夢から現実に戻る瞬間、アレクセイ・ジューコフはタチアナの髪に触れたような気がした。夢の中でタチアナは金色の花畑で微笑んでいた。あれが天国なのだろうか。隣ではエリザベートが彼に背を向けて寝息をたてていた。金色の長い髪が彼の手に触れていた。ああ、そうか今日はお互い昼寝してしまったんだな。今は1939年じゃない、1946年1月だ。アレクセイはそっと身体を動かし、彼女の髪の中に顔をうずめた。彼は彼女の細くやわらかい髪がとても好きだった。明るい金髪の中に顔をうずめると、まるで陽だまりの中にいるような気がするのだ。事実、彼女は彼にとっての太陽だった。出会った時は肩の上まで短く切っていた彼女の金髪は彼の希望もあり、ずいぶん長くなっていた。エリザベートはどんな夢を見ているのだろう、と彼は考えた。自分がかつて愛したタチアナの夢を見るようにエリザベートもまたジークフリートの夢を見るのだろうか。彼女の肩から背中の線をそっと撫でてみる。きれいだな。イブニングドレスがさぞ映えるだろう。自分も正装してドレスを着た彼女とパーティーに行ける日は来るのだろうか。そこまでではなくても、一緒に散歩したり、公園のベンチで休憩するような日々を送りたかった。
エリザベートがモゾモゾと動いた。
「なあに?」
不機嫌な声がした。まだ眠っていたいのだろう。
「ごめん、起こしてしまったね」
「ん~また寝ちゃったか、お昼にする?」
ハウスメイドとしてエリザベートは不定期にアレクセイの官舎に通っていた。土日返上で深夜まで働く代わりに、平日会議のない時間帯にちょっと家に戻って会うのだ。実際この方法はドイツ人の愛人と会うために多くの将校が行っていた。中には大胆にも「住み込みメイド」とする者まで現れたが、上層部も見てみぬふりをしていた。エリザベートは週に1~2回はこの官舎に来ているが、本当に掃除をするのは30分ほどだった。
エリザベートを抱くときアレクセイは自分の肉体的欲求を満たすというよりは彼女の中に自分の愛情をすべてそそぎこむような感覚を覚える。しかしどれほど言葉で伝えても、身体で表してもエリザベートに自分がどれほど彼女を愛しているかを理解させるのは不可能だろう。自分が一人の女に対しこれほどまでに夢中になっていることが時々信じられなかった。戦時中、将兵の中には死と隣り合わせの恐怖からか、酒や娼婦や麻薬に溺れていくものが後を絶たなかった。今の彼はエリザベートに溺れているといえた。以前は女に溺れて借金を繰り返す兵士を軽蔑していたが、ようやくその心が理解できたような気がした。戦争中に、何度か短い付き合いをした。けれど誰にも本気になれず長続きもしなかった。あからさまに通信兵から夜這いを受けた時は追い返し、この事が元で同性愛者だと噂まで流されたこともあった。
いま、この関係は命がけに近かった。しかし二人は情熱を止めることができず一線を越えてしまったが、二人とも全く後悔していなかった。ただ、会いたかった。触れ合いたかった。抱き合いたかった。そしてその瞬間、二人は同時に「生きている」ことを実感していた。同じことをしているソ連軍の将校のうち、真剣なのはどのくらいいるのかと二人は話したことがあった。99%は物資と肉体の交換だろうとアレクセイは思ったが、エリザベートの手前「20%くらいは恋愛じゃないかな」と言った。本当のところは誰にもわからなかった。
アレクセイはとにかく自分がベルリン駐留を続けられるようにゲオルギー・ジューコフ元帥に頼み込んでいた。憲兵というパトロールが自由で時間に融通の効く職種も気に入っていた。
「お前のこと欲しいって言ってる部署はいろいろ聞いてるぞ」
と、ゴーシャは言うが、アレクセイは絶対にベルリンを離れたくないと強硬に主張していた。ゴーシャのほうも、4か国会談の際にこのかわいい弟分を連れていけることが楽しいらしく、ベルリン駐留の願いは聞いてくれていた。
