9月になりアレクセイはぱたりと店に姿を見せなくなった。忙しいのだろうと彼を信じる気持ちでエリザベートは耐えていたが、次第に不安がこみ上げた。まさか私とのことがばれて転勤させられたりした? いやまだ「交際」しているといえるほどの関係ではない。だからきっと仕事が忙しいだけだろう。彼女は彼との思い出をいろいろ思い出しては「アレクセイは私のことが好きなのだからきっとまた連絡してくれる」と楽観的な気分になったり、「こんなに長い間連絡がないなんて、もうだめなのかもしれない」と絶望したりした。こんなことはジークフリートとの結婚前のつきあいでは考えられないことだった。好きになってもつらくなるだけの相手なのに、どうしてこんな気持ちになってしまうのだろう。それでも自分の気持ちを止めることはできなかった。
エドゥアルトとカールはアレクセイにとてもなついていた。「おじちゃんは今度いつ来るの?」とたびたび言ってはエリザベートをいらだたせた。聞きたいのはこっちのほうなのだ。しまいにはお菓子にさえ「アレクセイおじちゃんのくれたのがいい」とぐずりはじめた。
狭い家の中で子どもと朝夕だけとはいえ始終顔を突き合わせているというのは想像以上にストレスのたまる生活だった。エリザベートは今までいかに自分が子どもの世話をせずに生活してきたかを思い知った。食事や排せつや風呂の世話はもちろんのこと、遊んだり字を教えたりすることすらまれだった。昼間働いていたジークフリートとほとんど変わらないくらいの短い時間しか、彼女は子どもと接触してこなかったのだ。子どもの方も母親よりも使用人になついていた。だからアレクセイがこんな短期間で子どもたちの心をつかんでしまったのが不思議でならなかった。
ある日レオニードとナターリアのいつもの二人組が突然店にやってきて石炭や缶詰を山ほどくれた。そして詳しくは言えないが、ジューコフ少佐は大事な出張で市外に出ているというのを教えてくれた。
「これから寒くなるので体に気をつけて」
二人が渡してくれたアレクセイからの手紙はそっけなかった。彼女はなんとか行間に愛情を読み取ろうとしたが、どこをどう読んでも何も読み取れなかった。エリザベートが暗い顔をしているのを見てナターリアが
「連絡くらいするように少佐に言っておくわ」
と、とりなしてくれた。
このころ、西側連合国(アメリカ・イギリス・フランス)はソ連印刷の連合国軍マルクを西側エリアでは流通を禁止するという命令を出した。3か国の言い分では、ソ連は自国兵士への給与支払いや物資調達のため、無制限に連合国軍マルクを刷り続け、激しい物価上昇を招いているという理由だった。
「あっちの闇市ではもう受け取ってもらえないんです。どうしましょう」
買い出しに行ったフリーダからそう聞かされたエリザベートは、連合国と呼ばれた戦勝国の間に亀裂が入っていることを感じ始めた。せっかく協力して戦争に勝ったのに、共通の敵がいないと人間は国家とはこうも脆いものなのだろうか。
「とにかく家にあるお金を整理して、あっちで使えるものとソ連側のものに分けましょう。ソ連側のものはソ連側で使うしかないわ」
子供たちに書き物をさせていたギゼラが振り返って突然大声で口をはさんだ。
「奥様、ソ連側なんて言い方をしないでください。東側って言ってください。まるで私たちがソ連邦の中の共和国になったみたいな気になります」
すると子供たちまで口を出し始めた。
「僕たちもアレクセイおじちゃんと同じ国の人になるの?」
「また一緒に遊べるかな」
「一緒の国になんてなりませんよ!」
ギゼラはカールを𠮟りつけた。カールはしゅんとしたが、エドゥアルトのほうが泣き出した。本当に繊細な子だ、とエリザベートは不安になった。この子の将来はどうなるのだろう。ギゼラは子供たちをなだめ、抱きしめた。フリーダがこっそりエリザベートに耳打ちした。
「買い物には米軍タバコが一番いいんですよ、奥様。あの方からの差し入れは今後もラッキーストライクでお願いします」
マルタの店の値札も変更した。米軍タバコの率が一番よくて、その次がソ連軍タバコ、ソ連軍発行の配給券、連合国軍マルク、一番下にライヒスマルクだった。ソ連の配給券は意外と信頼があるのだ。
