」
もう少し遅れていたら、佐野さんにお盆を返せたのかな。持ってきてくれた本人に返したかったのに。でもそれを本人に言う勇気はなかった。
私は冷たい対応をしながらエレベーターに乗り込み扉を閉めるボタンを押した。
扉が閉まったあと、私は点滴スタンドから手を離して軽く背伸びをした。一瞬にして身体中の筋肉が収縮するのを感じた。
上を見上げると、もうすぐ一階に着きそうだった。
一階につき私は点滴スタンドを引きずりながらエレベーターから降りた。すでに人盛りであった。
そのままの足で私は点滴スタンドを押しながら中庭に向かった。中庭には裏口から出ればすぐのところにあると知っていた。エレベーターから降りて目の前にある細い道を進めば裏口がありそこから中庭に行ける。
私は歩きながら壁に貼ってある院内のイベント表に目を向けた。一番直近で開催されるのが、シニアと小児の運動イベントだった。こんなの参加したところで、と思ってしまう。こんなひん曲がった性格だから友達少ないんだろうなー。
加えて今日は何だか気分が上がらない。ズーンと疲れている感じがした。
ガチャ
手動の裏口扉を出て広い中庭に出た。そして中庭のいつものベンチに腰掛けた。ここは私の定位置であり、安心できる場所だった。
点滴を横に置いて片手に持っていた紙とペンを取り出した。
今日も漫画を書こう。
そう思ってここまできたのだ。
そして、漫画の材料となる昨日の出来事を思い出した。
昨日の夜は、先生のところに行って小林先生と三人で話すという謎展開があった。そのことを先生に聞こうとしても流されてしまう。なぜだろうな。
私はペンを持って小さな紙にコマ割りを描き始めた。その中に先生や小林先生を描いていった。小林先生はシュッとした目なのにぱっちりとしている目をしている。鼻筋は綺麗にとんがっていて、唇は薄く横に広がっている。笑うとほうれん線が美しく映る。まるで俳優のような顔をしていた。顔立ちが整っている人を描くのは楽しい。完成した時の達成感と漫画の雰囲気が好きだからだ。
ある程度書き終えた後、一度ペンを置いて呼吸を整えた。
「ふぅ〜.......はぁ。」
大きく息を吸って新鮮な空気を思い切り吸った。目の前にある大きな木の葉の隙間から吹く秋風が頬を優しく撫でた。この間にも時は進んでいく。同時に、私が死ぬ時も近づいている。
もうすぐ、死んじゃうのかな———
「やっほー。おーい。」
「うわっ!小林先生?」
「うん。そんなびっくりする?」
後ろから声をかけられた。その声の主は、先生の友人である小林悠仁であった。
「なにしてんの?」
彼は本当に医者かってくらい底が明るく笑顔を絶やさない人だった。
小林先生は私の隣にスッと座ってきた。
「いつもここに来るんです。ここは大きな木があって風が気持ちいいんです。」
私は大きく息を吸ってお手本を見せた。
「ほら!小林先生も息吸って!」
二人で大きく息を吸って吐いた。なんだか馬鹿馬鹿しいことをしているようにも思えてきた。でも、小林は私と同じように深呼吸をしてくれた。先生なら絶対にしてくれないな。
「確かに気持ちいいわ〜。天才だね。」
「いやいや、頭脳戦では負けますよ。」
「そう?空音ちゃんは生活力があってみんながワッと驚くような知識ばっか知ってるじゃん。そういう子の方が魅力的だよ。」
小林は右肘をベンチにかけて足を組みながら話していた。
「あの、一つ質問いいですか?」
「うん、いいよ。」
「あの、朝倉先生の好きな色って、何ですか?」
「アイツの好きな色?うーん、何だっけな〜。」
小林は左上を見上げながら考えていた。
「確か、ピンクだったかな?」
私は思わず、ピンク?と言い返した。思っていた答えとは違う答えが返ってきて、少し驚いてしまった。
「アイツって結構下の妹がいるのね。確か今5歳とかだったかな。お母さんがめっちゃ若ママで。妹がピンク好きだから涼もピンク好きって言ってたよ。男のくせにピンクとかおもろいよなー!」
小林は笑った時に出るほうれん線を浮かべていた。私はその姿を見てクスッと笑ってしまった。
