──夢の中で、誰かが泣いていた。

「お前のこと、好きだったよ……」
「生まれ変わったら、絶対お前を見つけ出す──」

焼け焦げた大地を背に青年は少女を抱え歩き出す。

 
────
 
 春香25歳は、はっと目を覚ました。
天井の模様がぼんやりと揺れて見える。

「……またこの夢……」
何度も見ている。けれど、誰なのかは思い出せない。
ただ、胸の奥が苦しくなる。

 

 それよりも──現実の方がよほど悪夢だった。

「今日、婚約破棄されたんだっけ……」

 私は7つ年上の課長と5年間付き合っていた。
ずっと尽くしてきた。仕事も恋も。
プロポーズされて、やっと報われると思った。

──「大事な話がある」と呼ばれた夜。

 結婚式の打ち合わせだと思って、お気に入りのワンピースを着てレストランへ向かった。

けれど。

そこにいたのは、課長と……後輩の高橋さん。

「春香、悪い。婚約破棄させてくれ」

「……え?」

「実は……高橋さんの子供ができた」

一瞬で血の気が引く。
耳の奥がジンジンして、目の前の光景がぐらついた。

「は……? ちょっと待って。どういうこと……」

 課長は平然とワインを口に含み、吐き捨てるように言った。

「お前、重いんだよ。仕事でもそうだ。いちいち細かい。俺はもっと若くて愛嬌のある女がいい」

「……っ!」

「正直なところ、お前とはプロポーズしたらもっと好きになれると思った。けど違ったな」

「そんな理由で……」

「そして……高橋さんに子供が出来たと今日俺も知った……俺は彼女を選ぶ」



隣の高橋さんが、わざとらしく私に目をやる。
「すみません、先輩。でも……私の方が課長を支えられると思うんです」


(支える……?)
彼女の言葉に、胃が捻じれる。

この2年、彼女はいつも私に仕事を押し付けてきた。
「先輩、残業お願いします。私、予定があるんで」
「春香さん、細かい処理得意ですよね? じゃあこれお願いしまーす」

その“予定”は、全部……課長との浮気だったんだ。

私は残業して、何度もふらふらになりながらタクシーで帰った。

 彼女は私に笑顔で仕事を押しつけ、
彼は「お前は責任感が強いな」なんて言っていた。


……全部、バカみたいだった。

「ひどいよ……私、5年間……」
「尽くしてきたのに……私の事……影で裏切って……」

課長は目を細め、冷たく言い放った。
「悪いが、もう決めたんだ。俺は高橋さんと結婚する」


「……」

 
 足元が崩れ落ちるような感覚。
涙だけが、勝手に頬を伝っていく。

「──最低」

絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。


 やっとの思いで自宅に着いて、ワインを一気飲みして、そのまま寝てしまった。




───


「……もうやってらんない……」
冷蔵庫を開け、缶チューハイを取り出す。
「お酒買い足してこ……」
 
 夜の街をふらふらと歩きながら、春香はつぶやく。
「飲みすぎたかな……またあの夢も見たし……」

 
──その瞬間、視界の端でライトが光った。

「……はっ!」
キキキキ──ッ!

トラックの急ブレーキ音が響く。 

……と思ったら。

 
「え……ここ、どこ……?」

 
 目の前に広がるのは、石畳の街並み。
尖塔のある城、馬車、そして──空を飛ぶ巨大な影。

「……竜!? え、ちょっと待って……」

呆然と空を見上げる春香。
「これが……異世界転移……!?」

どうしよう……。

服はそのまま、ワンピース姿。
携帯もない。お金もない。

 

 すると──
「お姉ちゃん、何してんの?」

見るからに怪しい男たち3人が声をかけてくる。

「──!」
(言葉はわかるけど……)

「なんでもないです……では……」
「おいおい……そんな足を出したスカートとヒール履いて……お前、娼婦じゃないのか? どこかから逃げたのか?」

「いえいえ……違います!!」

ぐいっと手を引かれ、裏路地へと連れて行かれそうになる。

「助けてください!」

通行人は見て見ぬふり。
「えっ…」
「迷っただけです!助けてください!」

 

「おい! 何をしている!」

男たちは「管理教会のやつだ」「逃げろ!」と叫び、すぐに逃げ出した。

 振り向くと、軍服姿の金髪の男性が真剣な目でこちらを見ていた。
なぜか目が離せない。

「お嬢さん、大丈夫ですか?………あれ……どこかでお会いしたことがありましたか?……」  
ふっと笑う男性。
 

「助けていただいてありがとうございます」

腰には真剣。
バサバサと鳩が舞い降り、彼の肩に止まる。

「鳩…?」

「この伝書バトは、私の霊獣です」

「霊獣!?」
(なにそれ!? ファンタジーだ……)

「私は霊獣『伝書バト』使い、霊獣管理協会の指揮官ヤコブ=アルカディールです」
「あなたの名前は?」

伊藤春香(いとうはるか)です」

「はるか……」
ヤコブは一瞬考えるような顔をして、
「いや、なんでもない……」

「春香さん、ご自宅には戻れますか?」
「……帰る家がないんです……」

「えっ……」


「もしよければ、私の屋敷に来ませんか?」
「その格好では、また変な男どもに声をかけられてしまう……」
「えっ……?そんなにこの服、危ないんですか?」

ヤコブは少し顔を赤らめ、視線をそらす。
「いえ……その……言いにくいのですが……」
「娼婦と同じような格好をされていますので、勘違いされるかと……」

「──!」

 春香は思わず赤面し、自分の身体をぎゅっと手で隠す。
(お気に入りのミニスカートのワンピースがこの世界の娼婦と同じ格好!?)
(えっ……私そんな格好で歩いてたの!?)
(恥ずかしい!)


