ある日、店に小さな女の子を連れた女性が現れた。女性とエリザベートはお互いに「あれ?」というように目を合わせた。終戦直後の闇市でアレクセイがトラブルを解決した時の店の女性だった。
「あの時はどうもありがとうございました! あなたもお店やってるのね」
「いえ、よかったわ。お元気そうで。ここはこちらのマルタさんの店なの。私はその手伝いよ」
「こちらで子供服も売ってるって聞いて……娘がこの1枚しかないのに、もうパツンパツンで」
女の子は5歳くらいに見えた。食糧難で痩せてはいるが、この1年で成長はあったのだろう。ブラウスの上にジャンパースカートを着ていたが、膝が出るほど短くなってしまっている。だが、マルタの店から持ち出せた女児用の服は売れ行きもよくほとんど在庫がなかった。エドゥアルトの小さい時の服もすっかり売れてしまっている。エリザベートが最近作っているのはもっと小さい乳幼児用だった。
「そうですか……」
女性はがっかりしていたが、エリザベートは小さなひらめきがあった。
「ねえ、もし1時間くらい待っててもらえるなら、そのジャンパースカートに布を足して広げられるかもしれない」
「え、そんなことできるんですか」
エリザベートは奥の部屋で少女のジャンパースカートを脱がせ、タオルを巻いて座らせてやった。一枚しかないスカートに鋏を入れられるのを、二人はかたずを飲んで見ていた。昔何かで読んだ。19世紀の人々はフランス革命前のドレスを形を変えて着ていた。そもそも新しい服をあつらえることができる人々は限られていた。昔のドレスは今で言うと車が1台買えるほどの値段だったのだ。身分の低い人々は上流階級から王妃、女官、貴族、侍女、古着屋というように、落ちてきたドレスを作り直していたのだ。そうだ、あのオペラを演じたときだ。私は衣装係としてかなり昔のドレスまで研究して作ったのだ。
布を足すときは、あからさまにわからないよう、それがデザインであると世間に思わせないといけない。まあ、こんなご時世だからみんなめちゃくちゃな服で街を歩いているのだけれど。女性用と男性用も無視してとにかくあるものでしのぐしかない世の中なのだ。
ジャンパースカートは紺色だったので、同系色の青色の布を前中心と後ろ中心に足し、スカート下部にもフリルで布を足した。そして背中側には編み上げ紐をつけて太さを調整できるようにした。これは昔のドレスも裏につけた編み上げ紐でサイズ調整できるようになっていたので、それを表でやってみただけだった。さらに肩の紐を変えて、ボタンホールを使って長さを調整できるような形にした。
「これで背が伸びたり、サイズが変わってもあと3年くらいは着れると思います」
女の子はきゃあきゃあ飛び跳ねて喜び、女性は何度もお礼を言って帰っていった。代金はじゃがいもと缶詰だった。先に価格交渉しておくべきだったか、というくらい割に合わない謝礼だった。だが、エリザベートの心には満たされた気持ちがあふれた。子供はすぐに大きくなってしまう。そしてこのご時世では新しい衣服を手に入れることは困難だ。ならば最初から3~4年着れるようなサイズ調整できる服を作ってしまうのはどうだろう。
「マルタ、どう思う? 今みたいな服を最初から作るの」
「すごくいいと思う。戦前みたいに新しい服をガンガン買える時代はあと何十年も来ないと思うし、何より物を大切にするのはドイツの美徳に合うわ」
「問題は量産なんだよね……一人でミシンかけているだけじゃ、限られているし、価格も割高になってしまう。どこかの縫製工場と協力するってできないのかな」
「ああ……東側は工場の機械をほとんどソビエトが『賠償』として奪ってしまったから、難しいわね。そしてその賠償とやらを持ち去るときに形式的に連合国軍マルクを置いていったらしく、そのせいでこのハイパーインフレらしいわ」
ソビエトが連合国軍マルクを無制限に刷りまくったことには、こういう事情があった。もはや帝国マルクもソ連軍発行の連合国軍マルクも誰も信じていなかった。店内の決済もほぼすべて「物」との交換なのだ。
「なぜソビエトはここまでするのかしらね」
アレクセイは政治にはかかわりがなく、政治将校でもなかった。だが愛する男の後ろにある巨大な国が私の祖国を蹂躙し、すべてを奪っていく。
「『私たちの兵隊さん』(当時のドイツ一般市民が自国軍隊を呼んだ言葉)も占領地で同じようにしてたんでしょうね」
規律正しいドイツ国防軍や武装親衛隊が虐殺や強姦を? エリザベートもさんざん新聞で読まされたが、未だに信じられなかった。出征の式典などで兵士の見送りなどもしたことがあった。みんなりっぱな紳士だった。
「……いつまで私たちは賠償を続けると思う?」
「さあ……私たちの人生が終わる時までは続くかもしれない」
