「茜さん、今日は来てくださって嬉しかったわ。またぜひ尚ちゃんと一緒にいらっしゃいね」

「こちらこそ、本当に美味しかったです。ありがとうございました」

 比沙子さんの笑顔に、私も本心の言葉を告げた。

 美味しいお料理、素敵なお店。
 素敵なご夫婦の見送りの笑顔。

 なんて素敵で、嬉しいんだろう。
 また絶対来たいと素直に思う。

「安西さん、俺からもありがとうございました」

 本庄課長がお礼を言って会釈していた。またね尚ちゃん、と声をかける比沙子さんを慌てて嗜めていたけれど、そんな光景も今では見慣れてしまった。

 食事の間、私達の会話が途切れそうになると、比沙子さんは絶妙なタイミングで現れて、色々な話をしてくれた。お料理の知識や由来、それから本庄課長の子供の頃の話まで。

 (本人は困った様な、照れたような表情を終始浮かべていたけれど)

 課長と二人で会話が続くか心配していたのがウソのように、レストランLa fleurでの夕食は、とても楽しいひと時を過ごすことができた。

「今日は付き合ってくれてありがとう」

 こちらを見つめる表情とは差異のある、率直な言葉に戸惑う。

 ―――レストランLa fleurを後にして。

 『もう少し話がしたい』と本庄課長に言われた私は、断る口実を見つけることができずに頷いていた。

 帰宅する道から少し離れ、近くの高台にある公園まできた課長は、ゆっくりと車を停車した後、先程の言葉を告げたのだ。

「いえ、あの、私こそ、今日はご馳走になってしまって。本当にありがとうございました」

「……いや」

 短いやり取りに、一体何を話せばいいのか困ってしまう。

 こちらはおごってもらった立場で恐縮しきりだ。

 もちろん自分の分は払うつもりだった。
 だけど課長は「いいから」の一点張りで、そのうえ比沙子さんに「顔を立ててやって」なんて言われしまい、断ることもできず結局おごられてしまった。

 そして今は二人きり。頷いておいてなんだけど、何を話しかければいいのかさっぱりだった。

 食事中は安西夫妻(主に奥様の比沙子さん)が話を挟んでくれたこともあって、思いのほか話題に悩まされる事もなく、そして緊張する事もなくゆったりとした時間が過ごせたのだけど。

 車内や、こうして二人きりになると、妙な緊張も相まってぎこちない態度になってしまう。

 でも、彼と一緒に過ごす空気は……嫌いじゃない。

 気持ちが僅かに浮き上がるような、そんな焦りはあっても課長と過ごす時の感覚は嫌ではなかった。

 彼の笑顔は時々、心臓に悪いけど……。

「少し外に出ないか?」

 そう促す彼に導かれるまま、私は頷き外に出た。

 中心地を見下ろす場所にあるここは、夜のデートスポットとして雑誌でもよく取り上げられている。

 眼前に広がるのは春の夜景。

 少し前に雨が降った後だからか、空気は澄んでいて。

 濃紺の空の下、キラキラと光る街の明かりが視界一杯に存在を主張してくる。

 車から外に出て、肌寒ささえ感じたはずなのに、私はその光景に一気に気分が高揚した。

「綺麗……」

 思わず口をついて出た言葉に、私の隣に来た課長が顔をこちらに向けて頷きを返してくれる。

 近すぎず、遠すぎない距離感は、まるで私を気遣ってくれているかに思えた。

 暫し無言で夜景を眺める。時間も少々遅めだからか、辺りに私達以外の人影は見えなかった。

 ふと、横にいる課長を見る。安西夫妻のレストランで垣間見えた柔らかな表情は、今はいつもの能面で隠されてしまっていた。

 夜の光を反射する銀縁眼鏡の奥で、この人は今何を考えているんだろう?

 『話がしたい』

 車内で言われた言葉を思い出す。まさか、と一瞬過ぎる思いを、そんな筈はないと掻き消した。

 平凡OLの私に、そんな展開は似合わない。ドラマの主人公ではないのだから。

 だけど、と。少し期待してしまう自分に恥ずかしさを感じてしまう。これは自惚れだろうか。

 あの地下倉庫での出来事。そして今日の事―――まさかと思う自分と、もしかして、と淡い期待を抱く気持ちが相反する。

 『能面課長』なんて言われているけれど、彼は十分魅力的だと思う。私が地下倉庫を苦手としているのに気付いてくれるくらい、人をよく見ているし、心配してくれたり優しい面もある。

 ただそれが、人より少しわかり辛いだけ。
 表情に出ないから近づきにくい、というのもあるのだろう。

 本庄課長の容姿はとても整っている。感情の起伏が無い分、余計に際立っているようにも思う。

 女子社員達がつけた二つ名の意味には「綺麗過ぎて恐い」というのも含んでいた。

 元々エリートだし、本当なら私など同じ会社でも別世界の人だ。

 上司と部下だからこそ、関わりがあっただけで。

 ……なのに、今こうして、二人で食事して、ここにいる。

 なぜ、と思ってしまうのは仕方なかった。
 どうして私なんだろう、と。

 他にも、魅力ある人はいっぱいいるのに……。

「ただ一度、食事しただけで自惚れるなと、思われるかもしれない」

 この場に自分が居る理由をぼうっと考えていると、目の前の無表情なのに真に迫る目をした課長が口を開いた。

 それが自分が考えていた事と似ていて、少し驚く。

 何を―――言おうとしてるんだろう。

「俺と、付き合ってくれないか。……嫌で、なければ」

 途中言葉を切って告げられた言葉を、すぐには理解できなくて。

 確かめるように、緊張をほぐすように指先にぐっと力を入れた。

 的中した自惚れが、今になって感情と動機を弾ませる。

「あ、の」

「返事はいつでも良い。考えていて欲しい」

 上手く言葉を出せない私の声を断つように、課長が口早に続けた。

 この話はもうこれで終わり、とでも言うように、車へと促される。

 展開に心が追いつかなくて、私は背に添えられた課長の手に導かれるまま、車に乗り込み帰路へとついた。