12月になった。共産主義では神を否定するため、大っぴらにクリスマスは祝えなかったが、店内のディスプレイに小さなツリーを緑のフェルトで作ってみた。最近は作業室で見つけたミシンで小さなポーチとか子供服なども作って売っているのだ。自分が作ったものが売れるのはとても嬉しかった。おじい様に教えてもらったおかげだわ……この技術が戦後一番役に立っている。そういえばアレクセイのコートを修繕したこともあった。もうコートが活躍する季節になってしまった。あのコート、着てくれているだろうか。私が縫ったこと、思い出してくれているだろうか。カラン、と鐘が鳴りカーキ色のコートが見えた。赤軍の将校だ。だがアレクセイではなくがっかりした。もう100回を超えているだろう。こんなことを何度繰り返すのだろう。夢の中で彼が帰ってきて喜んで、目が覚めた時の絶望感といったらなかった。
 その将校は妻を連れていた。ロシア語で話しているので、妻なのだろう。駐留する軍人は配偶者を故国から呼び寄せられるのだ。いいな、ああやって連れ立って買い物できるなんて、とうらやましく思う。マルタが対応し、ティーカップセットが売れたようだった。
「エリザベート、ぼんやりしてない? 気持ちはわかるけど……」
「仕事してるわよ」
 エリザベートはカウンターの中でカーキ色の軍服の修繕をしていた。最近は軍隊内の修繕に満足していない将校からの依頼があるのだ。この請負は謝礼もよかったが、アレクセイとのことを思い出させる作業ではあった。
 今後の生活のことを考えると憂鬱ではあったが、考えないわけにもいかなかった。マルタの従兄弟が戻って来たら、ここは明け渡さないといけない。ここを追い出されたら衣服の修理と雑貨販売だけで食べてはいけないだろう。おじいさまは一体仕入れや人件費にいくら使い、商品をいくらで売っていたのだろう。家賃や光熱費もかかるはずだ。それでいくら儲けを出せば生活していけるのだろう。ああ、洋裁だけじゃなくてそういうのも聞いておけばよかったな、とため息が出た。買い物の際に値札を見る習慣さえなかったエリザベートは、経営のことなど全く想像もできないことばかりだった。
ジューコフ少佐が戻ってくれば、また何かもらえるでしょう、とマルタやフリーダは言うが、例えもらえるとしてもそこにばかり頼って生活するのは筋違いと思われた。ただでさえ勝った国と負けた国という上下間系がある。あの人がいないと何にも出来ないような女にはなりたくなかった。なんとか自立して対等な付き合いをしたかった。アレクセイの目に魅力ある尊敬できる女性として映りたかった。

 カラン、また鐘がなって目の端にカーキ色の制服が見えた。どうせ違うわ、もう期待しないでおこう。こんなんじゃ私の神経が参ってしまう。
「まあ、お久しぶりです」
 マルタの喜んだ声が聞こえた。誰か知った顔だったのだろうか。この制服の主と約束した納期はまだ先だったはずだけど、そう思いながらエリザベートも不機嫌な顔を上げた。彼女は息をのんで黙って軍服を置き、立ち上がった。言葉が出なかった。前にいるのはこの3か月恋焦がれた男だったのだ。
「どうして……?」
 どうして連絡くれなかったの? どうして今になって? どうしてここが分かったの? 聞きたいことはたくさんあった。だが言葉にならなかった。マルタは空気を察して二人に言った。
「二人、奥でお茶でもどうぞ!」

 以前もこんなことがあったが、二人はおとなしくカーテンの奥の作業室兼倉庫に入った。エリザベートはアレクセイに向き直り、
「どうして?」
とようやく声に出した。アレクセイは涙に濡れた彼女の頬をなでた。
「言い訳はいろいろあるけど、それを言ってたら2時間くらいかかるから、今は再会を喜ばせてもらってもいいかい?」
 彼に抱きしめられてキスされると何も考えられなくなってしまう。でもだめだ、考えないと。私たちの未来をどうするつもりなのか、この先私たちはどうなってしまうのか。
「リーザ、君は俺を待っていてくれた、そう考えていいかい?」
「待ってた……毎日毎日待ってたわ」
 アレクセイはエリザベートの顔を覗き込みほほ笑んだ。
「今度二人きりで会える時間を作ってくれる?」
「それはもちろん」
「じゃあまた連絡するから」
 アレクセイはカーテンに手をかけた。エリザベートは必至で止めた。
「ちょっと待って、もう帰るつもり? 私がどんな思いで毎日過ごしていたと思ってるの?」
「そりゃお互い様さ、リーザ。君の住所が分からなくて俺もつらかった。ただ今日はちょっと忙しいんだ。近いうちに必ず時間が取れるから」
「近いうちじゃなくて、今一緒にいてよ!」
 アレクセイはもう一度エリザベートを抱きしめた。
「こんな密室にこれ以上いたら、もう俺は自分を抑えられない。わかってくれ」
 カーテンから出るとマルタが驚いた顔をしていた。
「え、もういいんですか」
「いや、今日は会いに来ただけだから。あ、そうだこれ、どうぞ」
 アレクセイはラッキーストライクのカートンを二人に差し出した。マルタは大喜びだったが、エリザベートは何でも買える魔法のタバコよりも時間が欲しいと感じた。

