この気持ちは生まれてすらいない



沈黙する電話の向こう側で、震える息遣いが聞こえている。


夜になって折り返し連絡をくれた加野君は、まさにあの現場に居合わせていたという。何度も言葉を詰まらせては黙りこむその様子に、どうしようもなく嫌な予感が増していく。


動悸が激しい。息をするのも苦しくなって、シャツの胸を握りしめた。



「…誰が、亡くなったの?」



耐えきれなくなり、結論を促した。聞かずにはいられなかった。

意識不明の従業員が搬送先の病院で亡くなったことは、夕方のニュース速報ですでに知っていた。それが、誰なのか。

長い沈黙のあとに、ようやく答えが返ってきた。



「…早川さんです」



――――――ああ。


すとんと、幕を落としたように。目の前の色が消えた。
スマホを持つ指の力が抜けていく。


数時間前。早川さんに送ったLINEは、今も返事がないままだった。

だけど、こんな事があったのだから、社内の対応に追われていてきっと返信どころではないのだと思っていた。

そう、思いたかった。




「早川さん、昼休憩に松村くんと一緒に出ていくところだったんです。俺、後ろ歩いてて」

「そしたら、正面からものすごいスピードで車が突っ込んできて」

「そのまま、早川さん…」




涙混じりのくぐもった声が、段々と遠のいていく。加野君の声を遠くに聞きながら、私はどこかぼんやりした頭で早川さんの記憶を手繰り寄せていた。


トン、トン、と人差し指でデスクを叩く音。

考え事をする時に、早川さんはよくそうした。

パソコンに向かう背中はやや猫背で、彼の手の届く範囲にはいつもチョコレート菓子が口を開いた状態で置かれていた。

トロンボーンのように低音で柔らかく響くその声は、耳心地がよかった。


あの凄惨な現場が脳裏にフラッシュバックする。



(…本当に?)



どうしても、その光景が早川さんと結びつかなかった。

だって、似合わない。彼はこんな目に遭うような人じゃない。