課内のアシスタントの頃は残業することなどほとんどなかったが、部長付きとなって残業することも増えた。
オアシスで勉強する時間は取れないが、なんとかコーヒー一杯だけでもと思い、帰りに立ち寄っている。
結衣が定席につくと、美子さんがにこやかにコーヒーを運んで来てくれる。
「今日も遅かったのね、お疲れさま。
これ、常連さんからの戴き物なの。よかったら食べて」
コーヒーに添えられたちょっと値のはるチョコレートは、コーヒーと共に結衣の疲れた体に染み渡る。
癒される。
やっぱりマスターの淹れるコーヒーは格別だな。
ひとくちずつ、チョコもコーヒーも口の中で存分に味と香りを満喫していく。
ふう、と息を吐くと強張っていた全身の力が抜ける。
慣れない仕事ではないはずなのに、部長付きになった緊張感からか、仕事終わりには新人の頃のような疲労感に毎日襲われていた。結衣の仕事量が増えたとはいえ、アシスタント二名で追いつけない量の仕事を一人でこなしている湊部長の仕事量には到底及ばない。
隣の空席に、部長とあの綺麗な女性とのやりとりを思い出し、あの忙しさのどこにプライベートの「あんな」時間があるのか、ふと疑問に思った。
部長のあのタスク量じゃあ、女性と会う時間もないだろう。
あの時の湊部長の気まずそうな顔を思い出し、無遠慮ながら笑いが込み上げてきた。
チョコレートをもうひとつ口に運んだところにコンコンと外から窓を叩く音がした。
驚いてそちらを見ると、湊部長がいた。
「こないだもこの席だったな」
「はい…」
なぜか部長と向かいあってコーヒーを飲んでいる。
チョコレートとコーヒーの香りで緩みかけていた結衣の緊張は再び張り詰めている。
「邪魔する気はなかったんだが、すまない」
湊部長は小声で囁いた。
結衣は慌てて首を横に振る。
窓の外を見つめる結衣の視線の先に気づいた美子さんに「入ってもらいなさいよ」とせっつかれ、
今こうして部長と一緒にコーヒーを飲んでいる。
部長の前にもご丁寧にチョコレートも添えられたホットコーヒーが出される。
今日は珍しく他に誰もお客さんがいない店内に、ケトルがシューシューと湯を沸かす音だけが鳴っている。
「今日は会社に戻られなくて大丈夫なんですか?」
沈黙に耐えかねて結衣が尋ねた。
「十分働いて今帰りだよ。
田宮さんは俺をどれだけ働かせる気だ?」
「すみません」
フッと吹き出すように湊部長が笑う。
「アシスタントが優秀なおかげで業務スピードが上がって、こうしてコーヒーを飲む余裕もある」
湊部長は冗談まじりに言うと、表情を引き締めて続けた。
「急な配置替えだったけど、遅延もトラブルもなくすすめてくれて、本当に助かってるよ。
ありがとう」
とその綺麗な目尻をさげ、優しく微笑んだ。
湊部長はいつも部下への感謝の言葉や労いを忘れない。
見てもらえてる、役に立ててると思うと、さらにやる気が湧いてくる。
湊部長はコーヒーカップを優雅に口に運ぶ。
「田宮さんは、夜はいつもこの店にいるのか?」
やっぱりうまいな、とコーヒーを味わいながら、部長は結衣をじっと見た。
「毎日じゃないですが、ここで過ごすことが多いです」
結衣も静かにコーヒーを口に含んだ。
仕事の時のようにピリピリしていない湊部長の様子に、結衣の緊張も幾分かほぐれてゆく。
「いい店だな」
「はい。そうなんです。
マスターも奥様もとても良い方で、コーヒーもピカイチなんです。それだけじゃなくて話を聞いてもらったり、奥様からは料理を教えてもらったりして。
お店も、コーヒーも、ご夫婦も大好きなんです」
湊部長は驚いたような顔をしている。
「普段物静かな田宮さんがそこまでいうんだから、本当にいい店なんだな。
確かにコーヒーも絶品だ」
湊部長は残りのコーヒーを飲み干し、結衣に笑いかけた。
結衣はカッと顔が熱くなる。
あがり症で積極的に人前に出られない結衣。
職場でも静かにしていて、大きな声で話すことはない。
「大きな声を出してすみません」
他にお客さんがいなかったのは幸いだったが、マスターも美子さんもクスクス笑っている。
「結衣ちゃん、褒めてくれてありがとう。
もう一杯いかが?
お礼にサービスするわよ。
部長さんもいかがですか?」
美子さんはコーヒーの入ったフラスコをテーブルまで持ってきた。
湊部長は「もう出ますから」と丁寧に二杯目のコーヒーを断ると、ついでだよとまたもや結衣の伝票も支払いを済ませ、店を出て行った。
結衣は遠慮なくもう一杯をいただきながら、空席となった向かいの席を見る。
湊部長のアシスタントについたものの、弥生さんからの指示で動くことがほとんどで、部長と直接やりとりをすることは少ない。
もっと部長の役に立ちたい。
弥生さんに安心して育児してもらいたい。
最近はオアシスでコーヒーを飲んでいても、仕事のことを考えていることが多く、勉強には手をつけられていない。
何かしら資格を身につければ自分に自信がつくかと思って始めた勉強。ゴールも定まっていない勉強より、今は仕事への意欲に溢れていた。
部長はきっとこの前のことを気にしているのだろう。
私は言いふらしたりはしないけど、まだ湊部長からそれだけの信頼を得られていないんだな。
そう思うと結衣は少し切ない気分がした。