「おもろいよな?!」
「先生は黒とか灰色とかがお好きなのかと。」
小林はさらに大きな声をあげて笑った。私は彼を宥めるようにして言葉を発した。
「ありがとうございます。」
「いえいえ。こっちもごめんねー。めっちゃ笑ちゃって。」
私は小さくお辞儀をした。小林はきっと、いい人なんだろうなとつくづく思う。
「……あれ。」
私はお辞儀をして顔を上げた後、視界がフラッと少し揺れた。
「空音ちゃん?大丈夫?」
「すみません。」
小林は私の顔を覗き込んだ。そして、手の甲を額に当てた。
「少し熱いね。もうそろそろ戻った方がいいかも。」
「わかりました。」
「歩ける?」
「歩けます。」
徐々に視界が遠のいていく。しかしここで意識を失えばまた迷惑をかけてしまう。ここはグッと堪えよう。
私は点滴スタンドに触れて自らの力で立ち上がった。フラフラになりそうでも、誰かの力なんて借りない、自分の足で戻ろうと決意していた。
「あ、あぶなっ。」
しかしやっぱり私はダメな人間だった。結局自分の足で歩きたくても歩けなかった。
小林に腕をぎゅっと掴まれた。なぜなら私が転びそうになったからだった。
「ゆっくり戻ろう。」
そう言いながら私の腕を握ったまま中庭の出入り口に向かった。
「すみません。」
「大丈夫だよ。怪我する方が危ないからね。」
小林は笑いながらこちらを見た。点滴スタンドを押す手が、こんなにも震えるのは何故だろうか。掴まれている腕を見るとモヤモヤするのは何故だろう。
「このことは涼に言っておく?」
「大丈夫です。いつものことなんで。」
「そっか。」
やっば。親友って口癖が似るんだ。驚いた。先生もしきりに、そっか、と言う。
「小林先生、お仕事は…..」
「あー4時まで診察入ってなくて。それに今は別の人がやってくれてるから。」
「そうですか。」
私は不安になりながらもエレベータのボタンを押した。
「今日は人が少ないな〜。」
「4階はたくさんいましたよ。」
「ほんとぉ〜?」
小林と話すのは苦ではない。楽しいし彼自身が明るい人だからこちらまで明るくなれる。しかし、どうしても彼と話すときに必ず”先生”を思い浮かべてしまう。
そんな自分が嫌になる。
ピンポーン
エレベーターがきて二人で一緒に乗り込んだ。エレベーター内には二人の看護師と医師が一人いた。
「お疲れ様でーす。」
小林が耳に響く声で挨拶をした。彼は先生と違って声が低くいくせによく響く。
私はたちは無言の空間の中ひたすら4階に着くのを待った。
「どーぞ。」
「あ、ありがとうございます。」
一緒に乗っていた1人の医師が開いた扉を抑えてくれた。
私はお礼をした後、小林とエレベーターを降りた。
「あの人だれ?」
「脳神経外科の木坂先生。むっちゃ頭いいんだよあの人。今もきっと手術終わりなんじゃないかな。」
小林はそう言いながら私の横を歩いた。
「そうなんですね。小林先生は確か耳鼻咽喉科でしたよね?」
彼は、よく覚えてるねーと私を褒めた。私は少し照れ臭くなり愛嬌を浮かべた。
ナースカウンターの前を通ると、不思議そうに何人もの看護師がこちらを見た。その中に一人、見たことのある人が私たちのところへ駆け寄ってきた。
「空音ちゃーん!って、なんで悠仁くんがここに?!」
それは、担当看護師の佐野さんだった。彼女は小林と研修医時代からの仲であり、親しい関係にあった。
「たまたま中庭に行ったら白夜ちゃんがいて、少し熱があったから一緒に戻ってきてたところ。涼はいる?」
小林は先生をキョロキョロと探し始めた。
「今は出てていないよ。どうして?」
「いやこの子の体調が心配で。一応診てもらった方がいいかなって。」
「そう。空音ちゃん今の体調はどんな感じ?いつもと違うところある?」
佐野さんの視線が私に向いた。彼女は片手に何か資料を持っていた。それに目を向けた後、私はゆっくりと首を横に振った。
「さっきまで熱かったけど、今は室内に入ってよくなりました。」
彼女はよかったと言って再び目の先を小林に向けた。
「ありがと。助かったわ。」
「ここまでで大丈夫?」
