不良社長に恋をした。―壊れた心を包む、あの味①のその後の物語へ

(エピローグ)

春の匂いが漂う。
 窓の外には、やわらかな桜の花びらが風に揺れ、ひらひらと舞い落ちていた。

 ベッドの上、翠は大きく息を吸い、汗に濡れた額を押さえる。
 蓮の手がそっと握る。力強く、温かく、心の奥まで届く感触だった。

「もう少しや、翠。がんばれ」
 低く、穏やかで、でも力強い声。
 あのゲーセンで初めて出会ったときと、変わらない響きだった。

 痛みに顔をゆがめながらも、翠は小さく笑う。
「うち……頑張るから……見とって……蓮」

 その瞬間、部屋中に小さな産声が響き渡った。
 空気が震え、胸が高鳴る。
 この世に生まれ出た、小さな命。

「……生まれた」
 蓮の声が震え、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
 抱き上げられた赤ん坊は、まだ何も知らない瞳で周囲を見渡す。
 でも確かに、この手の中で生きていた。

「男の子ですよ」
 助産師の微笑みに、翠の胸がぎゅっと熱くなる。
 ――この瞬間、二人は“家族”になったのだ。


 それから数年が過ぎた。

 リビングには、子どもたちの笑い声が絶えず響く。
 蓮はソファに腰かけ、資料とパソコンを前に仕事を進めている。
 膝の上には長男・湊が座り、タブレットを覗き込む。

「ママ、黒い~!」
「うるさいなぁ! 味は一緒や!」
「味も黒いで!」
 湊の笑い声に、蓮が思わず吹き出す。

「お前、ほんま翠そっくりやな」
「褒めてる?」
「褒めとるわ、愛してるの間違いやな」

 長女・芽衣は弟たちを追いかけてリビングを駆け回り、
 少し離れた場所では、双子の凛と空が積み木を積み上げていた。

 声が重なり合う賑やかな空間。
 温かく、日常的で、でも二人にとっては何よりも愛おしい時間だった。

 翠はキッチンで、焦げかけた卵焼きを慌てて裏返す。
「ちょっと待って、焦げるやん!」
 蓮が手を伸ばして卵焼きを受け取り、優しく整える。

「やっぱ、蓮、料理上手やな」
「昔からやろ。お前のために練習してたんやで」
 翠は笑いながら、頬を赤らめる。


 夜。
 子どもたちが眠ったあと、二人はベランダに出る。
 大阪の街の灯りが、遠くにきらきらと瞬く。

「なあ、蓮」
「ん?」
「最初に出会ったとき、こんな未来、想像できた?」
「できるわけないやろ。あの時の俺、ただのアホなガキやったし」
「せやな。でも……あの時のあんたがおらんかったら、今のうちはおらん」

 蓮は小さく笑った。
「お互い様や」

 夜風が頬をなでる。翠はふと蓮の横顔を見上げる。
「ありがとうな、蓮。うちを見つけてくれて」
 蓮は少し照れたように、でもまっすぐに答える。
「見つけたんちゃう。惹かれたんや」

 その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
 十年前、ネオンの光の下で出会ったあの夜の鼓動が、今も胸に生きていた。


 蓮がポケットから、古びたぬいぐるみを取り出した。
 あのゲーセンで最初に取ったぬいぐるみ。少し汚れているけれど、まだ大切に残していた。

「これ、まだ持ってたん?」
「当然やろ。お前と始まった証や」

 翠は笑いながら、ぬいぐるみをそっと抱きしめる。
「なあ、蓮」
「なんや」
「うちら、ほんまに幸せやな」
「当たり前や。俺が選んだ女やもん」

 空には星が瞬き、遠くで子どもたちの寝息が聞こえる。
 あの頃は、未来なんて遠くて見えなかった。
 でも今は、隣に誰かがいて、手を繋ぎ、歩いていける。
 それだけで十分やった。


 大阪の夜の街。
 ネオンの光が、昔よりも優しく見える。
 翠と蓮は手を繋ぎ、ゆっくりと歩きながら、同じ空を見上げる。

 どんな過去も、どんな痛みも、
 この手の温もりがあれば、もう怖くない。

 彼が笑う。彼女も笑う。

 そして未来は、その笑顔の先に――
 静かに、確かに、続いていく。