その日、風が少しだけ冷たかった。
夕暮れの街はオレンジと群青のあいだで揺れていて、どこか現実がぼやけて見えた。
人の流れの中、私はひとり、本を抱えて歩いていた。
タイトルは――『シャーロック・ホームズの冒険』。
ページをめくる指先が少し震えていたのは、寒さのせいか、それとも、ホームズが放つ推理の光に胸が高鳴っていたからか。
ホームズの世界に行けたら。
あの霧のロンドンを歩いてみたい。
彼の声を、この耳で聞いてみたい――。
そんなあり得ない妄想を、本気で願ったのは、この時が初めてだった。
交差点の信号は赤に変わろうとしていた。
けれど、私は気づかずにページの続きを追っていた。
“観察こそが真実を導く鍵だ”
その一文に目を奪われた瞬間、
世界が、音を立てて反転した。
光。
衝撃。
そして、静寂。
風の音も、人の声も消えた。
ただ、遠くで鐘の音がした気がした。
どこかの国の、古い午後のような、懐かしい響きだった。
次に目を開けたとき、
私は――十九世紀のロンドンにいた。
煙の匂い。
馬のいななき。
重たい空気。
見知らぬ街で、見知らぬ時代で、見知らぬ自分の鼓動だけがやけに生々しかった。
どうしてここにいるのかもわからない。
けど、胸の奥が確かに震えていた。
これは“夢”じゃない――そんな予感があった。
そしてあの日、
私は彼に出会った。
冷たい灰色の瞳をした名探偵。
"シャーロック・ホームズ"
彼との出会いが、私の世界を塗り替えていく。
まるで霧の中に差す光のように、静かに――。



