6月1日付で昇進になるとアレクセイから聞かされたのは、カウフマン夫妻の葬儀の少し後だった。
「まあ、おめでとう、アレクセイ。中佐様ね」
「ありがとう。君のほうこそ、葬儀が連続して大変だったね。またこうして来てくれて本当に嬉しいよ」
  官舎に来るのは久しぶりだったが何度目だろう、そしていつまで来れるのだろう、と重い気持ちでエリザベートは昼食の食器を洗い終わった手を拭いた。彼が帰国したら? 転属になったら? 一緒の時間に幸福を感じれば感じるほど、心の底にはいつもそんな不安が渦巻いていた。
「アレクセイ、もしね、もしもだけど、私がある日突然消えてしまったらどう思う?」
 アレクセイは驚いた顔をして彼女に駆け寄った。
「どうした、リーザ? 何かあったのか?  住宅のことか? また立ち退きになるなら、今度は俺がなんとかして…」
  エリザベートは余計なことを言ってしまったと気づいた。
「ち、違うのよ。どこかへ行くとかじゃなくて、交通事故で突然死ぬとかもあるでしょう? カウフマンは脳出血であっという間だったし」
 アレクセイは小さい子にするように、エリザベートの頭をなでた。
「俺のほうこそ、突然異動になってお別れも言えないかもしれないぞ」
「異動?」
「通常、昇進は異動を伴う。ベルリン市内か、最悪でもドイツ領内ならいいんだけど……」
「いやよ、いやよ、いや! お別れも言えないなんて、いやよ!」
 エリザベートが泣き叫んですがりついたので、アレクセイは彼女を抱きしめた。
「リーザ、冗談だよ。いじわるを言って悪かった。だけど悲しかっただろう? 俺も君が死ぬとかいなくなるとか言うと悲しい。まだ起こってもいないことで過度に不安になるのはよそう。昇進の内示だけで、異動の内示は受けていないんだ」
 ギゼラはあれから毎日ハンブルク行きについて話す。断るとうるさいので、黙ったまま分かったふりをして聞いていた。けれどもし本当に行くなら、こんな絶望的な思いを愛する相手に強いることになるのだ。いくら豊かな未来が待っているとしても、西側へ行くなんてできない。この人と離れたくない。
「さあ、もうそんな不安は忘れてしまおう。おいで」
 その日の情事はいつもにも増してゆっくりと濃厚なものだった。わざと焦らされ、こちらが懇願するようなことを言わされる。日ごとに彼が嗜虐的になっていくように、自分は妙にそれを楽しむ性癖を開発されてしまっている。

「セルゲイって覚えてるか? 君のご主人のフラットにいついてた」
「ああ、あの人…アリシアと一緒にいた人ね」
 あれはまだ戦争終結後まもない時だった。アレクセイに懇願して通訳の腕章をつけて街中に一緒に連れて行ってもらったのだ。通勤困難者用にジークフリートに宛がわれた官舎は、赤軍兵士が勝手に入ってたむろしていた。そこで美しいアリシアとシーツの中にいたのがセルゲイだ。
「驚いたことに、部隊から逃亡したらしいんだ」
「逃亡? 普通に依願退職すればいいじゃない」
「いやそれが、ソビエトの場合、退役したら必ず帰国する義務があるんだ。逃亡した連中はドイツ残留、いや西側に行くことが目的だ」
「連中って…そんなに大勢が?」
 アレクセイは徴兵組の兵卒の逃亡だけではなく、最近は士官や将校といった職業軍人の逃亡も相次いでいることを話した。ソビエトは本当に物がない国で、将兵たちはアメリカの豊かさを初めて見て驚き、そして魅了されたのだろうと。
「俺たちは本当に何もない原野から来たようなものだ。アメリカどころか、初めてドイツ領に入ったときもびっくりした」
「何に?」
「豊かで物に溢れた暮らしにさ。こんなに豊かな暮らしをしているのに、どうしてドイツ人はロシアに攻め行って来たんだろうって思ったよ」
 エリザベートは何も返せなかった。本当に、どうして戦争なんてしたのだろう。しかし戦争がなければ、私はこの人と出会えなかった……
「あとは女がらみでの脱走だろうな。結婚させてくれと上に掛け合った挙げ句、大問題になって最終的に逃亡した奴もいた」
 逃亡…これは想像の範疇外だった。もしアレクセイが一緒に西側へ来てくれるならすべて解決するのではないか、また兄から縁を切られるかも知れないが、住む場所と仕事の紹介くらいしてくれるかもしれない、とエリザベートは世の中をなめたことを考えていたが、次のアレクセイの言葉に冷や水を浴びせられた。
「ソビエトは地の果てまで逃亡者を追いかけるだろう。そして捕まれば銃殺より恐ろしい収容所送りだ」
「……あなたはこれからもずっと国に忠誠を誓っていくのね」
「軍人になった時点でね。俺の場合、軍の高校に行ったから、人生の半分軍人なんだ」
 16年か……16年かけて中佐まで出世したキャリアを捨てるなんてできないだろう、それは人生の職業的キャリアを軽視し、女性は家庭にあれという風潮に甘んじてきた自分にもよく理解できた。
「リーザ、どうした?」
「ううん、私もきちんと仕事のこと考えて勉強しておけばよかったなあって思ってるの。なんとなく取った教員免許も使えないし……」
「時代は変わっていくさ。ナチ党員の教員をクビにしたせいで、学校現場は教員不足らしいぞ。そのうち緩和されるって。君はまだ若いんだ」
 だが、全く現場の経験がない自分が使い物になるのだろうか。だいたい一日中立ち仕事なんて今からできるのか、と憂鬱にもなる。縫製のほうも、実際に生計を立てるということは難しいと思われている。ああ、もうにっちもさっちも行かない。自分が一人で暮らしたとして、生きていけるのだろうか。

