やってしまった⋯⋯。

遠ざかる藤堂家をミラー越しに見つめながら、
僕は目を瞬かせた。

「⋯⋯」

隣に座る藤堂椿も無言で目を瞬かせている。

どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。

特にプランがあったわけではなく、
今回のはまさに衝動的にやってしまった案件である。

「ええ、藤堂様をお連れいたします。
今からですと、そうですね、30分程で到着するかと。
ええ、愁夜様と食事をなさいます」

頭が真っ白になっている僕を気遣い、
執事の坂下が運転席から電話をかけて
皇家に色々指示を飛ばしてくれている。

「愁夜様、藤堂様、あちらに見えますのが
ガーデンフロンティアでございますよ。
ほら、今恋人たちに大人気のデートスポットのっ!」

坂下が精一杯僕達に気を使ってくれている。

ありがとう、坂下。

来季の昇給の件は
僕が必ず両親に責任を持って話を通しておくからな。

「だってさ、藤堂椿、今度一緒に行こっか。
人気らしいよ」

一応坂下の顔を立てて誘ってはみたけれど、
藤堂は応とも否とも反応しない。

ただ少し寂しそうに
車窓からその光景を眺めていた。

「なんでそんな顔すんの?」

僕は思わず藤堂椿の肩を抱いた。

藤堂椿はときどきこういう表情をする。

それは決まって
恋人たちに人気のスポットを見たときだったり、
僕がデートに誘ったときだったりする。

この間、僕が彼女にキスを迫ったときもそうだった。

まるで『この場所は自分の居るところではないから
他の誰かと来なさい』って暗に言われているようで
胸が苦しくなる。

「藤堂椿は、寂しいのかな?」

不意に口をついて出てきた言葉に、
彼女は目を見開いた。

「そこにいても
そこに居ることをいっつも否定しているよね」

驚いたのは、彼女の見開かれた瞳から
涙が溢れたこと。

僕は咄嗟に藤堂の頬に手をかけ、眦の涙を唇で拭った。

理屈ではなく、ほとんど本能だったんじゃないかな。

死ぬほど惚れてる女の涙を見てしまった
男の本能。

「皇⋯⋯お前⋯⋯何を?」

その出来事に藤堂椿が固まってる。

「君の涙を拭ったんだけど、何か?」

しれっと言ってやった。

「⋯⋯すんごいテクニックだな。
お前、落ない女いないだろ?」

さっきとは違う表情で、
藤堂は目をぱちくりさせている。

テクニックじゃねぇしっ!!!

紛うことなき君への純愛だしっ!!!

死ぬほど惚れてる女の涙を見たときの
男の本能だしっ!!!

他の女にするわけねぇしっ!!!

死ぬほど反論したかったが、

余裕ぶっこいて

「ご想像にお任せします」

とだけ言っておいた。

僕もなんだか泣きたくなった。

そうこうしている間に車は皇家に到着する。

僕は車から降りた藤堂椿の手を繋ぐ。

今日病院で藤堂椿に
『どうして手を繋ぐのか』って言われた。

それは、恐いからだ。

こうして手を繋いで、
自分のもとに留めておかないと、

彼女はふっと自分の元から
いなくなってしまうんじゃないかって、

そんな不安にかられてしまう。

そして漠然と抱いていたその不安は、
今日彼女の涙を見たことで、確信へと変わった。

彼女は僕の元から去ろうとしている。

そんな予感がしてならない。

「お前ん家に来るのも、
なんだか久しぶりだな」

藤堂椿は、そういって懐かしむような眼差しを
我が家に向けた。

婚約者という立場である以上、
お互い最低限の行き来はある。

だが僕達の場合、
それだけだった。

彼女がそれ以上の接触を拒んだからだ。

それでも小学生の頃はまだ良かった。

彼女にも僕に対して情らしきものはあって、
ケンカもするけど、
それなりに仲も良かったから。

だけど中学生に上がったころから、
明確に距離を置かれた。

理由は僕が格闘技で
藤堂椿に勝ったからだ。

柔道、空手、剣道、合気道⋯⋯。

藤堂椿は幼い頃から格闘系の習い事を色々やっていて、
めちゃくちゃ強かった。

そんな彼女に憧れて、
追いつきたくて、僕も必死に努力すること実に7年。

彼女に格闘技で勝てたら、
告白しようって
ずっと心に決めていたんだけど⋯⋯。

あの日、彼女は大泣きした。

僕もパニクってもう告白どころじゃなくなって、
必死に彼女を慰めたんだけど、

多分なんか色々やらかしてしまったんだと思う。

以来、彼女がまともに口をきいてくれなくなった。

思春期真っ只中、
あのときは死ぬほど辛かった。

川に身を投げようかって本気で考えたものな。

「もっと頻繁に来ればいいのに」

ふっと本音が口をついてしまった。

藤堂椿が驚いたような顔をする。

「だからなんでそんな顔をするんだよ?
ここは君の場所⋯⋯いや、僕達の場所なんだからさ」

僕は藤堂椿を背後から抱きしめた。

「ごめんね。
なんか手を繋ぐだけじゃ、
足りなくなっちゃってさ」

そう言って僕は藤堂椿の肩口に頭をもたせかけた。

「君は傍観者なんかじゃない。
当事者なんだ。
その自覚⋯⋯ある?」

僕がそう問うと、
藤堂椿は下を向いた。

「僕の婚約者であることも、僕の彼女であることも、
そして将来の僕の伴侶となるのも、
それは他の誰でもない君なんだよ、藤堂椿
そのことちゃん分かってる?」

僕の言葉に藤堂椿が耐えきれず小さく嗚咽を上げた。

「何が苦しい? 藤堂椿
どうして泣くの?
僕はどうしてあげられる?」

藤堂椿は僕の問には答えない。

ただ無言のままに泣き続ける。