同日、アレクセイ・ジューコフ中佐は憲兵隊本部に勤務していたところ、MGB(ソ連国家保安省)から呼び出しを受けた。うわ、やっちまったか~?という周りの目の中、アレクセイは内心びくびくしながら、ソビエト軍カールスホルスト駐屯地内にあるMGBのベルリン支部へ急いだ。というのもMGBというのはこの3月に組織改編でNKVD(内務人民委員部)から独立した新省であり、政治警察と情報機関を兼ねた組織であった。よってドイツ人のみならずソビエト軍内部でも怖がられていたのである。もしかして異動はこっちか? こっち系は汚れ仕事も多いし性に合わなくて逃げてきたんだよなあ、でもベルリン勤務ならなあ、とため息をつきながら、指示された会議室に入室した。途端にアレクセイは息を飲んで驚き、敬礼をした。
「同志アバクーモフ将軍閣下!」
「やあ、久しぶりだね、同志ジューコフ少佐、いや中佐か。昇進おめでとう。まあ楽にして座りたまえ」
ヴィクトル・セミョーノヴィチ・アバクーモフは、弱冠38歳のソビエト国家保安大臣であり、軍隊内では大将の位を持っている。つまりMGBのトップであった。なんでこんな大物が? 確かこの将軍はこんなに偉くなっても、自ら尋問やら拷問をするのが好きな人物と噂で聞いたことがある。人事異動のことではない? まさかエリザベートのことがばれたのか? いやそのことでここまで大物が出てくるか? アレクセイの頭の中は混乱していた。
狭い会議室には同じくらいの年齢の眼鏡の男が一人アバクーモフの隣に座り、少し離れてタイプライターを前にした文官も座っている。なんだこれは? やはり尋問なのか?
「同志アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフ中佐、君と初めて会ったのはスターリングラード激戦の後だな」
そうだ、退院してそのあと後方の主計局に異動したころだ。当時NKVDから分離したスメルシ(国防人民委員部防諜総局)を創設したこの男は俺をスカウトに来たのだ。
「はい、覚えています。あの時はご無礼いたしました。まだ肩の具合が悪くて……」
スメルシは軍内の防諜と摘発、懲罰を行う部隊である。味方を後方から撃つような仕事はしたくなくて、負傷のせいにして主計にいさせてもらった。その後憲兵に空きが出たので、志願して異動した。
「いやあれは残念だったな。お前は文武両道の優秀な将校だから、ぜひスメルシに来てほしかったのだよ。大祖国戦争(第二次世界大戦のソビエトでの呼び名)終結後もすぐにも人事に申請したんだぞ。話は聞いているか?」
「いえ」
そういえばゴーシャが「お前のことを欲しがっている部署がある」と言っていた。まさかアバクーモフは諦めずにまだ俺を欲しがっていたのか?
「そうか、そうか。もしスメルシに来ていたら面白いものも見れたぞ。去年の8月、対日参戦で先頭を切って満州に突入したのは我々スメルシだ。どうだ、極東なんてめったに行ける場所じゃないぞ。新京は素晴らしい街だった」
「……自分はベルリンへの継続勤務を願い出ておりましたので」
「なぜそんなにベルリンにこだわる、同志中佐。モスクワには戻りたくないのか。ベルリンは君にとって、それほど魅力的な街かね」
「自分のドイツ語能力はソビエト連邦軍内でもトップレベルだと自負しております。それに、大祖国戦争を勝ち抜き、制圧したベルリンという帝都を、共産圏の最前線としてソビエトの衛星にすべく、復興させるという仕事に生きがいを感じていますので」
「確かにお前さんのドイツ語能力は高いらしいな。ドイツ人と比べても遜色ないと聞いている。語学の能力を磨くには、その語学を使う恋人を作ることだと聞いたことがあるが、本当なのかな」
「さあ……どうでしょうね」
「人事というものほど、個人の希望を無視するシステムもないだろうな。お前の希望が通り続けたのは同志ジューコフ元帥の力が大きい。だが元帥はもういない。そこのところはわかっているのか」
「……はい」