この9月はいろいろなことが立て続けに起こった。まず、ついにジークフリートの官舎に使っていた建物が接収され、住人は追い出されることになった。もともと自分たちも不法占拠に近い状態だったので、エリザベートは文句も言えなかったが、さて問題は行先だった。マルタの父親経営の百貨店は2階から上はほぼ使っていなかったので、しばらくはそこで寝泊まりさせてもらえることになり、荷物を運びこんだ。
「え、じゃあこの奥で寝泊まりしているんですか?」
差し入れを持ってきてくれたレオニードは驚いた様子だった。
「そうなのよ。アレクセイにも伝えておいてもらえる? あっちの家にはもういないからって」
「ドイツ人も住むところがないのに、建物全部接収ですか……気の毒すぎますね。少佐がいればあなた方の部屋だけでも残せたんでしょうけど、残念ですね」
マルタの叔母(父の姉)が亡くなった。彼女は弟が百貨店経営者として成功しても、そこには頼らず昔ながらの商店を続けている人だった。叔母には息子がいたが出征したきり行方不明だった。そしてマルタはなんとその店舗付きの住宅をエリザベートたちに提供してくれたのである。
「私も一人暮らしのフラットが接収されて追い出されたけど、実家に戻ることにしたの。叔母のことは大好きだから、従兄が戻ってくるまであの建物を守りたいの。このご時世、少しでも無人だと誰かが不法占拠するでしょう? だから知ってる人に住んでもらいたいのよ」
「え……そんな、なんてお礼を言ったらいいのか。本当にありがとう」
頭を下げたエリザベートにマルタは舌をペロッと出して言った。
「まあ私もジューコフ少佐とのつながりが欲しいのよ、店の営業にもお目こぼしもいただけそうだし。だからお互いに利益はあるってことで、そんなに遠慮しなくていいわ。またラッキーストライクお願いしといてよ、ね?」
叔母の店舗付き住宅は大通りではない古い商店街にあり、そのせいで接収は免れていた。1階には通りに面して店舗、その奥に客間と倉庫があった。裏通りからも出入りできた。2階は居住スペースになっていて、なんとロフトと屋上があった。屋上があれば小さいとはいえ植物を育てられる! 盗難の恐れもない。7人はたいそう喜んでこの古い住宅に引っ越した。叔母は仕立て屋を営んでいたらしく、生地や糸の在庫がたくさんあった。このさびれた商店街で、叔母は昔からの常連客だけに服を作り続けていたのだ。エリザベートは戦争が始まってすぐ亡くなった祖父と重ねた。完成した服は略奪にあっていたが、ソ連軍も生地などには手をつけていなかった。エリザベートはここからマルタの百貨店に通うことにしていたが、今度はそちらにも問題が出た。倒壊危険のため、退去という命令がくだったのである。
「そっちでお店開かない?」
こうしてエリザベートとマルタは雑貨屋「マルリザ」を開くことになった。これはアレクセイが二人をロシア風に呼んだ愛称をくっつけて造語したものだった。百貨店が取り壊しに合う前に売れそうな商品は倉庫に運び込んだ。何ができそうだろう、「衣服の修理・サイズ直し賜ります」木切れにそう書いて店の前に置いてみた。
エリザベートはこの新しい店舗兼住居のことをアレクセイに伝えなければ、と思い、彼が宿舎にしているホテルに行き伝言を託そうとしたが、守衛をしている兵士に止められた。
「手紙を預かってもらうだけでいいんです」
「いかなるものもお取次ぎできません」
ソ連軍最高司令部にも行ってみたが、同じように断られた。やむなく、時々司令部前の通りに行って、レオニードか出入りする将校に顔を見知った者がいないか探したが、わからなかった。だが、そんなことを何度か繰り返していると二人組のソ連軍将校に声をかけられた。
「お嬢さん、よくここに立っているのを見かけますが、人探しですか?」
将校たちはアレクセイと同じ腕章をしていた。憲兵だ! アレクセイと顔見知りかもしれない。エリザベートはうれしくなり、事情を話そうと思った。
「憲兵の方ですか? 憲兵隊のアレクセイ・ジューコフ少佐を知りませんか? 手紙を渡して欲しいんです」
二人組はにやにやしながら言った。
「うーん、知らないなあ。そんな去って行った男のことは忘れたほうがいいよ、お嬢さん。それより俺らの膝の上なら空いてるよ、どう?」
膝? 何?
