明日が提出期限の進路希望調査。帰りのHRを終え、最寄り駅に着いた瞬間、机の中に置きっぱなしだったことを思い出した。駅に流れる電車到着のアナウンスに後ろ髪を引かれながら、僕は重い足取りで学校へ戻る。
学校に戻ると、数分前に脱いだばかりの上履きを手に取り、階段を上っていく。
校庭から届く部活の騒がしさが、廊下に反響する。夕焼けのオレンジ色に染まった廊下を、僕の足音だけが駆け抜けていく。窓の外では運動部の声、遠くの音楽室からはピアノの旋律。それらの音が、放課後の静けさにほどけていく。
そんな“青春の音”に交じって、目的の教室から、聞き慣れた声が届いた。
「私、君のことがずっと──」
放課後の廊下に響く、君の声。いくつもの“青春の音”が混じる中で、それだけが不思議と真っ直ぐ僕の耳に届く。
続く言葉の意味を理解した瞬間、心臓が強く鳴った。聞きたくないのに、耳はその声を拒めなかった。
それでも、僕の足はゆっくりと、目的の教室へ向かっていた。歩を進めるたび、君の声がいっそう鮮明になる。その声は、今まさに目の前の誰かを想う理由を並べていた。
クラスで明るく話すときの声でも、授業で真面目に答えるときの声でもない。それは、照れと羞恥を誤魔化すような、少し震えた声だった。
悪いことをしているような気がして、一歩、一歩、音を殺して歩く。あと数歩。その先には、君が想いを告げようとしている教室の扉があった。
指先が扉に触れかけた、その瞬間。開くはずだった扉が、先に向こうから開いた。
扉の向こうから現れた君が、こちらを見て息を呑む。驚きと戸惑いが入り混じった顔だった。
「あ、あれ……何で──帰ったんじゃなかったの?」
「……進路希望調査の紙を忘れて」
偶然とはいえ、盗み聞きに近いことをしていた後ろめたさに、言葉が喉で止まった。どうにか話題を逸らそうと考える。けれど視線は、君の背後──開け放たれた教室の奥へと吸い寄せられていた。そこにいる“誰か”を、確かめずにはいられなかった。
僕が教室の中を覗こうとした瞬間、君はそっと両手を広げて入口を塞ぐ。その仕草のまま、探るような視線をこちらに向けてくる。
「もしかして……聞いてた?」
その問いが胸の奥を見透かしているようで、思わず首を振った。
「何を?」
嘘をついた。盗み聞きなんて、恥ずかしいことを知られたくなくて。何より、あの言葉を──僕自身、忘れたかったから。
僕の下手な嘘をそのまま受け取って、君は小さく「よかった……」と呟いた。
そんな君の、人を疑わない素直な所。「この会話は終わり!」とでも言いたげに笑う、見惚れてしまうほど可愛い笑顔。僕は、きっと──そんな所に恋をしたんだろう。
けれど、その恋ももう終わった。その事実に、胸を締め付けるような気持ちが溢れる。それでも“友人関係が終わったわけじゃない”──そう自分に言い聞かせる。
「あ! 進路希望調査だったよね。はい、これ」
君はリュックの中からプリントを取り出して、得意げに差し出した。
「机の中に入ってたから、回収しといたよ」
『進路希望調査』と印字されたその用紙には、僕の名前が確かにあった。
「帰りに、君の家に寄らなきゃなーって思ってたんだ。直接渡せてラッキーだったよ」
「どうして、僕の机の中を──」
そう口に出しかけた瞬間、君が笑って僕の手を引いた。急に触れられた君の手は、小さくて、妙に体温が高かった。そんな君の手に触れてしまい気持ちが高鳴る。
教室の中にいるはずの、君の“想い人”。その存在を確かめたくて仕方がないのに、君の手を振りほどけず、僕はそのまま引かれるように歩き出していた。
僕の手を引く、君の小さな背中を見つめながら「男女の友情なんて、成り立たない」──そんな言葉がふと浮かび、ため息が漏れる、好きになった理由なら、いくつも言える。けれど、いつから君を好きになったのか──それだけが思い出せない。
