陽向先生side――。
「(橘さんって、やっぱり面白い人だな。)」
夜勤明けのナースステーションを出て、廊下に一人残った陽向碧は、小さくつぶやいた。
真面目で、冷静で、いつも周囲に流されない。
でも――ときどき、あの穏やかな瞳の奥に、誰にも見せない火が灯る。
叱られたのに、不思議と心地よかった。
誰かにあんなふうに真っすぐ言われたのは、いつ以来だろう。
「(……ああいう人、いいな。)」
そう思った瞬間から、橘結衣のことが頭から離れなくなった。
翌日。
いつも通りの朝の申し送り。
看護師たちの軽快な声が飛び交う中、陽向はカルテを片手に病棟を巡っていた。
ふと視線を上げると、ナースステーションの奥で結衣が黙々とデータを打ち込んでいるのが見えた。
髪を耳にかけ、集中しているその横顔。
少しの隙もないように見えて、それがまた惹きつけられる。
「おはようございます、橘さん。」
声をかけると、彼女は軽く振り向き、いつもの落ち着いた声で返す。
「おはようございます、陽向先生。」
たったそれだけ。
けれど、その短い会話が妙に嬉しかった。
彼女が自分の名前を呼ぶたびに、胸の奥で小さな火が灯る。
「……あれ?橘さん、朝から真面目モード?」
軽口を叩いてみる。反応が見たかった。
結衣は少し眉を寄せて、ため息をひとつ。
「…いつも真面目ですけど。」
「へえ?僕の知ってる橘さんは、もうちょっとクールなイメージだけどな。」
「それ、褒めてるんですか?」
「もちろん。……でも、そのクールさが崩れるとこ、見たくなる。」
その瞬間、結衣の手が止まった。
キーボードを打つ指先がほんの一瞬だけ揺れる。
――あ、動揺してる。
「……っ、何ですかそれ。」
「本音。」
軽く笑いながらカルテに視線を戻すふりをした。
彼女がうっすら頬を染めているのを、見逃さないように。
それから数日。
結衣は相変わらず冷静だった。
でも、時々こちらの冗談に少しだけ頬が緩むこともあった。。
それが妙に嬉しくて、つい話しかける回数が増える。
気づけば、彼女の笑顔を引き出すことが、毎日のちいさな目標になっていた。
昼休み。
廊下を歩いていた結衣の前に、突然、紙コップが差し出された。
「はい。ミルクティー、糖分補給。」
「……どうして私に?」
「昨日、夜勤明けで顔色悪かったから。ちょっと休憩しなよ。」
「陽向先生、"意外と"気が利く人なんですね。」
「“意外と”って何。」
「だって、患者さんには“爽やかドクター”なのに、私にはちょっと意地悪ですから。」
その言葉に、陽向は思わず口角を上げる。
「だって、橘さんには“爽やか”じゃ通じなさそうだから。」
「……どういう意味ですか?」
「そのまんま。君には、少し意地悪なくらいがちょうどいい気がする。」
「……っ!」
彼女は視線を逸らし、ミルクティーを両手で包み込んだ。
カップの向こうで、頬がほんのり赤く染まっている。
(ああ、ずっと見ていたい――。)
その日の午後、回診中。
ナースステーションに戻ると、柚希が陽向の前に飛び出してきた。
「陽向先生~!さっき橘さんが、すっごく真剣な顔で患者さんに対応してて、もう“できる女”って感じでした!」
「へぇ。橘さん、優しいとこあるよね。」
「そうそう!でも先生、橘さんと話す時だけ声が柔らかいですよね~?」
「……気のせいだよ。」
笑って誤魔化すが、胸の奥が少しざわつく。
――気づかれてる。
看護師たちは勘が鋭い。
けれど、それを気にするよりも、結衣の存在が自分の中でどんどん大きくなっていくことの方が怖かった。
数日前の夜勤。
窓の外では、雨が静かに降っていた。
当直室で書類を整理していると、ナースコールの音が鳴り響く。
「――302号室、急患です!」
柚希の声。
すぐに走り出した。
病室の中では、結衣が患者の脈をとり、落ち着いた声で指示を飛ばしている。
「柚希!酸素確認!……陽向先生、腹部圧痛強いです!バイタル86の32、レート120です!!」
その真剣な声に、胸が強く打った。
(この人、本当にすごいな。)
冷静で、的確で、誰よりも患者を見ている。
急変はなんとか乗り切り、処置が終わる頃には、時計は午前3時を指していた。
片付けのあと、立ち話をしながら、ナースステーションに戻ると、結衣がそっと声をかけてきた。
「……でも、陽向先生、電話出るの遅かったですよね。
他の病棟で何かあったんですか?」
少し低い声。
叱られると分かっていても、どこか嬉しかった。
「ああ、ごめん。ちょっと仮眠室で寝落ちしてて……気づかなかったんだ。」
「……寝落ち?」
眉がピクリと動く。
「陽向先生、お疲れなのはわかりますけど、いつ急変してもおかしくない患者さんもいるんです。
当直の間は、気を引き締めてくださいね。」
真っすぐな瞳で言われ、胸が熱くなる。
「……うん。ごめんね。橘さんにも迷惑かけた。」
「いえ、……仕事ですので。」
言葉は冷たいのに、その声の端がかすかに震えている。
思わず、手が動いた。
「――あ、ちょっと待って。」
軽く腕を掴む。
「……な、何ですか?」
「橘さんがいてくれて助かった。本当に、ありがとう。」
触れた腕から、体温が伝わる。
ほんの一瞬なのに、世界が止まったように感じた。
彼女はすぐに手を振りほどき、視線を逸らす。
「いえ……お疲れ様でした。」
それだけ言って、背を向けた。
(……かわいいな。)
小さく笑って、陽向は自分の胸の鼓動を抑えようと深呼吸した。
翌朝――。
夜勤明けの休憩室。
柚希と結衣の笑い声がかすかに聞こえてくる。
「――陽向先生ってさ、なんか天然っぽいよね。」
「そうかもね。」
「でもあの笑顔、反則じゃない?つい許しちゃう感じ。」
「はは……そうかもね。」
(許されてる……?)