人生は50年? 60年? 以前考えたように、私の前半生の27年は幸福と豊かさに満ち、後半生は前半生の報いのように苦難ばかりなのだろうか。
「それにね、エリザベート、国有化が進んでいるのは知っているでしょう。もう東側では自由に商売はできないわ」
「え、じゃああなたのお父さんの百貨店はどうなるの? 東側にも支店があったよね」
「ソビエトは東半分を社会主義にしてしまうつもりなのよ。だから、東側にあるうちの店も不動産も全部国有化という名の没収になるわ。この戦争で命が助かっただけマシと思うしかないわ。うちの家族もぼちぼち西側への転居も考えてる。フランスゾーンで接収された家を帰してもらえるらしいの」
「従弟を待つって話は?」
「もう、それどころじゃない。従弟のことも、恋人のことも1年弱待った。あなたがこの家にいたいならいつまでもいてくれていい。けれど、あなた自身も身の振り方を考えたほうがいい。少佐だっていつかは帰国するわ。起業とかお店とか考えるなら絶対に西側がいい。この家だっていつ接収とか国有化の憂き目に合うか……東側に未来はないわ。私の家は東側の財産は全部捨てることになるけど……どちみちここにいても国有化で没収だしね」
ではソビエトに接収され、今は赤軍士官の官舎になっている自分の賃貸住宅もいずれ国有化されるのなら、もう永久に手元に戻ってこないのだろうか。人の私有財産をそんな勝手に……資本家階級というのは何世代にも渡って財産を増やす努力をしてきたのだ。それをなんの努力もしていない人々に分けるというのは、エリザベートにとって全く腑に落ちなかった。だが彼女は自分が資本家階級の家に生まれたというだけで、財産を相続したことについては全く疑問に思っていなかったのだ。
終戦から1年がたったころ、カウフマンとテレジアの夫妻が相次いで亡くなった。同居人たちは小さな葬儀を出し、埋葬を行った。ある意味両親より近しい人物たちだったので、エリザベートは埋葬の間も立っているのがやっとだった。ただ、夫妻が神の国に召され、この1年間の記憶がなくなりますようにとだけ祈った。
「フリーダ、先に子供たちを家へ連れて帰って。私は奥様と話がある」
ギゼラの強い言葉に、フリーダは従った。墓場は他に人もいなかった。秘密の話をするには最適だった。ついにギゼラは出ていきたいと言うのだろうか、とエリザベートは予感していた。ギゼラは最近子供の教育を考えたら西側へ行ったほうがいいとばかり言っていた。マルタも夏の間には転居を行うという。みんなみんなソビエトの支配が嫌なのだ。
「勝手ながら、奥様のお兄様と手紙のやりとりを致しました」
「……ええ??」
予想外の話にエリザベートは戸惑った。兄とは1年前に絶縁のような手紙が届き、それきりなのだ。
「奥様が坊ちゃまの養育を行えないことをお伝えしました。あのソビエトの少佐のことも。お兄様は旦那様の母方のご実家に養育を打診してくださっています」
「少佐のことって……」
「私は赤いスリップ姿の奥様を見ました。まあそこまで具体的には書いていませんけどね」
エレイザベートは心臓が止まるかと思った。あれを見られたのか? 顔から火が出るように感じ、彼女はうつむいた。
「奥様はもう坊ちゃまの母親ではありません」
「ギゼラ! エドゥアルトは私の子供よ! 何勝手なことしてるの! お……お兄様にそんなことを言うなんて」
「確かに産んだのは奥様です。けれどこの1年、いいえ4年間、奥様は何度坊ちゃまを膝に抱きましたか? 絵本を読みましたか? 寝かしつけましたか? 数えるほどもありますまい。それとも、記憶にもないくらいですか」
それは痛い言葉だった。子育てよりも店に出るほうが楽しかったのは事実だった。そして何よりもアレクセイと逢う時間を優先していたのだ。
「……だって、私はみんなが食べる分をなんとかしようと……」
自分で話していて自分が嫌になってきた。これではまるで自分はみんなのためにジューコフ少佐に身をまかせたと言っているようなものではないか。断じて違う、私はあの人を愛したから……
「先日お兄様から届いた手紙の中に、奥様宛の書面も入っていました」
ギゼラが差し出した手紙をエリザベートは震える手で受け取った。
「愛する妹、エリザベートへ
元気にしているか。ああ、こんなあいさつは全く意味がないな。元気なわけはないだろう。1年前、ひどい手紙を書いたことを許してほしい。今のお前の境遇をギゼラから聞き、心底後悔している。あの戦後のどさくさで難民に紛れてでもハンブルクまで歩いて来てもらえばよかった。こちらのことをまず知らせよう。会社はなんとか存続している。ハンブルクはイギリス軍の占領地で、そちらとも取引が出来て安定してきている。うちは次男を失ったが、長男をなんとか跡取りとして教育している。妻もなんとか日常生活はできるくらいには回復しているよ。新しい店舗を出すこともできた。クノーベルスドルフのほうは心配いらない。
