雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~

 時が止まる、というのは今この瞬間を言うのかもしれない。

 私と松田さんの視線が見上げているのは、表情が無いにも関わらず強い怒気を放つ本庄課長の姿だった。

 課長のスーツの腕が、私を守るように松田さんとの間に伸びている。それがまるで強固な盾に見えて、私の胸に深い安堵が広がっていた。

「ははっ、嫌ですね本庄課長。告白の邪魔ですか?」

 軽い笑い声をあげて、松田さんが棚から両手を離し私から数歩離れた。このままの体勢でいるのは難しいと思ったのだろう。至近距離にあった松田さんの気配が消えて、危機的状況からも、精神的な狭さからも解放された私はほっと深い息をついた。

 気が付くと、ファイルを持つ手にじわりと汗が滲んでいた。

 怖かった。本当に怖かった。

「告白か。そうは見えなかったが。ひとまず彼女から離れろ」

「っ」

 言いながら、課長がすかさず自分の身体を押し込むようにして私の前に立ってくれた。その勢いに松田さんがたたらを踏んで後ろに下がる。彼の姿が課長の広い背中に隠され見えなくなった。

 課長が私の目の前にいる。しっかりした肩幅とスーツ越しにもわかる筋肉質な体躯、それと鼻腔に感じる彼の匂い。

 それらを前に、勝手に私の目尻に涙が滲んだ。

 泣きたくなるほどの安心感に、思わずその背に縋りつきそうになる。

 照明が課長の高い背で翳り、視界は一層暗さを増しているというのに、この人が居てくれるだけで恐怖心が安堵に変わった。

 気持ちを抑えきれなくて、私は一瞬だけ課長のスーツの背中に額を当てた。

 来てくれた。嬉しい、の想いを込めて。

 すぐに離したけれど、視線を感じて振り仰いだ時、肩越しに私を見る課長と目が合った。こちらを心配しているのだろう瞳には、大丈夫かと問う気遣いが見て取れる。私はその視線に泣き笑いみたいなぎこちない笑顔と頷きで応じた。すると課長の目がほっとしたように一瞬緩む。

 その時、忌々し気な舌打ちが課長の向こう側から聞こえた。

「っ……貴方がたがどういう関係であれ、おれが白沢さんを想うのは自由なはずです! なぜ邪魔をするんですか!」

「相手が嫌がっているのに好意を押し付けるのは、単なる独りよがりに過ぎない。わからないのか、彼女が怖がっているのが」

「そんな、はずは……」

 課長が身体をずらし、そのまま後ろ手にぐいと左腕で私を抱き寄せた。私はファイルを抱えた体勢のまま、倒れ込むように彼の胸に包まれる。腰に回った課長の腕にぐっと力が込められた。その力強い腕に背中を押されて恐る恐る顔を上げると、呆然とした表情で私を見る松田さんが見えた。私が怖がっていたことにたった今気づいた、そんな表情だった。