扉の外で立ち止まり、苦笑する。
扉を開けて入るのはやめた。
それ以上、聞いてしまうと、自分の気持ちが抑えられなくなりそうだった。
春の午後。
外来での診察を終えて、ふと休憩室の窓から外を眺めた。
桜が散り始めている。
淡い花びらが、風に乗って舞っていた。
(橘さん、今、どこにいるかな。)
そんなことを考えている自分に気づいて、思わず笑った。
「――ははっ、重症だな。」
恋なんて、もっと軽くて楽しいものだと思っていた。
でも彼女を思うたびに、胸の奥が痛くなる。
ただ笑ってほしい。
それだけなのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
夕方、偶然、エレベーター前で結衣とすれ違った。
彼女はカルテを抱えていて、少し疲れた顔をしていた。
「お疲れさま、橘さん。」
「陽向先生も。……まだ残ってるんですか?」
「うん、外来の記録が少し。君は?」
「病棟の整理が残ってて。」
「頑張るね。」
「仕事ですから。」
それだけ言って、彼女は歩き出した。
その背中に、思わず声をかけた。
「――橘さん。」
彼女が振り向く。
「……何ですか?」
「君のそういう真面目なとこ、すごく良いと思う。」
言った瞬間、結衣の目が大きく見開かれる。
そして、すぐに視線を逸らして、
「……え、あ、どうも?」と小さく呟き、エレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まる。
残された陽向は、額に手を当てて小さく笑った。
「(ああ、やっぱり……好きだな、俺。)」
「(橘さんって、やっぱり面白い人だな。)」
夜勤明けのナースステーションを出て、廊下に一人残った陽向碧は、小さくつぶやいた。
真面目で、冷静で、いつも周囲に流されない。
でも――ときどき、あの穏やかな瞳の奥に、誰にも見せない火が灯る。
叱られたのに、不思議と心地よかった。
誰かにあんなふうに真っすぐ言われたのは、いつ以来だろう。
「(……ああいう人、いいな。)」
そう思った瞬間から、橘結衣のことが頭から離れなくなった。
翌日。
いつも通りの朝の申し送り。
看護師たちの軽快な声が飛び交う中、陽向はカルテを片手に病棟を巡っていた。
ふと視線を上げると、ナースステーションの奥で結衣が黙々とデータを打ち込んでいるのが見えた。
髪を耳にかけ、集中しているその横顔。
少しの隙もないように見えて、それがまた惹きつけられる。
「おはようございます、橘さん。」
声をかけると、彼女は軽く振り向き、いつもの落ち着いた声で返す。
「おはようございます、陽向先生。」
たったそれだけ。
けれど、その短い会話が妙に嬉しかった。
彼女が自分の名前を呼ぶたびに、胸の奥で小さな火が灯る。
「……あれ?橘さん、朝から真面目モード?」
軽口を叩いてみる。反応が見たかった。
結衣は少し眉を寄せて、ため息をひとつ。
「…いつも真面目ですけど。」
「へえ?僕の知ってる橘さんは、もうちょっとクールなイメージだけどな。」
「それ、褒めてるんですか?」
「もちろん。……でも、そのクールさが崩れるとこ、見たくなる。」
その瞬間、結衣の手が止まった。
キーボードを打つ指先がほんの一瞬だけ揺れる。
――あ、動揺してる。
「……っ、何ですかそれ。」
「本音。」
軽く笑いながらカルテに視線を戻すふりをした。
彼女がうっすら頬を染めているのを、見逃さないように。
それから数日。
結衣は相変わらず冷静だった。
でも、時々こちらの冗談に少しだけ頬が緩むこともあった。。
それが妙に嬉しくて、つい話しかける回数が増える。
気づけば、彼女の笑顔を引き出すことが、毎日のちいさな目標になっていた。
昼休み。
廊下を歩いていた結衣の前に、突然、紙コップが差し出された。
「はい。ミルクティー、糖分補給。」
「……どうして私に?」
「昨日、夜勤明けで顔色悪かったから。ちょっと休憩しなよ。」
「陽向先生、"意外と"気が利く人なんですね。」
「“意外と”って何。」
「だって、患者さんには“爽やかドクター”なのに、私にはちょっと意地悪ですから。」
その言葉に、陽向は思わず口角を上げる。
「だって、橘さんには“爽やか”じゃ通じなさそうだから。」
「……どういう意味ですか?」
「そのまんま。君には、少し意地悪なくらいがちょうどいい気がする。」
「……っ!」
彼女は視線を逸らし、ミルクティーを両手で包み込んだ。
カップの向こうで、頬がほんのり赤く染まっている。