ジークフリート・フォン・リヒテンラーデ伯爵の母上の妹であるアッシェンバッハ伯爵夫人を覚えているか? ヴィッテルスバッハ家にも連なるバイエルンの名門だ。この夫人はお前たちの結婚を貴賎結婚だとか言って反対していた人だが、まあ今もお城で優雅に暮らしている。彼女がエドゥアルトを引き取りたがっている。引き取ると言っても、アッシェンバッハ家の子にするわけではなく、可愛い甥っ子がただ一人残した嫡子にきちんとした教育を受けさせ、リヒテンラーデ伯爵家の後継者としてりっぱに育て上げたいそうだ。ジークフリートにはもう両親が亡いので、この伯母上が一番近しい親族だろう。エドゥアルトだけではなく、養育係のギゼラと乳母子のカールも一緒にどうぞということだ。
こっち側は戦争終結から1年がたち、いろいろ物も出回っている。東側ではそうもいかないだろう。私にとっても可愛い甥であるエドゥアルトをそちらの学校に行かせることを考えるとぞっとする。6歳からマルクス・レーニンを叩き込む教育を受けさせるのか。自由ハンザ都市ハンブルクの商売人として、私は自由な言論と資本主義を守り抜きたい。
エリザベート、お前とソビエトの将校との関係を今更善悪論でどうこう言うつもりはない。このことは妻にもアッシェンバッハ伯爵夫人にも話していない。男性でもそうだが、女性たちには耐えがたい生理的嫌悪感を沸き上がらせる関係だ。今になって父と母がもう亡くなっていてよかったと思う。彼らは娘の境遇が耐えられないだろう。ただ、愛しい妹よ、お前がその男と別れて新しい人生を歩もうというなら、私は兄としてできるだけのことをしたい。ハンブルクではお前のことを知った者も多いだろう、男前のジークフリート親衛隊員もこちらの社交界ではちょっとした有名人だったからな。ミュンヘンのアッシェンバッハ家に行くのに抵抗があるなら、フランクフルトなどで新しい仕事を探すのでもいいし、お前が気に入っていたインターラーケン(スイス)の別荘でしばらくゆっくりしてもいい。使用人が来るならその処遇も考える。
西ベルリンとドイツのこっち側とで往復している民間航空機が週に何便かある。西ベルリンのホテル・ケンピンスキーがドイツ人も利用可能と聞いた。そこまで腹心の部下を迎えに行かせる。人数と日時が決まったら早めに連絡してくれ。
オスカー・クノーベルスドルフ」
それは失った過去、過去の豊かで幸せだった何の悩みもなかった時代へと引き寄せる手だった。エリザベートは呆然として手紙を手にしたまま黙っていた。1年前にこう言ってもらえていたら、間違いなくハンブルクへ戻っただろう。いや、戦争終結前なら? そのころに戻ったら、あの赤軍を迎えたグリューネヴァルトの日々も経験しなくて済んだ。慣れない仕事をして、縫物をして、配給の列に並び、水が止まればポンプに並び……
ああ、だけど2年前なら私はアレクセイと出会うこともなく、1年前でもアレクセイへのほのかな慕情を抱えたままハンブルクへ戻るのか。そして今、あの人と離れることができるのか。西へ行けば2度とアレクセイと会うことは叶うまい。生理的嫌悪感…私たちはそこまで言われるほどの悪しき関係性なのだろうか。
「奥様、迷わないでください。坊ちゃまの教育と幸福、なによりあなた様自身の人生をお考えください。私たちはグリューネヴァルトを奪われ、東側のゾーンに住んでしまった。このままだと旦那様が戻ってきても連絡の取りようがないんです。西側なら、ミュンヘンの叔母様のところならきっと連絡があるはずです」
「ジークフリートはもう……」
ギゼラは涙を浮かべていた。彼女のほうが「旦那様」の帰りを待っているのだ。生きているのに連絡をもらえないと考えたら、どんなにつらいことか妻の立場で考えられないのだろうか。
「あきらめないでください! 輝かしい日々を! 旗を高く掲げた日々を! 栄光を! 今なら戻れる! 今なら! ルッセンフーレになっただけならまだしも、ルッセンキンダーが生まれてからではもう取り返しがつかない」
ルッセンフーレ……ロシア人の娼婦、ルッセンキンダー……ロシア人の子、という意味の言葉だった。年が明け、1月から2月にかけて、捨て子や嬰児の死体は街にあふれていた。去年の4月から5月の混乱で身ごもった場合、月が満ちるのがそのころだった。赤軍のほうも少しは悪かったと思ったのか、6月ごろから無料の診療所が市内のあちこちに開かれていた。第三帝国時代には固く禁止されていた妊娠中絶は、この度の特殊な事情では誰もが黙認せざるを得なかった。おそらくほとんどは複数回の強姦による妊娠、父親は全く見当がつかない。精神的肉体的混乱の中で妊娠後期になってしまった場合はもう中絶は無理だった。強姦者の子供など心情的に育てられるわけがない。しかもこの経済状況である。ロシア系の遺伝子の父の子ならばドイツ人の子供だと言い張ることもできただろうが、遺伝子上の父がカザフ系やコーカサス系、モンゴロイドであれば明らかに顔立ちの違う子供が生まれてしまう。そして母親は追いつめられる。つまり、産んでから殺すしか方法はなかったのである。ついにこの5月からは西側ゾーンでも嬰児殺しと捨て子が頻発しはじめた。多くはアフリカ系の血が入ると思われる肌の色だった。
