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「素敵! それがお母様とお父様の馴れ初めなのね!」
「そうね、エル。けれど、馴れ初めというのは少し違うわ。あなたが生きてきた年数よりもずっと長い間、私とお父様は愛し合っていたのよ」
「もっと素敵!」

 安楽椅子に座りながら、私は7歳になるクルーエルに語って聞かせていた。私とラティの馴れ初めを娘がせがむようになったのは、それだけこの子が精神的に成長してきたということなのだろう。
 日々、当たり前のように存在している家族の存在に興味を持つようになるのは――私にとって喜びでもあるし、密かな恐怖でもある。

 ――デリグを裏切り、ラティの愛に応えてから、10年の月日が経った。

 私は今、パラドス侯爵の妻として生きている。

 ラティは有言実行し、今では西シグヌ地方の統治を任される大貴族へと成り上がった。位階の上ではデリグと遜色はない。

 けれど私は、10年前とは比べものにならないほど質素な衣服を身にまとい、爪を整え、髪を切った。故郷の村を彷彿とさせるのどかな土地で、2階建ての小さな屋敷に暮らしている。ここにいるのは私たち家族3人と、数人の使用人のみだ。

 この10年間、私は鏡装魔法を使っていない。
 だが、偽りの人生で負った爪痕はいまだに私を苦しめている。
 こうしてクルーエルに昔話をしている最中も、時折ズキリズキリと頭が痛んだ。慢性的な頭痛は癒えることはなかった。
 悪夢も、よく見る。首のない兵士の夢だ。「俺の死を忘れるな」と言わんばかりに、彼はたびたび私の夢に現れた。
 これは――はっきりと罰なのだろう。

 それでも、私は今を幸せだと感じている。
 一番大きな理由は、自分には授からないと思っていた子どもが生まれたためだ。私とラティの良いところを贅沢に受け継いだクルーエルは、心も身体も健康に育っている。
 この子こそが、本当の愛の証なのだ。

 だから――。

「いい、エル。この世界には鏡装魔法という怖ろしい力がある。たとえ魔法の力に目覚めても、それを使っては駄目よ」
「鏡装魔法って、自分や相手の心を偽って幸せになるための魔法なんでしょう? 牛舎のキエラが言っていたわ」

 娘の台詞に内心どきりとする。
 クルーエルは笑った。

「でも、私は欲しくないわ。だって、そんなものを使わなくても、お父様とお母様は幸せそうなんですもの。魔法なんていらないよ」
「エル……。そう、そうよね」
「それに、お母様は今でもじゅうぶん格好いいもの」
「もう、この子ったら」

 私はクルーエルを抱きしめた。「お母様、どうしたの?」と尋ねてくる娘の柔らかな髪を撫でながら、私は救われたような気持ちになっていた。
 魔法を捨て、本来の姿を取り戻した私に、もう偽りなんて必要ないとはっきりわかったのだから。

「奥様。お嬢様。旦那様がお戻りになりましたよ」

 朗らかな笑顔の使用人が、夫の帰宅を告げた。ラティは辺境地域平定のため、出兵していたのだ。
 領地の平穏を守るのが領主の勤めだと、常日頃から夫は口にする。大貴族の地位を得ながら、領民と同じ目線での暮らしを続けるラティを、皆が慕っていた。

 クルーエルが「お父様!」と腰に抱きつく。鎧ごしに抱きつくと危ないからと、いつも言って聞かせているのに。
 私は後遺症の痛みを堪えながら、ゆっくりと夫を出迎えた。よかった。ラティは今回も大きな怪我なく帰ってきてくれた。

「おかえりなさい。あなた」
「ああ、ただいま。ティタミア」

 10年前と変わらない翡翠の瞳の真っ直ぐな輝きに、私は目を細めた。
 鎧の胸当てにそっと手を添える。ラティが少しだけ首を傾げた。いつもであれば、私の方からラティの唇に触れるのだ。

「ねえラティ。今日はあなたのほうからして欲しい」

 夫を見上げながらささやかに告げると、翡翠の瞳は嬉しそうに揺れた。その反応が見られて、私は嬉しかった。

 ラティの手が私の腰に回り、優しく唇を重ねてくる。脳髄を駆け巡る歓喜のキス――微かに感じる汗の匂いと肌の熱さを、私はきっと一生忘れない。

 私はこれからも、私自身の姿で、彼を愛していくのだ。





『鏡面の花嫁は罪を抱き、愛を乞う』了