小学校も、中学校も、そして高校も。いつだって君は、昔と変わらず“友達”として隣にいてくれた。そんな君を裏切るように──僕は、君に恋をした。
けれど、こんな不純な想いも今日で終わり。そう思えば、少し滑稽にさえ見えてくる。ずっとそばにいたのに、想いも伝えられず。君の“想い人”が誰なのかさえ、僕は知らない。
「あ、ねえ。明日の放課後ってさ、予定とか……ないよね?」
階段の踊り場で、君が急に振り返る。不意を突かれて、思わず首を傾げた。
「……特にはないけど」
「そうだよね!あー、よかったー。もし“用事あります”とか言われたら、どうしようかと思ったよ」
安堵の息をつく君を見て、さらに首を傾げる。僕に予定があったら、君は何か困ることでもあるのだろうか。
そんな疑問が顔に出たのか、君がふっと笑った。
「まぁまぁ。明日になれば分かるからさ」
君がニカッと笑う。窓から差し込む冬の夕日が、逆光の中でその笑顔を縁取っていた。変わらない君の可愛さに、胸の奥が少し熱くなる。その感情を悟られまいと、僕はそっと気持ちを飲み込んだ。
明日からは、友人として──君の隣に立つ。そう、心の中で小さく決意をする。大事な友人として、君の恋を応援する。
そう心の中で繰り返していたとき、昇降口で君が靴を取り出しながら呟いた。
「明日は休まないでよ?大事な日なんだから」
「分かってるよ。進路希望調査の締め切り日でしょ」
僕の返答に、君が“信じられない”という顔をする。
「明日、何の日か分かってない……の?」
「期末テストは、まだ二、三週間先だし……」
君は大きなため息をつくと、僕の履きかけの靴を蹴り飛ばし、そのまま駆け出した。乱れた靴を揃えながら、結局、外で待っている君の姿を見つけてしまい、ふっと笑ってしまう。
そんな君を見ているうちに、胸の奥に溜まっていた言葉が、ふとこぼれた。
「さっき……教室に居たのは誰なの?」
「教室?」
君は小さく首を傾げた。まるで、本当に心当たりがないかのように。
教室にいた“誰か”を知って、僕はどうするつもりだったのだろう。明日から一緒に帰れなくなるのかな、とか。昼ご飯は、誰と食べればいいんだろう、とか。浮かんでは消えるのは、そんな小さなことばかりだった。
君は傾げていた首を戻すと、僕から見ても分かるほど、頬をみるみる赤く染めていた。その次の瞬間、声がわずかに上ずる。
「やっぱり聞いてたの!?」
「あ、いや──」
一番聞きたかった、君の“好きな人”だけは分からない。開きかけた口はうまく開かず、言葉が喉の奥で止まった。
それでも、と息を整えて言葉を探した。
「まだ、答えはもらってないんだよね?……応援してるよ。誰なのかは、気になるけどさ。上手くいった時にでも、教えてくれたら嬉しい」
上手く笑えているか分からない笑顔を君に向ける。
君は僕を見て、小さく笑い──そして、すぐに大きなため息をついた。
「教室には……誰も、居なかったよ」
その小さな呟きが、胸の奥で響いた。聞き間違いかと、思わず口を開きかけた瞬間、君が言葉を被せてくる。
「ほんと君は昔から……。本番の前にはリハーサルが必要って、常識でしょ?」
君の表情は、どこか吹っ切れたように見えた。
校門へ走り出す君を見て、慌てて靴を履き追い掛ける。校門を曲がる直前で君が立ち止まり、振り返る。そして、珍しく大声で叫んだ。
「明日は、休んだりしないでよー!机の中のチョコ、溶けちゃうんだから!」
顔を真っ赤にした君が、夕焼けの中を駆けていく。視界から消えたその背中を見つめながら、君の言葉が胸に残る。
そして──やっと、思い出した。
「明日……バレンタインか」
明日、僕の机の中には“チョコ”が入っている。きっと、そういうことなんだろう。そして思い出す。あの“リハーサル”の言葉を、僕が何も聞いていないと知り、安堵したように微笑んで「よかった」と言った君を。
そこまで考えた途端、顔が熱くなる。恥ずかしさで、頭の中が一瞬まっ白になった。