「ひどいわね、人のことをフーレ(娼婦)呼ばわりして。あなたも少佐のくれた食べ物を食べているじゃない」
「奥様は坊ちゃまと私たちのためにあの男と関係してるんですよね」
「違う、私は彼を愛している! 彼だって私を愛しているわ! とても愛してくれているわ!」
それはエリザベートの必死の叫びだった。あの人はグリューネヴァルトの日々で手も触れようとしてこなかった。自分のほうが彼を愛していたのだ。自分で望んで彼に抱かれるためにフラットを訪ねたのだ。
「奥様お願いです、目を覚ましてください。あの男が奥様を愛しているわけないんです。彼自身も暗示にかかって奥様に執着している。奥様が元親衛隊中佐夫人で、ドイツの伯爵夫人で、ブルジョワの娘だからなんです。ソビエトの大義に反する要素をいっぱい持っている。だから言うことを聞かせて、自分の体の下に組み敷いて満足しているんですよ。あの男は奥様の心と体を使って戦争の勝利を味わい続けているだけなんです」
あまりの侮辱的な言葉にエリザベートは体が震えた。だが、これがベルリン市民、ひいてはドイツ国民の声なのだろう。関係性が強姦であれ、物資との引き換えの売春であれ、純粋な愛情であれ、占領軍兵士と関係を持つということはドイツ社会では裏切り者なのだ。
「ひどい……そんな言い方はないわ。私たちの愛情をそこまで侮辱する権利は誰にもないわ」
「奥様、なぜ赤軍があんな組織的で暴力的な集団的強姦を行ったのか、私は考えてみたんです。あれは性欲を満たすためでも、戦時のストレス解消でも復讐でもない。私たちの民族の血を汚すためなんです。私たちに敗北を認めさせ、屈辱と汚辱にまみれさせ、ドイツアーリア人の女にスラブ人の子を産ませるためなんです。東の蛮族の子を身ごもることで、私たちに永遠に消えない烙印を刻むことが目的なんです。そうすれば2,3世代先には純粋なアーリア人はいなくなってしまう。奥様はエドゥアルト坊ちゃまに東の蛮族の血を引いた異父弟妹を作る気なのですか」
子供……アレクセイとの子を妊娠して出産する? いままで何回セックスした? もちろんアレクセイはいつも几帳面に避妊具を使ってくれていた。セックスは愛を確かめ合う行為なんて人類がキザに表現しているだけで、あれは交尾なのだ。この生活状況で妊娠出産などできるわけがない。ベルリンでの乳児死亡率は90%と報道されていた。そして妊娠すれば私たちの交際は上層部にばれて引き裂かれてしまうだろう。アレクセイが帰国し、もう彼からの援助がなければ乳児をかかえてどうやって生活する?
ギゼラはエリザベートの沈黙に、「論破してやったり」という表情をした。
「ジューコフ少佐の子供を産む度胸はないんですよね。子供を作ろうとは思えない相手と寝てはいけませんよ。奥様、お兄様には脱出は5人だと手紙を書きます。奥様、エドゥアルト坊ちゃま、フリーダ、私、カールです。全員で西ベルリンへ行きますよ。あっちの闇市に行く振りをしてすぐにでも行きたいけれど、悲しいことに私たちにはホテル・ケルピンスキーに宿泊するお金はありません。お兄様の準備が整ってお迎えの準備が出来次第、向かいます。今東側は西への脱出が増えすぎてやっきになっている。そのうち検問が敷かれたり、通行止めになるかもしれません。ドイツ国民はベルリンの境界をチェックなしで通れますが、それでも東のゾーンで大荷物かかえていたら職務質問されかねません。それと、一番これが大事なんですが、ジューコフ少佐の前で気取られないようにしてください。できますか?」
「私は、行かない」
「奥様! 何言っているんですか!」
「どんなことがあっても、あの人と一緒にいたいの」
「結婚どころか、道も一緒に歩けない相手ですよ。人生を棒に振るのですか? それに、あの人が帰国したらどうするんですか?」
「行きたいなら、4人で行けばいい。あなたの言うとおり、エドゥアルトもミュンヘンでの教育のほうがいいでしょうね。あの子は私よりもあなたに懐いている。私は一人でここに残るわ。それがどんなに茨の道でも」
雨が降ってきた。
「あの人のこと、好きなのよ」
何度つぶやいただろう、この言葉。雨のせいで涙はごまかせた。恐怖に打ち震えながら赤軍を迎え、住居を転々とした日々。あの人が戻ってこないのではないかと泣いた夜。それらをすべてもう一度やらなければならないとしても、自分はやろう。あの人と一緒にいたい、それだけがエリザベートにとって真実だった。
