(プロローグ)
ガシャーンッ。
ネオンの光が反射するゲーセンの中で、翠はクレーンゲームのボタンを押す指を止めた。
ぬいぐるみは、まるで笑うようにスルリと落ちてしまう。
「またや……」
財布の中には小銭が少しだけ。
それでも、もう一回挑戦したくなるのが翠の悪い癖だった。
「お前、それ、絶対無理やで。」
低くて、どこか掠れた声が後ろから聞こえた。振り返ると、黒いパーカーに金髪、鋭い目。
だけど、その瞳は妙に綺麗で――怖さよりも惹かれるような光を宿していた。
「なに? 初対面で失礼ちゃう?」
「ほら、貸してみ。こうやるんや」
男が軽く操作しただけで、ぬいぐるみがすとんと落ちる。
「……え、嘘やろ」
「嘘ちゃう。本気。俺、ゲーセン得意やねん」
口元に浮かぶ小さな笑み。その瞬間、翠の心臓がひゅっと鳴った。
「名前は?」
「蓮。」
「翠。」
それが、二人の最初の会話だった。
第1章 出会いと日常
――あの日、あのゲーセンで出会った瞬間から、
何かが変わり始めた気がした。
蓮はあれからも、時々ゲーセンに現れた。
私が学校帰りに寄る時間を、知っているみたいに。
「また来たん?」
「たまたま通っただけや」
「ふーん、そういうことにしといたるわ」
いつもの会話。ツンツンしてるようで、どこか優しい。
私がクレーンゲームを見つめていると、隣で腕を組んで「そこちゃう」と呟く。
気づけば、ぬいぐるみよりもその横顔ばっかり見ていた。
――初めて、男の人とちゃんと話せた。
心のどこかで、そう思った。
中学の頃。
ちょっとした噂や、軽い言葉で傷ついて。
「男なんか信用できへん」って、思ってた。
でも、蓮の声は不思議と怖くなかった。
乱暴そうなのに、目の奥がどこか優しい。
ある日、学校の帰りに、偶然また会った。
信号の前で、彼がバイクにまたがっていた。
真っ黒な単車に、白いマフラー。
後ろには“華蓮會”っていう刺繍。
――暴走族。
一瞬、息が詰まった。
でも、彼は私を見つけると、いつもの顔で笑った。
「お、翠やん。送ったろか?」
「バイクとか、怖いし」
「ほな、後ろ乗らんでええ。歩くわ」
そう言って、エンジンを切って私の隣に並んだ。
その瞬間、胸の奥が温かくなった。
夜の大阪の道を歩く。
コンビニの明かりがやけに眩しくて、
信号が青に変わるたびに、蓮の横顔がチラチラと光に照らされた。
「……なんでそんな優しいん?」
「別に優しくないで」
「じゃあ、なんで一緒に歩いてくれるん?」
「知らん。……なんか、放っとけん」
その言葉を聞いた瞬間、心の奥がじんわりして、
初めて、“怖くない夜”を歩いた気がした。
次の日、学校の友達が私の耳元で言った。
「なあ、翠。あの人、やばいで? “華蓮會”の副総長やって」
――副総長。
聞き慣れないその肩書に、喉が詰まった。
でも、私の中ではもう答えが出ていた。
あの夜、優しかった蓮を知っている。
だから怖くなかった。
それでも、心配してくれる友達には笑って答えた。
「大丈夫。うち、あの人信じてる」
放課後、またゲーセンで会った。
今日は彼のほうが先に来ていて、ゲームの前で腕を組んでた。
「おせぇな」
「え、待ってたん?」
「待ってへん。たまたま寄っただけや」
「ふふ、そうなん」
いつもツンツンしてるくせに、
ぬいぐるみの景品袋を渡してきた。
「……これ」
「え、くれんの?」
「余っただけや。いらんなら返せ」
「いらんなんて言わんわ。ありがとう」
素直に笑うと、蓮は少しだけ照れて視線を逸らした。
――この人の“優しさ”は、不器用でまっすぐや。
その夜、帰り道で母に電話した。
「今日、ちょっと楽しかった」って。
なんでもない言葉を口にしたの、いつぶりやろ。
数日後。
駅前で、蓮がチンピラ数人に囲まれていた。
派手な金髪の男が笑いながら言う。
「お前、“華蓮會”の副やのに、最近大人しいらしいな?」
「関係あらへん。道塞ぐな」
低い声。
私は怖くて、陰から見てることしかできなかった。
だけど――その目は、怒りよりも何かを堪えるように見えた。
“翠の前では、暴れたくない”。
そんな気がして、胸が熱くなった。
数日後、夜の公園で、彼がぽつりと呟いた。
「……うちの連中、アホばっかや。喧嘩して、威張って、何残んねんって思う」
「蓮も、やめたいって思う?」
「……ほんまはな」
そのとき、風が吹いて、ネオンが揺れた。
彼の横顔が寂しそうで、私は思わず言った。
「うちは、蓮がどんな人でも、嫌いやないで」
蓮の目が、ほんの少しだけ揺れた。
次の瞬間、彼の手が私の頭に伸びて、ぽんと触れた。
