初夏の風が、教室のカーテンをゆるやかに揺らしていた。
ざわざわと遠くで響く蝉の声。
黒板には「運動会練習開始!」とチョークで大きく書かれている。
舞は窓際の席でその文字を見つめながら、指先をそっと組んだ。
——運動会。
あの日、みんなで踊った“いろは節”の季節だ。
けれど、今度は違う。
今回は、輪の中に自分もいる。
「よーし、リーダー決めるぞー!」
伊藤が元気な声で叫ぶ。
「男子は宮澤! 女子は……川口!」と友田先生が提案すると、教室に拍手が広がった。
沙織は「えぇー!」と照れ笑いしながらも、「がんばりまーす!」と手を挙げた。
その横で大樹が頼もしく微笑む。
——その笑顔を、何度夢で見ただろう。
そんなとき、先生の声が響いた。
「よし、じゃあ踊りの構成、決めようか。綾瀬はどうだ? 衣装係、やってみないか?」
突然の指名に、舞は思わず背筋を伸ばした。
「えぇ?!、わ、わたしですか?」
「うん。器用そうだし、丁寧だから頼もしいと思うんだけどなー。」
友田先生が優しく微笑む。
その笑顔に、胸がじんと熱くなった。
——今度は、ちゃんと応えたい。
「はい。やってみます!」
そう答えると、周りの子たちから「おお〜!」と拍手が起こった。
照れくさくて顔が熱くなる。
けれど、その輪の中で笑っている自分が、少し誇らしかった。
【 放課後の図工室にて 】
舞は、衣装の試作品を作るために図工室へ向かった。
窓から差し込む西日が机を赤く染めている。
布を広げ、針を通す。指先に小さな痛み。
(こういうの、前もやったな……)
未来で、母が入院したときに縫ったハンカチ。
少しでも、誰かのために何かを作りたいと思った。
「おーい、綾瀬?」
不意に声をかけられて、振り返る。
ドアのところに、大樹が立っていた。
いつもの無造作な笑顔。だけど今日は、どこか優しい。
「まだやってたの? 他のやつ、みんな帰ったぞ」
「うん、ちょっと形が気になってて……」
「真面目だよなぁ。先生、喜ぶぜーきっと。」
大樹は机の前に腰を下ろし、針の動きをじっと見つめる。
ふいに、舞の指が針をかすめた。
「痛っ…。」
「おい、大丈夫か?」
すぐさま大樹が手を取った。
その手の温かさに、舞の心臓が跳ねる。
「……ちょっと刺しただけ。平気。」
「でも血出てるぞ。ほら、貸してみ。」
大樹はポケットからハンカチを取り出し、優しく指を包んだ。
その瞬間、距離がふいに近づく。
息が触れそうなほど、顔が近い。
——この距離…はさすがに…。
未来ではまず、こんなことあり得ないのに。
「宮澤くん、……ありがと。」
「いいよ。俺、サッカーで怪我ばっかだから、慣れてんだー。」
照れたように笑う彼に、胸が締めつけられる。
(好きになっちゃうよ……)
そう思った瞬間、針より鋭い痛みが心を突き抜けた。
だって、彼は——未来では、自分を覚えていないかもしれないのだから。
【 日曜日、放課後の約束 】
週末の放課後、運動場の白線が引かれる音が響く。
大樹がサッカーボールを蹴っている。
舞は衣装の布を持って校庭の端を歩いていた。
「綾瀬ー! 手伝え!」
「え、なにを?」
「パス練!」
「わ、わたし? ええ、無理だよ!」
「大丈夫だって、ほら!」
ボールが軽く蹴られて舞の足元に転がる。
恐る恐る蹴り返すと、案外ちゃんと返った。
「お、うまいじゃん!」
「たまたまだよ!」
「じゃ、今度の日曜、練習付き合えよ?」
「えっ?」
「いいだろ? 衣装のお礼ってことでー。」
そう言って、大樹はにかっと笑う。
夕日が彼の輪郭を金色に染めていた。
舞は、うなずくことしかできなかった。
【 日曜の午後、秘密のグラウンド 】
その日は雲一つない青空だった。
学校の裏手、小さな広場に二人だけ。
大樹はTシャツ姿でボールを回し、舞はスニーカーを履いて立っていた。
「じゃ、軽く蹴ろうぜー。」
「ほんとに軽く、だよ?」
「もちろん!」
ボールが転がり、二人の笑い声が風に混ざる。
最初はぎこちなかったが、何度も蹴り合ううちに、息が合っていく。
汗が光る。風が髪を揺らす。
「なぁ、綾瀬。」
「んー?」
「お前さ、時々……変なこと言うよなー。」
「へ、変なこと?」
「“前もやった気がする”とか、“この季節懐かしい”とか。なんかさ、子どもっていうより……大人みたいなこと言うよな。」
舞の胸がどくんと鳴る。
——もしかして、気づかれてる?