「ほら、ラッキーストライクもあるよ、これでどうよ?」
エリザベートはここでようやく相手の意図がわかり、かあっと顔に血が昇った。そして何も言わず走り去った。後ろで笑いながらロシア語でからかう声が聞こえた。アレクセイにもレオニードにも連絡手段がない、このままでは本当に会えなくなってしまう。倒壊危険、と書かれた百貨店建物にはもちろん移転先の住所を書いた張り紙もしていた。いや、アレクセイはそもそもいつ戻ってくるのだろうか。
「なんか西側では兵隊さんとドイツ人がすごく仲良くしてるんです」
買い出しから戻ったフリーダが言った。
「一緒に歩いているとか?」
東側ではソ連軍人とドイツ人が一緒に道を歩くことさえできない。
「歩いてるなんてもんじゃないですよ。腕組んで、肩組んで、往来でもキスして抱き合ってます。軍用ジープにも何人も女乗っけて歓声上げながらガンガン走っているし。なんであっち側はあんなに自由なんでしょうか? 闇市はアメリカ軍の横流し品であふれています」
あとからわかったことだが、1945年10月1日から米軍は自国の兵士とドイツ人との交際禁止令を廃止していた。(訳注:実際には段階的に廃止が進み、米軍兵士とドイツ女性の結婚が許可されるのは1946年12月。日本でもそうであったが、この後数万人のドイツ女性が戦争花嫁としてアメリカへ移民する)
ではこちら側でも交際禁止令が撤廃される日がいつか来るのだろうか。私とアレクセイが並んで道を歩き、カフェに入れる日は来るのだろうか、とエリザベートは考えた。東側ではなんでもこっそりしなければならないのだ。昼間でも家と家の隙間の暗がりなどではソ連軍兵士とドイツ女性が売春の謝礼の交渉をしているのを見かけた。交渉が成立すると瓦礫の中の地下室へ入っていくのである。またある時は瓦礫の中から言い争いも聞こえた。仕方がないじゃない、あなたは帰国命令がくだったのでしょう? 私はロシアへは行けない。お前はそれでいいのかよ、俺とこれっきりでいいのかよ。その程度の気持ちだったのか? だったらどうするのよ。俺はお前と一緒にいたいんだよ……
どんなに命令で縛っても、しょせんは人間なのだ。私はスラブ人を劣等人種の敵と思い込んでいた、ユダヤ人と同様に絶滅させるべき敵だと思い込んでいた。アレクセイもドイツ人を憎んでいたことだろう。それでも私たちは、恋に落ちた。恋なんて、しようと思ってできるものではない、落ちるものなのだ。
このままだと早々に干上がってしまうかもしれないという不安が日々込み上げた。配給品を受け取ったときに、「ナチ女!」という罵声が後ろから聞こえたことがあったが、なんとか後ろを振り返らずにいられた。「ナチス政権で甘い汁を吸っていた人間」という烙印はずっと続いていくのだろう。私は一生元ナチなのだ。
アンネリーゼが時折持ってくるソ連軍のチラシには教員の求人が載っていることがあった。そうだ、私は教員免許を持っていた。公務員になれたら女性でも生きていける。エリザベートは希望を持って願書を送った。早々に書類選考に落ちたという通知が届いた。不合格理由にはナチ党員のため、にチェックが入っていた。私がナチ党員だったことなんて、どうしてわかったのだろう。名簿? 戦時中の名簿は後生大事に保管されて占領軍が見ていると? 政権が崩壊して自由になれたと街で喜んで話している人たちを見かけたことがあった。違う、また別の監視社会が始まっただけなのだ。
エドゥアルトとカールはアレクセイにとてもなついていた。「おじちゃんは今度いつ来るの?」とたびたび言ってはエリザベートをいらだたせた。聞きたいのはこっちのほうなのだ。しまいにはお菓子にさえ「アレクセイおじちゃんのくれたのがいい」とぐずりはじめた。
