「ただいま」

 静まり返った家の扉を開けて、小さく呟く。

 リビングからは楽しげな笑い声が響いている。

 その空気はまるで俺の存在など眼中にないかのように通り過ぎていく。

 家の奥にある自分の部屋へ俺は足を運び、ドアを開けてそのまま床に座り込む。

「幸せな要素か」

 嫉妬や劣等感といった不純な感情が胸の中で渦を巻き、息を吐く。

 俺にとっての幸せの要素って何だろう。

 屋上から見上げる青空が綺麗なこと。

 澄み渡る水色の空に硬く浮かぶ雲。

 その景色の美しさに心を奪われ、苦しさを忘れてしまう瞬間がある。

 夢中になってなんとなく「大丈夫かも」と思えてくる。

 それが俺にとっての幸せの一部なのかもしれない。

 嫉妬や劣等感に押し潰されそうになることもあるし、焦りや不甲斐なさに苛まれて辛くなることもある。

 それでも、そんな苦しさを少しだけ和らげてくれる場所がある。

 完全に帳消しになるわけじゃない。

 幸せだと言い切れるわけでもないけれど、不幸せとも言い切れない。

 その曖昧な立ち位置が今の俺にはちょうどいいのかもしれない。

「そっか。蓮がそう思えるなら、よかった」

 灯夏の横顔に浮かぶ瞳が、少し潤んで見えたのは気のせいだったのだろうか。

 でも、その一言が俺のすべてを肯定してくれたような気がした。

 それ以来、雨の予報が出るたびに彩芽のことを思い出して、胸が少しざわつくようになった。

 電車の中で天気予報を確認するのが習慣になり、また彩芽に会えるかもしれないという期待が、静かに胸の奥で膨らんでいく。

 雨の夜が、少しだけ特別に感じられるようになっていた。