窓のない部屋に机が二つ、入り口に近い席には男が一人タイプライターに向かい合っている。エリザベートは女性軍人に腕を引かれ、もう一つの机のそばの椅子に座らされた。さっきまで目隠しをされていたのでこの建物がどこにあるのか、なんのための建物なのかもわからない。走ったわけでもないのに息が荒く、心臓は破裂しそうだった。私は何をした? 一緒にいた4人はどうなった? 何の罪で拘束されている? アレクセイとの交際? もらった物資が横流し品だった? ハウスメイドのこと? 心当たりがありすぎた。机にはライトが一つ置いてあった。映画の中の警察の取り調べシーンみたいだ、と思った。
 ドアが開き、二人の軍人が入ってきた。二人ともまだ40歳前に見えるのに、一人は大将の位の肩章だった。
「どうも奥さん、私はヴィクトルといいます。よろしく」
「はあ……」
 エリザベートは小さく頭を下げた。いったい何なのだろう。ファーストネームで名乗るなんて。
「同志、しょっぱなからくだけすぎです。アメリカ人みたいです」
 もう一人の眼鏡の男が言った。こちらは少し堅物な感じだ。
「まあそう言うな、ミーシャ、好きにさせてくれ。それとこのご婦人はロシア語がわかるらしいから、めったなことは言うんじゃないぞ。これは尋問だからな」
 そうだ、これは尋問なのだ。私は今ソビエト軍につかまって尋問されている。下手を打つわけにはいかない。アレクセイに迷惑がかかってしまう。それにしてもなぜ私がロシア語を解することを知っているのだろう。
「さて奥さん、素人が嘘をつくと後で矛盾ばかりになり、ボロがでる。わたしの質問には正直に正確に答えてもらおうか。さっきは往来で何をもめてたんだね」
「家族が……米軍側の闇市へ行こうと言っていたのですが、私が行きたくないと言ったので、行くや行かないやでもめていたんです。大した問題ではありません」
「家族? あの二人の女性はあなたの姉妹かね?」
「いいえ、以前仕事でつながりのあった人たちです。今は住宅難なので一緒に暮らしていました」
「どういう仕事で?」
「ギゼラは私の息子の養育と家庭教師でした。フリーダは台所女中でした。二人とも住み込みで…以前の家が接収されてしまい、行くところがないらしく、私と一緒にいました」
「住み込みの使用人! あなたは大変なお金持ちだったんだねえ。ロシア語はその時に勉強していたのかい?」
 ヴィクトル・アバクーモフはわざとらしく驚いてみせた。
「ロシア語は……幼い頃の住み込みの家庭教師から学びました」
「なんとご実家にも住み込みの家庭教師が! ブルジョワとはすごいもんだ。悪いが荷物を改めさせてもらったよ。他の二人は着替えやらいろいろな物を持っていた。だがひとつだけ中身が異なる鞄があった。奥さん、あんたが女中とやらに渡した鞄だ」

 あの中身を見られたか、エリザベートは震えあがった。ナチスの親衛隊の黒い制服、結婚写真、指輪、家族の写真、兄への手紙……
「単刀直入に聞こう。エリザベート・フォン・リヒテンラーデさん、ジューコフ中佐とはどういう関係かな」
 ああ、やっぱりそう来たか。アレクセイは以前、司令官と相性が悪いって言っていた。この人はその司令官の部下だろうか。相性が悪いから弱みを見つけて放逐しようということだろう。私との関係は交際禁止令に引っかかってしまう。司令官としては、これを口実にアレクセイを簡単にお払い箱にできるのだ。
「……私は以前グリューネヴァルトに住んでいました。その時、ジューコフ中佐の憲兵隊が私の家を接収しました。今はハウスメイドとして雇ってもらっています」
「豪邸に住んでいた奥方が、家政婦とは苦労も多いことでしょうね。それとも家事ではなく、別の方法でのご奉仕とかかね?」
「いえ、普通に掃除とかしていますけど……」
「通訳としてのあなたを公的に雇用した記録もあった。なぜ通訳をやれるほどの人材がメイドになった?」
「通訳は……ソビエトの人しかだめになったらしくて、私は仕事につながる資格も持っていないし、ハウスメイドくらいしかできなくて」
「謙虚だね、教員免許も持っているし、ロシア語もできる。ナチ党員の過去、親衛隊中佐夫人の過去のせいで何もできなくて、仕方なく縫い物と店番かね?」
 教員採用試験のことまで知っているなんて! さっきの連行の後調べたのではないだろう、この人たちは私とアレクセイのことをずっと嗅ぎ回っていて、完全に有罪にできそうになったから、こうして私を捕まえたのだろう。そうするとアレクセイも尋問を受けている? 彼の今後のキャリアのために私はボロを出すわけにはいかない。
「ジューコフ中佐はアメリカ軍の少佐と物資の『贈答』でアメリカタバコやらチョコレートを仕入れていた。ハウスメイドが来る日は、『昼食分』として食堂から4人分くらいのパンやらハムを持ち帰っていた。全部あんたに流れていたんじゃないのかい?」
「ハウスメイドの給料として物資はいただいていました」
「ふうん、給料ねえ。では夜間パトロールの途中で、長~い時間あんたの店で、しけこんでいた時は、何の給料として受け取っていたんだ?」
 この人たちは夜の店の奥でのことを言っている! エリザベートは顔を紅潮させた。
「ねえ奥さん、あの店の奥で何をしていたんだい?」
 アバクーモフは下卑たほほ笑みを浮かべてにやにやした。
「べ……別に、単にパトロールの途中に寄ってもらっていただけです」
「昼間のパトロールでも立ち寄っているね。毎日毎日何の定時報告を?」
 エリザベートは眼鏡の男に助けを求めるようにちらっと見た。彼もこちらを見ているが、無表情だった。アバクーモフは胸のポケットから封書を取り出した。
「奥さん、あんたがお兄さんに書いた手紙を読ませてもらったよ。あんたはハナから西側へ行くつもりはなかったんだな」
 人の手紙を勝手に読むなんて! だが、この人たちのことだ、ギゼラと兄の書簡も当然のように検閲し、私たち家族の動向など筒抜けだったのだろう。ギゼラとフリーダも同様にこの建物の中で尋問を受けているとしたら、きっとべらべらとしゃべってしまっていることだろう。私だけでも東側の世界への忠誠を現さなければ、そうエリザベートは感じた。
「私は西側へ行きたいなど、思ったことは一度もありません」
「この手紙にある、あんたが愛していると書いている『あの方』っていうのはジューコフ中佐かね?」
「……」
「あんたは家族を捨ててまで、こちらに残った。何がそうさせた? 『あの方』っていうのはあんたの何なんだ?」

 エリザベートが黙ってしまったので、また二人は退室した。エリザベートは女性兵士とタイピストと尋問室に取り残された。たいしてきつい尋問ではなかった。もっと爪をはがされたりするのかと思っていたので、彼女は少し拍子抜けしていた。だが自分の心臓の音が聞こえそうだった。どうしよう、どういえばとりつくろえる? こんなふうにつかまることは、想定していなかった。アレクセイはどう回答しているのだろう。想定問答くらいしておけばよかった。勝手なことを言っては、彼の話との間に矛盾が生じてしまう。
 それにしても、あの4人はどこか別の部屋なのだろうか。ここにいると他の部屋の音も、街の喧騒も聞こえない。時間の経過もよくわからいくらいだった。エリザベートはうなだれ、頭を抱えていた。