遠島のマンション。土曜日の午後。
春菜は、リビングのソファに座っていた。遠島がシャワーを浴びている間、珈琲を飲みながら窓の景色を眺めていた。東京の街並みが、高層階から見下ろせる。
その時、珈琲を取ろうとして、春菜は小さなテーブルの引き出しを開いた。リモコンを探していたのだ。
引き出しの奥に、何かの紙が見える。春菜は、それを取り出した。
銀行の明細書。
春菜は、ためらった。プライバシーを侵害することになる。だが、その紙は既に自分の手の中にある。反射的に、その内容に目を通してしまった。
毎月25万円。同じ金額が、定期的に支出されている。「S.M.F児童養護施設」という記載。
心臓が止まった。
S.M.F児童養護施設?
春菜の脳は、瞬時に複数の推測をした。隠し子。不倫相手の子ども。あるいは、別の家族が……。
その推測の中で、最も春菜の心に重くのしかかったのは、「隠し子」という言葉だった。
遠島に子どもがいるのか。それとも、結婚しているのか。
手が冷える。
春菜は、とっさにスマートフォンを取り出した。「S.M.F児童養護施設」を検索する。
検索結果が表示される。子育て支援や親のサポートを行う団体だ。歴史を確認する。設立は30年前。
春菜の推測は揺らぐ。では、なぜ遠島はこのような団体に寄付をしているのか。
春菜は、遠島の履歴書のコピーを思い出す。会社の打ち合わせで見たことがある。学歴欄に「一流大学卒」と記載されていた。だが、それ以上のことは何も知らない。親のこと、生い立ちのこと、なぜこのような団体に支援しているのか。
春菜の頭が混乱に満ちる。何が真実で、何が嘘なのか。隠されているものは、何なのか。
完璧に見えていた遠島。洗練された言葉、知識、佇まい。それらが、全て仮面なのではないか。
春菜は、明細書をしまう。紙を元の位置に戻す。
シャワーの音が止まった。
遠島が出てくる。髪は濡れたまま。白いタオルを肩にかけている。「珈琲、美味しそう」と彼は言った。
春菜は「はい。さっき淹れました」と答える。その返答は、平然としている。だが、内心は激動している。
遠島が春菜の隣に座る。彼女の肩に手を置く。「どうしました? 何か、変わった?」
その質問に、春菜は一瞬の間を置く。「別に……何もありません」と答える。その嘘が、春菜自身を驚かせた。
遠島は、その返答に満足したのか、それ以上は何も言わない。彼は珈琲を飲む。その横顔は、相変わらず完璧だ。