立ち止まっていたら、余計な妄想ばかり浮かんでくる。だから僕は、答え合わせをするためにも、夢中で君の背中を追いかけた──。
学校に戻ると、数分前に脱いだばかりの上履きを手に取り、階段を上っていく。
校庭から届く部活の騒がしさが、廊下に反響する。夕焼けのオレンジ色に染まった廊下を、僕の足音だけが駆け抜けていく。窓の外では運動部の声、遠くの音楽室からはピアノの旋律。それらの音が、放課後の静けさにほどけていく。
そんな“青春の音”に交じって、目的の教室から、聞き慣れた声が届いた。
「私、君のことがずっと──」
放課後の廊下に響く、君の声。いくつもの“青春の音”が混じる中で、それだけが不思議と真っ直ぐ僕の耳に届く。
続く言葉の意味を理解した瞬間、心臓が強く鳴った。聞きたくないのに、耳はその声を拒めなかった。
それでも、僕の足はゆっくりと、目的の教室へ向かっていた。歩を進めるたび、君の声がいっそう鮮明になる。その声は、今まさに目の前の誰かを想う理由を並べていた。
クラスで明るく話すときの声でも、授業で真面目に答えるときの声でもない。それは、照れと羞恥を誤魔化すような、少し震えた声だった。
悪いことをしているような気がして、一歩、一歩、音を殺して歩く。あと数歩。その先には、君が想いを告げようとしている教室の扉があった。
指先が扉に触れかけた、その瞬間。開くはずだった扉が、先に向こうから開いた。
扉の向こうから現れた君が、こちらを見て息を呑む。驚きと戸惑いが入り混じった顔だった。
「あ、あれ……何で──帰ったんじゃなかったの?」
「……進路希望調査の紙を忘れて」
偶然とはいえ、盗み聞きに近いことをしていた後ろめたさに、言葉が喉で止まった。どうにか話題を逸らそうと考える。けれど視線は、君の背後──開け放たれた教室の奥へと吸い寄せられていた。そこにいる“誰か”を、確かめずにはいられなかった。
僕が教室の中を覗こうとした瞬間、君はそっと両手を広げて入口を塞ぐ。その仕草のまま、探るような視線をこちらに向けてくる。
「もしかして……聞いてた?」
その問いが胸の奥を見透かしているようで、思わず首を振った。
「何を?」
嘘をついた。盗み聞きなんて、恥ずかしいことを知られたくなくて。何より、あの言葉を──僕自身、忘れたかったから。
僕の下手な嘘をそのまま受け取って、君は小さく「よかった……」と呟いた。
そんな君の、人を疑わない素直な所。「この会話は終わり!」とでも言いたげに笑う、見惚れてしまうほど可愛い笑顔。僕は、きっと──そんな所に恋をしたんだろう。
けれど、その恋ももう終わった。その事実に、胸を締め付けるような気持ちが溢れる。それでも“友人関係が終わったわけじゃない”──そう自分に言い聞かせる。
「あ! 進路希望調査だったよね。はい、これ」
君はリュックの中からプリントを取り出して、得意げに差し出した。
「机の中に入ってたから、回収しといたよ」
『進路希望調査』と印字されたその用紙には、僕の名前が確かにあった。
「帰りに、君の家に寄らなきゃなーって思ってたんだ。直接渡せてラッキーだったよ」
「どうして、僕の机の中を──」
そう口に出しかけた瞬間、君が笑って僕の手を引いた。急に触れられた君の手は、小さくて、妙に体温が高かった。そんな君の手に触れてしまい気持ちが高鳴る。
教室の中にいるはずの、君の“想い人”。その存在を確かめたくて仕方がないのに、君の手を振りほどけず、僕はそのまま引かれるように歩き出していた。
僕の手を引く、君の小さな背中を見つめながら「男女の友情なんて、成り立たない」──そんな言葉がふと浮かび、ため息が漏れる、好きになった理由なら、いくつも言える。けれど、いつから君を好きになったのか──それだけが思い出せない。
小学校も、中学校も、そして高校も。いつだって君は、昔と変わらず“友達”として隣にいてくれた。そんな君を裏切るように──僕は、君に恋をした。
