「全部仕事終わっちゃった……」

ヤコブの書斎は、最初の頃とはまったく別の部屋のように整理整頓されていた。

風邪を引いて以来、無理をしてはいけないとヤコブに言われていた。
予定より遅くなったが、書類の仕事は全て終わり、請求書の計算も終わり、ついに屋敷の掃除も完了した。

(最初はヤコブさんにお願いされた仕事だったけど……でもこれがなくなったら……) 
(居場所がなくなってしまうのでは……) 
胸の奥がざわつく。
    
(でも……正直に話さないと……)

───
 
 昼ご飯の時、春香は緊張しながら口を開いた。
「予定より遅くなりましたが、書類の仕事、終わりました」

「ありがとうございます。さすが春香さん」

「あの……最初、この屋敷の書類の仕事をお願いされて居候させてもらったんですが……終わってしまいました」
「なんでもしますので、どうかこの屋敷にいさせてください」

ヤコブはふっと微笑む。
「春香さんは本当に働き者ですから、書類の仕事が終わったなら、ゆっくりしてください」

「えっ……」
優しい声で心が打たれる。
なのに、別の声が蘇る。
 
『お前事務しかできないのか』
『有給とる資格があるのか?』
 
「──!」
思わず息が詰まる。
(ヤコブさんは……過去の人と違う……違うって分かっているのに……仕事しない自分には価値がないと……思ってしまう) 

 
「いえ……仕事は続けます」

「そうですか……では、屋敷の裏に一緒に来てもらいましょうか」

「は、はい」

───

 屋敷の裏手には、小さな鳩舎がある。
ヤコブと一緒に歩く。鳩舎の扉の上は開いていて、鳩たちが自由に行き来できるようになっていた。

「今後、私が長期不在のときがあるかもしれません。その時、鳩たちに餌をあげてほしいのです」

「わかりました。たくさんいますね……」

春香は小屋の中を覗き込む。そこには数羽の鳩が首をすくめ、止まり木に並んでいた。
白や灰色、羽の模様は微妙に違う。首の光沢がキラリと光る子、尾羽に斑点のある子……春香にはどれも同じに見えた。

「こいつがシオン。あっちがモーセ。そして……これがニコラです」

「えっ……全部同じに見えます」

思わず本音を漏らすと、ヤコブは苦笑した。
「違いますよ。ニコラは尾羽の模様が細かい。モーセは首の光沢が強い。シオンは……少し臆病です」

困ったように笑う春香に、ヤコブは肩をすくめた。
「……まあ、私にしか分からないかもしれませんね」

ヤコブが袋を差し出す。
「一度、餌をあげてみますか?」

「は、はい」

とうもろこしをすくい上げた瞬間――
「あっ! 春香さん、早く餌箱に移動を!」
「えっ……」

バサッ。
頭上から羽音が降ってくる。次の瞬間、肩に、腕に、髪の上に……次々と鳩たちが止まり、春香は悲鳴をあげた。

「待って! 待って!? 重いってば!」
必死に身をかがめても、鳩たちは遊ぶかのように寄ってくる。

その様子に、背後から低い笑い声が漏れた。
「……ふっ」

振り返れば、ヤコブが口元を押さえながら肩を揺らしている。
「ヤコブさん!? た、助けてくださいよ!」
「すみません……春香さんがこんなに慌てるのは初めて見ましたので、つい」

ようやく腕を伸ばし、彼はひょいと鳩を払いのけた。
「大丈夫。この子たちは悪気があるわけではありません」

一羽、ニコラと呼ばれた鳩がヤコブの肩に止まる。
彼は自然にその首を撫でる。
「よしよし、今日もよく戻ったな」

その光景に、春香は思わず息を呑んだ。
「……鳩さんたち、ちゃんとヤコブさんを信頼してるんですね」
「まあ、家族みたいなものですから」
 
そして、ゆっくりと続ける。 
「春香さんにはこの鳩達と仲良くしてほしいのです」
 
「………もしかして……それが仕事ですか?」
「えぇ……立派な仕事です」

「春香さんが望むなら、ずっとここにいてください」 
ヤコブは柔らかく目を細める。
 
春香は胸が熱くなった。
(ずっと……仕事しない自分には価値がないと思い込んでいた……でもここに居ていいんだと心から安心できた)
 