つい最近ハウスメイドという名の愛人を囲っていた高級将校が、本国から来た本妻と3人で鉢合わせし、本妻が占領司令部に訴え出たのもあり修羅場となって大問題になった。結局将校は降格の上、帰国となり、愛人はベルリンからの追放となった。アレクセイは独身だったのでこの心配はなかったが、エリザベートが官舎の彼の部屋を訪れる際に必要以上に出迎えたり見送ったりしないことや、昼間店舗を訪れた際は敬語で話すなど気をつけていた。エリザベートの話では、気づいているのは親友のマルタと女中のフリーダだけということだった。この二人についてはウォッカやら米軍タバコといった物資で口留めは可能だった。
ちょうどこのころ、ベルリン東部のリヒテンベルク区にカールスホルストと呼ばれるソ連軍駐屯地が出来上がり、市内に散逸していた軍人の集約が始まっていた。もともと高級住宅地だったので、将校が家族を呼び寄せることも出来、一般のドイツ人が立ち入り禁止とされた。
「あっちに転居しろとかも言われたけど、『家庭持ちを優先してやってください』って言って、遠慮しといたよ」
アレクセイは米軍将校からもらったコーヒー豆を煎りながら言った。エリザベートはコーヒーのかぐわしい香りに鼻をひくつかせた。本物のコーヒーなど何年かぶりなのだ。
「そこに入っちゃうと、もうハウスメイドは雇えないの?」
「原則として行政局を通じての派遣になるから、君を指名して雇うことはまず無理だろうな」
「もしそこに入る日が来たら、私たちはもう会えない?」
すぐではなくても、入る日が来てしまうのだろうか、エリザベートは不安な顔をした。アレクセイは慌てて言った。彼女の笑顔を消したくはない。
「だから入らないよ。憲兵は市内パトロールもあるから市街地住みは認められているんだ。あとさ、シフトの問題があって、夜間外出禁止時間帯のパトロールが入りそうなんだ。その時間帯に店に行くからちょっと会えないか」
「日が分かれば、急ぎの仕事をするってことで夜にお店にいるようにするわね」
会えなくなることは絶対に避けてみせる、とアレクセイは固い決意をしていた。そして週に一度といわず、二度でも三度でも会いたいのだ。
官舎にハウスメイドとして行くときは、アレクセイはいつも制服の上着は脱いでシャツ姿で迎えてくれていた。だが、パトロールの途中で寄るときは当然制服姿なので、エリザベートは「やっぱり素敵だな」と思う。最初恐ろしかったこのカーキ色の制服はだんだんかっこよく見えてきてしまっているので不思議だった。帽子もかぶっているほうがかっこいいので、「脱がないでよ」と言ってしまう。
「そんなに言うなら、君も俺の好きな服を着てくれよ」
「あら、何かプレゼントしてくれるの? 喜んで着るわよ」
「あーー、うまいこと誘導されちゃったな」
そうやって小声でふざけてキスしたり抱きしめあったりしていると、自然と情欲というものはわいてくる。
「でも……こんなところで。また運転手の人、待ってるんでしょう?」
「レオニードだから大丈夫だよ。ここまで来てやめられるかっての」
小さなランタン一つ、店舗スペースの奥の倉庫兼作業スペースのテーブルの上で抱かれる。声を出したら2階の家族に聞こえてしまう。ハンカチを噛んで耐えているエリザベートを見下ろすと、アレクセイは自分の中にも嗜虐的な一面があることに気づく。俺の本質もあの乱暴者の兵卒どもとそう変わらないくらい暴力的なのかもしれないな、だがあいつらは本当に愛おしい女を抱く喜びを知らないのだ、かわいそうにとも思う。
帰るときにアレクセイはいつもくれるラッキーストライクのカートンを置いた。エリザベートにはそのタバコが慌ただしいセックスの謝礼のように感じた。
「なんかこのタイミングで渡されるのって嫌な感じがする」
