アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフは1915年、モスクワ近郊のカルーガ県に生まれた。彼は7人兄弟の3番目というあまり親からも注目されない存在だった。1922年、この地域を襲った疫病と飢餓で両親と何人かの兄弟は亡くなり、残った兄弟はバラバラに親戚の家へ引き取られた。アレクセイを受け入れたのは、父の従兄弟であり、同県内に住むコンスタンチンであった。この家はずいぶん昔にアレクセイという名の子を亡くしており、遠い親戚であったこの家で彼は可愛がられて家の手伝いをよくする子供に育った。この家庭の実子であったゲオルギーは当時すでに26歳の騎兵隊連隊長になっており、たまの帰省時にはアレクセイを年の離れた弟として可愛がった。アレクセイはゲオルギーを家族同様ゴーシャと呼んで慕った。養父母への恩義から、アレクセイは義務教育を終えたら徒弟奉公に出ることを考えていたが、ゴーシャへの尊敬と憧れ、そして何よりゴーシャ自身が「こんなに勉学でも手伝いでも一生懸命頑張る子は軍隊に入るべきだ」と望んだことから、学費が無料の士官学校へ進学し1937年には卒業して少尉に任官した。同時期にゴーシャは41歳でベラルーシ軍管区の司令官となっている。
婚約者のタチアナを結核で亡くしたアレクセイは、折しも始まったドイツとの戦闘で自分も戦死するのだろうと思っていた。ドイツ軍の攻勢、泥の中を敗走につぐ敗走、雪の中の逃走。それでも彼の国は諦めなかった。アレクセイは自我をほぼ殺して戦争へと邁進し、1942年冬のスターリングラード攻防戦では大手柄を立てた後、取り残された部下のレオニードらを救出する際に大怪我を負ってしばらく入院するはめにもなった。これで死ねるって思ってたのにな、と病室で退屈していたところ、ゴーシャが見舞いに来た。
「ゴーシャ、いえ同志将軍閣下」
敬礼したアレクセイに対し、ゲオルギーは「礼はいい」となおるように伝え、連れの男にこう言った。「私の弟分だ、1小隊を生還させた英雄だよ」と言った。連れの男はアレクセイにちょっと会釈した後、「では私も自分の弟分の見舞いに行きますので、英雄大尉殿おだいじに」と言って立ち去った。ゴーシャから弟分だと言ってもらい、誇らしい気持ちが溢れた。
「あの方は?」
「ああ、病院前でたまたま出会ったんで一緒になったんだがな。別に連れでも何でもないさ。ゲオルギーって名前だけは同じだが」
おそらくゴーシャは今さっきの男のことをあまり好いてはいないな、とアレクセイは感じ話題を変えた。
「ゴーシャ、どうしたんだ? 今忙しいんじゃあ」
「家族の見舞いの時間くらいなんとでもなるさ。それよりお前、その体じゃ前線は無理だろう。しばらく後ろに引っ込んどくんだな。楽な所に回しておいてやる。あとな、うちの実家への仕送りはもういいぞ、俺の方でたんまり送ってるからな」
早くに家族を失ったアレクセイにとって、ゲオルギー・ジューコフは父とも兄ともいえる存在だった。
結局主計局(軍隊内の会計と給与計算の部署)や兵站管理(軍隊内の食糧や弾薬物資などの管理部署)などの後続部隊の中にしばらく在籍し、他の部署からの勧誘もあったものの、1944年の暮れに憲兵へ異動となった。この時少佐に昇進し、レオニードが中尉として引き続き副官となった。ファシズムからヨーロッパを解放する……この大義。「悪の帝国ナチスドイツの首都ベルリン」を目指して西へ西へと進む日々。彼は自分たちソビエト軍を正義だと信じて疑わなかった。西へ、西へ、ひたすら西を目指した進軍の果てに、ついにソ連赤軍は東プロイセンと呼ばれるドイツ領へ侵入した。彼は軍隊の進軍順序的には第3波か第4波の位置付けだったが、先に通り過ぎた者たちの残した爪痕に愕然とした。非戦闘員への虐殺につぐ虐殺の痕跡だった。男は即座に殺され、女は4歳から80歳に至るまで数十人がかりで犯され、その時の傷が元で多くが死んだ。性的暴行の後、吊るされて切り刻まれた遺体もあった。
「……ドイツ軍が撤退前にやったのか?」
「いえ、遺体の時期的に我が軍の所業です」
やむなく憲兵が増員され、前線近くでもパトロールが行われたが、中には将校自らこういった野蛮な所業に加わっている場合もあり、全く制御がきかなかった。加害者を尋問しても何が悪いのかすら分かっていなかった。
「俺の妹も母親もドイツ兵にやられてんだ、仕返しして何が悪いんだ」
「昔から戦争ってのはこんなもんなんだよ」
会議の席では