「うん。」
「それじゃ、俺はここで。またね空音ちゃん!」
小林はそう言ってその場から離れようとした。こちらに背中を向けて歩いていこうとしていた。
「あの、ありがとうございます!」
私は大きな声で小林にお礼を言った。すると、彼はゆっくりと振り向いてこちらを見た。
「気ぃつけろよ!」
片手を上げながら彼はエレベーターに向かって歩いた。
「チャラそうに見えていい人だよね。あの人。」
隣にいた佐野さんが小雨のようにポツリと呟いた。私はその横顔を見て、何かを悟った。
「病室、戻ろっか。」
そう言って私の背中に触れてゆっくりと押し出した。小林悠仁。
先生と佐野さんの友人であり耳鼻咽喉科の医師として働いている。背丈があり声が高い人。そして、少し変人。彼に取って私とは、どんな存在なんだろうか。
「空音ー!」
後ろから私の名前を呼ぶ声がした。誰だろうと思い後ろを振り返ると、そこには小話の横からひょこっと現れた葉那だった。
「はな!やっほー!」
彼女は息を荒げて少し興奮気味になっていた。
「なんかめっちゃ疲れてんね。どうした?」
私が事情を聞くと、彼女はある人を指さして言った。
「あれ、誰?!」
指の先には、エレベーターで仁王立ちしている小林だった。
「あれは、先生の友達の小林先生。」
「あ!なるほどなるほど。」
私がなんで?と聞くと、葉那は軽くジャンプをしながら小声で口元を私の耳に近づけた。
「いやいやイケメンすぎない?!ほんとにドタイプって感じなんだけど。」
「なるほどね〜。」
葉那は面食いなところがある。街にイケメンがいれば見惚れてしまう系女子だった。今回もきっと同じケースだろう。
「二人で病室行く?」
「すみません。」
佐野さんはこの場の空気を読んでくれて私たちから離れてくれた。
私はお辞儀をして何度もすみませんと言った。
「葉那?一旦病室行こ?」
「おいちょっと待って。エレベーター乗るまで。」
葉那は小林から決して目を離さなかった。彼の姿が消えるその直前まで決して。
「......あー!!!行っちゃったー!!!」
葉那は泣き叫ぶようにして私の肩に寄りかかった。
「よしよし。じゃあ、葉那のこと話しておくよ。」
「ほんと?!絶対だよ?!」
葉那は大きな声で叫んだ。
私は葉那の腕を引っ張りながら病室に向かった。彼女は上機嫌になり軽快なスキップを披露していた。その代わりに周りの視線が苦しかった。
【後書き】
「ふわぁ〜!」
俺は、いつの間にか寝てしまっていた。机の上に広がる資料を見て現実に戻された気分だ。隣には、頬杖をつきながらうたた寝していた悠二がいた。
そして、前にはぐっすり眠ってしまっている空音がいた。
「空音?病室戻ろ。」
「うぅ〜ん。」
これは、ガチ寝だ。起こそうとしても起きない。
俺は立ち上がり、空音の腕を持ち上げ、自分の肩に回した。そして、足を持ち、おんぶをした。
彼女の点滴スタンドを運びながら、暗い廊下を歩いた。
「空音。ぐっすり眠りなさい。現実を忘れるんだ。」
空音の返事はない。
廊下には、空音の息と、自分の足音だけが響いていた。
先生は交互に私たちを見つめた。
「知り合いっつうか、話したことあるんだよね〜。」
「何で話したことあるのさ?」
「いや、私はこんな人‥‥あ!」
『あ、俺、小林悠仁。耳鼻咽喉科で働いてるんだー!君の名前は?』
「あーー!!!!!小林さん!」
「そうそう!小林悠仁!覚えてた?」
「覚えてます覚えてます!」
私は彼のことを思い出した。確か、検査準備中に廊下で待っていた時、突然話かけてきた人。そして、佐野さん曰く二人の研修時代からのお友達。二人というのは、小林さんと先生。まさかの繋がりに、驚いたのを覚えている。
そして今、全てが繋がったのだ。
「ここで話すのもなんだし、部屋ん中入る?」
「いやいや、白夜さんもうすぐ消灯時間だし。」
「そうですそうです!ありがたいけど、今日はもう」
しかし、小林さんは私も先生の忠告を聞かずに私たちの腕を掴んで部屋の中に放り込もうとした。
「ちょ!ちょっと!」
ガチャン!