(ああ、ずっと見ていたい――。)
その日の午後、回診中。
ナースステーションに戻ると、柚希が陽向の前に飛び出してきた。
「陽向先生~!さっき橘さんが、すっごく真剣な顔で患者さんに対応してて、もう“できる女”って感じでした!」
「へぇ。橘さん、優しいとこあるよね。」
「そうそう!でも先生、橘さんと話す時だけ声が柔らかいですよね~?」
「……気のせいだよ。」
笑って誤魔化すが、胸の奥が少しざわつく。
――気づかれてる。
看護師たちは勘が鋭い。
けれど、それを気にするよりも、結衣の存在が自分の中でどんどん大きくなっていくことの方が怖かった。
数日前の夜勤。
窓の外では、雨が静かに降っていた。
当直室で書類を整理していると、ナースコールの音が鳴り響く。
「――302号室、急患です!」
柚希の声。
すぐに走り出した。
病室の中では、結衣が患者の脈をとり、落ち着いた声で指示を飛ばしている。
「柚希!酸素確認!……陽向先生、腹部圧痛強いです!バイタル86の32、レート120です!!」
その真剣な声に、胸が強く打った。
(この人、本当にすごいな。)
冷静で、的確で、誰よりも患者を見ている。
急変はなんとか乗り切り、処置が終わる頃には、時計は午前3時を指していた。
片付けのあと、立ち話をしながら、ナースステーションに戻ると、結衣がそっと声をかけてきた。
「……でも、陽向先生、電話出るの遅かったですよね。
他の病棟で何かあったんですか?」
少し低い声。
叱られると分かっていても、どこか嬉しかった。
「ああ、ごめん。ちょっと仮眠室で寝落ちしてて……気づかなかったんだ。」
「……寝落ち?」
眉がピクリと動く。
「陽向先生、お疲れなのはわかりますけど、いつ急変してもおかしくない患者さんもいるんです。
当直の間は、気を引き締めてくださいね。」
真っすぐな瞳で言われ、胸が熱くなる。
「……うん。ごめんね。橘さんにも迷惑かけた。」
「いえ、……仕事ですので。」
言葉は冷たいのに、その声の端がかすかに震えている。
思わず、手が動いた。
「――あ、ちょっと待って。」
軽く腕を掴む。
「……な、何ですか?」
「橘さんがいてくれて助かった。本当に、ありがとう。」
触れた腕から、体温が伝わる。
ほんの一瞬なのに、世界が止まったように感じた。
彼女はすぐに手を振りほどき、視線を逸らす。
「いえ……お疲れ様でした。」
それだけ言って、背を向けた。
(……かわいいな。)
小さく笑って、陽向は自分の胸の鼓動を抑えようと深呼吸した。
翌朝――。
夜勤明けの休憩室。
柚希と結衣の笑い声がかすかに聞こえてくる。
「――陽向先生ってさ、なんか天然っぽいよね。」
「そうかもね。」
「でもあの笑顔、反則じゃない?つい許しちゃう感じ。」
「はは……そうかもね。」
(許されてる……?)
扉の外で立ち止まり、苦笑する。
扉を開けて入るのはやめた。
それ以上、聞いてしまうと、自分の気持ちが抑えられなくなりそうだった。
春の午後。
外来での診察を終えて、ふと休憩室の窓から外を眺めた。
桜が散り始めている。
淡い花びらが、風に乗って舞っていた。
(橘さん、今、どこにいるかな。)
そんなことを考えている自分に気づいて、思わず笑った。
「――ははっ、重症だな。」
恋なんて、もっと軽くて楽しいものだと思っていた。
でも彼女を思うたびに、胸の奥が痛くなる。
ただ笑ってほしい。
それだけなのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
夕方、偶然、エレベーター前で結衣とすれ違った。
彼女はカルテを抱えていて、少し疲れた顔をしていた。
「お疲れさま、橘さん。」
「陽向先生も。……まだ残ってるんですか?」
「うん、外来の記録が少し。君は?」
「病棟の整理が残ってて。」
「頑張るね。」
「仕事ですから。」
それだけ言って、彼女は歩き出した。
その背中に、思わず声をかけた。
「――橘さん。」
彼女が振り向く。
「……何ですか?」
「君のそういう真面目なとこ、すごく良いと思う。」
言った瞬間、結衣の目が大きく見開かれる。
そして、すぐに視線を逸らして、
「……え、あ、どうも?」と小さく呟き、エレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まる。
残された陽向は、額に手を当てて小さく笑った。
「(ああ、やっぱり……好きだな、俺。)」