「兵隊たちにも少しくらい楽しみは必要だろう」
という発言さえあった。こんなことをしていては、この地域に今後数十年は消えない怨嗟を残してしまう。東ヨーロッパは社会主義のソビエトを守る塀となってもらう必要があるのだ。彼は生き延びた被害者からも話を聞いた。ロシア系の住民、赤軍兵士の家族もいた。味方とされる人々まで被害にあっている。50人以上から乱暴された被害者もいた。女と見れば手当たり次第だ。これは復讐ではない、虐殺だ。憲兵としてのパトロール、兵士たちへの軍規遵守の命令など、やることは山積みになっていった。
まもなく兵士たちの間に憲兵少佐アレクセイ・ジューコフの名は恐怖とともに語られるようになった。コトに及んでいるところへ乱入して加害者を警棒でめったうちにする、支給品の警棒を5本もだめにしたらしい、いや10本らしいぞ。背骨が折れるほど叩かれた加害者もいたらしい。しかし憲兵や政治将校の恐ろしさが知れ渡っても、こうした蛮行は止むことはなかった。
双眼鏡でベルリン市が見えるようになったとき、「ああ、もう戦争が終わってしまう。ドイツを倒すという目的がなくなれば、俺は何を目標に生きればいいのだろう」とすら思った。勝利を目前にしてもアレクセイの目に入る世界はずっとモノクロであり、すりガラスの向こうのようにも感じた。とりわけタチアナが逝った春が嫌いだった。棺を満たした花や墓場に咲いていた花を思い出すのもつらかった。戦争の間、多くの「死」を見てきた。そしてそのたびに思った。なぜ俺はまだ生きている…… タチアナを思い出して泣くことはさすがになくなっていったが、アレクセイは人生に生きる目的と希望を見出すことはできなかった。そしてまた、何度目かの春が来ようとしていた。
1945年4月25日……この日は世界史的にはソ連軍とアメリカ軍がエルベ河畔で出会い、ドイツの戦線が南北に断ち切られるという「エルベの誓いの日」として記憶される。しかしアレクセイにとっては彼の視界が再び色づいた日だった。ずっと目の前にあったすりガラスが粉々に砕け散ったような気がした。あの日アレクセイのは第二部隊の後続として早々にグリューネヴァルト区へ突入した。大きな屋敷の前に赤軍の車両が2台道端に放置されていた。なんだ、なぜ離脱している? ドイツ兵が隠れていたのか? 憲兵隊は陸軍部隊と共に屋敷に突入した。アレクセイの耳に叫び声が聞こえた。
小部隊が今まさに犯そうとしていた女……アレクセイが寸でのところで助けたのがエリザベート・フォン・リヒテンラーデだった。服を引き裂かれ、明るい金色の髪を乱して恐怖と怒りに震え、唇の端から血を流している女……ブロンド美人などドイツ領に入ってから飽きるほど見てきた。エリザベートは若く美しかったが、特別な美人というわけでもなかった。理由は彼にも分からなかった。しかし彼が興味を抱いたのはエリザベートだけであった。
あの日あのまま「隊の者が失礼をしました」と言って別れてしまうはずだった。けれどアレクセイはエリザベートをあのまま残していくことはできなかった。自国の軍隊による非戦闘員へのひどいふるまいに心を痛めていた彼は、今まであちこちで同じような暴行行為を止めたり、加害者を処罰してきた。しかし未遂のうちに被害者を救出できたのはこの日が初めてだった。このことにより彼は自分が騎士として姫君を救出するという古典的な物語の主人公になったような気がしたのも確かだった。この混乱した戦乱の地で、彼女を一人で残していくことなどできなかった。ろくでもない後続部隊が次々と到着するだろう。また同じ目にあったとき、自分がいなくては助けられない……彼は部下と話し合って屋敷の接収を決めた。「もっと街道沿いのいい物件があるだろうに」という反対意見もあった。同期の陸軍少佐アンドレイなどは「いつだって第2波の連中が悪さをしている。中心部までついていって抑え込む計画じゃなかったのか」と言った。しかしアレクセイは自分の主張を押し通し、ここを憲兵事務所とした。
「そっちは他の者にまかせる。俺はこの街区の治安を守る」
それがアレクセイの決意だった。
そして弱々しい姫君は、話し合いの席で必死に自分を奮い立たせ、使用人や居候を含めた全員を家族として守ろうとしていた。緑の瞳を見開き、体の震えを必死で抑え込んでいる様子だった。こちらのことを非常に怖がっていることがひしひしと伝わってきた。交渉の場でアレクセイはエリザベートのことを「尊敬すべき健気さだな」と感じた。一生懸命できれいだ、いや可愛らしい。なんだこの感情は?