「お前何すんだよ。」
「いいじゃんいいじゃん!」
「ったくなんなんだよ。」
先生は頭を掻き回しながら椅子に座った。私は点滴に手を触れながら立ちつくしていた。
すると、小林が手ぶりで呼んできた。
「こっち座んなよ。汚くてごめんね〜。あ、あたりめいる?」
「あ、ありがとうございます。」
よくわからないが、とりあえずお礼を言った。私は先生の隣に座って小林さんが持っているあたりめを一つもらった。
耳鼻咽喉科の部屋かと思ったが、耳鼻咽喉科用の休憩室のようだった。丸い机には大量の資料が広げられており、すぐそばにはホワイトボードには人体の絵とともに矢印がたくさん書かれていた。
「これすごいっしょ。涼ちゃんが書いてくれたんだ〜。涼ちゃんって心臓系のお医者さんでしょ?だから今日までにめちゃくちゃ人体の絵を書いてるわけよ?ほんとにうますぎるんだよ書くのが!ね!涼ちゃん!」
「あーもううるさいうるさい。最近寝不足なんだから静かにして‥‥。」
陽気な小林先生とは正反対に、先生は大人しかった。机に突伏せてもうすでに寝てしまっているのではと思うほどだった。
「あぁ〜寝ちゃったねこれは。」
「そうです、ね?」
私は先生の顔を覗き込んだ。先生はびくともしなかった。少しだけだが、寝る時の吐息が聞こえてきた。
「コイツさ〜無愛想でだんまりしてるでしょー?」
小林さんは頬杖をつきながらこちらを向いて話してきた。私は顔と体の向きを彼の方に向けた。
「いや、そんなことないと思います。」
「えぇー!マジー?研修の時なんかだんまりしてて地味な奴と思ったわ。って、そういえば俺らって研修時代からの友達なんだよね。知ってた?」
「一応。佐野さんから聞いてました。」
「あいつか〜。佐野ちゃんは口軽いからそういうことすぐ言っちゃう性格なんだよね〜。」
「そうだったんですね。」
「うん。なんか飲む?烏龍茶とコーヒーと他にもあるけど。」
「白湯でお願いします。」
「おっけー。」
小林さんは立ち上がって奥の部屋に行ってしまった。辺りを見回すと、やっぱりここは病院なんだなと改めて思う。こんな大人の男性と話してて、たまに自分を見失うことがある。でも周りを見れば病院世界に連れ戻される。
「もう部屋戻ったら。」
すると、先生が顔だけこちらに向けて呟いた。先生はさっきまで寝ていたのに、急に起きていてさらにこちらを向いていて驚いた。
「先生こそ、ちゃんと寝た方がいいかと思います。」
「はぁ〜!そうだな。じゃあ子守唄でも歌ってよ。そしたら寝れるわ。」
「子守唄?何言ってんですか。ちゃんと寝てください。」
「お前が歌わないと寝れない。」
「はぁ〜‥‥ね〜んねん、ころ〜り〜よ。」
この時間は、なんなんだ。笑えてくるよ。だけど、不覚にもこの瞬間は幸せに感じた。
目を瞑っている先生は、とっても綺麗な顔をしていた。腕は下にぶら下げていた。私はいつの間にか先生の背中をさすっていた。
何やってんだろ私。
もうすぐ死ぬっていうのにこんなことして。恋なんてしても実るわけがないのに。
「すぅ〜、すぅ〜。」
先生の顔を見て、私は少しだけ笑ってしまった。
その顔に、自分がときめいていることに気がついた。
「は〜い白湯持ってきたよ。」
「ありがとうございます。」
私は急いで先生の背中から手を離して白湯が入ったコップを受け取った。手にじわっと温かみが伝わってきた。
「いただきます。」
お腹がスゥーッとあったかくなった。
「美味しい〜!やっぱ紅茶が一番美味しいんだよ。」
小林さんはやたらと独り言を呟いていた。私は無視をしていたが、一応目線は向けていた。
「空音ちゃんの目ってまんまるで大きいよね〜。お父さん譲り?お母さん譲り?」
「お母さんだと思います。母は私が小さい頃に事故で亡くなってしまったらしいです。」
「そうだったの?!じゃあお顔も見たことがないの?」
「はい。」
「へぇ〜。きっと空音ちゃんに似て綺麗な人だったんだろうなぁ〜。」
「何言ってんですか。冗談はよしてください。」
小林さんは、ごめんごめん、と言いながら再び口に紅茶を運んだ。こういうところは少し先生に似ていた。
「それでさ〜!コイツの注射が下手くそで!もう俺の腕血だらけだなの!」
「そんなに下手だったんですか?」
「うん。今もそうじゃない?」
「確かに。実は私、入院してから先生の注射を受けたことがないんです。基本は佐野さんがやってくれてて。」
「あー何か納得できるわ。佐野ちゃん院内で一番注射がうまいって言われてるし。」
私たちはしばらくの間雑談をした。先生は研修医時代、注射を打つのが大の苦手だったらしい。練習台かつ実験台として小林さんの腕を使って練習をしたが、針がうまく通らず何度も刺した末に腕が血だらけになり殺人事件のようになってしまったらしい。これは彼らがいた代の中で武勇伝として受け継がれている。
「小林さんは研修どうだったんですか?」
「俺はね〜耳鼻咽喉科の長さんに反抗してて嫌われてたよ。何か言われたらすぐ言い返してたからお前は医者に失礼だって何度も言われたんだ〜。俺は今その人の下で働いてるんだけどね。」
小林さんは笑いながら話しているが、当時はきっと相当な研修医だったんだろうな、と第三者の私が思う。
「はぁ〜にしても眠すぎる!」
ガン!
「いってぇ〜。」
小林さんは頭を思い切り机に叩きつけた。鈍い音とともに私は思わず目を背けた。彼は佐野さんと似て全ての行動の流れが滑らかだった。滑らかというか、もはや忙しすぎて私には早すぎた。
「すぅ〜、すぅ〜。」
あれ?
