雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~

「はあ……」

 薄暗い地下倉庫で、私は一人深い溜め息を吐き出していた。

 ずらりと並んだ書類棚がまるで墓地に連なる墓標のようだ。中央に広めに取られた通路は暗闇へと真っ直ぐ伸びており、それがさながら黄泉の国へと繋がる入り口に見えた。

 窓もなく照明もまばらなここは、上階とは別世界に思える。

 うう……本当に怖い。

 せっかく本庄課長がこなくて良いようにしてくれたのに。

 そういう時に限って他の人の仕事が回ってきたりするのだから、人生中々上手くいかない。当の本庄課長も今日は午後から外に出ていて不在だし。

 これも仕事だから仕方ない。好き嫌いなど言っていられないのは承知の上だ。

 それにいい加減、七年もここに務めているのだから私自身克服したい気持ちもある。

 けれど先日松田さんを見て嫌な記憶を思い出してしまったからか、恐怖も普段の三割増しになっていた。

 子供の頃に心の深層へ刻まれた意識は、二十七になっても私を解放してくれない。

「えーっと、六十三番の棚……ってなんで今日に限ってこんな奥のやつなの……」

 カツコツと、自分のヒールの音が倉庫内に響く。

 他はしんと静まりかえっていて、自分の呼吸音と胸の鼓動を普段よりも鮮明に感じた。

「ここら辺、かな?」

 目当ての書類棚を見つけて、棚の縁についている番号を指先で辿りながら確認する。

 下から二段目の所に探していたファイルはあった。

 過去実績等のデータ化は律子の課が担当している。早々にやってもらいたいものだと心底思いながら私は重たいファイルを抜き出した。

 すると背後からガチャリという扉の開閉音が聞こえた。

 途端、私の身体がびくりと飛び上がる。

 だ、誰?

「……白沢さん、いますか」

 え、と驚きの声が内心零れた。
 重たいファイルを持ったまま、その場で呆然とする。

 聞き覚えのある声にファイルを持つ手にぐっと力が入る。確かに聞こえた。若い男性の声だ。それもどこか、じとりとした含みのある……。

 松田さんだ。

「白沢さん」

 カツカツと足音が近づいてくる。私がいる書類棚の方へと。

 ど、どうして松田さんがここに?

 それに私がいるって知ってるのはなぜ?

 妙な胸騒ぎを感じた。何より、彼が私の名を呼んだ声の響きに不思議と心がざわついて。

 恐怖がじわじわと心を侵食していく。

「———見つけた」

 真横から聞こえた声にばっと振り向くと、すぐ傍に松田さんの顔があった。

 爽やかに見えるはずの彼の笑顔に、地下倉庫の暗い影が落ちている。彼の眼窩を暗い影が覆っていて、大きな目だけがやけに目立って見えた。

 どくん、と。

 心臓が警鐘を鳴らした気がした。