まもなく毎日のお茶の時間が彼にとっての一番の楽しみになった。エリザベートの夫がナチスの中でも一番の「悪の組織」である親衛隊のエリート中佐であることには驚いたが、彼女自身がそれをアレクセイに伝える時に全く躊躇していなかったことにはもっと衝撃を受けた。(むろん、後ろで執事がやきもきした顔を見せていたが) 彼女はSSという組織のことなど何も知らないのだ。夫のことを単なる官吏だと思っているのだ。石炭車が到着し、屋敷のセントラルヒーティングが稼働したことを伝えた時、エリザベートはぱっと喜びの笑顔を見せた。なんという警戒心のない素直さだろう。そして、アレクセイは自分が彼女の喜ぶ顔を見たいと思っていることに気づいた。
アレクセイが2歳の時にロシア革命が起こり貴族や皇族は皆国外へ亡命した。それゆえ彼の中の貴族やブルジョワのイメージは学校で悪の権化として習った豪華な馬車や城郭と、共産主義の理想に反する悪、搾取者というイメージしかなかった。エリザベートはブルジョワ出身で貴族の奥方だった。執事を筆頭とする十数人の召使を支配し、絹の衣装をまとい、銀の食器を使う人種だった。反発しながらも憧れた上流階級の人間を初めて目の前にして、アレクセイは自分でも思いもしなかった甘美な感情に支配されるようになっていった。この世間知らずで善良な貴婦人にアレクセイは恋をした。人を疑うことを知らない、手を荒れさせたこともないお姫様に彼は心を奪われていった。どうしてだ? どうして彼女なのだろう。愛おしい。守りたい。彼女と一緒にいるとこちらまで心が洗われて美しくなっていくような気がした。実らぬ恋、片思い……誰かを好きになるということがこんなにも甘美な幸福なことであることを彼は長い間忘れていた。お茶の時間の後一緒に散歩した庭園の花々や、彼女に似た金髪の幼い子供のことまで彼は好きになっていった。3歳のエドゥアルトはエリザベートに生き写しの顔立ちだった。こどもだからざっくばらんに声をかけられるし、髪の毛をくしゃくしゃにして撫でてみたり、抱き上げたりできるのだ。
エリザベートを好きだという気持ちがつのっても、想いを伝えることはどうしてもできなかった。彼女には「夫」がいるのだ。返事は分かっている。「拒絶」の言葉を聞いて傷つくのが怖かった。この奇妙な友情関係が壊れるのが怖かった。彼に提供された最上の客用寝室で、何メートル歩けば彼女の……彼女と夫が過ごした寝室へ歩けるのだろうと、アレクセイは眠れぬ夜を過ごした。
7月のあの日……エリザベートのやわらかな唇を初めて味わってしまうと、彼はもう自分を抑えることが出来なくなり、彼女を床に押し倒してしまった。もちろん「嫌だ」と言われたらすぐにでもやめるつもりだった。未遂とはいえ、彼女はひどい目に合いかけたのだ。男に触れられることに嫌悪感があるかもしれない。しかしエリザベートは細い腕を彼の背に回した。彼女は俺が一歩踏み出すのを待っていたのか……? エリザベートは震えていた。彼女の心臓は破裂しそうなほどの鼓動をうっていた。落ち着け、焦るな、あの兵卒どもと自分が違うことを彼女に分からせなければ……彼は自分自身に言い聞かせながらそっと彼女の体に触れていった。
この日は邪魔が入ったため「未遂」で終わってしまったが、このまま進めばエリザベートと恋人同士になれるかもしれないという希望はアレクセイの日々の生活をとても幸せなものにしていった。諦めようと思っていた恋は一転して明るい未来を見せたのだ。彼の表情は目に見えて明るくなり、他人にも親切になっていった。仕事にしか興味のない、面白みのない軍人としかアレクセイを認識していない周りの人々は驚き、一体何があったのだろうとささやきあった。