 2日後レオニードが書類とタバコを持ってやってきた。書類は占領ソ連軍発行の「私費雇用ハウスメイド身分証明書」と「給与・服務等契約書」だった。エリザベートはレオニードの顔を見た。
「何これ?」
「あ~つまりね、少佐は借り上げホテルから借り上げの将校用官舎に移ったんですよ。そうすれば家事メイドを雇うことができて、あなたを雇用することであなたがそこに出入りできるんです。これ結構みんなやってて……おっといけない」
 勤務時間は週に一度不定期、10時~15時、給与は連合国軍マルクもしくは物資なら都度希望に沿う、仕事は主に清掃、昼食支給とあった。アレクセイからの私信も入っていた。
「君を使用人扱いすることになってしまってすまない。しかしこれが一番安全に二人で会える方法だと思う。1回目は来週の木曜日に来てほしい。私もその日は在宅できるので。いろいろ渡したいものがあるので、空の背嚢(リュックサック)を2つ持ってきて。帰りには官舎の前まで誰かひとり寄越して二人で帰ってほしい」
 エリザベートは客のいない時間は子供服を作っていたが、この契約書やら手紙やらが気になって集中できなかった。つい見てしまう。昼頃マルタがやってきた。客が多い店でもないので、時差をつけて勤務しているのだ。マルタは書類にすぐ気が付いた。
「なあに、それ」
 エリザベートはマルタに書類を渡した。
「レオニードが届けてくれたんだけどね、少佐が私にお掃除をしてほしいみたいなの。だから来週の木曜日は、お店のほうごめんね。いろいろアレクセイの事情も聴きたいけど、なかなか二人でゆっくり話すこともできないから……」
「意味分かってる?」
「え? 私が掃除もしたことないって言いたい? 女学校では習ったんだから、まあなんとか頑張って……」
「いや、そうじゃなくて、相手はここまでおぜん立てしてきてるのよ。部屋に入ったわ、したくありませんじゃすまないわよ!」
「え? だから掃除はするつもりで……」
 マルタはエリザベートの両肩をがっしりとつかんで言った。
「男が一人住まいのフラットに好きな女を一人で呼ぶっていうのは一線越えようってことでしょう!」
「え、これってそういう意味だったの?」
 エリザベートは書類を見直した。
「ばか! 契約書にそんなこと書いてあるわけないじゃない」
 大丈夫なのか、この奥様はとマルタは心配になってきた。
「ねえ、本当にご主人のことはもういいの? ソビエトの人と付き合っても責任は取ってくれないかもしれないわよ。いや、あの人は責任感のあるまじめな人に見えるし、いつもいただくラッキーストライクもありがたいけれど……でも、突然帰国したらもうサヨナラだわ」
 エリザベートはこれまでの何か月か想像していたことがいよいよ本当になるのか、と考えていた。アレクセイ・ジューコフという男に抱かれる。それは何度も何度も空想し、そうしたいと思ってきたことだった。しかし核心に迫ると、恐ろしい事実にも突き当たった。私の体は彼を受け入れることができるのだろうか。ジークフリートとの結婚生活の後半はひどい夫婦生活だった。好きになって抱いた女が苦痛に顔をゆがめ、痛い痛いと泣き叫んだら、アレクセイだって興ざめしてしまうだろう。どうしよう、これは事前に言っておいたほうがいいのだろうか。
「大丈夫? やっぱり無理なんだったらそう言ったほうがいいよ」
 エリザベートは首を振った。だめだ、親友のマルタにさえこんな体の深部のことは相談できない。
「あの人のこと、好きだわ」
 誰に言うでもなくこの言葉が出た。それが彼女の決意だった。