ヤコブは軍服を脱ぎ、春香の肩にそっとかけてくれた。
「……冷えるでしょう」

そのまま一歩下がり、彼は春香に手を差し出す。
「足元に気をつけて。石畳は歩きにくいので」

「え……」
(手を……差し伸べられてる?)

 
 これまで「早くしろ」「遅い」と乱暴に腕を引かれたことはあっても、
こんなふうに“私の歩幅に合わせてくれる手”を差し出されたのは初めてだった。

胸の奥がじんわり熱くなる。
(……紳士って、こういう人のことを言うんだ……)
 
 恐る恐る手を重ねると、ヤコブはしっかりと支えるように握り返してくれる。
決して強すぎず、けれど確かに守ってくれるような手の温かさに、思わず心が震えた。

「こちらです。ご安心を」
彼はゆっくりと歩き出す。
春香はその背中を見つめながら、ふと笑みがこぼれてしまった。

───
 
 10分ほど歩くと、立派な屋敷に着いた。

「ここが私の屋敷です」
(大きいお屋敷……)

「安心して下さい。私はこの国の防衛している者です。決してあなたに手は出しませんから」 
ハハハと笑う。
 
(この人は信頼できる……なんでだろう……)

  
 屋敷に入ると誰もいない。
2階へ上がり、ある部屋に案内される。

「すみません……服は姉が昔着ていたものしかなく、もう嫁入りして使っていないので、好きにどうぞ」
「私は下の応接間にいますので」
「すみません……」

 
クローゼットを開けると、可愛い服が並んでいた。

「服可愛い……こんなひらひらのスカート着たことない……」

 
───
 
 春香は昔のことを思い出す。

──課長に言われた言葉。

「会社でスカート着るなよ! 浮気する気か?」
「肌露出しすぎ!」 「携帯貸せ」
 

今思うと、モラハラに近かったかもしれない……。

─── 

 着替え終わり、応接間へ向かうとヤコブが紅茶を用意していた。

「お似合いですよ、はるかさん。紅茶どうぞ」
アールグレイの香りがふわっと香る。
 
「はるかさんは、ここから先、行くところがありますか?」

「……いえ……ないです」
「そうですか……」

 
「もし春香さんがよければ、私の屋敷に住みませんか?」
「えっ…!」

「姉も嫁入りし、両親も他界しているので、今は私しか住んでいません。部屋はたくさん余っています」
「えっ……でも、なんか悪すぎます!何かお手伝いします!」

 
 ヤコブは少し悩んだ後──
「では……春香さん、すごく大変なことお願いしてもいいですか?」

(大変なこと……?)
「なんでもやります!!」

ヤコブはさんざん悩んだ末、言った。
「では……こちらに来てくれますか?」

2階のある部屋へ案内される。
「あの……本当に嫌なら断ってくださいね」

微妙な顔をするヤコブ。
(なんでそんな顔をするんだろう)


 扉を開けると、そこは書斎だった。

机の上には、山のような書類が積まれている。
開けた勢いで、紙が何枚かひらひらと舞った。

「……酷い光景でしょう」
ヤコブは一瞬だけ気まずそうに視線を泳がせ、耳の後ろを手を当てる。

「書類管理が苦手でして……」

(紳士で優しくて、仕事出来る人って直感で分かるけど、苦手な事もあるんだ……)



「春香さんに……この書類、まとめてほしいと思ったのですが……」

春香はじっと書類を見つめる。

ヤコブは春香を見て、すぐにまた慌てて目をそらす。

「嫌ですよね……やっぱりすみません……」
「いえ!! 書類管理や経理処理出来ます!」

「えっ…! ケイリ……!?」

「どのように…? いつまでに終わらせれば良いですか?」 
「事件の事情聴取や、災害の損害の請求書などがずいぶん溜まってしまって……ゆっくりで良いのでまとめて欲しくて」
 
「ふふ! 得意中の得意です! この量なら3日で終わります!」
「3ヶ月の間違いでは……」
 
ヤコブはふふと笑う。
「荒れているので、幻滅されるかと思いました……」
(年末の処理に比べればこんな量すぐできちゃうわ! 事務、経理歴5年のOLの経験がやっと生かされるわ!)
「では……春香さんには、この仕事を、他の家事は私がしますから」 
「いやいや……家事くらいできますよ」
 
「いえ……それはあまりにも仕事が多すぎますから」
 
「ヤコブさんに私恩返ししたいんです! 仕事は午前中、家事は午後やりますから」
「いいのですか? 私の屋敷の家事までも……」
「無理はしないでくださいね」


「後は……どうぞついてきてください」
 
「春香さんにはこの部屋を使ってもらいましょう」
部屋は広く、内装は花柄がかかれた女性用の部屋だった。

「可愛い……」
「気に入って頂けましたか? 私は春香さんの部屋に入りませんから、ご安心を」

「ちなみに基本私は一番奥の部屋にいます。何かあれば、呼んでください」

「……ありがとうございます」

 ヤコブは少し視線をそらし、ふっと息をついた。
「夕飯は簡単なものですが、私が用意します。準備ができたら呼びますので、部屋で休んでいてください」

「えっ、でもそんな……」

「いえ。普段は自分で済ませてしまうので、人のために支度するのは……その……」
一瞬、言葉を探してから、彼は照れたように笑った。
「不思議と、春香さんにはしてあげたいと思ったんです」
「……!」


その穏やかな笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……私、特別に思われてる……?)

なぜかほっとできる安心感と、ほんの少しのときめきが、胸の奥に広がっていった。

 そして──婚約破棄され異世界転移したOLの私が、紳士指揮官との共同生活を始めることになった。


続く