しかしこの日の出来事は同時に彼を苦しめた側面があったことも確かであった。彼はその後エリザベートに会うたびに彼女の唇の感触や、髪や胸元の甘い香りを思い出した。衣服の上からとはいえ触れた乳房や腰のやわらかさ、唇に感じた首筋の脈動が何度もよみがえった。引越しの日にアレクセイはエリザベートの寝室に初めて入った。「この姿見はどうしても持って行きたいの」と言いながら自分を何の警戒心もなしに寝室に招きいれた彼女に対し、怒りすら覚えた。この女は俺が次の段階に進みたいと考えていることなど想像もしていないのだろうか。男を寝室に招きいれることがどういう意味を持つのか、いい年をして分からないのだろうか。それとも、あの日のことは一時の気の迷いで、相手の情熱に流されてしまっただけだとでも言うのだろうか。
引越しが終わった夜、エリザベートが耳まで真っ赤にして「今度いつ会えるの」と言った時、アレクセイは心底彼女を愛おしいと思った。エリザベートは俺の愛情を受け入れ、応えようとしてくれていると確信した。
なんとかして一歩進もう。交際禁止令に引っ掛からない、誰にも発覚しない、いいやり方があるはずだ。エリザベートがマルタの店を手伝うことになったので、彼はパトロールの途中で寄ることにした。必需品を届けるか、通貨代わりのアメリカタバコを持って。これは闇市パトロールで発見したことだったが、悔しいことにアメリカタバコはソビエトタバコの何倍も購買力があった。吸ってみるとすぐわかった。アメリカタバコはフィルターがあるので肺の奥まで吸えるが、ソビエトタバコはフィルターがないので煙ばっかり入ってくるのだ。
ちょうどこの頃米軍が到着し、4か国での会議は頻繁に開催されていた。少佐の地位ではせいぜい元帥の護衛だったが、同じように護衛で来ている米軍のミッチェル少佐と知人になった。彼は嫌煙だが酒好きということで、ロシアのウォッカとアメリカのタバコを毎回贈答品として交換した。
だが9月からアレクセイは特命でワルシャワへ長期に行くことになった。もうベルリンに戻れなかったらどうしようかと不安になりながら職務をこなしていた。なんとかベルリン残留組に入れてもらわないと、永遠に会えなくなってしまう。
ベルリンに戻ると、エリザベートは転居し、働いていた百貨店は倒壊危機で使用できなくなっており、アレクセイは激しく絶望した。「定期的に見に行けってあれほど頼んだだろう」とレオニードを締め上げて探させたが、見つからなかった。住民台帳や配給の登録も見てみた。だが200万人とも言われる市民の中からたった一人を手作業で見つけ出すのは至難の技だった。もしかしたら市内にいないかもしれない。もうこれ以上係わりたくないと思って黙って姿を消されたなら、どうやって追える? だが、もうこれきり会えないとしても彼女の意思を確認したかった。
救いの手は思わぬところから現れた。アレクセイが占領司令部で用をたそうとトイレに入った時だった。先客が二人話しながら用を足していた。
「お前さ、制服の袖、直してもらったのかよ」
「ああ、安かったし、頼んでよかったよ。従卒の縫い方じゃめちゃくちゃだったからな。その店、可愛いものをいろいろ売ってたから国への土産も買えたし」
「なんて店だったっけ」
「マルリゼ? マルリザだったっけな。金髪のほうがロシア語を話せるんだ」
それはアレクセイが彼女たちをロシア風に呼んだニックネームを合わせたものだった。彼らに詳しく場所を聞き、彼は急行した。小さな小窓からマルタの姿が見えた。
半年間彼の願い続けた、初めて二人きりで過ごす時間は夢のようだった。エリザベートの体に吸い込まれるようにアレクセイは彼女の中に入っていった。彼女は彼の動きに合わせて反応を返し、ついには頭をのけぞらして小さな叫び声をあげて体を痙攣させた。エリザベートは自分がこんな風になったのは生まれて初めてだと告白してうっとりした顔をしていた。「信じられないわ、こんなことが自分に起こるなんて」彼女は恍惚とした様子で何度もそう繰り返しつぶやいた。