「え? ああ……そんなふうに思えちゃうのか。でも、渡さないわけにもいかないだろう」
アレクセイは通りに人がいないことを確認して出て行った。少し離れたところに車を待たせているのだ。エリザベートは後姿を見送り、ラッキーストライクを見つめた。そうなんだろうか、私はこの物資がないと彼と逢わないだろうか。援助は非常にありがたかった。この店の上がりだけでは食べていくのもやっとだろう。なぜ彼は物資を与え続けてくれるのだろう。その行為こそ、私を「下」に見ているのではないのだろうか。
悩みながらも、エリザベートとアレクセイの「交際」は続いていった。だが、時代は彼らの後ろで少しずつ動いていた。アレクセイが頼りにしていたゴーシャことゲオルギー・ジューコフ元帥は1946年3月、ソビエト地上軍最高司令官に就任し、名実ともに軍のトップに君臨したが、モスクワに戻った彼を待ち受けていたのは中央軍事会議での批判と左遷だった。そしてソビエト占領軍総司令官の地位を解かれ、オデッサ軍管区というソビエト国内のへき地へ左遷となった。これはジューコフが英雄になりすぎて、スターリンが彼を政治の中心から遠ざけようとしたためと言われている。後任はワシーリー・ソコロフスキー元帥だった。新しい司令官にとって前任者の親族であるアレクセイは目の上のたんこぶにも思われるだろう。そんなことを彼は官舎でエリザベートと一緒に昼食を作りながらグチグチとこぼしていた。
「それに前からちょっと苦手なんだわ、あの人」
「えーー? 何かトラブルでもあったの?」
「うまくは言えないんだけど、なんかウマが合わないというか……」
とにかく目をつけられて転属ということにならないように二人は細心の注意を払っていたつもりではあった。しかし会いたい思いには逆らえず、ハウスメイド業のない日、パトロールの途中で店で逢瀬を持つようになっていた。アレクセイはエリザベートが「服」を着替えるのをタバコを吸いながら見ていた。
「もう、あんまりじろじろ見ないでよ」
「なんだよ、今更。おい、絶対下はつけるなよ」
「わかってますって……」
プレゼントはフランス製のレースをふんだんに使った派手な赤のスリップだった。絹の肌触りがやさしく裸体を包み、女性の姿をさらに美しく見せる。二人はこの着替えに夢中になっており、誰かが階下に降りてきているなど夢にも思わなかった。
それは子供の養育係のギゼラだった。子供を寝かしつけた後、眠れなかった彼女は用を足し、もう一度寝ようとしたが、店のドアが開く音を聞いた。泥棒? 忍び足で1階に降りると、作業室のほうから明かりが漏れていた。今日は輪番停電の日だったはずなのになぜこんなに明るい? 奥様、まだ起きているのかしら。もしかして縫いながら寝てたら風邪ひくわ、と思いながら奥と作業室の間の室内窓を覗いた。
明かりは軍用のランタンだった。なぜあんなものがここに? そしてそこにいたのはグリューネヴァルトを支配したあの男だった。いまだにこの家の食事時に名前がでるジューコフ少佐だった。ジューコフ少佐のところでハウスメイドをするのよ、これは少佐にいただいた缶詰とお菓子、少佐からいただいたタバコで交換してきた野菜……ギゼラは普段子供の面倒と家内の家事、配給品の受け取りなどを分担していて、店には出たことがなかった。だからジューコフ少佐の姿を見るのはグリューネヴァルトを引き払って以来だった。半年前までの記憶にあるまじめで堅物な男とは全然違う表情だった。男はタバコを左手に座り、ぎらぎらした情欲を隠そうともせず一方向を見ていた。誰だ? 誰と一緒にいる? まさか……見えない場所から女の明るい声が聞こえた。
「なんかすごくいやらしい目をしてる~」
「当たり前だろ」
少佐はタバコを消しながら笑った。
「頭の中、エロチックなことどのくらい?」
「120%くらい、なあもう早く来いよ」
女がくぐもった笑い声を出した。
