「惚れ直したぞ、ティタミア」

 突然、デリグが言った。

「羽虫が寄ってきた程度では小揺るぎもしないその美しさ。さすが私の妻だ。これからも、私をその美しさで楽しませておくれ」
「旦那様」

 デリグは心底私に惚れ込んでいる。
 鏡装魔法で偽った私を。
 このままデリグの言葉を受け入れてしまったら、私は一生、彼の慰み者にならなければならない。

 ああ、ロロギアよ。
 私の選択を、どうか見守ってください。
 願わくば、後悔という罰をお与えなさいませんよう。

「ティタミア、何をする!?」

 狼狽えるデリグの前で、私は馬車の扉に手をかけ、外側に開いた。
 途端、湿った風に乗って埃と血の臭いが馬車の中になだれ込んできた。私は扉の縁に手と足をかけ、身体を支えながら半身を乗り出した。

 ラティは奮戦していた。すでに乗っていた馬は力尽き、大地に横たわっている。種族の違うこの盟友の死を力に変えるように、彼は雄々しく吠えた。血と汗、気迫にまみれたその顔は、記憶よりもはるかに力強く、魅力的で、貴重なものに見えた。

 護衛たちは、このしぶとい獲物に苛立っているようだ。ラティの気迫に押されているようにも見える。護衛隊長だけは、デリグとの個人的な主従関係(・・・・)に突き動かされているようで、一刻も早くラティを無力化しようと躍起になっていた。デリグに突き出す瞬間にさえ生きていればいいと、そんな凶悪な割り切りを感じる。

 私はこの小さな戦場を素早く見渡した。状況の迅速で正確な把握は、私が生きていく上で必須の技能だった。

 護衛側は、馬が大きな力を発揮していた。
 これならば、決着を付けられる。

 私は、目の奥に意識を集中した。鏡装魔法の遣い手は、各々魔法を発動させる『コツ』を持っている。ルーティンと言ってもいい。私の場合は、頭蓋の中心に発動のためのスイッチがある。
 魔法発動に必要なのは、集中力とイメージと――強烈な欲だ。こうなりたい、こうしてやりたい。自己顕示欲と支配欲を現実へと剥き出しにする奇跡が鏡装魔法だと私は思っている。この点で、私の性根はデリグと共通しているのかもしれない。

 通常、鏡装魔法の発動には時間がかかる。しかし私は、『デリグの妻』を演じるために使用していた魔力を、すぐに別の姿に転用することで、発動に必要な時間を短縮した。
 私の身体から、綿毛のような青白い光が溢れた。仕立ての良い特注品のドレスが音を立てて破れ、その下から私本来の姿が露わになる。デリグ好みの肉付きの良さは消え、すらりと細い長身へ。さらに、魔法によってドレスの替わりに別の衣装がひとりでに生み出される。
 なめした革のジャケット、ブーツ、汚れが目立たない地味な色合いのシャツとズボン。
 この格好は、今まさに私が乗っている馬車を操る御者そのものだ。

 これまで幾度となく鏡装魔法を使ってきた経験のままに、心の中で叫ぶ。――私を、見ろ。

 この場にいる男たちには不可視の魔力が、同心円状に広がった。
 途端、視界に映る全ての馬が奇妙な挙動を見せた。激しくいななき、騎乗した護衛たちを振り落とす。
 それだけでは終わらなかった。馬たちは、明らかに護衛たちの敵となった。私が強くそれを願ったからだ。
 突然のことに、尻餅をついたまま動揺する護衛たちに向け、馬は高々と前脚を振り上げた。そのまま、人間の10倍近い重さで護衛の胴体を踏み抜く。絶叫がそこかしこで響いた。

 私はとっさに目と耳を覆いたくなったが、自制した。これは選択であり、審判の結果だ。目を背けてはいけない。逃げれば、6年前と同じになってしまう。
 勇気を振り絞り、私は叫んだ。

「今よ!」

 憎き敵の馬車にいた女の言葉を、どれほど信じてくれたかはわからない。
 けれど、ラティたちはこの瞬間を逃さず、護衛たちにトドメを刺していった。彼らの乗る馬は、生き生きと指示に従った。私の鏡装魔法は、そのような力を持っている。

「ティタミア」

 底なし沼から湧き上がってきた気泡のように、デリグが言った。直後、私の足首に粘性のある液体がかけられる。それは急速に固まり、私を馬車の座席に縫い止めた。
 私は全身が硬直したけれど、ぐっとみぞおちに力を入れて振り返った。

 デリグは、空になった小瓶を投げ捨てようとしていた。右手は、次の薬品を探して自身の腰袋へと動いた。

「ティタミア」

 再び名前を呼ばれた。口調は静かに、目は爛々と輝かせ、時折口の端を糸で吊り上げたように歪めている。
 妻として隣で何度か見てきた激怒の表情が、今まさに私自身に向けられている。

「ティタミア。お前は本当によくできた妻だった。美しく、柔らかく、花のような香りがしていた。声もよかった。頭の回転が速く、会話はさりげなくて面白い。外の景色よりもずっと素晴らしく、価値があった。まさに完璧な芸術品――私だけの芸術品だったのに!」

 デリグが瓶を引っ掴む。私は心臓が縮む思いがした。

 鏡装魔法はこの世界で唯一『魔法』と呼ばれるもの。一方で、デリグは『魔術』を使う。様々な道具や媒介を使って、望みの現象を引き起こす技術だ。
 彼の一族に伝わる魔術は、薬剤を使って姿や形を変えるものだ。中でもデリグが最も得意とするのは、人体を蝕む術だった。
 あの瓶の中には、全身から血がにじみ出し、死ぬまで苦しませる薬剤が入っている。それはデリグの拷問に欠かせないものだった。彼が猟奇的だと言えるのは、そのためだ。

 デリグは、私を苦しめて殺すつもりだ。
 私の考えを肯定するように、彼は怒鳴る。

「せめて最期は楽しませろ。逃げようと思うな。逃げられるとも思うな」

 デリグの言うとおりかもしれない。
 鏡装魔法の秘匿は、我が国では重罪。仮に今、難を逃れたとしても、デリグが訴え出れば私は捕縛され、処刑される。
 全身を緊張で漲らせていた私だったが、不意に肩の力を抜いた。偉大なる神ロロギアは、どうやら私に罰を与えなかったらしい。
 恐怖はある。けど後悔はない。

「これが本当の私ですわ」

 私の地声はデリグの耳に馴染まなかったのだろう。彼はぽかんと口を開けた。
 直後、デリグは青筋を浮かべて叫んだ。

「偽りの魔法使いめ! 私の芸術作品を返せ――」

 この一瞬の間が、私の生死を分けた。