春香はゆっくりと心がほぐれていくのを感じた。
 
  

  
──そして、その夜。

 外は土砂降りだった。窓を叩く雨粒が大きな音を立て、稲光が走る。
ヤコブは軍服を羽織りながら春香に言った。

「春香さん、今夜は本部で夜勤です。帰るのは明日の朝になります」
「わかりま──」

ドン、と雷鳴が響いた瞬間、春香は思わず彼の腕にしがみついていた。
「キャッ……!」

「大丈夫ですか?」
「……雷がどうしても苦手で」

制服越しに掴む指先が震えている。
ヤコブは胸の奥に広がる熱を必死に抑えた。

「……すみません。優しいヤコブさんに、つい甘えてしまって……」

ヤコブの喉がかすかに鳴る。
「春香さん……そんなこと言われたら、私……勘違いしてしまいますよ」
 
「……私だって。ヤコブさんの“ビズ”……勘違いしちゃいますよ。この世界じゃ普通の挨拶なんでしょうけど」

ヤコブは静かに首を振り、春香に視線を重ねた。
「……ビズは親しい者と交わすものです。ですが……家族以外では、春香さんにしかしていません」

「えっ……」
「あなたは、ただの同居人ではなく……特別ですから」

ふっと、頬を寄せるヤコブ。
雷鳴よりもずっと近くに感じる吐息に、春香の鼓動は静かに響く。

「……もし、雷が怖いようなら。文通でもしますか?」
「……文通?」
「ええ。伝書鳩で。眠れるまで、やりとりを」

「そんなこと、してもいいんですか」
「大丈夫です。夜勤といっても、待機の時間が長いので」

春香は小さく息をついた。
「じゃあ……私からニコラに手紙を託しますね。返してください」
「ええ。必ず」
 
「行ってきます」
そう言い残し、彼は夜の雨に消えていった。

 
──
 
 霊獣管理協会本部。

「今日は……雷がひどいですね」
窓の外を見ながらマタイがつぶやく。
 
ヤコブは短く「……ああ」と答えると、不安を押し殺しながら筒に手紙を入れ、ニコラの足に結びつける。

「屋敷まで頼むぞ」

──屋敷。

春香は布団に潜り込んでいたが、雷鳴にびくりと体を震わせた。
「ナナ……雷、怖いよ……」

その時、コンコン……と部屋の扉をつつく音。
開けると、筒を足につけたニコラがいた。

「手紙……ありがとう」
彼女は封を開けた。

『あなたのそばにいます。眠れるまで文通しますか?
 ニコラは雨に強いので安心してください』



春香の胸に温かさが広がる。
すぐに返事を書く。

『手紙、とても嬉しいです。雷が少しマシになりました』



手紙は一往復、二往復。
気づけば雷鳴は遠ざかり、春香の瞼も重くなっていた。

──その頃。協会。
  
「手紙が来ないですね……もう寝てしまったかな」

その時、ずぶ濡れのニコラが戻ってきて、ヤコブの頭の上にぴょんと乗る。
「手紙がないという事は彼女は寝ましたか?」
コクリと頷くニコラ。
 
 雨粒をブルブルと振り落とす姿に、思わず笑みが漏れる。
「悪かったな、ニコラ……。今度、とうもろこしをあげるから許してくれ」


──翌朝。

「ごめんなさい……昨日、寝ちゃって」
春香が恥ずかしそうに笑う。
「いいですよ。眠れたようでよかった」

ヤコブはそっと彼女の頬に自分の頬を寄せた。
 
窓の外では、雨上がりの空に一筋の光が差し込んでいた。


続く