「はい、おまたせ~」
明るくふざけたような声とともに、ジューコフ少佐の前に現れたのは、あられもない真紅のスリップを着た奥様だった。こっちへおいでと言うかのように両手を広げた少佐は笑顔で奥様を抱き止めた。くすくす笑いながら、奥様はかがんで少佐に口づけた。男は奥様のスリップの肩ひもを下ろし、乳房を口に含んだ。そしてスリップの下から手を入れて奥様の股の間を弄び始めた。
「あ……だめ……」
かろうじて立っている奥様は身体をのけ反らせた。だが彼女の両手は少佐を自分の胸に引き寄せるかのように抱いていた。
「かわいいリーザ、君のここはだめとは言ってないよ」
ギゼラはもう見ていられなかった。気付かれないように足音を忍ばせ、2階に戻るので精一杯だった。
なんだあれは、なんだったんだ。ギゼラは典型的な戦時結婚で、ほぼ知らない相手と結婚式を行い、相手は3日後に戦地へ赴いた。しばらくして戦死広報が届き、数か月後に子供が生まれた。ちょうど同じ時期にエリザベートが出産して体調を崩したため、病院で相談したジークフリートに紹介されたのがギゼラだった。両親も教員で、彼女自身も幼稚園教員だったので、身元は問題なく、双方の利害が一致したためギゼラはリヒテンラーデ邸で衣食住の保障された住み込みの養育係となったのである。それ以降、ギゼラは実子のカール同様エドゥアルトを慈しみ育ててきた。ギゼラは真面目で身綺麗な女性だったので、自身の性の経験は夫との数日で終わってしまった夜だけだった。だからこそさっき見たことは彼女の精神に大きな打撃を与えた。
ああ、なぜ自分はいままで疑問を持たなかったのだろう。グリューネヴァルトの接収がソビエトからイギリスに移り、私たちは引っ越しをよぎなくされた。ジューコフ少佐は引っ越しまで手伝ってくれた。そして今にいたるまでたびたび物資を「援助」してくれている。接収のお礼? そんなものはその当時に過分に食糧をもらった。現在の「援助」は奥様との引き換えなのだ。それにしても……
あんなに女性が積極的になるものなの? 奥様は嫌じゃないのか? レディだと信じていた奥様が。あんなことをされて喜んでいる……娼婦にすら見えた。(ギゼラは娼婦というものがどういうものかも知らなかったが、文献の中で不道徳な存在ということを学んでいた)翌朝朝食の席でギゼラはそれとなく奥様の様子を伺った。いつもと変わらないようにも見える。だが、満たされた女の顔にも見えた。どうしたもんだか。誰に相談しよう。奥様に問いただすこともできずに、日が過ぎていった。
エリザベートがモゾモゾと動いた。
「なあに?」
不機嫌な声がした。まだ眠っていたいのだろう。
「ごめん、起こしてしまったね」
「ん~また寝ちゃったか、お昼にする?」
ハウスメイドとしてエリザベートは不定期にアレクセイの官舎に通っていた。土日返上で深夜まで働く代わりに、平日会議のない時間帯にちょっと家に戻って会うのだ。実際この方法はドイツ人の愛人と会うために多くの将校が行っていた。中には大胆にも「住み込みメイド」とする者まで現れたが、上層部も見てみぬふりをしていた。エリザベートは週に1~2回はこの官舎に来ているが、本当に掃除をするのは30分ほどだった。
エリザベートを抱くときアレクセイは自分の肉体的欲求を満たすというよりは彼女の中に自分の愛情をすべてそそぎこむような感覚を覚える。しかしどれほど言葉で伝えても、身体で表してもエリザベートに自分がどれほど彼女を愛しているかを理解させるのは不可能だろう。自分が一人の女に対しこれほどまでに夢中になっていることが時々信じられなかった。戦時中、将兵の中には死と隣り合わせの恐怖からか、酒や娼婦や麻薬に溺れていくものが後を絶たなかった。今の彼はエリザベートに溺れているといえた。以前は女に溺れて借金を繰り返す兵士を軽蔑していたが、ようやくその心が理解できたような気がした。戦争中に、何度か短い付き合いをした。けれど誰にも本気になれず長続きもしなかった。あからさまに通信兵から夜這いを受けた時は追い返し、この事が元で同性愛者だと噂まで流されたこともあった。
