「あ、アンリエッタ、まだ……いたのか」

 屋敷のダイニングに入った私を見るなり、夫は慌てたように椅子から立ち上がる。
 その拍子(ひょうし)に椅子が後ろに倒れ、ガタンという大きな音が響き渡った

 怯えた彼の緑がかった瞳がこちらを凝視する。
 さきほどの夫の言葉、いたのかの前に『生きて』が付いていたことくらい、声に出されなくとも分かる。

 部屋の中でさえ深くフードを被っている私を、夫は引きつった笑顔を浮かべなら見ていた。

 結婚三年目。
 私は金のためにあてがわれた妻であり、白い結婚だ。

 それでもこの三年間、私たちは朝の食事の時間だけは共に過ごしてきた。
 そう、私がこの病にかかるまでは。

「もうここには来てはいけませんでしたか?」

 私の問いに、夫は怯えた表情を浮かべた。
 そしてよほど不安なのか、何度も癖のある茶色い髪に触れている。

 彼が私の病のことを嫌っているのは知っている。
 もっとも、おそらく誰だってそうだろう。

 治療法があるとはいえ、この病は感染性(かんせんせい)で人から人に感染(うつ)るのだから。

「いや、そういう意味ではなくてだな……。その様子では、治療はまだなのだろう? 僕や母上にソレが感染りでもしたら、大変じゃないか」
「ではダミアン様、ずいぶん前にお願いしておいた私の治療費の工面はどうなったのですか?」

 確かにこれは感染すれば大変な病だか、つい最近治療法が見つかったのだ。

 その薬さえ飲めば、まだ助かる。
 そう、致死性(ちしせい)があるこの病から逃げられるのだ。

 だけど……。

「この男爵家が困窮(こんきゅう)しているのは君が一番よく知っているだろう。到底、治療費なんて用意出来るわけがない。そういうのは君の父上に頼むといいじゃないか」
「そうよ。元々平民のくせに、この由緒ある男爵家に金で嫁いで来たんですもの。お金を頼るなら、実家にしなさい」

 夫にとてもよく似た義母は、名案だとばかりに怯えながらも、大きく頷く。

「ですが父は……」
「嫁のくせに、口答えなどしてもいいと思っているの⁉」

 嫁というものは、家族ではなかったのかしら。仮にもこの家に嫁いできた身なのに。
 でも、そうね。
 いつだって私の言葉をこの人たちが聞いてくれたことなどなかった。