けれど、こんな不純な想いも今日で終わり。そう思えば、少し滑稽にさえ見えてくる。ずっとそばにいたのに、想いも伝えられず。君の“想い人”が誰なのかさえ、僕は知らない。
「あ、ねえ。明日の放課後ってさ、予定とか……ないよね?」
階段の踊り場で、君が急に振り返る。不意を突かれて、思わず首を傾げた。
「……特にはないけど」
「そうだよね!あー、よかったー。もし“用事あります”とか言われたら、どうしようかと思ったよ」
安堵の息をつく君を見て、さらに首を傾げる。僕に予定があったら、君は何か困ることでもあるのだろうか。
そんな疑問が顔に出たのか、君がふっと笑った。
「まぁまぁ。明日になれば分かるからさ」
君がニカッと笑う。窓から差し込む冬の夕日が、逆光の中でその笑顔を縁取っていた。変わらない君の可愛さに、胸の奥が少し熱くなる。その感情を悟られまいと、僕はそっと気持ちを飲み込んだ。
明日からは、友人として──君の隣に立つ。そう、心の中で小さく決意をする。大事な友人として、君の恋を応援する。
そう心の中で繰り返していたとき、昇降口で君が靴を取り出しながら呟いた。
「明日は休まないでよ?大事な日なんだから」
「分かってるよ。進路希望調査の締め切り日でしょ」
僕の返答に、君が“信じられない”という顔をする。
「明日、何の日か分かってない……の?」
「期末テストは、まだ二、三週間先だし……」
君は大きなため息をつくと、僕の履きかけの靴を蹴り飛ばし、そのまま駆け出した。乱れた靴を揃えながら、結局、外で待っている君の姿を見つけてしまい、ふっと笑ってしまう。
そんな君を見ているうちに、胸の奥に溜まっていた言葉が、ふとこぼれた。
「さっき……教室に居たのは誰なの?」
「教室?」
君は小さく首を傾げた。まるで、本当に心当たりがないかのように。
教室にいた“誰か”を知って、僕はどうするつもりだったのだろう。明日から一緒に帰れなくなるのかな、とか。昼ご飯は、誰と食べればいいんだろう、とか。浮かんでは消えるのは、そんな小さなことばかりだった。
君は傾げていた首を戻すと、僕から見ても分かるほど、頬をみるみる赤く染めていた。その次の瞬間、声がわずかに上ずる。
「やっぱり聞いてたの!?」
「あ、いや──」
一番聞きたかった、君の“好きな人”だけは分からない。開きかけた口はうまく開かず、言葉が喉の奥で止まった。
それでも、と息を整えて言葉を探した。
「まだ、答えはもらってないんだよね?……応援してるよ。誰なのかは、気になるけどさ。上手くいった時にでも、教えてくれたら嬉しい」
上手く笑えているか分からない笑顔を君に向ける。
君は僕を見て、小さく笑い──そして、すぐに大きなため息をついた。
「教室には……誰も、居なかったよ」
その小さな呟きが、胸の奥で響いた。聞き間違いかと、思わず口を開きかけた瞬間、君が言葉を被せてくる。
「ほんと君は昔から……。本番の前にはリハーサルが必要って、常識でしょ?」
君の表情は、どこか吹っ切れたように見えた。
校門へ走り出す君を見て、慌てて靴を履き追い掛ける。校門を曲がる直前で君が立ち止まり、振り返る。そして、珍しく大声で叫んだ。
「明日は、休んだりしないでよー!机の中のチョコ、溶けちゃうんだから!」
顔を真っ赤にした君が、夕焼けの中を駆けていく。視界から消えたその背中を見つめながら、君の言葉が胸に残る。
そして──やっと、思い出した。
「明日……バレンタインか」
明日、僕の机の中には“チョコ”が入っている。きっと、そういうことなんだろう。そして思い出す。あの“リハーサル”の言葉を、僕が何も聞いていないと知り、安堵したように微笑んで「よかった」と言った君を。
そこまで考えた途端、顔が熱くなる。恥ずかしさで、頭の中が一瞬まっ白になった。
立ち止まっていたら、余計な妄想ばかり浮かんでくる。だから僕は、答え合わせをするためにも、夢中で君の背中を追いかけた──。