「……アホやな」
「え?」
「そんなこと言ったら、ほんまに離されへんようなるやん」
胸がぎゅっとなって、何も言えなかった。
第2章 蓮の正体と衝突
あの夜から、蓮との距離は少しずつ近づいていった。
ゲーセンで遊んで、コンビニで肉まんを半分こして、
いつのまにか「ただの知り合い」から「誰より気になる人」になっていた。
でも――その優しさの裏にある世界は、
私の知らないところでいつも血の匂いがしていた。
その日、学校で噂が広まっていた。
「昨日、駅前で“華蓮會”の抗争あったらしいで」
「副総長が怪我して、しばらく動かれへんらしい」
胸の奥が一瞬、きゅっと縮まった。
“副総長”――蓮。
何も知らんふりして授業を受けてても、
心の中はずっとざわざわしていた。
放課後、気づいたら足が勝手に動いていた。
蓮の仲間がよく集まるという、あの河川敷へ。
風が強くて、草の音がざわざわと鳴る。
遠くの街の光がちらちら瞬いていた。
その真ん中に、見慣れた後ろ姿があった。
「……蓮」
呼びかけると、彼は少し驚いたように振り返った。
左頬には、うっすらと傷が残っていた。
「なんで来たん」
「噂、聞いたから」
「……あぁ。たいしたことない」
いつもの無表情。だけど、声は少し掠れてた。
「なんで、やめへんの?」
「……簡単に言うなよ」
沈黙。
蓮はタバコの火をつけようとして、
手を止めたまま小さく笑った。
「お前、ほんま正直やな。……せやけど、こう見えて俺にも色々あんねん」
「“色々”って?」
「親父が昔、この会の創設メンバーでな。俺がガキの頃から背負ってもうてる」
初めて聞く話やった。
蓮が笑うたび、どこか寂しそうで。
「……でもな、最近思うねん。こんなん続けても、何も残らへんって」
「うちも、そう思う」
「けど抜けるん、簡単ちゃう。裏切り者扱いや」
私は何も言えなかった。
“現実”って、思ってるよりずっと冷たい。
数日後。
私は蓮と少しの間、連絡を取らなくなった。
理由は――怖かったから。
あの日の傷と、あの夜の沈黙が、
ずっと胸の中に刺さってた。
それでも、ゲーセンの前を通ると立ち止まってしまう。
ぬいぐるみが取れないまま、笑ってた彼の横顔を思い出す。
――蓮、今どこで何してるんやろ。
ある夜、携帯が震えた。
「ちょっと、話せる?」
画面に表示された“蓮”の名前。
心臓がドクンと鳴った。
待ち合わせは、あの公園。
行くと、彼は一人でブランコに座っていた。
夜風に前髪が揺れて、街灯がその横顔を照らす。
「……やっと連絡くれたな」
「ごめん。ちょっと怖くて」
「ええねん。……うちも、考えてた」
蓮はゆっくり顔を上げた。
「俺、この世界やめるわ」
「えっ……」
「中途半端に生きるん、もう嫌や。
喧嘩して、勝って、守るもんも無くして。
それなら、何もないとこからやり直したい」
言葉が出なかった。
その目は本気で、いつもの蓮よりもずっとまっすぐやった。
「……うちも、応援する」
「お前に言われたら、ほんまに頑張らなあかんな」
その夜、蓮は静かに笑った。
でも――その決意がどれだけの痛みを伴うか、
その時の私はまだ知らなかった。
翌週。
“華蓮會の副総長・蓮、脱退”の噂が街に広まった。
その数日後、彼が仲間に呼び出されて、
戻らへんまま夜が明けた。
怖くて、眠れなかった。
携帯を握りしめて、何度も名前を見つめた。
朝になって、ようやくメッセージが届いた。
「ちょっとだけ時間くれ。全部終わったら、迎えに行く」
短い言葉やのに、涙が止まらんかった。
数週間後。
蓮は本当に“華蓮會”を抜けた。
仲間から追われ、家族とも距離を置き、
バイトで日銭を稼ぎながら、静かに暮らしていた。
ある夜、コンビニの駐車場で再会した。
痩せて、少し髪が伸びていた。
「……ほんまに抜けたんやね」
「抜けた。全部、終わらせた」
「痛かった?」
「痛いより、寒かった」
そう言って笑う蓮の目が、少し潤んで見えた。
「でもな、これでええねん。お前が笑える場所に、俺も居たいから」
その言葉が、心の奥に深く響いた。
あの日から、蓮は真っ白なノートに夢を書き始めた。
“誰もが知るような会社を作る”
“いつか、翠を幸せにする”
そのページを見たとき、私は泣いて笑った。
――もう、怖くない。
この人となら、どんな未来でも乗り越えられる。
第3章 決意と別れ
蓮が“華蓮會”を抜けてから、季節は冬に変わった。
大阪の風は冷たく、空気は澄んでいて、
街の灯りがやけに遠く感じた。
彼はあの日から本気で変わった。
昼は工事現場、夜は居酒屋。