  一足先にマルタ一家が出ていった。小さな店舗付住宅に残された3人は、子供たちが寝た後に話し合いを続けた。
「お兄様の会社の従業員の方は、2か月に一度くらいは西ベルリンに来られて、旧店舗の再開に向けて準備してらっしゃいます。そことうまく日を合わせるようにする方向です」
 ギゼラは何度となくエリザベートの兄オスカーと書簡を往復させており、具体的には8月半ばはどうだろうというように話が進んでいるようだった。
「ねえ、なんでそんなに先なの? 普通に歩いて米軍ゾーンまで行けるじゃない。私は昨日も向こうの闇市行って来たわよ」
 フリーダはどこか気楽に言った。
「だから! 何度も説明しているけど、米軍ゾーンに入るだけじゃだめなのよ。お兄様の会社の方が来るまで、どこで寝泊まりするのよ! あんな高級ホテルに泊まれるほどの連合国軍マルクはないのよ。私たちの手元にあるのはソ連軍発行の分ばかりでほぼ紙くずじゃないの。野宿なんてごめんだから」
 ギゼラはそれなりに教育を受けた人物なので、完全な労働者階級育ちのフリーダの発言にはいらいらさせられることが多かった。この女中はずっと前から奥様とあの将校との関係に気づいていながら、私に黙っているなんて……ああ、腹が立つ。こいつは東側に置いて行ってやろうかしら。ギゼラとフリーダの言い争いは日増しに増えていた。いままでは上司とも言えるカウフマン夫妻がいたので、夫妻が亡くなった今、抑え込んでいたタガがはずれてしまったのである。
「奥様も! 行かないなんて言ってましたけど、行くんですよ! ちゃんとわかってますか」
 ギゼラの矛先はエリザベートに向いてきた。
「わかってるわよ。頭が痛いからもう寝てもいい?」
「今日はあの方来ないんですかあ?」
 フリーダが空気を読まない一言を言い、ギゼラの逆鱗に触れた。
「フリーダ、あいつの話はしないで。奥様も、もうこの家に夜来てもらうのはやめてくださいよ」
「お葬式以来、呼んでないわよ、おやすみ」
 エリザベートは最近体がつらくてたまらなかった。昼間でもぼうっとしてしまう。これはおそらく東側を去ることに体が反発しているのだと彼女は思っていた。アレクセイを「あいつ」よばわりするギゼラ、あんたが夕食に食べていたハムはその「あいつ」からのいただきものよ。私は西側へは行かないだからね。

 フリーダはアレクセイにもらったウォッカをちびちびやりながら、ギゼラと食卓に座っていた。
「ねえ、奥様だけここに残ってもいいんじゃない? 奥様幸せそうだし、あの中佐とてもいい人だと思うわよ」
「あんたはウォッカで餌付けされてるんでしょうけど、私は人の本質を見ているのよ。例え結婚できたとしても絶対うまく行くわけないわ。農村出身のロシアの田舎者とお嬢様育ちの奥様じゃ、絶対生活に齟齬が出てくるわ。恋愛感情が落ち着いた後、生活に疲れたころに絶対後悔するはず」
「そんなこと言ったら、階級差のある結婚なんて成立しないじゃない」
「ああいうのは思春期の妄想で、結婚式の祭壇をゴールだと思っているのよ。その後何十年も続く生活のことは絵本には載っていないでしょう」
「何十年って…自分の結婚生活は3日だったくせに、わかったようなことを」
「あんたは独身なんだからその3日すら経験していないんでしょう?」
 実際の恋愛経験なら、あんたよりよっぽどあるわよとフリーダは心の中で毒づいた。そしてハンブルクに行ったらイギリス兵とでも付き合ってみようかな、と妄想していた。

 決行の8月の腫れた日、3人の女性と2人の子供は歩いて西側ゾーンを目指した。境界線にはアメリカ・ソビエトの兵士が立っている。だが、ドイツ市民は歩行者天国状態だ。誰も呼び止められはしない。
「さあ、あそこの道を越えれば西側よ」
 ギゼラがうれしそうに言った。エリザベートは黙って自分のボストンバッグをフリーダに渡した。フリーダは黙って受け取った。フリーダには奥様が何をしようとしているのか、わかったのだった。
「お兄様への手紙が入っているわ。ジークフリートの思い出の品はエドゥアルトに渡してやって」
「奥様、何を……?」
 ギゼラの言葉を無視し、エリザベートはしゃがんでエドゥアルトと目線を合わせた。
「エドゥアルト、お母さまは一緒に行けない。これはさよならじゃない、あなたの教育を西側にお願いするだけよ。また会える日はきっと来るから」
「お母さま?」
「ごめんなさい、お母さまはよいお母さまではなかったね。でも、それでも精いっぱいあなたのことを愛しているわ」
 エリザベートはエドゥアルトを抱きしめて頬にキスをした。そして立ち上がって、後ずさった。
「さようなら、エドゥアルト、ギゼラ、フリーダ、カール。私は東側に残ります」
「奥様、何を言っているんですか、今更!」
 ギゼラはエリザベートの手を引っ張ったが、振り払われた。
「一緒に行くんですよ!」
 ギゼラはエリザベートに抱き着き、無理やり道路を渡らせようとした。
「何するのよ! 放してよ!」
 思わず大きな声が出てしまい、米ソ双方の警備兵たちの注目を浴びた。だが、彼らのもめごとを収めたのはソビエト側から現れた黒い車だった。
「奥さんたち、何をもめているのかな」
 3人の女性たちは驚いて振り返った。陸軍や憲兵ではない、青い帽子の政治将校だった。