「あの時はどうもありがとうございました! あなたもお店やってるのね」
「いえ、よかったわ。お元気そうで。ここはこちらのマルタさんの店なの。私はその手伝いよ」
「こちらで子供服も売ってるって聞いて……娘がこの1枚しかないのに、もうパツンパツンで」
女の子は5歳くらいに見えた。食糧難で痩せてはいるが、この1年で成長はあったのだろう。ブラウスの上にジャンパースカートを着ていたが、膝が出るほど短くなってしまっている。だが、マルタの店から持ち出せた女児用の服は売れ行きもよくほとんど在庫がなかった。エドゥアルトの小さい時の服もすっかり売れてしまっている。エリザベートが最近作っているのはもっと小さい乳幼児用だった。
「そうですか……」
女性はがっかりしていたが、エリザベートは小さなひらめきがあった。
「ねえ、もし1時間くらい待っててもらえるなら、そのジャンパースカートに布を足して広げられるかもしれない」
「え、そんなことできるんですか」
エリザベートは奥の部屋で少女のジャンパースカートを脱がせ、タオルを巻いて座らせてやった。一枚しかないスカートに鋏を入れられるのを、二人はかたずを飲んで見ていた。昔何かで読んだ。19世紀の人々はフランス革命前のドレスを形を変えて着ていた。そもそも新しい服をあつらえることができる人々は限られていた。昔のドレスは今で言うと車が1台買えるほどの値段だったのだ。身分の低い人々は上流階級から王妃、女官、貴族、侍女、古着屋というように、落ちてきたドレスを作り直していたのだ。そうだ、あのオペラを演じたときだ。私は衣装係としてかなり昔のドレスまで研究して作ったのだ。
布を足すときは、あからさまにわからないよう、それがデザインであると世間に思わせないといけない。まあ、こんなご時世だからみんなめちゃくちゃな服で街を歩いているのだけれど。女性用と男性用も無視してとにかくあるものでしのぐしかない世の中なのだ。
ジャンパースカートは紺色だったので、同系色の青色の布を前中心と後ろ中心に足し、スカート下部にもフリルで布を足した。そして背中側には編み上げ紐をつけて太さを調整できるようにした。これは昔のドレスも裏につけた編み上げ紐でサイズ調整できるようになっていたので、それを表でやってみただけだった。さらに肩の紐を変えて、ボタンホールを使って長さを調整できるような形にした。
「これで背が伸びたり、サイズが変わってもあと3年くらいは着れると思います」
女の子はきゃあきゃあ飛び跳ねて喜び、女性は何度もお礼を言って帰っていった。代金はじゃがいもと缶詰だった。先に価格交渉しておくべきだったか、というくらい割に合わない謝礼だった。だが、エリザベートの心には満たされた気持ちがあふれた。子供はすぐに大きくなってしまう。そしてこのご時世では新しい衣服を手に入れることは困難だ。ならば最初から3~4年着れるようなサイズ調整できる服を作ってしまうのはどうだろう。
「マルタ、どう思う? 今みたいな服を最初から作るの」
「すごくいいと思う。戦前みたいに新しい服をガンガン買える時代はあと何十年も来ないと思うし、何より物を大切にするのはドイツの美徳に合うわ」
「問題は量産なんだよね……一人でミシンかけているだけじゃ、限られているし、価格も割高になってしまう。どこかの縫製工場と協力するってできないのかな」
「ああ……東側は工場の機械をほとんどソビエトが『賠償』として奪ってしまったから、難しいわね。そしてその賠償とやらを持ち去るときに形式的に連合国軍マルクを置いていったらしく、そのせいでこのハイパーインフレらしいわ」
ソビエトが連合国軍マルクを無制限に刷りまくったことには、こういう事情があった。もはや帝国マルクもソ連軍発行の連合国軍マルクも誰も信じていなかった。店内の決済もほぼすべて「物」との交換なのだ。
「なぜソビエトはここまでするのかしらね」
アレクセイは政治にはかかわりがなく、政治将校でもなかった。だが愛する男の後ろにある巨大な国が私の祖国を蹂躙し、すべてを奪っていく。
「『私たちの兵隊さん』(当時のドイツ一般市民が自国軍隊を呼んだ言葉)も占領地で同じようにしてたんでしょうね」
規律正しいドイツ国防軍や武装親衛隊が虐殺や強姦を? エリザベートもさんざん新聞で読まされたが、未だに信じられなかった。出征の式典などで兵士の見送りなどもしたことがあった。みんなりっぱな紳士だった。
「……いつまで私たちは賠償を続けると思う?」
「さあ……私たちの人生が終わる時までは続くかもしれない」
人生は50年? 60年? 以前考えたように、私の前半生の27年は幸福と豊かさに満ち、後半生は前半生の報いのように苦難ばかりなのだろうか。
