「そうだ、ティタミア。別荘に到着したら、早速宴を開こうと思っているのだ。表ではなく『裏』のな。たまにはお前も参加せんか?」
「魅力的な申し出ですけど、ご遠慮いたします。私の役目は、宴の参加者が退出した後の旦那様をご満足させることなのですから」
「おお、確かに。血なまぐさい匂いがお前の美しい髪に染みついてしまえば、興ざめしてしまうかもしれない。お前の容姿は、私にとって唯一無二だからな」

 デリグは手のひらを額に当てて笑った。私も微笑む。
 この話題への耐性は付けたつもりだったが、内心では嫌悪感と恐怖感を抑えられない。

 我が夫、デリグ・ロドルースは、拷問を密かな趣味にしていた。拷問という以外に言葉が見つからないほど、凄惨で猟奇的な趣味だ。特に「嘘をついた人間」「決まりを破った人間」への仕打ちは激烈であった。デリグの側近いわく、この趣味がロドルースの名を盤石にした要因のひとつらしかった。
 私は、結婚してからこの事実を知った。

 私が鏡装魔法の遣い手で、今もずっと魔法で姿を偽り続けていることを、デリグは知らない。
 さらに、鏡装魔法の秘匿はランゴアでは重罪である。
 バレたら終わりだ。デリグと国の双方に殺される。

 私はデリグの妻の座に収まる際、これまでの男たちとは関係を断ち切っていた。今更彼らには頼れない。
 もう、後には引けないのだ。
 いつまでこの虚しいゲームを続ければいいのか――その答えはもうとっくに出ている。一生だ。

 別荘が風光明媚な土地にあってよかった。道中の馬車で目が潤んでも、景色を見ていて陽が眩しく感じたと誤魔化せばよい。

 故郷の村が焼かれてから、ずっと夢見ていた豊かな暮らしは手に入った。鏡装魔法を使う中でいくつも作った偽名も全て捨て、ようやく本名を名乗れるようになった。
 しかし、毎日が緊張と罪悪感に満ちていて、生きている実感が持てなかった。
 本当の『私』は、いったいどこにいるのだろう。いつまでも、いつまでも私は本当の私を見失ったまま、微睡んでいる。

「襲撃だ!」

 ――突然、馬車の外で叫び声がした。
 同時に、いななきを上げて馬が立ち止まる。怒声に混じって、金属同士が打ち合う音が聞こえてきた。

 ハッとして、私は夫を見る。緊迫した私の表情を見て、デリグはよく手入れされた眉を上げた。

「何を驚いている、ティタミア。いつものことではないか」
「そう、ですわね」
「白昼堂々、襲撃をかける度胸は買うがな。そういう輩はたいてい落ち着きがないのだ。きっと夜も早いぞ、私と違ってな。はっはっは」

 デリグが下世話な笑い声を上げる間、馬車の天井にトッ、トッと二度ほど音がした。きっと流れ矢だ。

 結婚してからこれまで、夫の常人外れの胆力には驚かされてきた。彼にとっては日常のことなのだろう。

 そしてこれが、強者の振る舞いなのだろう。

 ならば私は、自分で言った言葉通りにするだけだ。ティタミアは、あなたのもとに身を寄せるしかない哀れな小鳥ですわ。

(哀れ? 私に自分を哀れむ資格があるの?)

 ふいに馬車の扉が開かれた。一瞬、蛮勇を見せた襲撃者かと思ったが、違った。立派な鎧兜を身につけた護衛隊長だった。

「旦那様。どうやら近隣に潜んでいた反抗勢力のようです。今しばらく、ご不便をお許しください」
「ほう。私はてっきり、すでに掃討が完了したという報告かと思ったが。貴様、躾が足りないか?」

 デリグの言葉に、護衛隊長はサッと首筋を押さえた。私は、そこに痛々しい縄の痕があることを知っている。
「申し訳ございません」と答える彼の表情は、焦りと同時にどこか高揚しているように見えた。
 彼もまた、デリグの猟奇的な趣味の被害者だ。だが、デリグの拷問に被虐的な快楽も感じている。それがゆえに、この護衛隊長は命をかけてデリグを守るだろう。

 私は、彼のようにはなりたくない。
 けれど、万が一鏡装魔法のことが明るみに出て、私もデリグの拷問に晒されたのなら――護衛隊長のように屈してしまうかもしれない。歪な支配関係に甘んじてしまうかもしれない。
 デリグに屈するとどうなるか、その生きた証人が彼だった。

 わずかに肩を震わせる護衛隊長に、デリグは「まあいい」と口にした。

「帰るところもない流浪者どもに何を手間取っている――と言いたいところだが、お前たち相手になかなか粘るな。たいしたものだ。最近噂になっている赤髪の若造か?」
「は……。私も確認いたしました。率いているのはラティオン・パラドスに間違いありません」

(ラティオン・パラドス)

 一瞬、私は息を忘れた。デリグは私の変化に気付かない。

「ラティオン……『シグヌの暴れ獅子』か。ちょうどいい。奴は生け捕りにしろ。できるだけ無傷がいい。今日の宴のメインディッシュにする。無礼者どもの中に女はいるか?」
「いえ」
「鏡装魔法の心配は不要か。東国の防御術式とやらを試す良い機会だと思ったが、まあいい。では他の奴らは殺――いや、可能な限り追い払え」

 そこで夫が私を見る。

「ティタミアがここの景色を楽しみにしている。無闇に汚すな。死体の処理も面倒だ」
「かしこまりました」

 馬車の扉が閉められた。

 デリグから『魔法』の単語が聞こえたとき、心臓が撥ねた。今まで完璧にコントロールしてきたはずの心に、ひずみが走る。
 動揺するな。悟られるな。偽り続けろ。
 こんなところで、すべてを失うわけにはいかないのだから。

 私はこの6年で身につけた自制心と表情筋の操作法をすべて使って、夫に微笑んでみせた。

 デリグは妻を慮る権力者として完璧な仕草を見せた。私の手を握り、空いた手でそっと馬車のカーテンを閉めようとしたのだ。

「これでは景色を楽しめないだろう。護衛部隊は質と量で勝っている。少しの間だけ、景色の観賞は辛抱してくれ」
「まあ、なんてお優しい。ありがとうございます、旦那様」

 そう答えながら、私の右手はカーテンを閉じるのを遮っていた。

「ティタミア?」
「……あ」