キスまであと1mmという距離に迫ったところで、
藤堂椿は観念し、きゅっと目を瞑った。

刹那、ガチャリと音がして、
運転手の坂下が車のドアを開けた。

「愁夜さま、
ご命令の一時間が経過いたしましたので、
ただいま戻りました」

そう言って坂下は律儀に僕に一礼する。

「⋯⋯」

僕は無言のままに坂下を見つめ、
藤堂椿から身体を離した。

「た⋯⋯助かった〜」

藤堂椿は車のシートで
魂が抜けたように脱力している。

「あれ?」

そして何かの異変を感じたらしく、
クイクイと僕の制服の裾を引っ張った。

「うん? どうした?」

僕が藤堂椿を覗き込むと

「どうしよう⋯⋯腰が抜けちまった。
足に力が入らない」

と涙目で白状した。

「ぷっ⋯⋯見た目によらず、
意外とビビリなんだな」

僕は思わず吹き出してしまった。

なんなんだよ!
可愛すぎだろ、それ。

僕を萌殺す気か?

「うっうるさいな!
いきなりだったから
ちょっとびっくりしただけだろ!
っていうかあんな状況で
お前に迫られたら誰だって⋯⋯」

藤堂椿が真っ赤になって怒っている。

ああ、くそっ!
死ぬほど可愛い。

ああ、もうどうしよう。

確かに前に彼女に指摘されたように、
僕の頭は沸いているのかもしれない。

僕は恋の不整脈を整えるために
大きく深呼吸した。

そして出した結論がこれだ。

「坂下、今から藤堂のご両親に挨拶に行くから
手土産を用意してきてくれる?」

運転席に座る坂下にそう言って
僕は車を降りようとドアを開けた。

「ですが愁夜さまはどうなさいます?
この車でお送りしてから⋯⋯」

坂下が怪訝そうにそうに僕を伺った。

「いや、いい」

僕は車を降りて
彼女を車から引っ張り出す。

「えっ?」

足に力が入らず、
バランスを崩して
倒れそうになった彼女を受け止める。

「坂下、行け!」

そう命じてドアを閉めると
車は走り去った。

彼女は力なくその場にへたり込む。

「ほら、背負ってやるよ」

そうそう言って背中を差し出し、
しゃがんでやると、

「◯×△???」

藤堂椿がよくわからない言語をしゃべった。

「なんでそんな
地球外生命体を見るような反応なわけ?」

苦笑しながらそう聞いてみたけど、
彼女は答えず
ただ固まっている。

「えっ、いや、皇、それは⋯⋯ちょっと」

どうやら盛大にテンパっているようだ。

「だけど車はもう無い。
スマホも鞄ごと車の中だ。
どうする?
ほ〜ら、来い来い」

僕はテンパっている藤堂椿を更に煽ってやる。

「うぐっ⋯⋯」

しかし藤堂椿は尚も躊躇っている様子だ。

「お姫様抱っことどっちがいい?」

笑顔でそう聞いてやると

「こ⋯⋯こちらで⋯⋯
お願いします」

ようやく藤堂椿が僕の背中に手をかけた。

「わかればよろしい」

僕は藤堂椿を背負って歩き出す。

「な⋯⋯なあ、すぐそことはいえ、
やっぱり家に電話して
誰かに来てもらうから
降ろせよ。
お前めっちゃ震えて
生まれたてのバンビみたいになってるぞ?
プルプルしてるぞ? 無理するな」

背中の藤堂椿がめっちゃ僕に気を使っている。

「⋯⋯」

僕は言葉を発さない。
ただ無言のままに重圧に耐える。

「俺、こう見えてけっこう食べるから、絶対重いって」

藤堂はどうやら
自分の体重のことを気にしているらしい。

けどそういう問題じゃないんだよなぁ。

「体重云々の問題じゃないから、
気にしないで」

僕はそう言って、ひたすら歩き続ける。

男はなぁ、死ぬほど惚れてる女を背負ったら、
みんなこうなっちまうんだよ!
生まれたてのバンビになっちまうんだよ!
プルプルしちまうんだよ!
コンチクショー!

「な⋯⋯なあ、皇、
なんでお前はそんなしんどい目をして
わざわざ俺を背負うんだ?
俺への嫌がらせか?
罰ゲームなのか?」

盛大にテンパりながら
藤堂椿が恐る恐る聞いてきた。

その言葉に僕は笑いを忍ばせる。

ふ〜ん、
彼女はそんな風に感じるんだなぁ。

「まあ⋯⋯それもあるけど」

僕は言葉を切った。

喜びでもある。

彼氏としての特権ってやつ?

キスは拒まれたけど、
『君を背負うのは僕なのだ』という特権。

いや⋯⋯。

僕は自分の思考の澱に沈む。

「意地なのかもしれない」

そんな言葉が口をついて出た。

「意地?」

彼女が不思議そうに首を傾げた。

「そう、君の彼氏としての意地。
なぁに、君に日陰の愛人を強いられ、
キスを拒まれた哀れな男のただのプライドだよ」

もうすっかり日は暮れて、
家々には明かりが灯り、

行き交う人々が帰路を急いでいる。

不意にカフェのガラスに、
藤堂を背負う僕の姿が写った。

どこにでもある街の風景の中に溶け込んだ自分たちが、
一瞬普通に見えた。

もっとも彼女を背負って歩くカップルなんて
ほぼ無いんだろうけど、

それでも同じ学校の制服を着た僕らは
ただの高校生カップルに見えた。

同じ学校に通い、
放課後にハンバーガーショップで
デートしてって⋯⋯ごく普通のカップルに。

そんなことを思いながら歩いていると、
藤堂家の門構えが見えてきた。

一等地のお屋敷。

これが政略結婚という僕達の現実なのだ。

このインターホンを押せば、魔法は解け、
彼女は僕の彼女から、藤堂家の令嬢に戻る。

一抹の寂しさを感じながら、
インターホンに伸ばした僕の手を
藤堂椿がやんわりと押さえた。

「あっ⋯⋯あのな、皇愁夜⋯⋯。
よく聞けよ!
俺は⋯⋯そのっ⋯⋯
借りはあんまり作りたくないほうなんだ」

藤堂椿がなんだかしどろもどろになっている。

「けど、まだ唇は早いっていうか⋯⋯。
だから、これで我慢しろ!」

そう言って、藤堂椿の唇が僕の頬に触れた。