小林さんがなかなか起き上がらないので、私はそっと耳をすましてみた。すると、小さな吐息が微かに聞こえた。二人揃って寝てしまったのだ。
「はぁ。」
私はため息をついた。普段ならくだらないな、とか、何やってんだよと思う。だけど、今は二人のことを寝かせてあげたいと思う。だって周りを見てみなよ。信じられない量の資料があるんだもん。そこには何度も書き直した跡や走り書きで書いたものがあったりした。使い古した鉛筆や角の削れた消しゴム。
「‥‥‥。」
私は近くにあったクマさん柄の毛布を二人にかけた。お揃いで買ったのか、色違いの同じような毛布だった。
二人に毛布をかけた後、私はもともと座っていた席に着いた。大きく背伸びをした後にあくびをした。時計の時刻を確認すると22時を回っていた。とっくに就寝時間は過ぎていて、早く部屋に戻らないとと思った。だけど同時にもっとここにいたいとも思った。ここにいて話していれば時間が過ぎていくし、楽しいと思える。二人の仲の良さを見ていられるのは、とっても幸せなことなんだと気づいた。
私も先生と同じ体勢になり、頬を自分の腕で支えて上半身だけを寝転んだ。
「‥‥‥。」
普段は大きな二重瞼をして私を見つめるからなかなか顔を見れない。
でも今だけは、先生は目を瞑っているから何時間も見ていられる。よく見ると、根本からしっかりと生えたまつ毛が何本もあった。まつ毛の長さすら勝てないんだな。それに堀も深くて鼻がとんがってる。顎もシュッとしてて。もし男性に生まれ変われるなら先生の顔で生まれたいな。
かっこいい‥‥。
いつからだろう。先生のことを特別な目で見るようになったのは。入院したての頃はただの善良な医者だと思っていた。検査に間違いはないし聴診器の音も正確に測れる。
いたの日か、雨で髪の毛が濡れてしまった時、先生がタオルを持ってきて私の頭を拭いてくれたことがあった。ゴシゴシと力強く拭かれたから少し痛かったのを覚えてる。
その後、お礼を言うと先生は優しく頭を撫でた。
『どういたしまして。』
『え?』
『俺は先に戻ってますよ。』
多分私はあの日から、先生のことを好きになったと思う。撫でた手の暖かさが妙にドキンとした。感じたことのない感情に襲われて当時は混乱するしかなかった。
少し、わかった気がする。この感情。
「かっこい。」
私はそう言いながら先生の頬を触った。すると、先生は優しく微笑んだような気がした。
私は、こんな人を好きになってしまったのか。
先生は人を救う人なのだ。病気の人のために、家族のために、友人のために。
って、何考えてるんだろ私。もうすぐで死ぬっていうのに。人を好きになるのに時間はいらないというが、やっぱり時間は必要だと思う。
「ふわぁ〜!」
私は再び大きなあくびをした。眠気に勝とうと考え事をしていたのかもしれない。だけどもう限界だった。腕を組んでゆっくりと目を瞑った。
ピピー!ピピピ!
「空音ちゃん!空音ちゃん!」
「うぅ〜ん。」
小鳥の鳴き声が微かに聞こえてきた。10月に入って全国で秋晴れが始まった頃。冷房が必要なくなった今日はとっても幸せな起床ができる。
私は目が覚めると、フカフカのベッドに寝転んでいた。
「診察の時間だよ〜。」
あれ?いつの間にか、朝になっていた。
「しんさつ?」
「うん。もう先生来てるよ?」
私は急いで起き上がって入り口を見た。そこにはいつもと変わらない先生が立っていた。ボードに資料を挟んで睨めっこをしていた。
「あれ?私昨日ってここにいました?」
「昨日?何言ってるの?」
佐野さんは呆れた顔でこちらを見つめた。
私の最後の記憶だと、小林先生と話して二人とも寝ちゃって毛布をかけた。そこから私も寝てしまった。なんで私、ベッドにいるの‥‥?移動した覚えないんだけど。
「何寝ぼけてんのよっ!先生、お願いします。」
「白夜さんおはよう。心音聞くね。」
先生は何事もなかったように近くのパイプ椅子に座り私の前にきた。
首に巻いていた聴診器を外して私の胸に当てようとした。
「先生昨日って」
私は先生に昨日のことを聞こうとした。しかし先生は私の目を見て首を振った。まるで“何も言うな“というふうに言っているようだった。
それから私も話さなくなり、下を向いたまま診察が終わるのを待った。
「うん。大丈夫だね。」
「ありがとうございます。」
私は立ち上がる先生を見上げた。昨日の謎とは裏腹に、先生の顔は清々していた。
「空音ちゃん?朝ごはん持ってくるね!」