狭い家の中で子どもと朝夕だけとはいえ始終顔を突き合わせているというのは想像以上にストレスのたまる生活だった。エリザベートは今までいかに自分が子どもの世話をせずに生活してきたかを思い知った。食事や排せつや風呂の世話はもちろんのこと、遊んだり字を教えたりすることすらまれだった。昼間働いていたジークフリートとほとんど変わらないくらいの短い時間しか、彼女は子どもと接触してこなかったのだ。子どもの方も母親よりも使用人になついていた。だからアレクセイがこんな短期間で子どもたちの心をつかんでしまったのが不思議でならなかった。
ある日レオニードとナターリアのいつもの二人組が突然店にやってきて石炭や缶詰を山ほどくれた。そして詳しくは言えないが、ジューコフ少佐は大事な出張で市外に出ているというのを教えてくれた。
「これから寒くなるので体に気をつけて」
二人が渡してくれたアレクセイからの手紙はそっけなかった。彼女はなんとか行間に愛情を読み取ろうとしたが、どこをどう読んでも何も読み取れなかった。エリザベートが暗い顔をしているのを見てナターリアが
「連絡くらいするように少佐に言っておくわ」
と、とりなしてくれた。
このころ、西側連合国(アメリカ・イギリス・フランス)はソ連印刷の連合国軍マルクを西側エリアでは流通を禁止するという命令を出した。3か国の言い分では、ソ連は自国兵士への給与支払いや物資調達のため、無制限に連合国軍マルクを刷り続け、激しい物価上昇を招いているという理由だった。
「あっちの闇市ではもう受け取ってもらえないんです。どうしましょう」
買い出しに行ったフリーダからそう聞かされたエリザベートは、連合国と呼ばれた戦勝国の間に亀裂が入っていることを感じ始めた。せっかく協力して戦争に勝ったのに、共通の敵がいないと人間は国家とはこうも脆いものなのだろうか。
「とにかく家にあるお金を整理して、あっちで使えるものとソ連側のものに分けましょう。ソ連側のものはソ連側で使うしかないわ」
子供たちに書き物をさせていたギゼラが振り返って突然大声で口をはさんだ。
「奥様、ソ連側なんて言い方をしないでください。東側って言ってください。まるで私たちがソ連邦の中の共和国になったみたいな気になります」
すると子供たちまで口を出し始めた。
「僕たちもアレクセイおじちゃんと同じ国の人になるの?」
「また一緒に遊べるかな」
「一緒の国になんてなりませんよ!」
ギゼラはカールを𠮟りつけた。カールはしゅんとしたが、エドゥアルトのほうが泣き出した。本当に繊細な子だ、とエリザベートは不安になった。この子の将来はどうなるのだろう。ギゼラは子供たちをなだめ、抱きしめた。フリーダがこっそりエリザベートに耳打ちした。
「買い物には米軍タバコが一番いいんですよ、奥様。あの方からの差し入れは今後もラッキーストライクでお願いします」
マルタの店の値札も変更した。米軍タバコの率が一番よくて、その次がソ連軍タバコ、ソ連軍発行の配給券、連合国軍マルク、一番下にライヒスマルクだった。ソ連の配給券は意外と信頼があるのだ。
この9月はいろいろなことが立て続けに起こった。まず、ついにジークフリートの官舎に使っていた建物が接収され、住人は追い出されることになった。もともと自分たちも不法占拠に近い状態だったので、エリザベートは文句も言えなかったが、さて問題は行先だった。マルタの父親経営の百貨店は2階から上はほぼ使っていなかったので、しばらくはそこで寝泊まりさせてもらえることになり、荷物を運びこんだ。
「え、じゃあこの奥で寝泊まりしているんですか?」
差し入れを持ってきてくれたレオニードは驚いた様子だった。