ようやくエリザベートの心を手に入れ、ベッドを共にする仲になっても、いや一線を越えてからのほうがアレクセイの心の不安は高まるばかりだった。「夫」が生きて戻ってくれば彼女は夫の元に戻るのではないかという不安だった。いや、確実に夫の元に戻るだろう。それをなんとしても阻止したいと思い始めた。やっと手に入れたこの愛と生きがいを奪われたら今度こそ本当に立ち直れないだろう。彼女を完全に手にいれるためには何だってするつもりだった。もしジークフリートがソ連軍の捕虜収容所にいれば秘密裏に殺してしまおうとすら思っていたのだ。何もなくてもいい……お前の心と身体だけ残ればいい。それらは俺だけのものだ。アレクセイは彼女を後ろから抱きしめた。お前がジークフリートと結婚していた事実は消せないけれど、過去はもうどうでもいい。未来を俺にくれ。
婚約者のタチアナを結核で亡くしたアレクセイは、折しも始まったドイツとの戦闘で自分も戦死するのだろうと思っていた。ドイツ軍の攻勢、泥の中を敗走につぐ敗走、雪の中の逃走。それでも彼の国は諦めなかった。アレクセイは自我をほぼ殺して戦争へと邁進し、1942年冬のスターリングラード攻防戦では大手柄を立てた後、取り残された部下のレオニードらを救出する際に大怪我を負ってしばらく入院するはめにもなった。これで死ねるって思ってたのにな、と病室で退屈していたところ、ゴーシャが見舞いに来た。
「ゴーシャ、いえ同志将軍閣下」
敬礼したアレクセイに対し、ゲオルギーは「礼はいい」となおるように伝え、連れの男にこう言った。「私の弟分だ、1小隊を生還させた英雄だよ」と言った。連れの男はアレクセイにちょっと会釈した後、「では私も自分の弟分の見舞いに行きますので、英雄大尉殿おだいじに」と言って立ち去った。ゴーシャから弟分だと言ってもらい、誇らしい気持ちが溢れた。
「あの方は?」
「ああ、病院前でたまたま出会ったんで一緒になったんだがな。別に連れでも何でもないさ。ゲオルギーって名前だけは同じだが」
おそらくゴーシャは今さっきの男のことをあまり好いてはいないな、とアレクセイは感じ話題を変えた。
「ゴーシャ、どうしたんだ? 今忙しいんじゃあ」
「家族の見舞いの時間くらいなんとでもなるさ。それよりお前、その体じゃ前線は無理だろう。しばらく後ろに引っ込んどくんだな。楽な所に回しておいてやる。あとな、うちの実家への仕送りはもういいぞ、俺の方でたんまり送ってるからな」
早くに家族を失ったアレクセイにとって、ゲオルギー・ジューコフは父とも兄ともいえる存在だった。
結局主計局(軍隊内の会計と給与計算の部署)や兵站管理(軍隊内の食糧や弾薬物資などの管理部署)などの後続部隊の中にしばらく在籍し、他の部署からの勧誘もあったものの、1944年の暮れに憲兵へ異動となった。この時少佐に昇進し、レオニードが中尉として引き続き副官となった。ファシズムからヨーロッパを解放する……この大義。「悪の帝国ナチスドイツの首都ベルリン」を目指して西へ西へと進む日々。彼は自分たちソビエト軍を正義だと信じて疑わなかった。西へ、西へ、ひたすら西を目指した進軍の果てに、ついにソ連赤軍は東プロイセンと呼ばれるドイツ領へ侵入した。彼は軍隊の進軍順序的には第3波か第4波の位置付けだったが、先に通り過ぎた者たちの残した爪痕に愕然とした。非戦闘員への虐殺につぐ虐殺の痕跡だった。男は即座に殺され、女は4歳から80歳に至るまで数十人がかりで犯され、その時の傷が元で多くが死んだ。性的暴行の後、吊るされて切り刻まれた遺体もあった。
「……ドイツ軍が撤退前にやったのか?」
「いえ、遺体の時期的に我が軍の所業です」
やむなく憲兵が増員され、前線近くでもパトロールが行われたが、中には将校自らこういった野蛮な所業に加わっている場合もあり、全く制御がきかなかった。加害者を尋問しても何が悪いのかすら分かっていなかった。
「俺の妹も母親もドイツ兵にやられてんだ、仕返しして何が悪いんだ」
「昔から戦争ってのはこんなもんなんだよ」
会議の席では
「兵隊たちにも少しくらい楽しみは必要だろう」
という発言さえあった。こんなことをしていては、この地域に今後数十年は消えない怨嗟を残してしまう。東ヨーロッパは社会主義のソビエトを守る塀となってもらう必要があるのだ。彼は生き延びた被害者からも話を聞いた。ロシア系の住民、赤軍兵士の家族もいた。味方とされる人々まで被害にあっている。50人以上から乱暴された被害者もいた。女と見れば手当たり次第だ。これは復讐ではない、虐殺だ。憲兵としてのパトロール、兵士たちへの軍規遵守の命令など、やることは山積みになっていった。