いま、この関係は命がけに近かった。しかし二人は情熱を止めることができず一線を越えてしまったが、二人とも全く後悔していなかった。ただ、会いたかった。触れ合いたかった。抱き合いたかった。そしてその瞬間、二人は同時に「生きている」ことを実感していた。同じことをしているソ連軍の将校のうち、真剣なのはどのくらいいるのかと二人は話したことがあった。99%は物資と肉体の交換だろうとアレクセイは思ったが、エリザベートの手前「20%くらいは恋愛じゃないかな」と言った。本当のところは誰にもわからなかった。
アレクセイはとにかく自分がベルリン駐留を続けられるようにゲオルギー・ジューコフ元帥に頼み込んでいた。憲兵というパトロールが自由で時間に融通の効く職種も気に入っていた。
「お前のこと欲しいって言ってる部署はいろいろ聞いてるぞ」
と、ゴーシャは言うが、アレクセイは絶対にベルリンを離れたくないと強硬に主張していた。ゴーシャのほうも、4か国会談の際にこのかわいい弟分を連れていけることが楽しいらしく、ベルリン駐留の願いは聞いてくれていた。
つい最近ハウスメイドという名の愛人を囲っていた高級将校が、本国から来た本妻と3人で鉢合わせし、本妻が占領司令部に訴え出たのもあり修羅場となって大問題になった。結局将校は降格の上、帰国となり、愛人はベルリンからの追放となった。アレクセイは独身だったのでこの心配はなかったが、エリザベートが官舎の彼の部屋を訪れる際に必要以上に出迎えたり見送ったりしないことや、昼間店舗を訪れた際は敬語で話すなど気をつけていた。エリザベートの話では、気づいているのは親友のマルタと女中のフリーダだけということだった。この二人についてはウォッカやら米軍タバコといった物資で口留めは可能だった。
ちょうどこのころ、ベルリン東部のリヒテンベルク区にカールスホルストと呼ばれるソ連軍駐屯地が出来上がり、市内に散逸していた軍人の集約が始まっていた。もともと高級住宅地だったので、将校が家族を呼び寄せることも出来、一般のドイツ人が立ち入り禁止とされた。
「あっちに転居しろとかも言われたけど、『家庭持ちを優先してやってください』って言って、遠慮しといたよ」
アレクセイは米軍将校からもらったコーヒー豆を煎りながら言った。エリザベートはコーヒーのかぐわしい香りに鼻をひくつかせた。本物のコーヒーなど何年かぶりなのだ。
「そこに入っちゃうと、もうハウスメイドは雇えないの?」
「原則として行政局を通じての派遣になるから、君を指名して雇うことはまず無理だろうな」
「もしそこに入る日が来たら、私たちはもう会えない?」
すぐではなくても、入る日が来てしまうのだろうか、エリザベートは不安な顔をした。アレクセイは慌てて言った。彼女の笑顔を消したくはない。
「だから入らないよ。憲兵は市内パトロールもあるから市街地住みは認められているんだ。あとさ、シフトの問題があって、夜間外出禁止時間帯のパトロールが入りそうなんだ。その時間帯に店に行くからちょっと会えないか」
「日が分かれば、急ぎの仕事をするってことで夜にお店にいるようにするわね」
会えなくなることは絶対に避けてみせる、とアレクセイは固い決意をしていた。そして週に一度といわず、二度でも三度でも会いたいのだ。
官舎にハウスメイドとして行くときは、アレクセイはいつも制服の上着は脱いでシャツ姿で迎えてくれていた。だが、パトロールの途中で寄るときは当然制服姿なので、エリザベートは「やっぱり素敵だな」と思う。最初恐ろしかったこのカーキ色の制服はだんだんかっこよく見えてきてしまっているので不思議だった。帽子もかぶっているほうがかっこいいので、「脱がないでよ」と言ってしまう。