寝る間も惜しんで働いて、
休みの日には「経営の勉強してる」なんて照れくさそうに笑っていた。
「うちは、蓮が頑張ってるん見てるだけで嬉しい」
「そんなん言うな。俺、まだ何も出来てへん」
「出来てるよ。前と全然違うもん」
そう言うと、蓮は少し照れたように笑って、
私の髪をそっと指で梳いた。
その優しさがくすぐったくて、
胸の奥があたたかくなる。
だけど、そんな日々がずっと続くわけじゃなかった。
ある日、家に帰ると、母がリビングで電話をしていた。
相手はたぶん、再婚相手の父。
聞こえてくるのは、冷たい言い争いの声。
「もうええわ。そっちの娘やろ? 責任取って面倒みぃや!」
受話器を叩きつける音が響いた。
母は目を真っ赤にして、私のほうを見た。
「翠、あんた……最近、誰かとおる?」
「……うん」
「その子、まともな子なん?」
「まともやよ」
「暴走族とかちゃうやろね」
胸がぎゅっと締まった。
否定したいのに、声が出なかった。
母はため息をついて、
「また、傷つくん嫌やから言うてるんやで」と呟いた。
――あの人と出会って、やっと笑えるようになったのに。
部屋に戻ると、机の上の漫画がやけに静かに見えた。
いつもは救ってくれる物語が、
その夜だけは、私を慰めてくれなかった。
数日後。
蓮から「会えるか?」とメッセージが来た。
駅前のファミレス。
制服姿のまま向かうと、彼はスーツのパンフレットを広げていた。
「これ、見て。起業セミナーやねん」
「すごいやん。行くの?」
「あぁ。俺、ほんまに会社作りたい。
もう二度と誰かの下で暴れるんやなくて、自分で何か動かしたい」
その目がまっすぐで、
“夢”って、こんなにも眩しいんやと思った。
「蓮、絶対できるよ」
「……お前が言うなら、信じられる」
笑い合った、その瞬間だけは本当に幸せだった。
でも、次の言葉で胸が張り裂けた。
「ただな、しばらく会われへんと思う」
「え……なんで?」
「金貯めて、動かなあかん。遊んでる時間、もう無いねん」
頭では分かってた。
でも、心が拒んだ。
「……そんな、急に」
「すぐや。すぐまた会える」
「“すぐ”って、どれくらい?」
「分からん。でも、必ず迎えに行く」
蓮は笑ってそう言ったけど、
その笑顔の奥に、少しだけ迷いが見えた。
それから、連絡の数は減っていった。
“忙しい”のメッセージが増えて、
返事が来るまで何日も空くことがあった。
私は寂しさを誤魔化すように、
放課後、ゲーセンに一人で行った。
クレーンゲームを見つめて、
うまくいかないボタンを押して――また負けた。
「ほんま、下手やな」
思わず振り返った。
でも、そこに蓮の姿はなかった。
幻聴やった。
笑いながら泣いた。
春が来て、桜が咲いた。
私は高校2年になった。
蓮は相変わらず忙しいらしいけど、
たまに「元気か?」って一言だけくれる。
会えない時間が長くなるほど、
彼の存在がどんどん大きくなっていった。
――好き。
たぶん、初めて本気で誰かを好きになった。
梅雨の夜。
突然、電話が鳴った。
着信は“蓮”。
心臓が跳ねた。
「もしもし」
「……翠」
いつもより低い声。
息が荒くて、何かを堪えてる感じ。
「どうしたん? 怪我した?」
「ちゃう。……ちょっと、遠くに行く」
「え?」
「仕事で、しばらく大阪離れる。
今チャンスなんや。逃したら、もう戻られへんかもしれん」
電話の向こうで、風の音がした。
電車のアナウンスがかすかに聞こえる。
「……行くの?」
「あぁ」
「うちのことは?」
「忘れるわけない。
でも、今はお前を幸せにできる立場ちゃう」
涙が頬を伝って、携帯が震えた。
「……分かった。頑張って」
「ありがとう」
その夜、布団の中でずっと泣いた。
でも泣きながら思った。
――蓮の“頑張る”は、きっと本物や。
だから、信じよう。
それから一年。
連絡は途絶えた。
春、夏、秋、冬。
季節が一周しても、彼の声は届かない。
けれど、不思議と寂しさよりも誇らしかった。
あの人は、夢に向かって生きてる。
だから、私も立ち止まれへん。
学校で将来の進路を書かされたとき、
“編集者になりたい”と書いた。
理由はひとつ。
――人の人生を変えるような物語を届けたい。
あの時、蓮が私の心を変えてくれたみたいに。
そして三年後の春。
街を歩いていると、
通りの向こうで見覚えのある背中が見えた。
黒のスーツ、短く整えられた髪。
「……蓮?」
振り返ったその瞬間、
時間が止まった。
あの頃のままの笑顔。
でも、もう“暴走族の副総長”じゃない。
大人の男の顔になっていた。