「それにね、エリザベート、国有化が進んでいるのは知っているでしょう。もう東側では自由に商売はできないわ」
「え、じゃああなたのお父さんの百貨店はどうなるの? 東側にも支店があったよね」
「ソビエトは東半分を社会主義にしてしまうつもりなのよ。だから、東側にあるうちの店も不動産も全部国有化という名の没収になるわ。この戦争で命が助かっただけマシと思うしかないわ。うちの家族もぼちぼち西側への転居も考えてる。フランスゾーンで接収された家を帰してもらえるらしいの」
「従弟を待つって話は?」
「もう、それどころじゃない。従弟のことも、恋人のことも1年弱待った。あなたがこの家にいたいならいつまでもいてくれていい。けれど、あなた自身も身の振り方を考えたほうがいい。少佐だっていつかは帰国するわ。起業とかお店とか考えるなら絶対に西側がいい。この家だっていつ接収とか国有化の憂き目に合うか……東側に未来はないわ。私の家は東側の財産は全部捨てることになるけど……どちみちここにいても国有化で没収だしね」
ではソビエトに接収され、今は赤軍士官の官舎になっている自分の賃貸住宅もいずれ国有化されるのなら、もう永久に手元に戻ってこないのだろうか。人の私有財産をそんな勝手に……資本家階級というのは何世代にも渡って財産を増やす努力をしてきたのだ。それをなんの努力もしていない人々に分けるというのは、エリザベートにとって全く腑に落ちなかった。だが彼女は自分が資本家階級の家に生まれたというだけで、財産を相続したことについては全く疑問に思っていなかったのだ。
終戦から1年がたったころ、カウフマンとテレジアの夫妻が相次いで亡くなった。同居人たちは小さな葬儀を出し、埋葬を行った。ある意味両親より近しい人物たちだったので、エリザベートは埋葬の間も立っているのがやっとだった。ただ、夫妻が神の国に召され、この1年間の記憶がなくなりますようにとだけ祈った。
「フリーダ、先に子供たちを家へ連れて帰って。私は奥様と話がある」
ギゼラの強い言葉に、フリーダは従った。墓場は他に人もいなかった。秘密の話をするには最適だった。ついにギゼラは出ていきたいと言うのだろうか、とエリザベートは予感していた。ギゼラは最近子供の教育を考えたら西側へ行ったほうがいいとばかり言っていた。マルタも夏の間には転居を行うという。みんなみんなソビエトの支配が嫌なのだ。
「勝手ながら、奥様のお兄様と手紙のやりとりを致しました」
「……ええ??」
予想外の話にエリザベートは戸惑った。兄とは1年前に絶縁のような手紙が届き、それきりなのだ。
「奥様が坊ちゃまの養育を行えないことをお伝えしました。あのソビエトの少佐のことも。お兄様は旦那様の母方のご実家に養育を打診してくださっています」
「少佐のことって……」
「私は赤いスリップ姿の奥様を見ました。まあそこまで具体的には書いていませんけどね」
エレイザベートは心臓が止まるかと思った。あれを見られたのか? 顔から火が出るように感じ、彼女はうつむいた。
「奥様はもう坊ちゃまの母親ではありません」
「ギゼラ! エドゥアルトは私の子供よ! 何勝手なことしてるの! お……お兄様にそんなことを言うなんて」
「確かに産んだのは奥様です。けれどこの1年、いいえ4年間、奥様は何度坊ちゃまを膝に抱きましたか? 絵本を読みましたか? 寝かしつけましたか? 数えるほどもありますまい。それとも、記憶にもないくらいですか」
それは痛い言葉だった。子育てよりも店に出るほうが楽しかったのは事実だった。そして何よりもアレクセイと逢う時間を優先していたのだ。
「……だって、私はみんなが食べる分をなんとかしようと……」
自分で話していて自分が嫌になってきた。これではまるで自分はみんなのためにジューコフ少佐に身をまかせたと言っているようなものではないか。断じて違う、私はあの人を愛したから……
「先日お兄様から届いた手紙の中に、奥様宛の書面も入っていました」
ギゼラが差し出した手紙をエリザベートは震える手で受け取った。
「愛する妹、エリザベートへ
元気にしているか。ああ、こんなあいさつは全く意味がないな。元気なわけはないだろう。1年前、ひどい手紙を書いたことを許してほしい。今のお前の境遇をギゼラから聞き、心底後悔している。あの戦後のどさくさで難民に紛れてでもハンブルクまで歩いて来てもらえばよかった。こちらのことをまず知らせよう。会社はなんとか存続している。ハンブルクはイギリス軍の占領地で、そちらとも取引が出来て安定してきている。うちは次男を失ったが、長男をなんとか跡取りとして教育している。妻もなんとか日常生活はできるくらいには回復しているよ。新しい店舗を出すこともできた。クノーベルスドルフのほうは心配いらない。
