早川さんは年齢も入社時期も一年先の先輩だった。だけど部署内の昇進試験に合格したタイミングが同じということもあって、私の中では先輩であり、同期のような存在でもあった。
仕事をしていく中で、ふと自分の立ち位置が分からなくなる瞬間がある。そんな時、思い浮かべるのは早川さんの存在だった。揺らぎの多い私とは違い、緩やかに淡々と進んでいくその背中は、時に指標となり、私の足を地につけてくれることもあった。
どこかでライバル視する気持ちもあったと思う。早川さんの前では、少し見栄を張ってしまう自分がいた。
そんな私に、早川さんはこう言うのだ。
「真中さんはすごいなぁ」
顎に指をかけ、心から関心した様子で。それは私に限ったことではなく、早川さんは人のことをよく褒めた。そこに、お世辞や嘘がない人だった。
早川さんに褒められると素直に嬉しくて、同時に気持ちがわずかに陰る。この人には勝てないのだろうな、と思ってしまう。
早川さんのことを別に聖人だとか神聖化しているわけではない。
彼の性格は確実に穏やかな部類には入るだろうけど、優しい人かと聞かれれば、少し違っていたから。
例えば、早川さんの目の前にひどく落ちこんでいる人がいても、彼はそこまで親身に関わるようなことはしない。そもそも、そうするまでもなく相手のほうから話しかけてくるのだけど、早川さん自身はそういった他人の感情の浮き沈みに関して、そこまで大げさに捉えることはしないようだった。
冷たいわけではないけれど、他人に関心があるのか、ないのか。柔和な雰囲気とは裏腹に、思考を読みとりづらいところがある人でもあった。
それでも、早川さんは周囲から好かれていた。安心するのだ。凍えるような真冬の深夜に、一軒だけひっそりと営業している喫茶店を見つけたかのように、彼を見ると自然と足が向いてしまう。
そして気が付けば自身の弱音や愚痴、プライベートの悩みや報告など、心の内をさらけ出している。
早川さんは困ったような笑みを浮かべながら相づちを打つ。前のめりに話を聞くでも、悩みに特別な解決法を提示するでもない。それでも、彼と話した人はどこか晴れやかな顔になって、また仕事に戻って行く。
そういった様子を、隣のデスクでたくさん見てきた。
印象に残っている出来事がある。些細なことだ。
その日、普段から小言の多い赤木先輩が、早川さんのデスクの横を陣取っていた。
赤木先輩の話し方には耳にまとわりつくような執拗さがあって、私は少し苦手だった。だから、極力会話に巻き込まれないよう、休憩時間にも関わらず仕事にのめり込む体をとっていた。
二十分ほどで満足したのか、赤木先輩は満足したように去っていった。曲げっぱなしで軋む背中を伸ばすと、同時に隣からも椅子の背もたれに身体を預ける気配があった。小さく息が吐かれる。
「…愚痴しか言わん」
ぽつりと、独りごちるように。
それは、いつも誰かの話を受け止めるばかりだった早川さんが零した、小さな愚痴だった。
私と目が合うと、早川さんは片眉を上げ、やっぱり少し困ったような顔で笑った。
その顔が、なんとなく印象に残っていた。
