「じゃあ結衣、やっと本庄課長と接点できたんだ?」

「そーなの! なんか急に呼ばれてさ~。白沢さんには悪いけどぉ、すごいラッキーって感じ!」

 弾んだ声を聞きながら、私は一人トイレの個室でどうしたものかと固まっていた。

 その白沢(私)ここに、いるんですけど……。

 お昼休憩時の女子トイレでは、良くも悪くも話が盛り上がる。
 世間話や、社内の噂話までとその種類は様々だ。

 せめて他の人ならよかったのに、自分の名前が出たものだから個室から出るに出れなくなってしまった。
 一番奥の個室になんて入らなければよかった、と今更ながら後悔する。

 どうやら彼女たちは他に誰もいないと思い込んでいるらしい。

「その白沢さんって人も課長狙い?」

「絶対そうだよー! だっていっつもあの人がやってたもん。課長が持ってくる雑務って」

 いや、違うし。

 と飛び出そうになる言葉をぐっと飲み込み、トイレのドアを睨みながら少々ざわついた心を落ち着けた。

 課長狙いって何よ……私はただ、あの人から頼まれていただけなのに。

 こういう時、律子なら堂々と出て行って否定するんだろうなと思うと、自分の小心さが嫌になる。

 メイク直しでもしているのか、兼崎さんともう一人の知らない女性は一向に女子トイレから出ていく気配がない。トイレに入っている時に、なんだか知っている人の声がするなとは思っていたけど、まさか洗面所でそんな会話がなされると思わず完全に出るタイミングを見失ってしまった。

 ていうか、兼崎さんてば会議資料の作成もう終わったのかしら。時間的にまだ出来てないと思うんだけど。

 冷静になった頭にふと疑問がわいた。

 課長にもらっていた資料の束から推測するに、彼女の普段の仕事ぶりを考えると恐らくまだ仕上がっていないだろう。だのにトイレで友達と与太話に興じているとは、本庄課長もよもや思ってはいまい。

 間に合わなかったらどうするつもりなんだろうかと呆れながら、私は彼女たちが出ていくのを待った。

「結衣ってば前から本庄課長のこと狙ってたもんねー」

 ……え?

 兼崎さんとは違う声の女性が言ったセリフに、ぱっと目を見開く。

 すると、クスクスと笑い声がした後、当の本人の声が聞こえた。

「まあね。だって三十二歳で課長だよ? それに見た目だって悪くないし」

 無邪気な打算を含んだ声に思わず眉を顰める。カチャカチャ、と化粧品を扱う音がトイレ内に響いた。

「あ、結衣ってば! それってもしかして、シャイネルの新作ルージュ?」

「えへへ♪ よくわかったね~。そぉよ。もう出たその日に買いに行っちゃった~♪」

 はしゃぐ声は女の子らしくて可愛らしい。けれど打算的な考えをする人だとわかったせいか、全てが以前とは違って聞こえる。

「えー、いいなあ。でも結衣ってこの前エルネスのバッグ買ったばっかじゃなかったっけ? メイクまで良いの揃えてちゃ、お金足りなくない?」

「んふふ、それはねぇ……内緒♪」

「もう、結衣ったら。実はどっかのお嬢様でしたー、とか言わないでよ?」

 兼崎さんの返答に、もう一人の女性は不満を覚えたようだった。声音に羨望と少しの嫉妬が混じっている。

「さあどうかなぁ。まあでも、お金も手間もかけて綺麗にして、良いとこに永久就職しないとね~♪ やっぱ女はさ、仕事しないで悠々自適に暮らせるのが勝ち組ってもんじゃない。そのための努力なら、あたしは惜しまないわ」

 パチン、とコンパクトを閉じる音がして、兼崎さんがちょうど台詞を言い切った。彼女のような意見を持つ女性は時々見かけるので特に驚きはしない。けれどその標的になっているのが課長だと思うと、お腹の底から沸々とした怒りが沸いた。

 だってそれなら別に課長でなくてもいい筈だ。他の人にすればいい、心からそう思う。

「でもさあ、本庄課長っていつも顔怖くて何考えてるかわかんなくない?」

 もう一人の女性が苦く言う。確かに怖いかもしれないけど、本当は優しい人なのに、と私は内心で反論していた。

 自分だって以前はそう思っていたくせに。過去の事を棚に上げて。。。

 だけどそこに、ふっとまるで嘲笑するような気配を感じた。

「何言ってるのよ。そこがいーんじゃない! 他の女が寄り付きにくいでしょ。あとたぶん、あの人女慣れしてないよ。あたしがじっと見るだけで目逸らすし。堅物に見えても案外落としやすそう」

「出た、結衣の男殺しっ。また上目遣いしたんでしょ、お得意のやつ」

「あったり前じゃない。仕事なんて腰掛けで十分よ。あたしは安全な永久就職先探しに来てんだから、使える武器はどんどん使わなきゃ」

 あはは、という笑い声がして、それからコツコツと二人分のヒールの音が遠ざかっていく。

 途端静かになった女子トイレで、私は静かに扉を開けてそっと出ると、ため込んでいた鬱憤と呆れとその他もろもろを息とともに吐きだした。

「……何、あれ……」

 ぽつり呟いてから洗面所で手を洗うと、ふと見た鏡には眉を顰めた自分の顔が映っていた。

 駄目だな、と思う。
 もういい歳した社会人なのに、こんな風に感情が顔に出てしまうようでは。

 それを考えると、本庄課長のあの能面は仕事人としては美点になるのではと思えた。

 兼崎さんの課長を馬鹿にしたような言い方には、正直いらっとした。

 別に、仕事場で結婚相手を探すことには私は何も思わない。

 私自身仕事に人生をかけたいような思いはないし、職場恋愛を求めようが求めまいが、個人の自由だ。
 だけど、本庄課長は……彼をそんな風に見ている女性がいると思うと、なんだか心が妙に重たく、同時にかっとどこかが熱くなるような気がした。

「……早めに戻ろ」

 女子トイレから出ながら、休憩を早めに切り上げることを決める。

 彼女のあの様子ではきっと時間内に資料は仕上がらないだろう。

 だったら私がやればいい。

 そう思いながら廊下を数歩進んだ時、スーツのポケットに入っているスマホが振動した。

 一緒にお昼を取っていた律子かと思い画面を見ると、別の人の、けれど今思い浮かべていた人の名があって驚く。

 画面には『本庄尚人』と表示されていた。