「久しぶりやな、翠」
涙が勝手にこぼれた。
何も言えず、ただ頷いた。
彼の手が伸びて、頬をそっと拭う。
「言うたやろ。迎えに来るって」
――あの約束は、本物やった。
第4章 再会と約束
あの日、春の風が吹いていた。
大阪の街は相変わらずざわめいていて、ネオンの光も人の声も懐かしく感じた。
目の前に立つ蓮は、三年前よりも少し背が伸びて、少し痩せて、そして何よりも「大人」になっていた。
スーツの袖口から覗く腕時計は高級そうで、昔の金のネックレスなんかよりずっと似合っていた。
「……ほんまに、蓮なん?」
「そやで。幻ちゃう」
そう言って笑った顔が、あのゲーセンの光の中で見た時と同じで、胸の奥がぎゅっと掴まれた。
「どこ行ってたん?」
「東京。仕事で修行してた。会社起こすために、あっちの社長のとこで下積みしてた」
「会社……ほんまに、夢叶えたんや」
「まだ途中や。でも、やっとここまで来れた」
蓮の目が少し潤んで見えた。
あの夜、「全部終わったら迎えに行く」と言った言葉。
その“全部”を、本当に終わらせて帰ってきたんや。
ファミレスの窓際。
二人で向かい合って座るのは、三年ぶり。
メニューの上に置かれた手が震えてたのは、緊張のせいか、嬉しさのせいか。
「翠、変わらんな」
「変わったよ。髪も伸びたし、ちょっと大人になった」
「そうかもな。でも、笑い方は昔のままや」
蓮が少し照れくさそうに言う。
その声が懐かしくて、涙がこぼれそうになった。
「ほんまに頑張ったんやな」
「お前のおかげや」
「うち、何もしてへんで」
「いや、してた。あの時、“信じてる”って言ってくれたやろ。あれが、ずっと心に残ってた」
蓮の手がテーブルの下で、そっと私の手に触れた。
少し冷たくて、でも懐かしい温度。
「……なあ、翠」
「ん?」
「また一緒におれるか?」
その言葉を聞いた瞬間、涙が頬を伝った。
何度も何度も夢で聞いた言葉。
本当の声で聞ける日が来るなんて、思ってなかった。
それから、二人の日々がまた始まった。
蓮は大阪に会社を立ち上げた。
最初は従業員三人、小さなオフィス。
でも彼の頑張りは本物で、あっという間に取引先が増えていった。
私は大学に通いながら、出版社でアルバイトをしていた。
昼は文字と向き合い、夜は蓮と会って他愛ない話をした。
「なあ、蓮。うちの原稿、読んでみる?」
「読むけど……誤字だらけちゃうやろな?」
「失礼な! ちゃんと見直したもん」
「ふはは、ほんま変わらんな」
笑い合う夜。
それだけで、世界がきらきらして見えた。
ある夜。
蓮の会社が初めて大きな契約を取った。
記念日でもないのに、「祝いや」と言って夜景の見えるレストランに連れて行かれた。
「こんなとこ、緊張する」
「たまにはええやん。昔はゲーセンばっかやったし」
「……ゲーセンのほうが落ち着くけどな」
笑いながらグラスを傾ける。
ふと、蓮が真剣な顔になった。
「翠、今の俺はもう暴走族の蓮ちゃう。
でも、あの頃の“守りたい”って気持ちは変わってへん」
胸の奥があたたかくなる。
蓮はポケットから小さな箱を取り出した。
「え……なにそれ」
「開けてみ」
中には、シルバーの指輪。
中央に小さく刻まれた“R&M”。
「……蓮」
「俺と結婚してくれへんか」
涙が一気にあふれた。
何度も夢に見た未来が、今、目の前にある。
「うちでええの?」
「お前やないとあかん」
あの日、ゲーセンで笑った少女が、
今、社長になった男の隣で泣きながら笑っている。
それから一年後。
春。
桜の下で、二人は小さな式を挙げた。
白いドレス姿の翠を見つめる蓮の目には、涙が光っていた。
「蓮、泣いてるやん」
「うるさい。花粉や」
「嘘つけ」
笑いながら泣いて、泣きながら笑った。
誓いの言葉を交わすとき、蓮は小さく囁いた。
「なあ、覚えてる? “また会える?”って聞いたお前に、
俺、“必ず迎えに行く”って言うたやろ」
翠は涙の中で頷いた。
「うん。ほんまに、来てくれたね」
蓮は微笑んで、翠の手を握った。
「次は、ずっと一緒や」
夜、二人で式の帰りに寄ったのは、最初に出会ったゲーセンだった。
あの古いクレーンゲームはまだそこにあって、
少し色あせたネオンの光が二人を包み込んだ。
「なあ、やってみる?」
「また? うち、下手やで」
「俺が取ったる」
蓮がボタンを押す。
ぬいぐるみが、すとんと落ちる。
初めて出会った日のように。
「な? こうやるんや」
「……ほんま、変わらんね」
翠が笑い、蓮も笑った。
――出会った場所で、
今度は“夫婦”として、二人はまた始まった。