佐野さんは先生の横からひょこっと顔を出して言った。
その声で我に返り、私は目線を先生から別の方向に向けた。
「それじゃあ、失礼します。」
先生は私にお辞儀をして部屋を出ようとした。それに続いて医療重機を運びながら佐野さんも一緒に出て行った。二人が病室を出て、扉が閉まるまで二人のことを見続けた。
「ほんと、どうゆうこと‥‥。」
私は独り言をぶつぶつと呟きながら布団に寝転んだ。考えるのはやめよう。
朝食が来るまで、目を瞑った。
「ごちそうさまでした。」
私は箸を置いた後、手と手を合わせた。今日はわかめご飯に大根の味噌汁、金平牛蒡と鮭の塩焼きという何とも日本人らしい朝食だった。
私は立ち上がって外出用の靴を履いた。厚底で身長が少し盛れる靴だ。両手にお盆を待ちながら左手の小指と薬指で点滴を押した。いつもなら佐野さんが回収しにきてくれるが、今日はすぐにでも中庭に出たかったため、自分で食器を返しに行った。
病室の扉を閉めたあと、お盆を落とさないようにいつもよりゆっくりと歩いた。
食器が割れたらたくさんの人に迷惑がかかる。だから慎重にいかなくてはならないのだ。
「すみませーん。」
ナースカウンターの前まで来れた。カウンター内にはたくさんの看護師がいたが、佐野さんの姿は見当たらなかった。
「あ、空音ちゃん!お盆返しにきてくれたの?」
「はい。これお願いします。」
一人の看護師さんがこちらに駆け寄りながら話してきた。無論、彼女も知り合いだった。
「ありがとう〜!」
彼女は笑顔にお礼を言ってきた。私は対応に困り軽くお辞儀をした。どこの看護師も笑顔が眩しい。疲れているはずなのにそんな気を感じさせない。もはやプロの技だった。
私はそのままの足でエレベーターに向かった。すでに中央広場では多くの人で賑わっていた。ほとんどがじじばばだけど。彼らもまた、お互いを認知していた。
ピンポーン
ボタンを押していないのにも関わらず、運良く下に行くエレベーターがきてくれた。
少し小走りになりながら乗り込んだ。中から佐野さんが出てきた。
「あれ?空音ちゃんどうしたの?」
「中庭に行くところです。」
「そっか〜!気をつけてね!」
もう少し遅れていたら、佐野さんにお盆を返せたのかな。持ってきてくれた本人に返したかったのに。でもそれを本人に言う勇気はなかった。
私は冷たい対応をしながらエレベーターに乗り込み扉を閉めるボタンを押した。
扉が閉まったあと、私は点滴スタンドから手を離して軽く背伸びをした。一瞬にして身体中の筋肉が収縮するのを感じた。
上を見上げると、もうすぐ一階に着きそうだった。
一階につき私は点滴スタンドを引きずりながらエレベーターから降りた。すでに人盛りであった。
そのままの足で私は点滴スタンドを押しながら中庭に向かった。中庭には裏口から出ればすぐのところにあると知っていた。エレベーターから降りて目の前にある細い道を進めば裏口がありそこから中庭に行ける。
私は歩きながら壁に貼ってある院内のイベント表に目を向けた。一番直近で開催されるのが、シニアと小児の運動イベントだった。こんなの参加したところで、と思ってしまう。こんなひん曲がった性格だから友達少ないんだろうなー。
加えて今日は何だか気分が上がらない。ズーンと疲れている感じがした。
ガチャ
手動の裏口扉を出て広い中庭に出た。そして中庭のいつものベンチに腰掛けた。ここは私の定位置であり、安心できる場所だった。
点滴を横に置いて片手に持っていた紙とペンを取り出した。
今日も漫画を書こう。
そう思ってここまできたのだ。
そして、漫画の材料となる昨日の出来事を思い出した。
昨日の夜は、先生のところに行って小林先生と三人で話すという謎展開があった。そのことを先生に聞こうとしても流されてしまう。なぜだろうな。
私はペンを持って小さな紙にコマ割りを描き始めた。その中に先生や小林先生を描いていった。小林先生はシュッとした目なのにぱっちりとしている目をしている。鼻筋は綺麗にとんがっていて、唇は薄く横に広がっている。笑うとほうれん線が美しく映る。まるで俳優のような顔をしていた。顔立ちが整っている人を描くのは楽しい。完成した時の達成感と漫画の雰囲気が好きだからだ。
ある程度書き終えた後、一度ペンを置いて呼吸を整えた。
「ふぅ〜.......はぁ。」
大きく息を吸って新鮮な空気を思い切り吸った。目の前にある大きな木の葉の隙間から吹く秋風が頬を優しく撫でた。この間にも時は進んでいく。同時に、私が死ぬ時も近づいている。