「そ、そんなことないよ!」
「ほんとか?」
「うん……!!」
大樹は笑いながらも、真剣な目をしていた。
その瞳の奥に、まっすぐな何かが宿っている。
「でも、俺、そういう綾瀬、いいと思うけどな。」
その言葉に、息が止まった。
風が止まり、世界が静止したように感じた。
「……え?」
「だって、前と違うじゃん。なんか、すげぇ優しいし、強くなった気がする。」
「そ、そんなこと……」
「あるよ。見てたら、わかるし。」
大樹は空を見上げ、少し照れたように笑った。
その横顔が、切ないほどにまぶしい。
(言いたい。全部話したい。
未来から来たことも、先生を助けたいことも——
でも、言えない。)
唇を噛んで、舞は微笑んだ。
「ありがとう、宮澤くん。」
それだけが、舞にしたらやっとの言葉だった。
【 放課後の職員室前 】
次の日。
舞は廊下で、友田先生が膝を押さえているのを見かけた。
「先生……やっぱり、病院行ったほうがいいですよ!」
「またそれか〜。」
笑ってごまかそうとする友田先生に、舞は真剣な声を出した。
「本当に、お願いです!今のうちに行かないと——。」
先生が驚いたように目を見開く。
「“今のうちに”って?」
「あ……」
しまった——言葉が漏れた。
けれど、先生は静かに笑って言った。
「心配してくれてるんだな。ありがとう。でもな、綾瀬。
先生はな、人の“優しさ”で生きてる気がするんだ。」
その言葉に、舞の目が潤む。
“優しさで生きてる”——
未来で息を引き取る直前の、あの微笑みと重なった。
「……先生。」
「ん?」
「いつまでも、元気でいてくださいね。」
その言葉に、先生は優しくうなずいた。
「あぁ、約束するよ、綾瀬。」
【 黄昏の屋上 】
夕方。
校舎の屋上に立つと、風が心地よかった。
舞は手すりに肘をかけて、空を見上げた。
そこに——大樹が現れた。
「お、綾瀬。またここにいたのか。」
「……見てたの?」
「たまたま。なんか、ここにいそうだなって思って。」
二人は並んで空を見上げた。
茜色の空に、雲がゆっくりと流れていく。
「なぁ、綾瀬ー。
もし、誰にも言えない秘密があったら——どうする?」
大樹はフェンスに持たれながら舞に聞いてきた。
舞は急に心臓が凍りついた。
「な、なんでそんなこと聞くの?」
「お前がそういう顔、ーーーしてるからだよ。」
沈黙。
風が髪を撫で、遠くの街のざわめきが微かに聞こえる。
——隠しきれない。
けれど、まだ話す勇気が出ない。
「……そのうち、宮澤くんに、話せるときが来るかもしれないね。」
「そうか」
大樹は微笑んだ。
「じゃ、そのときまで待ってる!」
それだけ言って、彼は屋上のドアへ向かった。
夕日を背にして振り返る。
「俺さ、綾瀬のこと、もっと知りたい。」
舞の胸が熱くなる。
その背中が遠ざかっていくのを見つめながら、
涙がこぼれた。
——この時間が、永遠に続けばいいのに。