 あの人のこと、好きだわ、あの人のこと、好きだわ、エリザベートは自分の口から出た言葉を反芻しながら帰路についた。この一言でどれくらいの人を傷つけるのだろう。一緒に暮らしている元使用人たちに知られたらどうしよう、とも思った。許容してくれるのはフリーダくらいだろう。ギゼラは相変わらずロシア人憎しで生きているし、カウフマンとテレジアは道徳と倫理観から私の行いを責めるだろう。子供は……まだわからないだろうけど、思春期になったら? だが、あの人たちも子供たちも、アレクセイのくれた米軍タバコで交換した食べ物を食べているのだ。ここで彼女は自分がジークフリートに対して悪いということを全く考えていないことに思い至った。そうだ確かに私は結婚式で彼に対する生涯に渡る貞節を誓った。
 道すがら壊れたまま礼拝が再開されないプロテスタント教会があった。エリザベートはカトリック教徒であったが、足をとめて瓦礫の上に残された十字架を仰ぎ見た。神様、あなたは私の前半生にすべての豊かさと幸福を与え、それを中途ですべて奪い取った。お父様、お母様、ジークフリート、どうしてみんな私の人生から消えてしまったの。ジークフリート、あなたはソビエト軍の恐ろしさを知っていて私をベルリンに置き去りにしたの?  そうだ、アレクセイは英軍への引き渡しまで私のそばにいてくれたのだ。神様、あなたは私を見捨てたのですか?  私は自分の思う方向に進みたい。私を守ってくれる人と一緒にいて何が悪い?  自分でもどうしようもないくらい、あの人のことが好きなんです。
「奥さん、もうドイツに神様はいないよ。我々は世界中から見放されてしまったんだ」
 見知らぬ老人が誰に言うともなく語り、そのまま後ろを通り過ぎて行った。今のは神の声なのか悪魔のささやきなのか……私はもう、死して神の御許には行けないかもしれない。けれど、それでもあの人のことが好きなのだ、あの人と一緒にいたいのだ。エリザベートは神と決別するように振り返らずに家路を急いだ。

 将校用の集合住宅前で歩哨に身分証明書を見せるとすぐに通してくれた。ちょっとよさげな中庭のある大きな建物で、一棟すべてが占領軍の借り上げになっている。聞いていた部屋番号の前まで来ると、エリザベートは息を吸ってノックした。すぐに扉が開いてアレクセイが笑顔を見せた。
「やあ、ハウスメイドさんようこそ」
「よろしくお願いします」
 アレクセイの官舎は物も少なく、ガランとした質素な部屋だった。
「お掃除は水回りを中心にしたらいい?」
 そう言いかけたが、まだコートも脱いでいないエリザベートは唇をふさがれた。
「言っただろう、もう我慢はできないんだって」
 手を引かれ、部屋を横切る。アレクセイは居間に続く部屋のドアを開けた。
「……このまま……いいか?」
 エリザベートはアレクセイの顔を見上げた。彼は赤くなって目をそらしている。どこまでもこの人は紳士で、不器用で、そして優しいのだ。ここまで来て、私の許可がいる?
「アレクセイ、私を見て」
 彼らは向き合って立った。
「私は未来永劫ナチの女と誹りを受ける人間です。本当ならあなたの隣に立つことは許されない身分です。でも、あなたを心から愛しています。あなたの国の規則で私たちがこの先もずっと太陽の下で歩けないとしても、それでも私はあなたと一緒にいたい、そう思ったから今日来ました」
 アレクセイは唇をかみしめ、エリザベートを抱き上げた。
「必ず、陽光の下で手をつないで歩ける日は来る。そんな世界を作ってみせる」

 エリザベートは男の肩の大きな傷跡に口づけた。ものすごい皮膚のひきつれと手術跡が残っている。命の危険もあったかもしれない。けれどそれを乗り越えて、この人は私の前に来てくれたのだ。自分がいくら相手を愛撫しても、すぐにその100倍も自分の体が口づけを受けてしまう。12月の寒さなんて吹き飛んでしまいそうな、熱い体に包まれる。
 体の中心の奥底から熱いものがこみ上げ、自分自身が潤ってくるのを感じた。痛い? 痛いんだろうか、やっぱり。怖い、自分の体は大丈夫だろうか。けれど私はこの男が欲しい。欲しくてたまらない。エリザベートはアレクセイを引き寄せ、口づけた。それをきっかけに、1年以上孤独を守っていた自分に、アレクセイが入ってくるのを感じた。彼女の体は自分でも驚くほど易々と男を受け入れ、同時にめくるめく、とろけるような快感に襲われた。
「うわ……」
 驚いたような声を出したエリザベートをアレクセイは心配そうに見たが、そのまま彼女を抱きしめた。何これ? 何が私に起こっている? 男の動きに合わせて快楽が波のように押し寄せ、彼女は悲鳴のような細い声をあげて頭をのけぞらせた。しばらく後、大きな波の中を駆け上がるような感覚に襲われ、エリザベートはアレクセイの背中に爪を立てて叫んだ。
 彼女は生まれて初めて味わう感覚に、息をするのも忘れて痙攣したように震えた。そしてそのままぐったりしてしまった。自分の息だけが全力疾走した後のように荒くなっていた。アレクセイがゆっくりと体を離し、掛布団をかけてくれたが、エリザベートはそのまま何も話せなかった。呆然として肉体はまだ小刻みにに震えていた。彼女はまだその余韻に浸っていたかった。
「大丈夫?」
 アレクセイは横から彼女を抱きしめた。
「うん……」
 まだしばらくこうしていてほしい。彼女はアレクセイに抱きしめられたまま、心地よい疲れに少しまどろんでしまった。
「やだ、私寝てた?」
「10分くらいだよ。君は俺の肩でよく眠る人だね」
 ようやくエリザベートは嫌だわ、といい笑った。そして泣いてるとも笑っているともつかないような顔で、アレクセイをじっと見た。
「どうした? 後悔しているのか?」
「いいえ、その逆よ」
 エリザベートはずっと性交痛に悩んでいたことと、さっきのような性的快楽を知ったのは初めてだったことを話した。
「今は、痛かったか?」
「いいえ、たぶん私の体が準備ができたんだと思う。私もずっとあなたとこうしたかったから」
「それは、光栄だ。俺もずっと君とこうしたかったよ」