ガシャーンッ。
ネオンの光が反射するゲーセンの中で、翠はクレーンゲームのボタンを押す指を止めた。
ぬいぐるみは、まるで笑うようにスルリと落ちてしまう。
「またや……」
財布の中には小銭が少しだけ。
それでも、もう一回挑戦したくなるのが翠の悪い癖だった。
「お前、それ、絶対無理やで。」
低くて、どこか掠れた声が後ろから聞こえた。振り返ると、黒いパーカーに金髪、鋭い目。
だけど、その瞳は妙に綺麗で――怖さよりも惹かれるような光を宿していた。
「なに? 初対面で失礼ちゃう?」
「ほら、貸してみ。こうやるんや」
男が軽く操作しただけで、ぬいぐるみがすとんと落ちる。
「……え、嘘やろ」
「嘘ちゃう。本気。俺、ゲーセン得意やねん」
口元に浮かぶ小さな笑み。その瞬間、翠の心臓がひゅっと鳴った。
「名前は?」
「蓮。」
「翠。」
それが、二人の最初の会話だった。
第1章 出会いと日常
――あの日、あのゲーセンで出会った瞬間から、
何かが変わり始めた気がした。
蓮はあれからも、時々ゲーセンに現れた。
私が学校帰りに寄る時間を、知っているみたいに。
「また来たん?」
「たまたま通っただけや」
「ふーん、そういうことにしといたるわ」
いつもの会話。ツンツンしてるようで、どこか優しい。
私がクレーンゲームを見つめていると、隣で腕を組んで「そこちゃう」と呟く。
気づけば、ぬいぐるみよりもその横顔ばっかり見ていた。
――初めて、男の人とちゃんと話せた。
心のどこかで、そう思った。
中学の頃。
ちょっとした噂や、軽い言葉で傷ついて。
「男なんか信用できへん」って、思ってた。
でも、蓮の声は不思議と怖くなかった。
乱暴そうなのに、目の奥がどこか優しい。
ある日、学校の帰りに、偶然また会った。
信号の前で、彼がバイクにまたがっていた。
真っ黒な単車に、白いマフラー。
後ろには“華蓮會”っていう刺繍。
――暴走族。
一瞬、息が詰まった。
でも、彼は私を見つけると、いつもの顔で笑った。
「お、翠やん。送ったろか?」
「バイクとか、怖いし」
「ほな、後ろ乗らんでええ。歩くわ」
そう言って、エンジンを切って私の隣に並んだ。
その瞬間、胸の奥が温かくなった。
夜の大阪の道を歩く。
コンビニの明かりがやけに眩しくて、
信号が青に変わるたびに、蓮の横顔がチラチラと光に照らされた。
「……なんでそんな優しいん?」
「別に優しくないで」
「じゃあ、なんで一緒に歩いてくれるん?」
「知らん。……なんか、放っとけん」
その言葉を聞いた瞬間、心の奥がじんわりして、
初めて、“怖くない夜”を歩いた気がした。
次の日、学校の友達が私の耳元で言った。
「なあ、翠。あの人、やばいで? “華蓮會”の副総長やって」
――副総長。
聞き慣れないその肩書に、喉が詰まった。
でも、私の中ではもう答えが出ていた。
あの夜、優しかった蓮を知っている。
だから怖くなかった。
それでも、心配してくれる友達には笑って答えた。
「大丈夫。うち、あの人信じてる」
放課後、またゲーセンで会った。
今日は彼のほうが先に来ていて、ゲームの前で腕を組んでた。
「おせぇな」
「え、待ってたん?」
「待ってへん。たまたま寄っただけや」
「ふふ、そうなん」
いつもツンツンしてるくせに、
ぬいぐるみの景品袋を渡してきた。
「……これ」
「え、くれんの?」
「余っただけや。いらんなら返せ」
「いらんなんて言わんわ。ありがとう」
素直に笑うと、蓮は少しだけ照れて視線を逸らした。
――この人の“優しさ”は、不器用でまっすぐや。
その夜、帰り道で母に電話した。
「今日、ちょっと楽しかった」って。
なんでもない言葉を口にしたの、いつぶりやろ。
数日後。
駅前で、蓮がチンピラ数人に囲まれていた。
派手な金髪の男が笑いながら言う。
「お前、“華蓮會”の副やのに、最近大人しいらしいな?」
「関係あらへん。道塞ぐな」
低い声。
私は怖くて、陰から見てることしかできなかった。
だけど――その目は、怒りよりも何かを堪えるように見えた。
“翠の前では、暴れたくない”。
そんな気がして、胸が熱くなった。
数日後、夜の公園で、彼がぽつりと呟いた。
「……うちの連中、アホばっかや。喧嘩して、威張って、何残んねんって思う」
「蓮も、やめたいって思う?」
「……ほんまはな」
そのとき、風が吹いて、ネオンが揺れた。
彼の横顔が寂しそうで、私は思わず言った。
「うちは、蓮がどんな人でも、嫌いやないで」
蓮の目が、ほんの少しだけ揺れた。
次の瞬間、彼の手が私の頭に伸びて、ぽんと触れた。