まもなく兵士たちの間に憲兵少佐アレクセイ・ジューコフの名は恐怖とともに語られるようになった。コトに及んでいるところへ乱入して加害者を警棒でめったうちにする、支給品の警棒を5本もだめにしたらしい、いや10本らしいぞ。背骨が折れるほど叩かれた加害者もいたらしい。しかし憲兵や政治将校の恐ろしさが知れ渡っても、こうした蛮行は止むことはなかった。
双眼鏡でベルリン市が見えるようになったとき、「ああ、もう戦争が終わってしまう。ドイツを倒すという目的がなくなれば、俺は何を目標に生きればいいのだろう」とすら思った。勝利を目前にしてもアレクセイの目に入る世界はずっとモノクロであり、すりガラスの向こうのようにも感じた。とりわけタチアナが逝った春が嫌いだった。棺を満たした花や墓場に咲いていた花を思い出すのもつらかった。戦争の間、多くの「死」を見てきた。そしてそのたびに思った。なぜ俺はまだ生きている…… タチアナを思い出して泣くことはさすがになくなっていったが、アレクセイは人生に生きる目的と希望を見出すことはできなかった。そしてまた、何度目かの春が来ようとしていた。
1945年4月25日……この日は世界史的にはソ連軍とアメリカ軍がエルベ河畔で出会い、ドイツの戦線が南北に断ち切られるという「エルベの誓いの日」として記憶される。しかしアレクセイにとっては彼の視界が再び色づいた日だった。ずっと目の前にあったすりガラスが粉々に砕け散ったような気がした。あの日アレクセイのは第二部隊の後続として早々にグリューネヴァルト区へ突入した。大きな屋敷の前に赤軍の車両が2台道端に放置されていた。なんだ、なぜ離脱している? ドイツ兵が隠れていたのか? 憲兵隊は陸軍部隊と共に屋敷に突入した。アレクセイの耳に叫び声が聞こえた。
小部隊が今まさに犯そうとしていた女……アレクセイが寸でのところで助けたのがエリザベート・フォン・リヒテンラーデだった。服を引き裂かれ、明るい金色の髪を乱して恐怖と怒りに震え、唇の端から血を流している女……ブロンド美人などドイツ領に入ってから飽きるほど見てきた。エリザベートは若く美しかったが、特別な美人というわけでもなかった。理由は彼にも分からなかった。しかし彼が興味を抱いたのはエリザベートだけであった。
あの日あのまま「隊の者が失礼をしました」と言って別れてしまうはずだった。けれどアレクセイはエリザベートをあのまま残していくことはできなかった。自国の軍隊による非戦闘員へのひどいふるまいに心を痛めていた彼は、今まであちこちで同じような暴行行為を止めたり、加害者を処罰してきた。しかし未遂のうちに被害者を救出できたのはこの日が初めてだった。このことにより彼は自分が騎士として姫君を救出するという古典的な物語の主人公になったような気がしたのも確かだった。この混乱した戦乱の地で、彼女を一人で残していくことなどできなかった。ろくでもない後続部隊が次々と到着するだろう。また同じ目にあったとき、自分がいなくては助けられない……彼は部下と話し合って屋敷の接収を決めた。「もっと街道沿いのいい物件があるだろうに」という反対意見もあった。同期の陸軍少佐アンドレイなどは「いつだって第2波の連中が悪さをしている。中心部までついていって抑え込む計画じゃなかったのか」と言った。しかしアレクセイは自分の主張を押し通し、ここを憲兵事務所とした。
「そっちは他の者にまかせる。俺はこの街区の治安を守る」
それがアレクセイの決意だった。
そして弱々しい姫君は、話し合いの席で必死に自分を奮い立たせ、使用人や居候を含めた全員を家族として守ろうとしていた。緑の瞳を見開き、体の震えを必死で抑え込んでいる様子だった。こちらのことを非常に怖がっていることがひしひしと伝わってきた。交渉の場でアレクセイはエリザベートのことを「尊敬すべき健気さだな」と感じた。一生懸命できれいだ、いや可愛らしい。なんだこの感情は?