「そうなのよ。アレクセイにも伝えておいてもらえる? あっちの家にはもういないからって」
「ドイツ人も住むところがないのに、建物全部接収ですか……気の毒すぎますね。少佐がいればあなた方の部屋だけでも残せたんでしょうけど、残念ですね」
マルタの叔母(父の姉)が亡くなった。彼女は弟が百貨店経営者として成功しても、そこには頼らず昔ながらの商店を続けている人だった。叔母には息子がいたが出征したきり行方不明だった。そしてマルタはなんとその店舗付きの住宅をエリザベートたちに提供してくれたのである。
「私も一人暮らしのフラットが接収されて追い出されたけど、実家に戻ることにしたの。叔母のことは大好きだから、従兄が戻ってくるまであの建物を守りたいの。このご時世、少しでも無人だと誰かが不法占拠するでしょう? だから知ってる人に住んでもらいたいのよ」
「え……そんな、なんてお礼を言ったらいいのか。本当にありがとう」
頭を下げたエリザベートにマルタは舌をペロッと出して言った。
「まあ私もジューコフ少佐とのつながりが欲しいのよ、店の営業にもお目こぼしもいただけそうだし。だからお互いに利益はあるってことで、そんなに遠慮しなくていいわ。またラッキーストライクお願いしといてよ、ね?」
叔母の店舗付き住宅は大通りではない古い商店街にあり、そのせいで接収は免れていた。1階には通りに面して店舗、その奥に客間と倉庫があった。裏通りからも出入りできた。2階は居住スペースになっていて、なんとロフトと屋上があった。屋上があれば小さいとはいえ植物を育てられる! 盗難の恐れもない。7人はたいそう喜んでこの古い住宅に引っ越した。叔母は仕立て屋を営んでいたらしく、生地や糸の在庫がたくさんあった。このさびれた商店街で、叔母は昔からの常連客だけに服を作り続けていたのだ。エリザベートは戦争が始まってすぐ亡くなった祖父と重ねた。完成した服は略奪にあっていたが、ソ連軍も生地などには手をつけていなかった。エリザベートはここからマルタの百貨店に通うことにしていたが、今度はそちらにも問題が出た。倒壊危険のため、退去という命令がくだったのである。
「そっちでお店開かない?」
こうしてエリザベートとマルタは雑貨屋「マルリザ」を開くことになった。これはアレクセイが二人をロシア風に呼んだ愛称をくっつけて造語したものだった。百貨店が取り壊しに合う前に売れそうな商品は倉庫に運び込んだ。何ができそうだろう、「衣服の修理・サイズ直し賜ります」木切れにそう書いて店の前に置いてみた。
エリザベートはこの新しい店舗兼住居のことをアレクセイに伝えなければ、と思い、彼が宿舎にしているホテルに行き伝言を託そうとしたが、守衛をしている兵士に止められた。
「手紙を預かってもらうだけでいいんです」
「いかなるものもお取次ぎできません」
ソ連軍最高司令部にも行ってみたが、同じように断られた。やむなく、時々司令部前の通りに行って、レオニードか出入りする将校に顔を見知った者がいないか探したが、わからなかった。だが、そんなことを何度か繰り返していると二人組のソ連軍将校に声をかけられた。
「お嬢さん、よくここに立っているのを見かけますが、人探しですか?」
将校たちはアレクセイと同じ腕章をしていた。憲兵だ! アレクセイと顔見知りかもしれない。エリザベートはうれしくなり、事情を話そうと思った。
「憲兵の方ですか? 憲兵隊のアレクセイ・ジューコフ少佐を知りませんか? 手紙を渡して欲しいんです」
二人組はにやにやしながら言った。
「うーん、知らないなあ。そんな去って行った男のことは忘れたほうがいいよ、お嬢さん。それより俺らの膝の上なら空いてるよ、どう?」
膝? 何?