 きっと今、私の顔は蒼白になっている。だから彼もわかったのだ。

 松田さんの顔が悲し気に歪んでいく。彼の唇がゆっくり動いた。

「……おれのこと、怖かった、ですか」

「はい……」

「そう、ですか」

 私の返事に松田さんがぐっと強く眉を寄せた。爽やかな好青年風の彼の面に苦悩が滲む。

 彼が泣き出してしまうのではないかと思った。けれど松田さんは私から視線を外し俯くと、腰を折り曲げ色素の薄い茶色い頭を深く下げた。

「……怖がらせて、本当に……すみませんでした」

 短くぽつりと呟かれた言葉が、地下倉庫内の暗闇に消えた。



「すみません。私が好きなのは本庄課長です。なので松田さんのお気持ちには答えられません。ごめんなさい」

「っ、はい。わかり、ました」

 彼の謝罪の後、私がそう言って頭を下げると、息をつめたような音が聞こえた。

 視界の前方に握り締められた松田さんの拳が見える。その手は僅かに震えていた。

 松田さんは顔を上げて真っすぐ私を見つめている。けれど今はちゃんと『同僚の距離』になっていた。

「おれは、白沢さんが好きです……ずっと、見てました。だけど貴女はおれを知らない。突然好きだなんて言われて、こんな風にされても、ただ怖いだけ……だったんですね」

「……はい。ごめんなさい」

 もっと違う出会い方をしていれば、また変わっていたのかもしれない。けれど人生とはそういうものなのだろう。

 松田さんは少し、強引だったけれど。怖かったけれど。彼は私に酷い無理強いをすることはなかった。

 本庄課長が来てくれたおかげもあってそれは結果論でしかないかもしれないが、大して人も来ない地下倉庫なら最初から無茶をすることだってできた筈だ。

 だけど彼は私が腕を掴まれ痛みに顔を顰めた時、咄嗟に離してくれた。はっとした顔をして、私に痛みを与えたことを後悔していた。

 彼はきっと心が暴走してしまっただけだったのだろう。

「おれは……白沢さんを苦しませたいわけじゃないんです。貴女のことが好きだから。だけど今後はなるべく貴女の目に触れないようにします。本当に……すみませんでした」

 言い終わってからもう一度深く頭を下げると、松田さんはぱっと振り向き倉庫出口へと歩いて行った。バタンと扉が閉まる音が聞こえて、私は再びほうっと息を吐き出した。

「大丈夫か」

「はい……っきゃ」

「おっと」

 返事をして、課長がこちらに向いた瞬間、私の膝から力が抜けた。かくん、と足が頽れて、そのまま床にへたり込んでしまう。

 そんな私の両腕を、課長が両手でがっしり掴んでくれた。そしてそのまま、ゆっくり私を降ろしてくれる。

 それから私と向かい合わせで自分も床に座り込む。地下だからか床は冷たくひやりとしていた。だけどすぐには立てそうにない。

 腰が抜けてしまったというか、足に力がはいらなかった。私は羞恥で顔が赤くなるのを感じながら、慌てて課長に弁解した。

「す、すみません……っ、なんだか、安心したら力が抜けてっ」

「かまわない。それよりも、松田に他に何もされなかったか?」

 普段ほとんど変わらない課長の表情に心配げな色が滲む。それが嬉しくて、早く安心させたくて私は精一杯の笑顔を浮かべた。

「大丈夫です。ちょっと怖かっただけで、松田さんもすぐに手を離してくれましたから」

 そうか、と相槌を打った課長がファイルを抱えている私に手を伸ばした。けれど触れる寸前で止めた。どうしてだろうと目をやれば、じっと私を見る課長の視線に貫かれる。課長が薄い唇を開いた。

「今、この場で俺が触れても、君は怖くないか?」

 真剣な表情で、彼がそんなことを言う。私は一瞬呆気に取られてから、ちょっと吹き出しそうになったのを寸でのところで堪えた。

 だってなんだか課長が愛おしい。そして可愛い。

「課長のことは、大丈夫です。……怖くない」

 言ってから自分から課長の方に身を寄せると、伸びてきた両腕に捕らわれた。力は強すぎず、けれど弱くもない。

 一度身じろぎして、持っていたファイルを横に置くと、小さな「すまない」という謝罪が聞こえた。

「ふふ。はい、どうぞ」

 笑顔で両手を差し出すと、再び課長の厚い胸に閉じ込められる。私も同じように彼の広い背に手を回し抱き返した。

 身体と心が強い安心感に包まれていた。

「……どうして、課長は地下倉庫にいらしたんですか?」

「外から帰ってきた時、松田がエレベーターに乗り込むのが見えたんだ。階層ランプが地下に向かっていた。フロアに戻ったら君は倉庫に行っていると聞かされて……いても立ってもいられなかった」

 課長はかいつまんで説明してくれた。

 外回りから帰社してすぐ、彼は地下へと向かう松田さんを見かけたらしい。そして企画課で私が地下倉庫へ行っている事を知り、慌てて追いかけて来てくれたのだと。

「そうだったんですね。ありがとうございました。本当に、助かりました」

 お礼を言うと、抱きしめる腕の力が強さを増した。肩に課長の顎が乗って、無事でよかったという深い安堵の呟きが耳孔に注ぎ込まれる。きゅうっと、胸が引き絞られた感じがした。心の奥底にある何かが震えていた。

 課長が、この人が愛しくて愛しくて、仕方がなかった。

 課長が顔を上げて私を覗き込む。眼鏡の奥にある鋭く、けれど優しい瞳に心を射貫かれる。顎先を彼の太い指に掴まれた。

 ゆっくり降りてきた唇は、まるで振り出した雨のように優しく、そして柔らかだった。

「ん、かちょ、……っ」

「名前を……俺の名を、呼んで」

 一度、二度。

 そっと花弁が触れるような口付けのあと、唇を離した彼に請われた。その願いが嬉しくて、初めて私は彼の事を役職ではない名で呼んだ。

 特別な響きが口元から心から零れだす。

「っふ、むぅ、ぁ……な、尚人、さん……んんっ!?」

「茜」

 名を呼んですぐの開いた唇にぐっと舌を差し入れられて、驚きと嬉しさにびくりと身体が反応した。それから嬉しそうな課長の、尚人さんの声がして、自分の名を呼んでもらえたのだと理解する。

 好きな人に名を呼ばれただけで、どうしてここまで気持ちが昂るのか、心が歓喜で震えるのか、言葉では言い表せそうにない。

「尚人、さん……」

「あかね、茜、君が、好きだ。愛しくて、堪らない……っ」

 まるで堰が壊れたように尚人さんが何度も私の名を呼び口付けの雨を降らす。ちゅ、ちゅ、と濡れた音が静かな倉庫内に響いていた。

 けれどそれさえもよりはやる気持ちを昂らせる要因になっていく。歯列をなぞられ舌先を吸い上げられて、口内に彼の水分が沁みて、そこから身体全てが侵食されていくようだった。互いの舌が絡み合うくちゅりという粘質な音が何度も響き、耳から脳を痺れさせていった。

「君を、他の誰にも渡したくない……っ」

「ふぁ、な、おと、さっ、」

 激しすぎる唇の交わりに頭がくらくらした。

 呼吸すら苦しいほどの口付けの雨に思考が濡れそぼり、ひたひたに彼の情熱が心に沁みていく。まるで狂い咲きした桜のように、恐ろしいほど壮絶な色気を放つ尚人さんの激情にただ翻弄された。

 口付けだけの行為なのに、深く身体を繋げているかのような心地だった。

 それにあんなに怖かったはずの暗闇が、この狭さが今はちっとも怖くない。

 優しさと激しさに包まれて、尚人さんのことだけしか考えられなくなる。背に回った強く抱きしめてくる腕が、けれど優しい力強さが何より心に沁みて嬉しくて。

 好きな人と過ごしているだけで怖かったはずの暗闇がこんなにも優しいものに変わるのだと、私はこの時、初めて知った。