朝から雲に覆われた空はなんとか曇りを保っていたが、夕方になるととうとう雨粒が落ちてきた。
 最初はぱらぱらと降っていただけの雨が、いよいよ本降りになって、気づけば線状降水帯でも発生しているのかと思うくらいの土砂降りになっていた。

 徐々に強まる雨を尻目に、そのうち止むのではないかという期待を込めてしばらく残業をしていたのだが、残念ながら未だ雨が上がる気配はない。
 でもこれ以上帰りが遅くなるのは辛い。
 濡れるのを覚悟で帰ろう、そう決意したとき、「すみません」と声をかけられた。
 
 慌てて振り返り、朝と同じ光景に息を呑む。
 朝と寸分違わずスーツをきっちり着こなした鷺沼が立っていた。むこうも美咲に気づいたのだろう。口元を少し引き上げた。

「きみもよく働くな」

 そう声をかけられて、慌ててカウンターへ向かう。

「総務部は今が一番忙しい時期ですから。鷺沼課長みたいに一年中忙しいわけではないんですよ」
「そうか」
「鍵ですか?」
「いや、その……」

 そう尋ねると、言いづらそうに顔を背けた。
 朝貸した鍵は、おそらく彼の部下によってとっくに戻ってきている。

「借りられる傘がないかと思って」
「ああ……」

 社内に忘れられていた傘は、引き取り手がないものはストックして誰でも使えるように置き傘にしていた。扉近くの傘立てを見るが、一本も残っていない。
 鷺沼は美咲の視線につられるように傘立てを見て「出払っているようだな」と苦笑を浮かべた。

「すみません」
「いや、大丈夫だ」

 すまない、と言って総務部を出て行こうとする鷺沼を、美咲はとっさに呼び止めた。
 自席に戻り、立てかけておいた傘を持ってカウンターの外へ出た。シンプルな、青い傘にしておいて良かった。家には花柄の傘もあるのだが、主に休日使用していた。

「よろしければお使いください」
「しかし」

 差し出した傘と、美咲の顔を鷺沼は戸惑ったように見比べている。

「私には、置き傘もあるので」

 もう一押しすると、鷺沼は「ではお言葉に甘えて……」と傘を受け取った。美咲の体からほっと力が抜ける。

「ありがとう。その、朝から色々と」
「いえ。遅くまでお疲れ様です」
「君もな。雨、さらに強まるらしいから早く帰ったほうがいい」
「そうなんですね。わかりました、そうします」

 総務部を出ていく鷺沼を見送る。
 確かに、このわずか数分の間にも雨はいっそう強くなり、窓に打ちつけていた。