まもなく毎日のお茶の時間が彼にとっての一番の楽しみになった。エリザベートの夫がナチスの中でも一番の「悪の組織」である親衛隊のエリート中佐であることには驚いたが、彼女自身がそれをアレクセイに伝える時に全く躊躇していなかったことにはもっと衝撃を受けた。(むろん、後ろで執事がやきもきした顔を見せていたが) 彼女はSSという組織のことなど何も知らないのだ。夫のことを単なる官吏だと思っているのだ。石炭車が到着し、屋敷のセントラルヒーティングが稼働したことを伝えた時、エリザベートはぱっと喜びの笑顔を見せた。なんという警戒心のない素直さだろう。そして、アレクセイは自分が彼女の喜ぶ顔を見たいと思っていることに気づいた。
アレクセイが2歳の時にロシア革命が起こり貴族や皇族は皆国外へ亡命した。それゆえ彼の中の貴族やブルジョワのイメージは学校で悪の権化として習った豪華な馬車や城郭と、共産主義の理想に反する悪、搾取者というイメージしかなかった。エリザベートはブルジョワ出身で貴族の奥方だった。執事を筆頭とする十数人の召使を支配し、絹の衣装をまとい、銀の食器を使う人種だった。反発しながらも憧れた上流階級の人間を初めて目の前にして、アレクセイは自分でも思いもしなかった甘美な感情に支配されるようになっていった。この世間知らずで善良な貴婦人にアレクセイは恋をした。人を疑うことを知らない、手を荒れさせたこともないお姫様に彼は心を奪われていった。どうしてだ? どうして彼女なのだろう。愛おしい。守りたい。彼女と一緒にいるとこちらまで心が洗われて美しくなっていくような気がした。実らぬ恋、片思い……誰かを好きになるということがこんなにも甘美な幸福なことであることを彼は長い間忘れていた。お茶の時間の後一緒に散歩した庭園の花々や、彼女に似た金髪の幼い子供のことまで彼は好きになっていった。3歳のエドゥアルトはエリザベートに生き写しの顔立ちだった。こどもだからざっくばらんに声をかけられるし、髪の毛をくしゃくしゃにして撫でてみたり、抱き上げたりできるのだ。
エリザベートを好きだという気持ちがつのっても、想いを伝えることはどうしてもできなかった。彼女には「夫」がいるのだ。返事は分かっている。「拒絶」の言葉を聞いて傷つくのが怖かった。この奇妙な友情関係が壊れるのが怖かった。彼に提供された最上の客用寝室で、何メートル歩けば彼女の……彼女と夫が過ごした寝室へ歩けるのだろうと、アレクセイは眠れぬ夜を過ごした。
7月のあの日……エリザベートのやわらかな唇を初めて味わってしまうと、彼はもう自分を抑えることが出来なくなり、彼女を床に押し倒してしまった。もちろん「嫌だ」と言われたらすぐにでもやめるつもりだった。未遂とはいえ、彼女はひどい目に合いかけたのだ。男に触れられることに嫌悪感があるかもしれない。しかしエリザベートは細い腕を彼の背に回した。彼女は俺が一歩踏み出すのを待っていたのか……? エリザベートは震えていた。彼女の心臓は破裂しそうなほどの鼓動をうっていた。落ち着け、焦るな、あの兵卒どもと自分が違うことを彼女に分からせなければ……彼は自分自身に言い聞かせながらそっと彼女の体に触れていった。
この日は邪魔が入ったため「未遂」で終わってしまったが、このまま進めばエリザベートと恋人同士になれるかもしれないという希望はアレクセイの日々の生活をとても幸せなものにしていった。諦めようと思っていた恋は一転して明るい未来を見せたのだ。彼の表情は目に見えて明るくなり、他人にも親切になっていった。仕事にしか興味のない、面白みのない軍人としかアレクセイを認識していない周りの人々は驚き、一体何があったのだろうとささやきあった。
しかしこの日の出来事は同時に彼を苦しめた側面があったことも確かであった。彼はその後エリザベートに会うたびに彼女の唇の感触や、髪や胸元の甘い香りを思い出した。衣服の上からとはいえ触れた乳房や腰のやわらかさ、唇に感じた首筋の脈動が何度もよみがえった。引越しの日にアレクセイはエリザベートの寝室に初めて入った。「この姿見はどうしても持って行きたいの」と言いながら自分を何の警戒心もなしに寝室に招きいれた彼女に対し、怒りすら覚えた。この女は俺が次の段階に進みたいと考えていることなど想像もしていないのだろうか。男を寝室に招きいれることがどういう意味を持つのか、いい年をして分からないのだろうか。それとも、あの日のことは一時の気の迷いで、相手の情熱に流されてしまっただけだとでも言うのだろうか。