そうだ、ゴーシャはもうベルリンにはいない。それどころか僻地への左遷だ。俺の人事に口出ししている余裕はない。戦争終結後、ベルリンへの残留はほとんどが第一ベラルーシ軍からだった。自分自身は第一ウクライナ軍から異例のベルリン残留、憲兵隊での継続勤務、全部希望は通ってきた。それらはすべてアレクセイの後ろ楯としてジューコフ元帥があってのことなのだ。
「いまやスメルシもMGBの一部になった。そして俺がMGBのトップだ」
「……」
「本題を言おう、MGBに来てお前の能力を俺のために活かしてほしい。それを言うためにここまで来た」
「大変光栄ですが、なぜ私を?」
「お前の冷静沈着さ、事務能力と、ドイツ語力かな。武闘派だけの脳筋もいらんし、逆もまたしかりだ。士官学校の成績も見せてもらったよ。いや、すばらしいの一言につきる」
ドイツ語力を活かせるということはドイツに居られるのか? ドイツの復興をドイツ人にまかせきりにはせず、ドイツに対して何かをするのか、諜報と敵性分子の炙り出しか、どっちにしろ汚い仕事だ。ソビエトはドイツを子分として未来永劫離しはしないだろう。ドイツにいることができるのなら……
「迷うかね?」
「すみません、突然の打診だったので…」
アレクセイはどう答えたものか悩んだ。すぐに異動内示を受けるべきか? ここでベルリン残留を希望すれば余計に怪しまれるか?
「では話題を変えよう、スターリングラード攻防戦での一個小隊救出の英雄大尉はモスクワでも大きく報道されたよ。通常の同じような美談よりも格段に大きくね。なぜだと思う?」
「さあ……同時期にいいニュースがなかったからじゃないですか」
「ははは、確かにあの頃は都合の悪いニュースばかりだった。負け戦続きだった。そこへスターリングラードの劇的逆転と人命救助、英雄は大怪我だ。人民は喜ぶわな。ところで小隊の中にお偉いさんの親族がいたのを知っているのか」
「噂にはなっていましたが、誰かまでは知りません」
「そうだ、噂に過ぎん。だがそのお偉いさんはずっとお前に感謝していた。お前の人事を希望に沿うよう尽力していたようだ」
「それはどなたなのですか?」
「知らん」
なんだそりゃ、アバクーモフも推測の当てずっぽうじゃないか。アレクセイはイライラしながらふと入院中のことを思い出した。そうだ、ゴーシャには連れがいた。あの男は親族の見舞いだと言っていた。「ゲオルギー繋がりだが、親しいわけではない」とゴーシャは仲がよくないような言い方だった。誰だったんだ、あの男。もしもあの時のもう一人のゲオルギーがその「お偉いさん」とやらで、俺に恩を感じているなら、これからも力になってもらえないか。ああ、無理にでも苗字を聞いておけばよかった。
「私としてはこの話は持ち帰ってほしくない。今ここで、よい返事を聞きたいんだ」
アレクセイは黙っていた。
「決心がつかんか。話題を変えよう。米軍のスティーブン・ミッチェル少佐を知っているかね」
「はい。アイゼンハウアー将軍、現在はマクナーニー将軍の警護の方です」
「お前もジューコフ元帥、そして今はソコロフスキー元帥の警護として、占領4か国会談でミッチェル少佐とは何度も会っている。そして将軍同士と同様に、少佐同士でも贈答品のやりとりをしているな」
「自分で軍の売店で買ったものです。問題はないと思いますが」
「お前がウォッカを贈り、ミッチェル少佐がラッキーストライクやらチョコレートを贈っている。ところが周りでは誰もお前がアメリカ製のタバコを吸っている姿を見ていない。どこに流した」
「……家で吸いました」
「あの量を一人でか? それは無理があるんじゃないか。まだあるぞ。お前がわざわざシフトに入っている夜間パトロールは週に2回か。少佐の地位ではパトロールシフトに入る必要はない。だがお前は好き好んでパトロールに出て、その途中でいつも同じ場所でお前の副官が一人でさぼっている。きっかり1時間、その間お前はどこに消えている?」
「……歩いて回っています」
「電気の落ちたベルリンのさびれた街をか。男一人でも危ないくらいだ。ではお前の私費雇用のハウスメイド、これも週に2回は多くないか?」