ジークフリート・フォン・リヒテンラーデ伯爵の母上の妹であるアッシェンバッハ伯爵夫人を覚えているか? ヴィッテルスバッハ家にも連なるバイエルンの名門だ。この夫人はお前たちの結婚を貴賎結婚だとか言って反対していた人だが、まあ今もお城で優雅に暮らしている。彼女がエドゥアルトを引き取りたがっている。引き取ると言っても、アッシェンバッハ家の子にするわけではなく、可愛い甥っ子がただ一人残した嫡子にきちんとした教育を受けさせ、リヒテンラーデ伯爵家の後継者としてりっぱに育て上げたいそうだ。ジークフリートにはもう両親が亡いので、この伯母上が一番近しい親族だろう。エドゥアルトだけではなく、養育係のギゼラと乳母子のカールも一緒にどうぞということだ。
こっち側は戦争終結から1年がたち、いろいろ物も出回っている。東側ではそうもいかないだろう。私にとっても可愛い甥であるエドゥアルトをそちらの学校に行かせることを考えるとぞっとする。6歳からマルクス・レーニンを叩き込む教育を受けさせるのか。自由ハンザ都市ハンブルクの商売人として、私は自由な言論と資本主義を守り抜きたい。
エリザベート、お前とソビエトの将校との関係を今更善悪論でどうこう言うつもりはない。このことは妻にもアッシェンバッハ伯爵夫人にも話していない。男性でもそうだが、女性たちには耐えがたい生理的嫌悪感を沸き上がらせる関係だ。今になって父と母がもう亡くなっていてよかったと思う。彼らは娘の境遇が耐えられないだろう。ただ、愛しい妹よ、お前がその男と別れて新しい人生を歩もうというなら、私は兄としてできるだけのことをしたい。ハンブルクではお前のことを知った者も多いだろう、男前のジークフリート親衛隊員もこちらの社交界ではちょっとした有名人だったからな。ミュンヘンのアッシェンバッハ家に行くのに抵抗があるなら、フランクフルトなどで新しい仕事を探すのでもいいし、お前が気に入っていたインターラーケン(スイス)の別荘でしばらくゆっくりしてもいい。使用人が来るならその処遇も考える。
西ベルリンとドイツのこっち側とで往復している民間航空機が週に何便かある。西ベルリンのホテル・ケンピンスキーがドイツ人も利用可能と聞いた。そこまで腹心の部下を迎えに行かせる。人数と日時が決まったら早めに連絡してくれ。
オスカー・クノーベルスドルフ」
それは失った過去、過去の豊かで幸せだった何の悩みもなかった時代へと引き寄せる手だった。エリザベートは呆然として手紙を手にしたまま黙っていた。1年前にこう言ってもらえていたら、間違いなくハンブルクへ戻っただろう。いや、戦争終結前なら? そのころに戻ったら、あの赤軍を迎えたグリューネヴァルトの日々も経験しなくて済んだ。慣れない仕事をして、縫物をして、配給の列に並び、水が止まればポンプに並び……
ああ、だけど2年前なら私はアレクセイと出会うこともなく、1年前でもアレクセイへのほのかな慕情を抱えたままハンブルクへ戻るのか。そして今、あの人と離れることができるのか。西へ行けば2度とアレクセイと会うことは叶うまい。生理的嫌悪感…私たちはそこまで言われるほどの悪しき関係性なのだろうか。
「奥様、迷わないでください。坊ちゃまの教育と幸福、なによりあなた様自身の人生をお考えください。私たちはグリューネヴァルトを奪われ、東側のゾーンに住んでしまった。このままだと旦那様が戻ってきても連絡の取りようがないんです。西側なら、ミュンヘンの叔母様のところならきっと連絡があるはずです」
「ジークフリートはもう……」
ギゼラは涙を浮かべていた。彼女のほうが「旦那様」の帰りを待っているのだ。生きているのに連絡をもらえないと考えたら、どんなにつらいことか妻の立場で考えられないのだろうか。
「あきらめないでください! 輝かしい日々を! 旗を高く掲げた日々を! 栄光を! 今なら戻れる! 今なら! ルッセンフーレになっただけならまだしも、ルッセンキンダーが生まれてからではもう取り返しがつかない」
ルッセンフーレ……ロシア人の娼婦、ルッセンキンダー……ロシア人の子、という意味の言葉だった。年が明け、1月から2月にかけて、捨て子や嬰児の死体は街にあふれていた。去年の4月から5月の混乱で身ごもった場合、月が満ちるのがそのころだった。赤軍のほうも少しは悪かったと思ったのか、6月ごろから無料の診療所が市内のあちこちに開かれていた。第三帝国時代には固く禁止されていた妊娠中絶は、この度の特殊な事情では誰もが黙認せざるを得なかった。おそらくほとんどは複数回の強姦による妊娠、父親は全く見当がつかない。精神的肉体的混乱の中で妊娠後期になってしまった場合はもう中絶は無理だった。強姦者の子供など心情的に育てられるわけがない。しかもこの経済状況である。ロシア系の遺伝子の父の子ならばドイツ人の子供だと言い張ることもできただろうが、遺伝子上の父がカザフ系やコーカサス系、モンゴロイドであれば明らかに顔立ちの違う子供が生まれてしまう。そして母親は追いつめられる。つまり、産んでから殺すしか方法はなかったのである。ついにこの5月からは西側ゾーンでも嬰児殺しと捨て子が頻発しはじめた。多くはアフリカ系の血が入ると思われる肌の色だった。