 同居人に気づかれるのは早かった。当日3時に言いつけとおり迎えに来たフリーダに背嚢を一つ渡し、二人で並んで家まで歩いているときだった。アレクセイは二つの背嚢にいつものラッキーストライクの他、米軍の牛肉缶詰やお菓子などを詰めてくれたのである。昼食用に職員食堂からもらってきたパンやハムの残りも全部持って帰ってよいとのことだった。久しぶりの情事の疲れと、重いリュックのせいでエリザベートはひょこひょこ歩いていた。結局本来業務の掃除は全く出来なかった。昼食後もまた抱き合ったのだ。
「奥様、ずばりお聞きしますが、ついにやったんですか?」
「え?? な、なにを?」
「その歩き方です。股関節そうとう痛めてますよね、乱暴なことされたんですか」
「え?? いやそんな乱暴ってことはなかったんだけど」
「じゃあ久しぶりだったからですね。心配しないでください。他の人たちには言いませんから。私は奥様が幸せならそれでいいと思ってます。ギゼラはそうは思わないでしょうけど」
 フリーダはにっこり笑った。
「奥様、そっち方面なら相談に乗れますよ。私こう見えて場数踏んでるんで」
「ば、場数って何よ」
「ははは……それはまたね、今度ウォッカもらっといてくださいよ。飲まないと話せないわ」

 エリザベートは将来の約束もなしに男に体を許すなど、とんでもないことをしてしまったと思いながらも幸せな気持ちを味わっていた。あの日のことを思い出すと恥ずかしくて顔を伏せてしまうのだが、また彼に抱かれたいという情欲がこみあげてきた。そして次の約束を指折り数えた。まるで一ミリの隙間も残すまいというかのように自分の体を愛撫していったアレクセイの指と唇を忘れることはできなかった。彼が望むから、彼に自分の体を与えたのではなかった。自分が彼を抱きたかったのだ。まるで竜巻の中を駆け上がるような感じだった、とエリザベートはあの夜のことを思い出した。あんな快楽がこの世にあることを今まで知らなかったし、自分にこんな欲求があることも信じられなかった。他の女性たちはみんなこれを知っているのだろうか。みんなすました顔をして、ベッドではあんな風に乱れている?
 同時になぜジークフリートに対してこんな風に思うことができなかったのだろうかと申し訳なく思ったりもした。ジークフリートは普段の生活でもベッドの中でも優しかった。ジークフリートに初めて抱かれた夜……結婚式の夜、「怖がらないで」と何度も夫は言った。終わった後の自分の感想は、「想像していた程痛いものでも恐ろしいものでもなかった」というものだった。その後の結婚生活の中でも、エリザベートにとって夫婦生活というものは夫が求めてきた時に応じるものであり、子供を身籠るという大きな喜びのために、妻にとっては「品位をもって耐えなければならない」義務なのだと頭から信じ込んでいた。ところが子どもを作るという目的がないときでも、男がこれをしたがるということを知った時、彼女の心は混乱した。嫌だとまでは思ったことはなかったが、彼女は決して自分から求めたことはなかった。
アレクセイに対しては全然違った。また彼の力強い腕に抱きしめられてすべてを奪われてしまいたかった。彼の腕の中にいると、何もかも忘れて夢中になれるのだ。こんなにも激しい感情で愛し合うということが自分の人生に起こるなんて信じられなかった。ジークフリートとの穏やかな落ち着いた愛情とは全く違うものだった。しかしどちらかの愛が真実でどちらかが間違っているというものではなく、両方とも彼女にとっては真実だった。