全身から血の気が引いた。まったくの無意識だった。

 デリグは私の左手を握っている。このままでは脈の乱れや手の震え、汗の滲みが伝わる。
 やめて。馬鹿。この6年をこんなくだらないミスでふいにするつもり?

 私はとっさに、デリグの手を握り返した。

「旦那様が選んだ護衛は襲撃者などに遅れは取らないと信じております。私は、このまま景色を楽しみますわ」
「お前がそう言うなら」

 デリグがそう答えた直後、窓に衝撃が走る。
 おそらく護衛のものだろう。切り飛ばされた腕が飛んできて、扉にべったりと血糊を付けたのだ。窓の半分くらいが赤く染まる。

 これを見た途端、デリグは激昂した。

「おい、早く奴らを殺せ!」

 御者台に繋がる窓を拳で叩き、怒鳴る。デリグは一度火が付くと抑えられない。
 心火を燃やす夫から目を背け、私は窓の外を見た。血糊のカーテンで半分覆われたガラスの向こうに、今まさにこちらへと突撃する赤髪の男を見た。
 私が再び、息が止まりそうになった。

(間違いない。ラティオン・パラドス。私のラティだ)

 記憶の中の彼と二重写しになる。
 滅ぼされた故郷の村で、ずっと一緒だったあの人。普段は物静かなのに、いざというときには勇気と気迫を漲らせた人。あの赤い髪は彼の気高く逞しい本性の表れだ。そして、それは今でも不変な真実なのだと私は身体の芯から思い知った。
 私のラティ。私の、唯一無二の婚約者だった人。
 8年前に村が滅ぼされたとき、爆風に巻き込まれ宙を舞うあの人を見て、私は愛しい人は死んだと思った。けれど生きていたのだ。決して消えない炎のように、赤い髪に象徴される不屈の精神によって、彼は再び私の前に姿を現した。8年前よりも、ずっと逞しく、精悍な目をした艶めかしい男として。

 ラティと目が合った。
 私の心には種火と油が同時に放り込まれて、すでに激しく燃え上がっていたが、次の瞬間、氷の塊のような冷たい感情で炎は押しつぶされた。
 ラティは、まるで討つべき敵を見出したとばかり、激しい憎悪を漲らせたのである。馬上の主人の意を汲んで、ラティの馬が涎をまき散らしながら破滅的な突撃を仕掛けてくる。

(ラティ。私だと気付いていない。鏡装魔法で、私が姿を変えているから)

 彼の名前を呼ぼうとして、私はすんでのところで耐えた。窓の血糊がぬらりぬらりと垂れ下がり、次第にラティの姿を赤く隠していく。
 馬車に到達する前、ラティは横から現れた護衛隊長の攻撃を受けた。激しい応酬が始まった。
 ラティの周りに、徐々にデリグの護衛の兵たちが集まってきた。どうやら、質量ともに勝ったデリグ側が圧倒的に優位に戦いを進めているようだ。

 負ける。このままではラティが負ける。
 8年前と、いや、8年前よりもっと凄惨な結末になってしまう。

 スッと馬車のカーテンが閉め切られた。

「どうやら片が付きそうだ。死体を見るな、ティタミア」

 勝利を確信したデリグが、いくぶん落ち着きを取り戻して私を気遣う。私は反射的に微笑んだ。完璧な妻の笑みだった。
 けれど、心の中では激しく葛藤していた。

 このままデリグの良き妻を演じ続けていれば、私はようやく掴んだ豊かな暮らしと安全を守ることができる。
 導火線に火が付いたデリグをこれ以上刺激すれば、怒りは私に向くだろう。そうなれば、私は妻の座から引きずり下ろされ、やがては鏡装魔法も暴かれるだろう。そして、あの護衛隊長のようになるか、死ぬだろう。間違いなく。
 勝利に満足し、余裕を取り戻した夫に逆らうべきではない。

 けれど、それはラティを見捨てることに他ならない。
 私のラティ。逞しく、優しいラティ。一度は失ったと思っていたのに、奇蹟のように再会できたラティ。
 姿を偽っているせいで、私のことがわからないラティ。
 彼を救う方法に、私は心当たりがある。今、この場で私にしかできないやり方がある。
 それを実行するかどうかは、私が勇気を出せるかにかかっている。勇気さえあれば、おそらく、この場の状況はすぐに決着するだろう。

 このままラティを見捨てて、デリグの妻で居続けるか。
 妻の座を捨て、ラティを救うか。

 16歳のときと同じように、私はまた選択を迫られていた。審判と公平の神ロロギアは、ふたたび私に決断を求めているのだ。