侯爵さまは、繋いでいる私の手を強く握った。それから、少しだけ俯いて深く息を吐き出した。
長い沈黙。
私には侯爵さまのその姿が、落胆しているように見えた。
(やっぱり侯爵さまは、シエナお姉さまとの婚姻を望んでいたんだわ……)
私も視線を下に落とす。
やはり、クローゼットには荷物を片付けておかなくてよかった。またトランクひとつを手にするだけで、マディラに戻ることができるから。お母さまにはきっと、色々と言われるだろう。でも、それでも、この人を騙すような真似をして婚姻を結ぶなんてことは、私にはできない。
「侯爵さま」
この静寂を壊してしまわないように、そっと言葉を紡ぐ。
私はその場にしゃがみ込み、侯爵さまの顔を覗き込んだ。
「早くお伝えせずに、申し訳ありませんでした。私は、明日にでもマディラに帰って――」
そう言いながら、侯爵さまの手を解こうとしたときだ。その手を勢いよく引かれ、体が温かい何かに包まれる。
目の前に、月明かりで反射する、アイオライトの宝石がついたループタイあって、初めて侯爵さまに抱き締められているのだと気付いた。
「こ、侯爵さま……?」
自分の声には、自分でも分かるほどの困惑が滲んでいた。
侯爵さまのその胸を押し返そうとすれば、比例するように腕に力を込められる。
「間違っていない」
低い声が、私の耳元で囁かれた。その言葉に、体が固まる。
「僕は、最初から君がここに来てくれることを望んで、手紙をアヴィントン家に出した」
「……最初から?」
「ああ、そうだよ。僕が望んだのは、シエナ嬢じゃない。君なんだ、ヴィオレッタ」
少しだけ体が離される。侯爵さまが私の頬を両手で包むように触れた。
真っ直ぐな目が、私を見ている。
侯爵さまの唇が、お姉さまの名前を紡いだ。私は小さく息を飲む。
「お姉さまのお名前、ご存知だったんですか……?」
「長男がジャックで、長女がシエナ。そして、末娘の君が、ヴィオレッタ。手紙を出す前から、ちゃんと知ってる」
頭が混乱する。
シエナお姉さまだけではなく、ジャックお兄さまの名前まで知っていることにも驚いたが、私のことまで知っていたと言ったのだ。
侯爵さまの瞳に、困惑した顔をした情けない私が映っていた。
「で、でも……どうして?」
なぜ、侯爵さまは『ご令嬢さま』などと書いて、アビントン家に手紙をよこしたのだろう。
「そうならば、最初から、私の名前を手紙に書いてくだされば……」
「それは、できなかった」
侯爵さまの親指が、そっと優しく私の頬を撫でた。暗がりの中、侯爵さまの目が少しだけ苦しそうに細められる。
「……それを、今、ヴィオには説明できない。すまない」
「……」
私は、ただ微かに首を傾げることしかできなかった。
「けれど、僕が望んでいたのは、本当に君だ。そこに間違いはない。どうか、信じてほしい」
少しだけ、侯爵さまの息が震えている。
「必ず、時が来たら説明するから」
私は思考を巡らせる。
私を迎えることで、アビントン家をどうにかできるとも思えない。ましてや、テイラー侯爵家に対して何か利益をもたらすことのできる存在でもない。
それに……今も、真っ直ぐに逸らされることなく私を見つめてくれる、侯爵さまのその瞳が嘘をついていたり、悪いことを考えているとは、とても思えなかった。
「今日はもう遅いから、休もう」
侯爵さまは、そう言うともう一度私の手を取り、自分が椅子から立ち上がるのと一緒に私を立ち上がらせた。
「ヴィオの満足いく答えではなかったかもしれない」
「でも」と、侯爵さまは続けて、私の髪を指で梳くように撫でる。
「君は、ここにいていい。だから、少しでもよく眠れることを願っているよ」
ふっと侯爵さまが目元を和らげる。
その微笑みは、とても優しくて、温かくて、私は少しだけ呼吸を忘れてしまいそうになった。
「おやすみ。ヴィオレッタ」
侯爵さまが、私の前髪を指先でかき分ける。ほんの少しだけ侯爵さまは顔を近付けてから、思い直したようにもう一度離れた。
そしてそっと指の腹で、額を軽く撫でられる。その温もりに、手に垂れた桃の果汁を拭いてくれた侯爵さまを思い出した。
(あのときも、今も……)
侯爵さまは、私が感じたことのない優しさを与えてくれる。
「おやすみなさいませ、侯爵さま……」
私は加速する鼓動を抑えるように胸に手を当てて、小さくそう返すことしかできなかった。