「……自分はきれい好きなので来てもらっています。それに私費雇用ですから、占領本部の予算を圧迫してはいません」
「昼間のパトロールでもいつも同じ道で消えている、ああこれは10分ほどか、さすがに無理か」
「同志大臣、なんでもかんでもそっちと結びつけなくても」
眼鏡の男が口をはさんだ。だが、アバクーモフの饒舌は止まらない。知っていることをベラベラと得意げに話す顔をしている。本当にうれしそうだ、とアレクセイは感じた。
「エリザベート・フォン・リヒテンラーデ伯爵夫人、いや、親衛隊中佐夫人はお前の情婦か? 私費雇用のハウスメイド、そしてお前が消える道は彼女の店から100メートルだ。つまりお前はほとんど毎日彼女と顔を合わせ、週に4回は情交関係を持っていたということか。元気なこったな、いや羨ましいよ」
「大臣、回数は問題ではありません」
アバクーモフはぎゃあぎゃあ笑い、また眼鏡の男が口を出した。どうやらこの男はアバクーモフに対等な口が聞けるくらいに、親しいらしい。
アバクーモフは手を叩いた。
「まあいい。それじゃあ、女のほうに聞いてみようか、お前の話と矛盾がないかをな」
アレクセイはぎょっとした。
「待ってください。まさか彼女を拘束しているのですか? なぜ……」
「今朝アメリカ占領地との境界線で捕まえたんだよ。往来でもめていたのでね。調べてみると、同居人5人で西側へ行こうとしていたらしい。だがそれ以前からお前さんの件の重要参考人であるので、我々は彼女を見張っていたのだよ」
「いや、彼女は民間人だ。なぜこんな場所まで……」
立とうとしたアレクセイは眼鏡の男に肩を抑えられ、座らされた。そしてアバクーモフは眼鏡の男を連れて出ていった。会議室にはタイピストとアレクセイだけが残された。5人で西側へ行こうとしていた、5人で西側へ行こうとしていた、アレクセイはアバクーモフの言葉を反芻した。買い物? 5人揃ってそんなわけはないだろう。ドイツ人の流出は続いている。表向き行き来は自由だが、東側に住民登録した人間は西側への転居は認めない、というのが占領ソ連軍の見解だ。俺に何も言わずに去ろうとした……アレクセイは絶望の谷に落とされた。
「同志アバクーモフ将軍閣下!」
「やあ、久しぶりだね、同志ジューコフ少佐、いや中佐か。昇進おめでとう。まあ楽にして座りたまえ」
ヴィクトル・セミョーノヴィチ・アバクーモフは、弱冠38歳のソビエト国家保安大臣であり、軍隊内では大将の位を持っている。つまりMGBのトップであった。なんでこんな大物が? 確かこの将軍はこんなに偉くなっても、自ら尋問やら拷問をするのが好きな人物と噂で聞いたことがある。人事異動のことではない? まさかエリザベートのことがばれたのか? いやそのことでここまで大物が出てくるか? アレクセイの頭の中は混乱していた。
狭い会議室には同じくらいの年齢の眼鏡の男が一人アバクーモフの隣に座り、少し離れてタイプライターを前にした文官も座っている。なんだこれは? やはり尋問なのか?
「同志アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフ中佐、君と初めて会ったのはスターリングラード激戦の後だな」
そうだ、退院してそのあと後方の主計局に異動したころだ。当時NKVDから分離したスメルシ(国防人民委員部防諜総局)を創設したこの男は俺をスカウトに来たのだ。
「はい、覚えています。あの時はご無礼いたしました。まだ肩の具合が悪くて……」
スメルシは軍内の防諜と摘発、懲罰を行う部隊である。味方を後方から撃つような仕事はしたくなくて、負傷のせいにして主計にいさせてもらった。その後憲兵に空きが出たので、志願して異動した。
「いやあれは残念だったな。お前は文武両道の優秀な将校だから、ぜひスメルシに来てほしかったのだよ。大祖国戦争(第二次世界大戦のソビエトでの呼び名)終結後もすぐにも人事に申請したんだぞ。話は聞いているか?」
「いえ」
そういえばゴーシャが「お前のことを欲しがっている部署がある」と言っていた。まさかアバクーモフは諦めずにまだ俺を欲しがっていたのか?