「そんなに言うなら、君も俺の好きな服を着てくれよ」
「あら、何かプレゼントしてくれるの? 喜んで着るわよ」
「あーー、うまいこと誘導されちゃったな」
そうやって小声でふざけてキスしたり抱きしめあったりしていると、自然と情欲というものはわいてくる。
「でも……こんなところで。また運転手の人、待ってるんでしょう?」
「レオニードだから大丈夫だよ。ここまで来てやめられるかっての」
小さなランタン一つ、店舗スペースの奥の倉庫兼作業スペースのテーブルの上で抱かれる。声を出したら2階の家族に聞こえてしまう。ハンカチを噛んで耐えているエリザベートを見下ろすと、アレクセイは自分の中にも嗜虐的な一面があることに気づく。俺の本質もあの乱暴者の兵卒どもとそう変わらないくらい暴力的なのかもしれないな、だがあいつらは本当に愛おしい女を抱く喜びを知らないのだ、かわいそうにとも思う。
帰るときにアレクセイはいつもくれるラッキーストライクのカートンを置いた。エリザベートにはそのタバコが慌ただしいセックスの謝礼のように感じた。
「なんかこのタイミングで渡されるのって嫌な感じがする」
「え? ああ……そんなふうに思えちゃうのか。でも、渡さないわけにもいかないだろう」
アレクセイは通りに人がいないことを確認して出て行った。少し離れたところに車を待たせているのだ。エリザベートは後姿を見送り、ラッキーストライクを見つめた。そうなんだろうか、私はこの物資がないと彼と逢わないだろうか。援助は非常にありがたかった。この店の上がりだけでは食べていくのもやっとだろう。なぜ彼は物資を与え続けてくれるのだろう。その行為こそ、私を「下」に見ているのではないのだろうか。
悩みながらも、エリザベートとアレクセイの「交際」は続いていった。だが、時代は彼らの後ろで少しずつ動いていた。アレクセイが頼りにしていたゴーシャことゲオルギー・ジューコフ元帥は1946年3月、ソビエト地上軍最高司令官に就任し、名実ともに軍のトップに君臨したが、モスクワに戻った彼を待ち受けていたのは中央軍事会議での批判と左遷だった。そしてソビエト占領軍総司令官の地位を解かれ、オデッサ軍管区というソビエト国内のへき地へ左遷となった。これはジューコフが英雄になりすぎて、スターリンが彼を政治の中心から遠ざけようとしたためと言われている。後任はワシーリー・ソコロフスキー元帥だった。新しい司令官にとって前任者の親族であるアレクセイは目の上のたんこぶにも思われるだろう。そんなことを彼は官舎でエリザベートと一緒に昼食を作りながらグチグチとこぼしていた。
「それに前からちょっと苦手なんだわ、あの人」
「えーー? 何かトラブルでもあったの?」
「うまくは言えないんだけど、なんかウマが合わないというか……」
とにかく目をつけられて転属ということにならないように二人は細心の注意を払っていたつもりではあった。しかし会いたい思いには逆らえず、ハウスメイド業のない日、パトロールの途中で店で逢瀬を持つようになっていた。アレクセイはエリザベートが「服」を着替えるのをタバコを吸いながら見ていた。
「もう、あんまりじろじろ見ないでよ」
「なんだよ、今更。おい、絶対下はつけるなよ」
「わかってますって……」
プレゼントはフランス製のレースをふんだんに使った派手な赤のスリップだった。絹の肌触りがやさしく裸体を包み、女性の姿をさらに美しく見せる。二人はこの着替えに夢中になっており、誰かが階下に降りてきているなど夢にも思わなかった。