長い沈黙。
私には侯爵さまのその姿が、落胆しているように見えた。
(やっぱり侯爵さまは、シエナお姉さまとの婚姻を望んでいたんだわ……)
私も視線を下に落とす。
やはり、クローゼットには荷物を片付けておかなくてよかった。またトランクひとつを手にするだけで、マディラに戻ることができるから。お母さまにはきっと、色々と言われるだろう。でも、それでも、この人を騙すような真似をして婚姻を結ぶなんてことは、私にはできない。
「侯爵さま」
この静寂を壊してしまわないように、そっと言葉を紡ぐ。
私はその場にしゃがみ込み、侯爵さまの顔を覗き込んだ。
「早くお伝えせずに、申し訳ありませんでした。私は、明日にでもマディラに帰って――」
そう言いながら、侯爵さまの手を解こうとしたときだ。その手を勢いよく引かれ、体が温かい何かに包まれる。
目の前に、月明かりで反射する、アイオライトの宝石がついたループタイあって、初めて侯爵さまに抱き締められているのだと気付いた。
「こ、侯爵さま……?」
自分の声には、自分でも分かるほどの困惑が滲んでいた。
侯爵さまのその胸を押し返そうとすれば、比例するように腕に力を込められる。
「間違っていない」
低い声が、私の耳元で囁かれた。その言葉に、体が固まる。
「僕は、最初から君がここに来てくれることを望んで、手紙をアヴィントン家に出した」
「……最初から?」
「ああ、そうだよ。僕が望んだのは、シエナ嬢じゃない。君なんだ、ヴィオレッタ」
少しだけ体が離される。侯爵さまが私の頬を両手で包むように触れた。
真っ直ぐな目が、私を見ている。
侯爵さまの唇が、お姉さまの名前を紡いだ。私は小さく息を飲む。
「お姉さまのお名前、ご存知だったんですか……?」
「長男がジャックで、長女がシエナ。そして、末娘の君が、ヴィオレッタ。手紙を出す前から、ちゃんと知ってる」
頭が混乱する。
シエナお姉さまだけではなく、ジャックお兄さまの名前まで知っていることにも驚いたが、私のことまで知っていたと言ったのだ。
侯爵さまの瞳に、困惑した顔をした情けない私が映っていた。
「で、でも……どうして?」
なぜ、侯爵さまは『ご令嬢さま』などと書いて、アビントン家に手紙をよこしたのだろう。
「そうならば、最初から、私の名前を手紙に書いてくだされば……」
「それは、できなかった」
侯爵さまの親指が、そっと優しく私の頬を撫でた。暗がりの中、侯爵さまの目が少しだけ苦しそうに細められる。
「……それを、今、ヴィオには説明できない。すまない」
「……」
私は、ただ微かに首を傾げることしかできなかった。
「けれど、僕が望んでいたのは、本当に君だ。そこに間違いはない。どうか、信じてほしい」
少しだけ、侯爵さまの息が震えている。
「必ず、時が来たら説明するから」
私は思考を巡らせる。
私を迎えることで、アビントン家をどうにかできるとも思えない。ましてや、テイラー侯爵家に対して何か利益をもたらすことのできる存在でもない。
それに……今も、真っ直ぐに逸らされることなく私を見つめてくれる、侯爵さまのその瞳が嘘をついていたり、悪いことを考えているとは、とても思えなかった。
「今日はもう遅いから、休もう」
侯爵さまは、そう言うともう一度私の手を取り、自分が椅子から立ち上がるのと一緒に私を立ち上がらせた。
「ヴィオの満足いく答えではなかったかもしれない」
「でも」と、侯爵さまは続けて、私の髪を指で梳くように撫でる。
「君は、ここにいていい。だから、少しでもよく眠れることを願っているよ」
ふっと侯爵さまが目元を和らげる。
その微笑みは、とても優しくて、温かくて、私は少しだけ呼吸を忘れてしまいそうになった。
「おやすみ。ヴィオレッタ」
侯爵さまが、私の前髪を指先でかき分ける。ほんの少しだけ侯爵さまは顔を近付けてから、思い直したようにもう一度離れた。
そしてそっと指の腹で、額を軽く撫でられる。その温もりに、手に垂れた桃の果汁を拭いてくれた侯爵さまを思い出した。
(あのときも、今も……)
侯爵さまは、私が感じたことのない優しさを与えてくれる。
「おやすみなさいませ、侯爵さま……」
私は加速する鼓動を抑えるように胸に手を当てて、小さくそう返すことしかできなかった。