「そうか、そうか。もしスメルシに来ていたら面白いものも見れたぞ。去年の8月、対日参戦で先頭を切って満州に突入したのは我々スメルシだ。どうだ、極東なんてめったに行ける場所じゃないぞ。新京は素晴らしい街だった」
「……自分はベルリンへの継続勤務を願い出ておりましたので」
「なぜそんなにベルリンにこだわる、同志中佐。モスクワには戻りたくないのか。ベルリンは君にとって、それほど魅力的な街かね」
「自分のドイツ語能力はソビエト連邦軍内でもトップレベルだと自負しております。それに、大祖国戦争を勝ち抜き、制圧したベルリンという帝都を、共産圏の最前線としてソビエトの衛星にすべく、復興させるという仕事に生きがいを感じていますので」
「確かにお前さんのドイツ語能力は高いらしいな。ドイツ人と比べても遜色ないと聞いている。語学の能力を磨くには、その語学を使う恋人を作ることだと聞いたことがあるが、本当なのかな」
「さあ……どうでしょうね」
「人事というものほど、個人の希望を無視するシステムもないだろうな。お前の希望が通り続けたのは同志ジューコフ元帥の力が大きい。だが元帥はもういない。そこのところはわかっているのか」
「……はい」
そうだ、ゴーシャはもうベルリンにはいない。それどころか僻地への左遷だ。俺の人事に口出ししている余裕はない。戦争終結後、ベルリンへの残留はほとんどが第一ベラルーシ軍からだった。自分自身は第一ウクライナ軍から異例のベルリン残留、憲兵隊での継続勤務、全部希望は通ってきた。それらはすべてアレクセイの後ろ楯としてジューコフ元帥があってのことなのだ。
「いまやスメルシもMGBの一部になった。そして俺がMGBのトップだ」
「……」
「本題を言おう、MGBに来てお前の能力を俺のために活かしてほしい。それを言うためにここまで来た」
「大変光栄ですが、なぜ私を?」
「お前の冷静沈着さ、事務能力と、ドイツ語力かな。武闘派だけの脳筋もいらんし、逆もまたしかりだ。士官学校の成績も見せてもらったよ。いや、すばらしいの一言につきる」
ドイツ語力を活かせるということはドイツに居られるのか? ドイツの復興をドイツ人にまかせきりにはせず、ドイツに対して何かをするのか、諜報と敵性分子の炙り出しか、どっちにしろ汚い仕事だ。ソビエトはドイツを子分として未来永劫離しはしないだろう。ドイツにいることができるのなら……
「迷うかね?」
「すみません、突然の打診だったので…」
アレクセイはどう答えたものか悩んだ。すぐに異動内示を受けるべきか? ここでベルリン残留を希望すれば余計に怪しまれるか?