それは子供の養育係のギゼラだった。子供を寝かしつけた後、眠れなかった彼女は用を足し、もう一度寝ようとしたが、店のドアが開く音を聞いた。泥棒? 忍び足で1階に降りると、作業室のほうから明かりが漏れていた。今日は輪番停電の日だったはずなのになぜこんなに明るい? 奥様、まだ起きているのかしら。もしかして縫いながら寝てたら風邪ひくわ、と思いながら奥と作業室の間の室内窓を覗いた。
明かりは軍用のランタンだった。なぜあんなものがここに? そしてそこにいたのはグリューネヴァルトを支配したあの男だった。いまだにこの家の食事時に名前がでるジューコフ少佐だった。ジューコフ少佐のところでハウスメイドをするのよ、これは少佐にいただいた缶詰とお菓子、少佐からいただいたタバコで交換してきた野菜……ギゼラは普段子供の面倒と家内の家事、配給品の受け取りなどを分担していて、店には出たことがなかった。だからジューコフ少佐の姿を見るのはグリューネヴァルトを引き払って以来だった。半年前までの記憶にあるまじめで堅物な男とは全然違う表情だった。男はタバコを左手に座り、ぎらぎらした情欲を隠そうともせず一方向を見ていた。誰だ? 誰と一緒にいる? まさか……見えない場所から女の明るい声が聞こえた。
「なんかすごくいやらしい目をしてる~」
「当たり前だろ」
少佐はタバコを消しながら笑った。
「頭の中、エロチックなことどのくらい?」
「120%くらい、なあもう早く来いよ」
女がくぐもった笑い声を出した。
「はい、おまたせ~」
明るくふざけたような声とともに、ジューコフ少佐の前に現れたのは、あられもない真紅のスリップを着た奥様だった。こっちへおいでと言うかのように両手を広げた少佐は笑顔で奥様を抱き止めた。くすくす笑いながら、奥様はかがんで少佐に口づけた。男は奥様のスリップの肩ひもを下ろし、乳房を口に含んだ。そしてスリップの下から手を入れて奥様の股の間を弄び始めた。
「あ……だめ……」
かろうじて立っている奥様は身体をのけ反らせた。だが彼女の両手は少佐を自分の胸に引き寄せるかのように抱いていた。
「かわいいリーザ、君のここはだめとは言ってないよ」
ギゼラはもう見ていられなかった。気付かれないように足音を忍ばせ、2階に戻るので精一杯だった。
なんだあれは、なんだったんだ。ギゼラは典型的な戦時結婚で、ほぼ知らない相手と結婚式を行い、相手は3日後に戦地へ赴いた。しばらくして戦死広報が届き、数か月後に子供が生まれた。ちょうど同じ時期にエリザベートが出産して体調を崩したため、病院で相談したジークフリートに紹介されたのがギゼラだった。両親も教員で、彼女自身も幼稚園教員だったので、身元は問題なく、双方の利害が一致したためギゼラはリヒテンラーデ邸で衣食住の保障された住み込みの養育係となったのである。それ以降、ギゼラは実子のカール同様エドゥアルトを慈しみ育ててきた。ギゼラは真面目で身綺麗な女性だったので、自身の性の経験は夫との数日で終わってしまった夜だけだった。だからこそさっき見たことは彼女の精神に大きな打撃を与えた。
ああ、なぜ自分はいままで疑問を持たなかったのだろう。グリューネヴァルトの接収がソビエトからイギリスに移り、私たちは引っ越しをよぎなくされた。ジューコフ少佐は引っ越しまで手伝ってくれた。そして今にいたるまでたびたび物資を「援助」してくれている。接収のお礼? そんなものはその当時に過分に食糧をもらった。現在の「援助」は奥様との引き換えなのだ。それにしても……
あんなに女性が積極的になるものなの? 奥様は嫌じゃないのか? レディだと信じていた奥様が。あんなことをされて喜んでいる……娼婦にすら見えた。(ギゼラは娼婦というものがどういうものかも知らなかったが、文献の中で不道徳な存在ということを学んでいた)翌朝朝食の席でギゼラはそれとなく奥様の様子を伺った。いつもと変わらないようにも見える。だが、満たされた女の顔にも見えた。どうしたもんだか。誰に相談しよう。奥様に問いただすこともできずに、日が過ぎていった。
