雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~

「おはよう」

「お、おはようございますっ」

 課長の顔を見た瞬間、私の頬に花火みたいな熱がぽっと灯った。

 朝の給湯室で偶然ばったりなんて、いつもなら無いことなのに、今日に限ってあんまりな不意打ちだとちょっと恨めしく思う。おかげで驚いた拍子に持っていたマイカップを取り落としそうになった。それを、課長がさっと掬い上げて渡してくれる。

 きらりと光った眼鏡の奥にある瞳が私を見た。

「身体は、大丈夫か?」

「っ……はい」

 給湯室には私以外誰もいないせいか、課長が社内でも普段より近い距離に身を寄せて顔を覗き込んできた。

 元々背が高い彼は私と話をする時いつも少し顔を傾けている。だけどあまり広いとは言えない場所でそんな風にされては、顔も身体も近くて、つい昨夜の事を思い出してしまった。

 彼の匂いに嗅覚が刺激される。脳裏にありありと浮かび上がったのは、スーツの下に隠されたしっかりした筋肉の隆起や割れた腹筋、そして私を見下ろす悩まし気な表情だった。

 近づいただけで背筋がぞくりと甘く痺れてしまい、私は慌てて俯いた。

「……茜」

「は、い」

 今の顔を見られたら、私が昨夜の事を思い出しているのが課長にばれてしまう。それは流石に恥ずかし過ぎる。

 そう思って顔を隠したのに、彼に名前を呼ばれてしまった。声音には、昨夜と同じ甘さが含まれている。

 仕方なく私は顔を上げた。課長の面に喜色が滲む。

 誰かに聞かれたらどうするんですか、と目で訴えた。けれど、そういえばすでに私達の交際は知られているのだと思い出した。

 だからって、職場で見せて良い姿ではないだろう。

 違うか。勝手に思い出して平気でいられないのは私の方だ。

 だって仕方がない。昨日の課長は、尚人さんは……本当に普段とは別人だったのだから。

 一体、どこにあんな激しさを隠していたのだろうと思うほど昨夜の彼は少し恐いくらいに私を求めてくれた。おかげで、腰とか膝とかの感覚がちょっとおかしいくらいだ。

 普段は確かに能面と言われるほど無表情なのに、昨日の私を見る彼の瞳はそんなものとはかけ離れていた。今も少しそうだ。

 じっと私を伺う視線はどこかじりじりと細い火で焦がされるようで、なのに逃れられない引力がある。
 ずるい、と思う。

 こっちはまだ彼の手が身体を這っているようだし、深くつながった身体の奥には彼の名残がありありと残っているというのに。顔は仕事モードで、だけど視線だけが熱いだなんて。本当にずるい。

「茜」

 文句を言いたいのに恥ずかしくて言えない、なんて自分でも呆れるようなことを考えている間に課長にまた呼ばれた。

 もう、と思いながら首だけで返事をする。口を開いたら、なんだか自分がとんでもない事を口走りそうだったからだ。

「無理をさせたのは俺だが……その、無理はしないように」

 課長がちょっとだけバツが悪そうに告げた。私はそれに思わず吹き出しそうになりながら、くすくす笑いつつ今度はちゃんと返事をした。

「はい。わかりました……っ!?」

 返事をした瞬間、ふっと課長の顔が降りてきた。視界すべてに薄い影がかかったと思ったら、花びらが肌を撫でたような口付けが頬を過ぎていく。一瞬濃くなった課長の匂いが鼻を擽った。

 かあっと上ってくる恥ずかしさにぱくぱく口を開閉させている私に、彼は眼鏡の奥の瞳だけでふっと色っぽく笑ってから、「後でまた」なんて言って去っていく。

 課長のグレーのスーツの背中を見送りながら、私はマイカップ片手に給湯室の壁にへなへなと、力なくもたれかかった。

 嬉しいのに、なんだかとても悔しい気がした。

「あ、あり過ぎるのよ、ギャップが……!」

 出会って当初は面倒な仕事ばかり押し付けてくる人だと思っていたのに。

 まさか自分の事を好きで、そして恋人になるだなんて、絶対あの頃は思わなかった。しかも笑顔が優しくて綺麗だったり、時々可愛かったり、実は情熱的だったりと様々見せてくれる表情に私は驚かされてばかりだ。

 翻弄されるのはいつも私で、それがちょっと、いやかなり……悔しかった。

「でも……」

 嬉しい、と思う。そういう部分を見せてもらえることが。自分が課長にとってそういう存在になれたことが、とても嬉しい。

 カップにインスタントコーヒーの元を入れて、とっくの昔に沸いていたケトルのお湯を入れる。少し溶けにくいのは、きっと沸騰してから時間が経ってしまったからだろう。

 こぽこぽ小気味よく鳴る音を聞いていると、それにコツコツと響くヒールの足音が重なった。

「白沢さん、おはようございます♪」

「兼崎さん。おはよう」

 ヒールの主は兼崎さんだった。彼女は今日も綺麗に巻かれた髪を揺らしながら、可愛らしく微笑んで私に近付いてくる。

 若いからかメイクで整えられた肌には張りと潤いがあり、グロスで艶やかに輝く唇が眩しい。

 そんな彼女を少し羨ましく思いながら、私は彼女の分のお湯を沸かすためにケトルにお水を淹れ足し始めた。

「兼崎さんも何か飲むでしょう?」

「はい♪ ありがとうございます♪」

 兼崎さんは言いながら、こつん、と軽くヒールを打ち鳴らした。その音に振り向くと、にっこりと深く笑んだ彼女と目が合う。どこか含みのある笑顔に見えた。彼女はなぜかずいっと私に顔を突き出して、濃いピンク色の唇の両端をぐっと上げた。

 弧を描いた彼女の口が開く。

「聞きましたよ? 本庄課長って、カイズ・エリアル社会長のご子息だったんですねぇ。いいなぁ白沢さん。玉の輿じゃないですかぁ!」

「……え?」

 にっこり笑顔で言われた言葉の意味がわからなくて、思わずきょとんとした。すると、兼崎さんは一瞬だけ猫のように目を細めて、身体を後ろに引くと、口元に手を当てて驚いた顔をした。

「っええ!? もしかして知らなかったんですかぁ?」

 そして、やや大きめの声で言う。私はどう答えたらいいかわからず、つい慌ててしまった。

 課長がカイズ・エリアル社の会長の息子? そんな話は初耳だった。しかも相手はつい最近取引がまとまったばかりの大手上場企業だ。

 つまりはかなりの大企業。その息子が課長だなんて……だったら、どうしてうちの支社になんているのだろうという疑問もわく。

「え……あ、その話って本当?」

「うふふ♪ フロアはその話題でもちきりですよー♪」

 困惑する私に構わず、兼崎さんは言うだけ言って結局何も飲み物を用意せずにフロアへと戻っていった。

 こつこつ鳴り響く彼女の足音が遠ざかるのを聞きながら、私はその音に何か不穏な気配を感じていた。