もうすぐ、死んじゃうのかな———
「やっほー。おーい。」
「うわっ!小林先生?」
「うん。そんなびっくりする?」
後ろから声をかけられた。その声の主は、先生の友人である小林悠仁であった。
「なにしてんの?」
彼は本当に医者かってくらい底が明るく笑顔を絶やさない人だった。
小林先生は私の隣にスッと座ってきた。
「いつもここに来るんです。ここは大きな木があって風が気持ちいいんです。」
私は大きく息を吸ってお手本を見せた。
「ほら!小林先生も息吸って!」
二人で大きく息を吸って吐いた。なんだか馬鹿馬鹿しいことをしているようにも思えてきた。でも、小林は私と同じように深呼吸をしてくれた。先生なら絶対にしてくれないな。
「確かに気持ちいいわ〜。天才だね。」
「いやいや、頭脳戦では負けますよ。」
「そう?空音ちゃんは生活力があってみんながワッと驚くような知識ばっか知ってるじゃん。そういう子の方が魅力的だよ。」
小林は右肘をベンチにかけて足を組みながら話していた。
「あの、一つ質問いいですか?」
「うん、いいよ。」
「あの、朝倉先生の好きな色って、何ですか?」
「アイツの好きな色?うーん、何だっけな〜。」
小林は左上を見上げながら考えていた。
「確か、ピンクだったかな?」
私は思わず、ピンク?と言い返した。思っていた答えとは違う答えが返ってきて、少し驚いてしまった。
「アイツって結構下の妹がいるのね。確か今5歳とかだったかな。お母さんがめっちゃ若ママで。妹がピンク好きだから涼もピンク好きって言ってたよ。男のくせにピンクとかおもろいよなー!」
小林は笑った時に出るほうれん線を浮かべていた。私はその姿を見てクスッと笑ってしまった。
「おもろいよな?!」
「先生は黒とか灰色とかがお好きなのかと。」
小林はさらに大きな声をあげて笑った。私は彼を宥めるようにして言葉を発した。
「ありがとうございます。」
「いえいえ。こっちもごめんねー。めっちゃ笑ちゃって。」
私は小さくお辞儀をした。小林はきっと、いい人なんだろうなとつくづく思う。
「……あれ。」
私はお辞儀をして顔を上げた後、視界がフラッと少し揺れた。
「空音ちゃん?大丈夫?」
「すみません。」
小林は私の顔を覗き込んだ。そして、手の甲を額に当てた。
「少し熱いね。もうそろそろ戻った方がいいかも。」
「わかりました。」
「歩ける?」
「歩けます。」
徐々に視界が遠のいていく。しかしここで意識を失えばまた迷惑をかけてしまう。ここはグッと堪えよう。
私は点滴スタンドに触れて自らの力で立ち上がった。フラフラになりそうでも、誰かの力なんて借りない、自分の足で戻ろうと決意していた。
「あ、あぶなっ。」
しかしやっぱり私はダメな人間だった。結局自分の足で歩きたくても歩けなかった。
小林に腕をぎゅっと掴まれた。なぜなら私が転びそうになったからだった。
「ゆっくり戻ろう。」
そう言いながら私の腕を握ったまま中庭の出入り口に向かった。
「すみません。」
「大丈夫だよ。怪我する方が危ないからね。」
小林は笑いながらこちらを見た。点滴スタンドを押す手が、こんなにも震えるのは何故だろうか。掴まれている腕を見るとモヤモヤするのは何故だろう。
「このことは涼に言っておく?」
「大丈夫です。いつものことなんで。」
「そっか。」
やっば。親友って口癖が似るんだ。驚いた。先生もしきりに、そっか、と言う。
「小林先生、お仕事は…..」
「あー4時まで診察入ってなくて。それに今は別の人がやってくれてるから。」
「そうですか。」
私は不安になりながらもエレベータのボタンを押した。
「今日は人が少ないな〜。」
「4階はたくさんいましたよ。」
「ほんとぉ〜?」
小林と話すのは苦ではない。楽しいし彼自身が明るい人だからこちらまで明るくなれる。しかし、どうしても彼と話すときに必ず”先生”を思い浮かべてしまう。
そんな自分が嫌になる。
ピンポーン
エレベーターがきて二人で一緒に乗り込んだ。エレベーター内には二人の看護師と医師が一人いた。
「お疲れ様でーす。」
小林が耳に響く声で挨拶をした。彼は先生と違って声が低くいくせによく響く。
私はたちは無言の空間の中ひたすら4階に着くのを待った。
「どーぞ。」
「あ、ありがとうございます。」
一緒に乗っていた1人の医師が開いた扉を抑えてくれた。
私はお礼をした後、小林とエレベーターを降りた。
