雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~

 ん、いい匂い。

「———ああちょうど良かった。今出来上がったところだ」

 首にタオルを巻いたままリビングに行くと、キッチンからエプロン姿の課長が顔を出した。それからちょいちょいと私を手招きする。

 言われるままに歩いていくと、二人掛けテーブルの上に食事が用意されていた。

 献立は和食で焼き魚にお味噌汁、南瓜の煮物にお漬物と白いご飯といったもの。

 南瓜の煮物は帰りに寄ったスーパーのお惣菜だけど、他は全部課長が作ってくれたらしい。

 食欲をそそる香りの正体はやはりこれかと思いながら、私はちょっとだけ悔しい思いにじとりと課長の顔を見つめた。

「ん? どうした?」

「……すごく、美味しそうです」

「そうか。なら良かった」

 どこが良いのか、と内心文句を呟く私の気持ちなど知らぬまま、課長はふわりと瞳を和らげている。

 全くもってこの人は、人がお風呂に入っている間にご飯を用意してしまうなんて、上司の自覚はあるのだろうかとちょっと呆れてしまう。それに恋人である私の立場は、などとうだうだ考えていたら「さあ座って」なんて着席を促された。

 渋々座る私の前で、課長はてきぱきとグラスを用意しピッチャーからお茶を淹れてくれている。至れり尽くせりだ。

 彼は既に部屋着に着替えていて、上は黒い長袖Tシャツに下は灰色のラフなズボン姿だ。その上に以前も見たデニムのエプロンを付けている。スーツと違う課長はいつもより少し幼く見えて、それがまた格好良くて、可愛い。

 ……この人って実は、尽くすタイプなのかしら。

 なんて事を思う。前回もこんな感じだったし、してもらうという意識があまり無い気がする。

 何しろ帰宅してすぐに言った言葉が「荷物は俺が片付けておくから、君は風呂に入ってゆっくりしてきてくれ」だ。

 もちろん最初は断ったけれど、ちょっと口にはし難い方法で押し切られてしまったので仕方なく支持に従った。

 思い出したらまた顔が熱くなってきたわ……「俺はそのままでも構わないけど、君は違うんじゃないか?」なんて色気たっぷりに耳元で言われたら、慌ててお風呂に入るしかないじゃない。課長ってば、ほんとにもう。

 仕事上がりで汗もかいているというのに首元に口付けられては、こっちだって流石に恥ずかしくて言う事を聞くしかなかった。案外策士なのかもしれない。まんまと食事の準備までしてくれているし。

「嫌いなものはないか? あったら残してくれていい」

 エプロンを椅子の背もたれにかけた課長が私の正面に座る。彼はお茶を淹れたグラスを私の方に寄せると、料理の並びにちらと目をやり少しだけ首を傾げてみせた。その仕草が愛おしくてどきりとする。

「だ、大丈夫です。でも、なんだか悪いです。課長にばっかりやってもらって」

「いいんだ。俺がしたいだけだから」

「もう……」

 ほらまたこれだ。眼鏡の奥の瞳を細めて嬉しそうにこう言われてしまっては何も言えなくなってしまう。まるで一緒にいられて嬉しくて仕方がない、みたいなそんな顔をしないで欲しい。こっちは心臓が暴れっぱなしで休まる暇が無いというのに。

 初日からこれでは同棲生活がどうなるのか違う意味で恐ろしい。何より課長の甘さが凄くて糖分過多で死にそうだ。

 もう二十七歳なのに、こんなお姫様対応なんてされたら益々課長を好きになってしまうのに。

「課長の方が仕事の量は多いですし、お疲れでしょうに」

 小さな溜息を吐きながら言うと、テーブルの上で両手を組み顎を乗せた課長がじっと私を見つめた。

 その視線の強さに、続きの言葉をごくりと飲み込む。

「……今回の事は、君にばかり迷惑をかけているからな。それに先程も言ったが、ただ君と過ごせるのが嬉しいだけなんだ」

 そう声に喜色を滲ませて、彼はすうと瞳を細めて柔らかに薄く微笑んだ。その場にぽっと桜が一輪咲いたような、ささやかな淡い空気が辺りに広がる。お風呂上がりの熱ではない、羞恥の熱さにかあっと顔が逆上せていく。

「っ、せ、せっかくのご飯が冷めますからっ、食べましょうっ」

 視線と言葉で追い詰めてくる課長の甘さに耐えられなくて、私はまごつきながらお箸を手にして促した。

 なんだかもう、叫び出したい気持ちだった。心がどろどろに溶かされて、甘い声と言葉で頭も溶けてしまいそうだった。

「ふ。ああ、そうしよう……君は可愛いな」

 お茶碗片手にちらりと見れば、課長は薄く唇で弧を描きながらしみじみとするようにそう呟いていた。