雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~

「ま、松田さん……」

 覗き込まれているのに耐えられず、私は恐る恐る口を開いて彼を呼んだ。

 松田さんは私がいる場所の書類棚に片手を置いて、斜め上からこちらを見下ろしている。

 棚と棚の間は人間一人がやっと通れるくらいの隙間しか空いていないので、そんな風にされると私が出られないのに。

 わかってやっているんだと、女の直感が訴えていた。

「嬉しいなぁ。白沢さんに名前呼んでもらえるなんて。あ、おれの下の名前言ってなかったですよね。孝也(たかや)って言うんですよ」

「は、はあ」

 名を呼ばれたのがそんなに嬉しかったのか、松田さんの笑みが深みを増した。

 同じく彼の顔にかかっている陰影も濃くなる。照明が少ないせいで、松田さんの顔も身体も全体が天井の光からは逆光となり、彼の存在すべてが薄暗く見えていた。

「兼崎さんから、白沢さんが地下倉庫に行ったって聞いて、追いかけてきたんです」

「そう、なの。えっと……何か用、とか……?」

 なぜそこで私を追ってくることになるのか。

 兼崎さんもどうしてわざわざ私の居場所を彼に教えたのか。

 疑問だったけれど、とりあえず今はそのことを考えまいとした。なにしろ松田さんがにじり寄って来ているのだ。

 顔が近い。色素の薄い髪とさっぱりした爽やかな風貌は今時の男性らしく彼に似合っているけれど、状況のせいで全てが無機質な恐怖に変わっていた。

 なんというか、怖い。松田さんの笑顔と、徐々に身を寄せてくる彼の態度が、物凄く怖かった。

「あ、あの、松田さ……」

「逃げないでくださいよ、白沢さん」

 だったら寄ってこないでほしい、と言いたいのに声が出ない。顔をより近づけてくる松田さんを避けて後ろに下がると、のけぞった私の背中が反対側の棚に触れた。服越しにスチール製棚のひやりとした冷たさが肌に伝わる。素筋がぞくりと慄いた。

 どうしよう。奥へ行っても追い詰められるだけだし、これじゃ逃げ場がない。

 誰か来てくれたらいいけど、それも期待できない。

 この地下倉庫にはめったに人が来ない。データ化はゆっくりとはいえ進められているので、自分のデスクからでもある程度の情報は確認できてしまうからだ。

 他にやって来るのは邪な考えを抱く者くらいだ。

「おれ、ロビーで貴女に声をかけた時、本当に緊張したんです。ずっと見てた白沢さんに、いつ話しかけようかって毎日考えて。あの日やっとそれができたのに……白沢さんは、本庄課長のせいであの場からいなくなってしまった」

 松田さんが私を囲うように右左の手を棚に置いた。おかげで彼の腕の間に挟まれる形になってしまう。

 私は胸にファイルをぎゅっと抱え込んだまま、彼を睨んだ。

 やめてほしいと目で訴えているのに、彼はぞっとする爽やかな笑顔を浮かべたままだ。

 仕事中に女に迫るなんて、普通に考えてアウトだろう。

 まだ何かされたってわけじゃないけれど、これは明らかに同僚に向けていい態度ではない。

 頭を目まぐるしく動かしながら、恐怖を抑えてどうするか考える。迫られているだけと言えば簡単だけど、妙な張りつめた空気感がある気がして、これが一気に壊れたらどうなるのか、何をされるのかと思うと恐ろしかった。

 ただでさえ恐怖感を抱いている場所でこんな風にされたら誰だって怖いはずだ。

「……ねえ、酷いじゃないですか白沢さん。連絡先くらい教えてくれたっていいのに。それに、大人だからわかるでしょう、なんて言っておれから逃げて」

「そ、れは……っ」

 逃げたなんて人聞きの悪いこと言わないで欲しい。なら公衆の面前ではっきり断ればよかったのだろうか。

 あの時は課長との交際を公にしていいかどうかもわからなかったし、ああ言う他なかったのに、この人は人の事情を無視して自分の事ばかり口にしている。それに少しの憤りを感じて声を上げようとしたら、松田さんの顔がずいっと近づいて言葉に詰まった。

 もう鼻先が触れそうな距離だった。彼の吐息が頬にかかる。他人の、生ぬるい人間の息ほど気持ちの悪いものはないのだと今知った。

 嫌、怖い……!

「おれ、貴女をずっと見てました。好きなんです白沢さん。ずっと前から可愛いなって思ってた。なのに、どうして本庄課長となんですか。おれの方が、ずっと前から貴女を見ていたのに!」

「っ」

 眼前で叫ばれて、空間に響き渡る大きな声と迫力に身体が思わず硬直した。喉の奥から引き攣れたような音がする。

 膝が震えている。二十七にもなって、男の人に迫られて押しのける事も出来ない。せめて場所がこんな狭く暗いところでなければ、まだなんとかできたかもしれないのにと自分で自分を情けなく思う。

「おれにしてくださいよ。今からでも、あんな突然やって来たやつじゃなくて―――っ」

「っ痛……!」

 ファイルを抱えている腕を松田さんに掴まれた。彼の手の力が強くて骨が軋んだ気がした。自分勝手な好意をぶつけられて、自分勝手に迫られて、どこの女が喜ぶのだろうと思いながら、私は彼に掴まれた腕の痛みに顔を顰めた。

 瞬間、はっと気が付いた松田さんが手を離す。彼も同じように顔を顰めていた。

「おれはっ―――」

 彼が何かを言い募ろうとした瞬間、バン!! と大きな音が地下倉庫内に響き渡った。あまりの衝撃音に、私と松田さんの視線が同時に音の方に向く。それから、急いで駆けるような足音が聞こえて。

 私の目の前に、ぬっとグレーのスーツの腕が伸びた。咄嗟に松田さんの顔が後ろに下がる。腕が彼を遮って、私を守ってくれていた。

「松田、何をしている!」

 重く、低く。けれど静かな怒りに満ちた声。

 私を安心させてくれる声の人が、すぐ横にいた。

 彼の眼鏡の硝子が少ない照明の中で光っている。その下にある瞳は厳しく松田さんを捉えていて、激しい炎がその中に宿っていた。

 無表情で能面なのは変わらないのに、目の前にいる本庄課長が、まるで映画で観た中世の騎士のように私には見えた。