「……アホやな」
「え?」
「そんなこと言ったら、ほんまに離されへんようなるやん」
胸がぎゅっとなって、何も言えなかった。
第2章 蓮の正体と衝突
あの夜から、蓮との距離は少しずつ近づいていった。
ゲーセンで遊んで、コンビニで肉まんを半分こして、
いつのまにか「ただの知り合い」から「誰より気になる人」になっていた。
でも――その優しさの裏にある世界は、
私の知らないところでいつも血の匂いがしていた。
その日、学校で噂が広まっていた。
「昨日、駅前で“華蓮會”の抗争あったらしいで」
「副総長が怪我して、しばらく動かれへんらしい」
胸の奥が一瞬、きゅっと縮まった。
“副総長”――蓮。
何も知らんふりして授業を受けてても、
心の中はずっとざわざわしていた。
放課後、気づいたら足が勝手に動いていた。
蓮の仲間がよく集まるという、あの河川敷へ。
風が強くて、草の音がざわざわと鳴る。
遠くの街の光がちらちら瞬いていた。
その真ん中に、見慣れた後ろ姿があった。
「……蓮」
呼びかけると、彼は少し驚いたように振り返った。
左頬には、うっすらと傷が残っていた。
「なんで来たん」
「噂、聞いたから」
「……あぁ。たいしたことない」
いつもの無表情。だけど、声は少し掠れてた。
「なんで、やめへんの?」
「……簡単に言うなよ」
沈黙。
蓮はタバコの火をつけようとして、
手を止めたまま小さく笑った。
「お前、ほんま正直やな。……せやけど、こう見えて俺にも色々あんねん」
「“色々”って?」
「親父が昔、この会の創設メンバーでな。俺がガキの頃から背負ってもうてる」
初めて聞く話やった。
蓮が笑うたび、どこか寂しそうで。
「……でもな、最近思うねん。こんなん続けても、何も残らへんって」
「うちも、そう思う」
「けど抜けるん、簡単ちゃう。裏切り者扱いや」
私は何も言えなかった。
“現実”って、思ってるよりずっと冷たい。
数日後。
私は蓮と少しの間、連絡を取らなくなった。
理由は――怖かったから。
あの日の傷と、あの夜の沈黙が、
ずっと胸の中に刺さってた。
それでも、ゲーセンの前を通ると立ち止まってしまう。
ぬいぐるみが取れないまま、笑ってた彼の横顔を思い出す。
――蓮、今どこで何してるんやろ。
ある夜、携帯が震えた。
「ちょっと、話せる?」
画面に表示された“蓮”の名前。
心臓がドクンと鳴った。
待ち合わせは、あの公園。
行くと、彼は一人でブランコに座っていた。
夜風に前髪が揺れて、街灯がその横顔を照らす。
「……やっと連絡くれたな」
「ごめん。ちょっと怖くて」
「ええねん。……うちも、考えてた」
蓮はゆっくり顔を上げた。
「俺、この世界やめるわ」
「えっ……」
「中途半端に生きるん、もう嫌や。
喧嘩して、勝って、守るもんも無くして。
それなら、何もないとこからやり直したい」
言葉が出なかった。
その目は本気で、いつもの蓮よりもずっとまっすぐやった。
「……うちも、応援する」
「お前に言われたら、ほんまに頑張らなあかんな」
その夜、蓮は静かに笑った。
でも――その決意がどれだけの痛みを伴うか、
その時の私はまだ知らなかった。
翌週。
“華蓮會の副総長・蓮、脱退”の噂が街に広まった。
その数日後、彼が仲間に呼び出されて、
戻らへんまま夜が明けた。
怖くて、眠れなかった。
携帯を握りしめて、何度も名前を見つめた。
朝になって、ようやくメッセージが届いた。
「ちょっとだけ時間くれ。全部終わったら、迎えに行く」
短い言葉やのに、涙が止まらんかった。
数週間後。
蓮は本当に“華蓮會”を抜けた。
仲間から追われ、家族とも距離を置き、
バイトで日銭を稼ぎながら、静かに暮らしていた。
ある夜、コンビニの駐車場で再会した。
痩せて、少し髪が伸びていた。
「……ほんまに抜けたんやね」
「抜けた。全部、終わらせた」
「痛かった?」
「痛いより、寒かった」
そう言って笑う蓮の目が、少し潤んで見えた。
「でもな、これでええねん。お前が笑える場所に、俺も居たいから」
その言葉が、心の奥に深く響いた。
あの日から、蓮は真っ白なノートに夢を書き始めた。
“誰もが知るような会社を作る”
“いつか、翠を幸せにする”
そのページを見たとき、私は泣いて笑った。
――もう、怖くない。
この人となら、どんな未来でも乗り越えられる。
第3章 決意と別れ
蓮が“華蓮會”を抜けてから、季節は冬に変わった。
大阪の風は冷たく、空気は澄んでいて、
街の灯りがやけに遠く感じた。
彼はあの日から本気で変わった。
昼は工事現場、夜は居酒屋。