「ほら、ラッキーストライクもあるよ、これでどうよ?」
エリザベートはここでようやく相手の意図がわかり、かあっと顔に血が昇った。そして何も言わず走り去った。後ろで笑いながらロシア語でからかう声が聞こえた。アレクセイにもレオニードにも連絡手段がない、このままでは本当に会えなくなってしまう。倒壊危険、と書かれた百貨店建物にはもちろん移転先の住所を書いた張り紙もしていた。いや、アレクセイはそもそもいつ戻ってくるのだろうか。
「なんか西側では兵隊さんとドイツ人がすごく仲良くしてるんです」
買い出しから戻ったフリーダが言った。
「一緒に歩いているとか?」
東側ではソ連軍人とドイツ人が一緒に道を歩くことさえできない。
「歩いてるなんてもんじゃないですよ。腕組んで、肩組んで、往来でもキスして抱き合ってます。軍用ジープにも何人も女乗っけて歓声上げながらガンガン走っているし。なんであっち側はあんなに自由なんでしょうか? 闇市はアメリカ軍の横流し品であふれています」
あとからわかったことだが、1945年10月1日から米軍は自国の兵士とドイツ人との交際禁止令を廃止していた。(訳注:実際には段階的に廃止が進み、米軍兵士とドイツ女性の結婚が許可されるのは1946年12月。日本でもそうであったが、この後数万人のドイツ女性が戦争花嫁としてアメリカへ移民する)
ではこちら側でも交際禁止令が撤廃される日がいつか来るのだろうか。私とアレクセイが並んで道を歩き、カフェに入れる日は来るのだろうか、とエリザベートは考えた。東側ではなんでもこっそりしなければならないのだ。昼間でも家と家の隙間の暗がりなどではソ連軍兵士とドイツ女性が売春の謝礼の交渉をしているのを見かけた。交渉が成立すると瓦礫の中の地下室へ入っていくのである。またある時は瓦礫の中から言い争いも聞こえた。仕方がないじゃない、あなたは帰国命令がくだったのでしょう? 私はロシアへは行けない。お前はそれでいいのかよ、俺とこれっきりでいいのかよ。その程度の気持ちだったのか? だったらどうするのよ。俺はお前と一緒にいたいんだよ……
どんなに命令で縛っても、しょせんは人間なのだ。私はスラブ人を劣等人種の敵と思い込んでいた、ユダヤ人と同様に絶滅させるべき敵だと思い込んでいた。アレクセイもドイツ人を憎んでいたことだろう。それでも私たちは、恋に落ちた。恋なんて、しようと思ってできるものではない、落ちるものなのだ。
このままだと早々に干上がってしまうかもしれないという不安が日々込み上げた。配給品を受け取ったときに、「ナチ女!」という罵声が後ろから聞こえたことがあったが、なんとか後ろを振り返らずにいられた。「ナチス政権で甘い汁を吸っていた人間」という烙印はずっと続いていくのだろう。私は一生元ナチなのだ。
アンネリーゼが時折持ってくるソ連軍のチラシには教員の求人が載っていることがあった。そうだ、私は教員免許を持っていた。公務員になれたら女性でも生きていける。エリザベートは希望を持って願書を送った。早々に書類選考に落ちたという通知が届いた。不合格理由にはナチ党員のため、にチェックが入っていた。私がナチ党員だったことなんて、どうしてわかったのだろう。名簿? 戦時中の名簿は後生大事に保管されて占領軍が見ていると? 政権が崩壊して自由になれたと街で喜んで話している人たちを見かけたことがあった。違う、また別の監視社会が始まっただけなのだ。
