一体、あれは何だったんだろう……。

 そう考えながら、食堂で少し離れた所に座る本庄課長を見た。

 斜めからしか見えないけれど、彼はやっぱりいつもの能面顔で、時折銀色の眼鏡に指先で触れながら黙々とおかずを口に運んでいた。

 なんだか……全然おいしそうに見えないんだけど……。

 まあそれも、本庄課長らしいか……そう思いながら苦笑する。

 長い机がずらりと並ぶ中で、課長はいつもと同じ窓際の席で昼食を食べている。

 私はそこから少し離れたところでご飯を食べていた。ここ最近はずっとこんな感じだ。

 休憩前に必ず課長から仕事を言い渡され、遅れて休憩を取ると、同じく遅れた休憩を取っている課長が居る。

 別段話をするわけでもなく、席だって近くに座るわけじゃない。
 だけどここ1ヶ月ほど、ずっとこんなで……。

 あの後、地下倉庫から二人でオフィスに戻り、私は無事、時間までに資料を作成し提出した。

 で、遅れた昼食を社員食堂でとっているわけだけど……。

 本日の日替わり定食を頬張りながら、辺りを見回す。

 お昼の休憩時にはごった返している食堂も、始業ベル後はがらんとしている。

 ワイワイ騒ぐ声のかわりに聞こえてくるのは、食堂のおばちゃん達の雑談と、後片付けの音くらい。

「ふう……」

 食べ終わったお膳を返却口に出し、もう一度席につくとため息がでた。
 休憩が終わるまでまだあと二十分もある。

 化粧直しはご飯の前に済ませちゃったし、どうしよう。

 そう思いつつ、ふと課長の方を見た。

 課長はすでに食べ終えていて、手元にあるものを真剣に見つめていた。

 大きさからして文庫本だろうか。課長の大きな手に、小さな本が妙にアンバランスで可愛い。

 そう思うと自然と口元が緩んだ。

 さっきは、あの大きな手が私の頬に触れたのよね……。

 触れていたのは指先くらいだったけど、それでも伝わった熱は温かくて、でもドキドキして……。

 課長はどうして、急にあんなことをしたんだろう?
 雰囲気もいつもと違ってたし……。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか課長をじっと見つめてしまっていた。すると、突然課長がぱっと顔を上げた。思いっきり目が合った。

 あ、まずい。
 
 なんか今ばちって音がしちゃった?

 ど、どうしようっ。

 慌てて目を逸らしたけど、遅かった。

 むしろ目が合ったのに無理やり逸らすなんて失礼じゃないだろうか。だけど、さっきの地下倉庫でのこともあって、恥ずかしくて視線を元に戻せなかった。

 見てたの気づいたかな?
 気づいたよね?

 変に思われたかなぁ……で、でもっ。さっきの課長の方が変だったしっ。

 慌てて自分に言い訳をしていると、カタンっと椅子を引く音がした。思い切り顔を逸らしているからちゃんとは見えないけど、課長が席を立ったようだ。

 も、戻るのかな……。

 時間はまだあるけど、私が見ていたのに気づいて、居づらくなっちゃったのかも……。

 そう考えていたら、コツコツとした足音が、確実に私の方へ向かってきた。

 え、あれ?

 恐る恐る視線をあげると、私の前に課長がいた。

 ちょっ。表情があ~~~……いつもの能面なんですけどぉ~。

 ちょっと恐い。

「白沢さん、今日の夜は、何か予定が?」

 は? え?

 眼鏡越しの視線に冷や汗ものの私に対し、課長がよくわかんないことを言う。

 って、わかってるんだけど。 予定って……。

「もし無いなら、良ければ少し時間をもらいたいんだが……」

 え? えええええ?

「あ……はい」

 つい、というか、発作的にというか、返事をしていた。

 あれ。私なんでOKしてるんだろう。

「そうか。ありがとう。それじゃあ、仕事が終わったらここに連絡してくれないか。それから落ち合おう」

 そう言った課長は、またあの破壊的な笑顔で笑った。ふわりと一輪、花が咲くように。

 私の手に、恐らく連絡先を記しているのだろう、一枚のメモを手渡して。

 とくん、と私の胸がまた一つ大きく、跳ねた。