直後、馬車が大きく揺れた。側面から突き出された槍が、デリグごと馬車を真横に貫いたのだ。
血走った目を私と反対方向に向けるデリグ。その手から小瓶が滑り落ち、彼の太ももを濡らした。人体が沸騰する悍ましい音がじわりじわりとデリグの頭部へと広がっていく。これこそ、魔術が成せる業だった。
デリグは最期の最期まで悲鳴を上げなかった。私を睨み付けたまま、やがて白骨と粘土細工の中間のような姿になって、息絶えた。
槍の持ち主は、ラティだった。
全身を汗と土の汚れにまみれさせながら、荒い息をついている。手応えを感じたのだろう。彼は槍から手を放すと、大きく息を吸って天を仰いだ。
そして、私を見た。
顔付きは見違えるほど精悍になっていたが、翡翠色の瞳だけは幼少期と変わらず、透き通った輝きを秘めている。その色の深さに吸い込まれそうになりながら、私は呼吸を忘れた。永遠とも思える数秒間が流れた。
「ティタミア。よかった」
たった二言。それだけで、8年間の空白が一気に埋まったように思えた。私を見て驚いたり、困惑したり、あるいは「どうして憎き敵のところにいる」と怒ったりするより先に、ただ「よかった」と安堵するところは、本当にラティオン・パラドスそのものだった。
思わず彼に抱きつこうとして、私はつんのめった。
足首が、デリグの魔術で座席に貼り付けられたままだったのだ。高揚していた血液が、一気に冷める感覚を味わう。
すると、ラティが駆け寄って私の身体を支えた。腰に差した短剣を抜き、固着した板ごと剥ぎ取り、私の足を解放する。
「少しの間、不便を我慢してくれ。仲間には魔術に詳しい者もいる。すぐに解除させよう」
「ありがとう、ラティ」
「生きていてよかった、ティタミア」
馬車から降ろされたと同時に、強く抱きしめられる。首筋がぞくぞくと粟立つ。ああ、これが本当の喜びかと私は本能で感じた。
ラティは、私の長身も体型も、この顔も、ありのままを全部抱きしめてくれる。私が心の底から求めていたのは、この瞬間だった。
けど。
だからこそ。
「ラティ、聞いて」
私はそっと、ラティの身体を押し返した。
「私たち、ここで別れた方がいい」
「何を言い出すんだ」
「お願い聞いて。あなたも見たでしょう。私は鏡装魔法を使った。今日だけじゃない。これまでに何回も、たくさんの人に使ってきた。――私が遣い手であることは、誰にも話していない」
最後の言葉に、ラティが息を呑む様子が伝わってきた。彼も、魔法を隠すことがどれほどの罪なのか理解しているのだ。
それは、法を破ることだけではない。
相手の心を弄ぶという大きな罪の証明なのだ。
「私は、捕まれば極刑の罪人。あなたのそばにいれば、迷惑になる。あなたたちを壊滅させる口実を与えてしまうわ。それに」
私は下腹部を撫でた。
「きっと、私にはもう子どもができない」
鏡装魔法は諸刃の剣だ。遣い手の身体に深い爪痕を残す。私はもうずいぶんと女性の日を迎えていない。
ティタミア、と伸ばされたラティの手を私はかわした。デリグから解放された安堵感や、ラティと再開できた幸福感と同時に、彼に優しくされることへの罪悪感が重くのしかかった。
私は両手で数え切れないくらい、裏切りを重ねた汚い女なのだ。名前も思い出せない下級兵士を死に追いやった悪人なのだ。
「だから、もう私のことは放っておいて。せっかく助かった命だもの。あなたはあなたのやるべきことをして。お願い」
私は踵を返した。これ以上この場にいたら、感情の高ぶりからラティにひどい言葉を投げつけてしまうかもしれないと思ったからだ。彼に罪はない。罪があるのは私の方だ。
――手首をつかまれた。鍛えられた戦士のごつごつとして、しかしとても熱を秘めた手だ。
すごい力で、引っ張られた。
「ラティ、離して」
私は抵抗したが、ラティは無言のまま私を引っ張り続けた。有無を言わさない力強さだった。
最初は怒っているのだと思った。けれど、私がゆっくりと自分の足で歩くようになると、ラティは歩調を合わせてくれた。
ラティの部下と思われる生き残りの戦士たちが集まってくる。彼らはラティと何事か言葉を交わした後、私に対して静かに敬礼した。私は目をそらした。心臓を熱した釘で引っかかれるような疼痛がした。
街道から外れた森に入る間際、私は乗ってきた馬車を振り返った。部下の戦士ふたりが、デリグの身体から手と耳を切り落とすところだった。
いつの間にか、私はラティと手を繋いでいた。手のひらにじんわりとした熱が広がり、汗が出た。私は恥ずかしくなって俯いた。
ラティは部下を引き連れ、どんどん森の奥へと入っていく。その間、ラティは部下の人たちと話すことはあっても、私に声をかけることはなかった。ずっと無言で、手だけが異様に熱い。まるで私とラティの手の中で、何か新しい命が生まれようとしているみたいだ。馬鹿らしい。
けど、どうしてラティは私を放っておいてくれないのだろう。
「君はデリグ・ロドルースの妻になっていたのだな。生き残るために」
唐突に、ラティが話しかけてきた。私は「ええ」と頷く。ぎゅっとラティの手の力が強くなった。
「俺は今回の襲撃を成功させた暁に、小さな領地を授かることになっている。サマルパテの大貴族とは比べるべくもないが、それでも領主となるんだ」
「子どもの頃から言われていたわね。ラティは次期村長候補だって。真面目で、皆に慕われていたから」
「あのときから、俺の気持ちは変わっていない」
ラティが足を止めた。だが、視線は前を向いたままだ。
「ティタミア。俺はこの土地を強く、豊かにしていくつもりだ。それだけでは不安か?」
「そんなことない」
「なら、ひとりで行くなんて言うな」
ようやくラティが振り返った。翡翠色の瞳が強く瞬いた。
私はうつむく。
「私はただ、ラティが生きてくれていたことが嬉しかったの」
「それだけで、自らの命を危険にさらして俺たちを救ってくれたのか? デリグの目の前で鏡装魔法を解除することが、どれほど危険なことだったか」
「それは」
その先が言葉にならない。
だから代わりに、ラティの瞳を見つめ返した。子どもの頃は、それで何でも通じ合った。
「俺はこれから領主として力を付ける」
ラティが私の肩を抱く。
「シグヌの地は大きな動乱に包まれるだろう。その中で俺は誰にも負けない功績を打ち立てる。デリグをしのぐ力を、地位を手に入れてみせる。そうすれば、君を社会の視線から守ることができる」
子どもの頃と同じだった。私の不安はラティに伝わり、ラティの決意は私の心に染み入った。
「俺が、君の罪も背負おう。君がもう二度と、罪の意識に苛まれないように。偽りの魔法使いだと誰にも言わせない」
「ラティ」
抱きしめられ、私も抱きしめ返す。
そのたった一つの行為が、こんなにも愛おしいものだと感じた。なぜなら、それは私が心から求め、同じように求められていると知ったからだ。
「ティタミア、君を愛している。これまでも、これからも」
「私も、愛している。子どもの頃の約束をやっと果たせる。私のラティ……」
――私は、ようやく本来の私に生まれ変わったのだ。