引越しが終わった夜、エリザベートが耳まで真っ赤にして「今度いつ会えるの」と言った時、アレクセイは心底彼女を愛おしいと思った。エリザベートは俺の愛情を受け入れ、応えようとしてくれていると確信した。
なんとかして一歩進もう。交際禁止令に引っ掛からない、誰にも発覚しない、いいやり方があるはずだ。エリザベートがマルタの店を手伝うことになったので、彼はパトロールの途中で寄ることにした。必需品を届けるか、通貨代わりのアメリカタバコを持って。これは闇市パトロールで発見したことだったが、悔しいことにアメリカタバコはソビエトタバコの何倍も購買力があった。吸ってみるとすぐわかった。アメリカタバコはフィルターがあるので肺の奥まで吸えるが、ソビエトタバコはフィルターがないので煙ばっかり入ってくるのだ。
ちょうどこの頃米軍が到着し、4か国での会議は頻繁に開催されていた。少佐の地位ではせいぜい元帥の護衛だったが、同じように護衛で来ている米軍のミッチェル少佐と知人になった。彼は嫌煙だが酒好きということで、ロシアのウォッカとアメリカのタバコを毎回贈答品として交換した。
だが9月からアレクセイは特命でワルシャワへ長期に行くことになった。もうベルリンに戻れなかったらどうしようかと不安になりながら職務をこなしていた。なんとかベルリン残留組に入れてもらわないと、永遠に会えなくなってしまう。
ベルリンに戻ると、エリザベートは転居し、働いていた百貨店は倒壊危機で使用できなくなっており、アレクセイは激しく絶望した。「定期的に見に行けってあれほど頼んだだろう」とレオニードを締め上げて探させたが、見つからなかった。住民台帳や配給の登録も見てみた。だが200万人とも言われる市民の中からたった一人を手作業で見つけ出すのは至難の技だった。もしかしたら市内にいないかもしれない。もうこれ以上係わりたくないと思って黙って姿を消されたなら、どうやって追える? だが、もうこれきり会えないとしても彼女の意思を確認したかった。
救いの手は思わぬところから現れた。アレクセイが占領司令部で用をたそうとトイレに入った時だった。先客が二人話しながら用を足していた。
「お前さ、制服の袖、直してもらったのかよ」
「ああ、安かったし、頼んでよかったよ。従卒の縫い方じゃめちゃくちゃだったからな。その店、可愛いものをいろいろ売ってたから国への土産も買えたし」
「なんて店だったっけ」
「マルリゼ? マルリザだったっけな。金髪のほうがロシア語を話せるんだ」
それはアレクセイが彼女たちをロシア風に呼んだニックネームを合わせたものだった。彼らに詳しく場所を聞き、彼は急行した。小さな小窓からマルタの姿が見えた。
半年間彼の願い続けた、初めて二人きりで過ごす時間は夢のようだった。エリザベートの体に吸い込まれるようにアレクセイは彼女の中に入っていった。彼女は彼の動きに合わせて反応を返し、ついには頭をのけぞらして小さな叫び声をあげて体を痙攣させた。エリザベートは自分がこんな風になったのは生まれて初めてだと告白してうっとりした顔をしていた。「信じられないわ、こんなことが自分に起こるなんて」彼女は恍惚とした様子で何度もそう繰り返しつぶやいた。
ようやくエリザベートの心を手に入れ、ベッドを共にする仲になっても、いや一線を越えてからのほうがアレクセイの心の不安は高まるばかりだった。「夫」が生きて戻ってくれば彼女は夫の元に戻るのではないかという不安だった。いや、確実に夫の元に戻るだろう。それをなんとしても阻止したいと思い始めた。やっと手に入れたこの愛と生きがいを奪われたら今度こそ本当に立ち直れないだろう。彼女を完全に手にいれるためには何だってするつもりだった。もしジークフリートがソ連軍の捕虜収容所にいれば秘密裏に殺してしまおうとすら思っていたのだ。何もなくてもいい……お前の心と身体だけ残ればいい。それらは俺だけのものだ。アレクセイは彼女を後ろから抱きしめた。お前がジークフリートと結婚していた事実は消せないけれど、過去はもうどうでもいい。未来を俺にくれ。