寝る間も惜しんで働いて、
休みの日には「経営の勉強してる」なんて照れくさそうに笑っていた。
「うちは、蓮が頑張ってるん見てるだけで嬉しい」
「そんなん言うな。俺、まだ何も出来てへん」
「出来てるよ。前と全然違うもん」
そう言うと、蓮は少し照れたように笑って、
私の髪をそっと指で梳いた。
その優しさがくすぐったくて、
胸の奥があたたかくなる。
だけど、そんな日々がずっと続くわけじゃなかった。
ある日、家に帰ると、母がリビングで電話をしていた。
相手はたぶん、再婚相手の父。
聞こえてくるのは、冷たい言い争いの声。
「もうええわ。そっちの娘やろ? 責任取って面倒みぃや!」
受話器を叩きつける音が響いた。
母は目を真っ赤にして、私のほうを見た。
「翠、あんた……最近、誰かとおる?」
「……うん」
「その子、まともな子なん?」
「まともやよ」
「暴走族とかちゃうやろね」
胸がぎゅっと締まった。
否定したいのに、声が出なかった。
母はため息をついて、
「また、傷つくん嫌やから言うてるんやで」と呟いた。
――あの人と出会って、やっと笑えるようになったのに。
部屋に戻ると、机の上の漫画がやけに静かに見えた。
いつもは救ってくれる物語が、
その夜だけは、私を慰めてくれなかった。
数日後。
蓮から「会えるか?」とメッセージが来た。
駅前のファミレス。
制服姿のまま向かうと、彼はスーツのパンフレットを広げていた。
「これ、見て。起業セミナーやねん」
「すごいやん。行くの?」
「あぁ。俺、ほんまに会社作りたい。
もう二度と誰かの下で暴れるんやなくて、自分で何か動かしたい」
その目がまっすぐで、
“夢”って、こんなにも眩しいんやと思った。
「蓮、絶対できるよ」
「……お前が言うなら、信じられる」
笑い合った、その瞬間だけは本当に幸せだった。
でも、次の言葉で胸が張り裂けた。
「ただな、しばらく会われへんと思う」
「え……なんで?」
「金貯めて、動かなあかん。遊んでる時間、もう無いねん」
頭では分かってた。
でも、心が拒んだ。
「……そんな、急に」
「すぐや。すぐまた会える」
「“すぐ”って、どれくらい?」
「分からん。でも、必ず迎えに行く」
蓮は笑ってそう言ったけど、
その笑顔の奥に、少しだけ迷いが見えた。
それから、連絡の数は減っていった。
“忙しい”のメッセージが増えて、
返事が来るまで何日も空くことがあった。
私は寂しさを誤魔化すように、
放課後、ゲーセンに一人で行った。
クレーンゲームを見つめて、
うまくいかないボタンを押して――また負けた。
「ほんま、下手やな」
思わず振り返った。
でも、そこに蓮の姿はなかった。
幻聴やった。
笑いながら泣いた。
春が来て、桜が咲いた。
私は高校2年になった。
蓮は相変わらず忙しいらしいけど、
たまに「元気か?」って一言だけくれる。
会えない時間が長くなるほど、
彼の存在がどんどん大きくなっていった。
――好き。
たぶん、初めて本気で誰かを好きになった。
梅雨の夜。
突然、電話が鳴った。
着信は“蓮”。
心臓が跳ねた。
「もしもし」
「……翠」
いつもより低い声。
息が荒くて、何かを堪えてる感じ。
「どうしたん? 怪我した?」
「ちゃう。……ちょっと、遠くに行く」
「え?」
「仕事で、しばらく大阪離れる。
今チャンスなんや。逃したら、もう戻られへんかもしれん」
電話の向こうで、風の音がした。
電車のアナウンスがかすかに聞こえる。
「……行くの?」
「あぁ」
「うちのことは?」
「忘れるわけない。
でも、今はお前を幸せにできる立場ちゃう」
涙が頬を伝って、携帯が震えた。
「……分かった。頑張って」
「ありがとう」
その夜、布団の中でずっと泣いた。
でも泣きながら思った。
――蓮の“頑張る”は、きっと本物や。
だから、信じよう。
それから一年。
連絡は途絶えた。
春、夏、秋、冬。
季節が一周しても、彼の声は届かない。
けれど、不思議と寂しさよりも誇らしかった。
あの人は、夢に向かって生きてる。
だから、私も立ち止まれへん。
学校で将来の進路を書かされたとき、
“編集者になりたい”と書いた。
理由はひとつ。
――人の人生を変えるような物語を届けたい。
あの時、蓮が私の心を変えてくれたみたいに。
そして三年後の春。
街を歩いていると、
通りの向こうで見覚えのある背中が見えた。
黒のスーツ、短く整えられた髪。
「……蓮?」
振り返ったその瞬間、
時間が止まった。
あの頃のままの笑顔。
でも、もう“暴走族の副総長”じゃない。
大人の男の顔になっていた。