「では話題を変えよう、スターリングラード攻防戦での一個小隊救出の英雄大尉はモスクワでも大きく報道されたよ。通常の同じような美談よりも格段に大きくね。なぜだと思う?」
「さあ……同時期にいいニュースがなかったからじゃないですか」
「ははは、確かにあの頃は都合の悪いニュースばかりだった。負け戦続きだった。そこへスターリングラードの劇的逆転と人命救助、英雄は大怪我だ。人民は喜ぶわな。ところで小隊の中にお偉いさんの親族がいたのを知っているのか」
「噂にはなっていましたが、誰かまでは知りません」
「そうだ、噂に過ぎん。だがそのお偉いさんはずっとお前に感謝していた。お前の人事を希望に沿うよう尽力していたようだ」
「それはどなたなのですか?」
「知らん」
なんだそりゃ、アバクーモフも推測の当てずっぽうじゃないか。アレクセイはイライラしながらふと入院中のことを思い出した。そうだ、ゴーシャには連れがいた。あの男は親族の見舞いだと言っていた。「ゲオルギー繋がりだが、親しいわけではない」とゴーシャは仲がよくないような言い方だった。誰だったんだ、あの男。もしもあの時のもう一人のゲオルギーがその「お偉いさん」とやらで、俺に恩を感じているなら、これからも力になってもらえないか。ああ、無理にでも苗字を聞いておけばよかった。
「私としてはこの話は持ち帰ってほしくない。今ここで、よい返事を聞きたいんだ」
アレクセイは黙っていた。
「決心がつかんか。話題を変えよう。米軍のスティーブン・ミッチェル少佐を知っているかね」
「はい。アイゼンハウアー将軍、現在はマクナーニー将軍の警護の方です」
「お前もジューコフ元帥、そして今はソコロフスキー元帥の警護として、占領4か国会談でミッチェル少佐とは何度も会っている。そして将軍同士と同様に、少佐同士でも贈答品のやりとりをしているな」
「自分で軍の売店で買ったものです。問題はないと思いますが」
「お前がウォッカを贈り、ミッチェル少佐がラッキーストライクやらチョコレートを贈っている。ところが周りでは誰もお前がアメリカ製のタバコを吸っている姿を見ていない。どこに流した」
「……家で吸いました」
「あの量を一人でか? それは無理があるんじゃないか。まだあるぞ。お前がわざわざシフトに入っている夜間パトロールは週に2回か。少佐の地位ではパトロールシフトに入る必要はない。だがお前は好き好んでパトロールに出て、その途中でいつも同じ場所でお前の副官が一人でさぼっている。きっかり1時間、その間お前はどこに消えている?」
「……歩いて回っています」
「電気の落ちたベルリンのさびれた街をか。男一人でも危ないくらいだ。ではお前の私費雇用のハウスメイド、これも週に2回は多くないか?」
「……自分はきれい好きなので来てもらっています。それに私費雇用ですから、占領本部の予算を圧迫してはいません」
「昼間のパトロールでもいつも同じ道で消えている、ああこれは10分ほどか、さすがに無理か」
「同志大臣、なんでもかんでもそっちと結びつけなくても」
眼鏡の男が口をはさんだ。だが、アバクーモフの饒舌は止まらない。知っていることをベラベラと得意げに話す顔をしている。本当にうれしそうだ、とアレクセイは感じた。
「エリザベート・フォン・リヒテンラーデ伯爵夫人、いや、親衛隊中佐夫人はお前の情婦か? 私費雇用のハウスメイド、そしてお前が消える道は彼女の店から100メートルだ。つまりお前はほとんど毎日彼女と顔を合わせ、週に4回は情交関係を持っていたということか。元気なこったな、いや羨ましいよ」
「大臣、回数は問題ではありません」
アバクーモフはぎゃあぎゃあ笑い、また眼鏡の男が口を出した。どうやらこの男はアバクーモフに対等な口が聞けるくらいに、親しいらしい。
アバクーモフは手を叩いた。
「まあいい。それじゃあ、女のほうに聞いてみようか、お前の話と矛盾がないかをな」
アレクセイはぎょっとした。
「待ってください。まさか彼女を拘束しているのですか? なぜ……」
「今朝アメリカ占領地との境界線で捕まえたんだよ。往来でもめていたのでね。調べてみると、同居人5人で西側へ行こうとしていたらしい。だがそれ以前からお前さんの件の重要参考人であるので、我々は彼女を見張っていたのだよ」
「いや、彼女は民間人だ。なぜこんな場所まで……」
立とうとしたアレクセイは眼鏡の男に肩を抑えられ、座らされた。そしてアバクーモフは眼鏡の男を連れて出ていった。会議室にはタイピストとアレクセイだけが残された。5人で西側へ行こうとしていた、5人で西側へ行こうとしていた、アレクセイはアバクーモフの言葉を反芻した。買い物? 5人揃ってそんなわけはないだろう。ドイツ人の流出は続いている。表向き行き来は自由だが、東側に住民登録した人間は西側への転居は認めない、というのが占領ソ連軍の見解だ。俺に何も言わずに去ろうとした……アレクセイは絶望の谷に落とされた。