「ひどいわね、人のことをフーレ(娼婦)呼ばわりして。あなたも少佐のくれた食べ物を食べているじゃない」
「奥様は坊ちゃまと私たちのためにあの男と関係してるんですよね」
「違う、私は彼を愛している! 彼だって私を愛しているわ! とても愛してくれているわ!」
それはエリザベートの必死の叫びだった。あの人はグリューネヴァルトの日々で手も触れようとしてこなかった。自分のほうが彼を愛していたのだ。自分で望んで彼に抱かれるためにフラットを訪ねたのだ。
「奥様お願いです、目を覚ましてください。あの男が奥様を愛しているわけないんです。彼自身も暗示にかかって奥様に執着している。奥様が元親衛隊中佐夫人で、ドイツの伯爵夫人で、ブルジョワの娘だからなんです。ソビエトの大義に反する要素をいっぱい持っている。だから言うことを聞かせて、自分の体の下に組み敷いて満足しているんですよ。あの男は奥様の心と体を使って戦争の勝利を味わい続けているだけなんです」
あまりの侮辱的な言葉にエリザベートは体が震えた。だが、これがベルリン市民、ひいてはドイツ国民の声なのだろう。関係性が強姦であれ、物資との引き換えの売春であれ、純粋な愛情であれ、占領軍兵士と関係を持つということはドイツ社会では裏切り者なのだ。
「ひどい……そんな言い方はないわ。私たちの愛情をそこまで侮辱する権利は誰にもないわ」
「奥様、なぜ赤軍があんな組織的で暴力的な集団的強姦を行ったのか、私は考えてみたんです。あれは性欲を満たすためでも、戦時のストレス解消でも復讐でもない。私たちの民族の血を汚すためなんです。私たちに敗北を認めさせ、屈辱と汚辱にまみれさせ、ドイツアーリア人の女にスラブ人の子を産ませるためなんです。東の蛮族の子を身ごもることで、私たちに永遠に消えない烙印を刻むことが目的なんです。そうすれば2,3世代先には純粋なアーリア人はいなくなってしまう。奥様はエドゥアルト坊ちゃまに東の蛮族の血を引いた異父弟妹を作る気なのですか」
子供……アレクセイとの子を妊娠して出産する? いままで何回セックスした? もちろんアレクセイはいつも几帳面に避妊具を使ってくれていた。セックスは愛を確かめ合う行為なんて人類がキザに表現しているだけで、あれは交尾なのだ。この生活状況で妊娠出産などできるわけがない。ベルリンでの乳児死亡率は90%と報道されていた。そして妊娠すれば私たちの交際は上層部にばれて引き裂かれてしまうだろう。アレクセイが帰国し、もう彼からの援助がなければ乳児をかかえてどうやって生活する?
ギゼラはエリザベートの沈黙に、「論破してやったり」という表情をした。
「ジューコフ少佐の子供を産む度胸はないんですよね。子供を作ろうとは思えない相手と寝てはいけませんよ。奥様、お兄様には脱出は5人だと手紙を書きます。奥様、エドゥアルト坊ちゃま、フリーダ、私、カールです。全員で西ベルリンへ行きますよ。あっちの闇市に行く振りをしてすぐにでも行きたいけれど、悲しいことに私たちにはホテル・ケルピンスキーに宿泊するお金はありません。お兄様の準備が整ってお迎えの準備が出来次第、向かいます。今東側は西への脱出が増えすぎてやっきになっている。そのうち検問が敷かれたり、通行止めになるかもしれません。ドイツ国民はベルリンの境界をチェックなしで通れますが、それでも東のゾーンで大荷物かかえていたら職務質問されかねません。それと、一番これが大事なんですが、ジューコフ少佐の前で気取られないようにしてください。できますか?」
「私は、行かない」
「奥様! 何言っているんですか!」
「どんなことがあっても、あの人と一緒にいたいの」
「結婚どころか、道も一緒に歩けない相手ですよ。人生を棒に振るのですか? それに、あの人が帰国したらどうするんですか?」
「行きたいなら、4人で行けばいい。あなたの言うとおり、エドゥアルトもミュンヘンでの教育のほうがいいでしょうね。あの子は私よりもあなたに懐いている。私は一人でここに残るわ。それがどんなに茨の道でも」
雨が降ってきた。
「あの人のこと、好きなのよ」
何度つぶやいただろう、この言葉。雨のせいで涙はごまかせた。恐怖に打ち震えながら赤軍を迎え、住居を転々とした日々。あの人が戻ってこないのではないかと泣いた夜。それらをすべてもう一度やらなければならないとしても、自分はやろう。あの人と一緒にいたい、それだけがエリザベートにとって真実だった。