「久しぶりやな、翠」
涙が勝手にこぼれた。
何も言えず、ただ頷いた。
彼の手が伸びて、頬をそっと拭う。
「言うたやろ。迎えに来るって」
――あの約束は、本物やった。
第4章 再会と約束
あの日、春の風が吹いていた。
大阪の街は相変わらずざわめいていて、ネオンの光も人の声も懐かしく感じた。
目の前に立つ蓮は、三年前よりも少し背が伸びて、少し痩せて、そして何よりも「大人」になっていた。
スーツの袖口から覗く腕時計は高級そうで、昔の金のネックレスなんかよりずっと似合っていた。
「……ほんまに、蓮なん?」
「そやで。幻ちゃう」
そう言って笑った顔が、あのゲーセンの光の中で見た時と同じで、胸の奥がぎゅっと掴まれた。
「どこ行ってたん?」
「東京。仕事で修行してた。会社起こすために、あっちの社長のとこで下積みしてた」
「会社……ほんまに、夢叶えたんや」
「まだ途中や。でも、やっとここまで来れた」
蓮の目が少し潤んで見えた。
あの夜、「全部終わったら迎えに行く」と言った言葉。
その“全部”を、本当に終わらせて帰ってきたんや。
ファミレスの窓際。
二人で向かい合って座るのは、三年ぶり。
メニューの上に置かれた手が震えてたのは、緊張のせいか、嬉しさのせいか。
「翠、変わらんな」
「変わったよ。髪も伸びたし、ちょっと大人になった」
「そうかもな。でも、笑い方は昔のままや」
蓮が少し照れくさそうに言う。
その声が懐かしくて、涙がこぼれそうになった。
「ほんまに頑張ったんやな」
「お前のおかげや」
「うち、何もしてへんで」
「いや、してた。あの時、“信じてる”って言ってくれたやろ。あれが、ずっと心に残ってた」
蓮の手がテーブルの下で、そっと私の手に触れた。
少し冷たくて、でも懐かしい温度。
「……なあ、翠」
「ん?」
「また一緒におれるか?」
その言葉を聞いた瞬間、涙が頬を伝った。
何度も何度も夢で聞いた言葉。
本当の声で聞ける日が来るなんて、思ってなかった。
それから、二人の日々がまた始まった。
蓮は大阪に会社を立ち上げた。
最初は従業員三人、小さなオフィス。
でも彼の頑張りは本物で、あっという間に取引先が増えていった。
私は大学に通いながら、出版社でアルバイトをしていた。
昼は文字と向き合い、夜は蓮と会って他愛ない話をした。
「なあ、蓮。うちの原稿、読んでみる?」
「読むけど……誤字だらけちゃうやろな?」
「失礼な! ちゃんと見直したもん」
「ふはは、ほんま変わらんな」
笑い合う夜。
それだけで、世界がきらきらして見えた。
ある夜。
蓮の会社が初めて大きな契約を取った。
記念日でもないのに、「祝いや」と言って夜景の見えるレストランに連れて行かれた。
「こんなとこ、緊張する」
「たまにはええやん。昔はゲーセンばっかやったし」
「……ゲーセンのほうが落ち着くけどな」
笑いながらグラスを傾ける。
ふと、蓮が真剣な顔になった。
「翠、今の俺はもう暴走族の蓮ちゃう。
でも、あの頃の“守りたい”って気持ちは変わってへん」
胸の奥があたたかくなる。
蓮はポケットから小さな箱を取り出した。
「え……なにそれ」
「開けてみ」
中には、シルバーの指輪。
中央に小さく刻まれた“R&M”。
「……蓮」
「俺と結婚してくれへんか」
涙が一気にあふれた。
何度も夢に見た未来が、今、目の前にある。
「うちでええの?」
「お前やないとあかん」
あの日、ゲーセンで笑った少女が、
今、社長になった男の隣で泣きながら笑っている。
それから一年後。
春。
桜の下で、二人は小さな式を挙げた。
白いドレス姿の翠を見つめる蓮の目には、涙が光っていた。
「蓮、泣いてるやん」
「うるさい。花粉や」
「嘘つけ」
笑いながら泣いて、泣きながら笑った。
誓いの言葉を交わすとき、蓮は小さく囁いた。
「なあ、覚えてる? “また会える?”って聞いたお前に、
俺、“必ず迎えに行く”って言うたやろ」
翠は涙の中で頷いた。
「うん。ほんまに、来てくれたね」
蓮は微笑んで、翠の手を握った。
「次は、ずっと一緒や」
夜、二人で式の帰りに寄ったのは、最初に出会ったゲーセンだった。
あの古いクレーンゲームはまだそこにあって、
少し色あせたネオンの光が二人を包み込んだ。
「なあ、やってみる?」
「また? うち、下手やで」
「俺が取ったる」
蓮がボタンを押す。
ぬいぐるみが、すとんと落ちる。
初めて出会った日のように。
「な? こうやるんや」
「……ほんま、変わらんね」
翠が笑い、蓮も笑った。
――出会った場所で、
今度は“夫婦”として、二人はまた始まった。