「あの人だれ?」
「脳神経外科の木坂先生。むっちゃ頭いいんだよあの人。今もきっと手術終わりなんじゃないかな。」
小林はそう言いながら私の横を歩いた。
「そうなんですね。小林先生は確か耳鼻咽喉科でしたよね?」
彼は、よく覚えてるねーと私を褒めた。私は少し照れ臭くなり愛嬌を浮かべた。
ナースカウンターの前を通ると、不思議そうに何人もの看護師がこちらを見た。その中に一人、見たことのある人が私たちのところへ駆け寄ってきた。
「空音ちゃーん!って、なんで悠仁くんがここに?!」
それは、担当看護師の佐野さんだった。彼女は小林と研修医時代からの仲であり、親しい関係にあった。
「たまたま中庭に行ったら白夜ちゃんがいて、少し熱があったから一緒に戻ってきてたところ。涼はいる?」
小林は先生をキョロキョロと探し始めた。
「今は出てていないよ。どうして?」
「いやこの子の体調が心配で。一応診てもらった方がいいかなって。」
「そう。空音ちゃん今の体調はどんな感じ?いつもと違うところある?」
佐野さんの視線が私に向いた。彼女は片手に何か資料を持っていた。それに目を向けた後、私はゆっくりと首を横に振った。
「さっきまで熱かったけど、今は室内に入ってよくなりました。」
彼女はよかったと言って再び目の先を小林に向けた。
「ありがと。助かったわ。」
「ここまでで大丈夫?」
「うん。」
「それじゃ、俺はここで。またね空音ちゃん!」
小林はそう言ってその場から離れようとした。こちらに背中を向けて歩いていこうとしていた。
「あの、ありがとうございます!」
私は大きな声で小林にお礼を言った。すると、彼はゆっくりと振り向いてこちらを見た。
「気ぃつけろよ!」
片手を上げながら彼はエレベーターに向かって歩いた。
「チャラそうに見えていい人だよね。あの人。」
隣にいた佐野さんが小雨のようにポツリと呟いた。私はその横顔を見て、何かを悟った。
「病室、戻ろっか。」
そう言って私の背中に触れてゆっくりと押し出した。小林悠仁。
先生と佐野さんの友人であり耳鼻咽喉科の医師として働いている。背丈があり声が高い人。そして、少し変人。彼に取って私とは、どんな存在なんだろうか。
「空音ー!」
後ろから私の名前を呼ぶ声がした。誰だろうと思い後ろを振り返ると、そこには小話の横からひょこっと現れた葉那だった。
「はな!やっほー!」
彼女は息を荒げて少し興奮気味になっていた。
「なんかめっちゃ疲れてんね。どうした?」
私が事情を聞くと、彼女はある人を指さして言った。
「あれ、誰?!」
指の先には、エレベーターで仁王立ちしている小林だった。
「あれは、先生の友達の小林先生。」
「あ!なるほどなるほど。」
私がなんで?と聞くと、葉那は軽くジャンプをしながら小声で口元を私の耳に近づけた。
「いやいやイケメンすぎない?!ほんとにドタイプって感じなんだけど。」
「なるほどね〜。」
葉那は面食いなところがある。街にイケメンがいれば見惚れてしまう系女子だった。今回もきっと同じケースだろう。
「二人で病室行く?」
「すみません。」
佐野さんはこの場の空気を読んでくれて私たちから離れてくれた。
私はお辞儀をして何度もすみませんと言った。
「葉那?一旦病室行こ?」
「おいちょっと待って。エレベーター乗るまで。」
葉那は小林から決して目を離さなかった。彼の姿が消えるその直前まで決して。
「......あー!!!行っちゃったー!!!」
葉那は泣き叫ぶようにして私の肩に寄りかかった。
「よしよし。じゃあ、葉那のこと話しておくよ。」
「ほんと?!絶対だよ?!」
葉那は大きな声で叫んだ。
私は葉那の腕を引っ張りながら病室に向かった。彼女は上機嫌になり軽快なスキップを披露していた。その代わりに周りの視線が苦しかった。
【後書き】
「ふわぁ〜!」
俺は、いつの間にか寝てしまっていた。机の上に広がる資料を見て現実に戻された気分だ。隣には、頬杖をつきながらうたた寝していた悠二がいた。
そして、前にはぐっすり眠ってしまっている空音がいた。
「空音?病室戻ろ。」
「うぅ〜ん。」
これは、ガチ寝だ。起こそうとしても起きない。
俺は立ち上がり、空音の腕を持ち上げ、自分の肩に回した。そして、足を持ち、おんぶをした。
彼女の点滴スタンドを運びながら、暗い廊下を歩いた。
「空音。ぐっすり眠りなさい。現実を忘れるんだ。」
空音の返事はない。
廊下には、空音の息と、自分の足音だけが響いていた。
