誰にというわけでもないけれど、このひとは私のものだって知らしめたい。
 けれど、職場でうっかり名前呼びしたらあとが怖いでしょ? それになにより。

「それは……いざとなると照れるっていうか」
「まあいいけど」
「怒った?」

 ぱっと吉見さんに向き直る。吉見さんはふだんと変わらない顔。

「怒ることでもないだろ」
「でも、なんか不機嫌に見える」
「元がこの顔なんだって。ほんとうに、まあいいと思っただけ」

 吉見さんの目元がゆるやかな孤を描く。そうだった、吉見さんは言葉を飾らないんだった。
 感情が表に出にくいひとだから、こういうささいな変化も見逃さないようにしないと。

「名前、呼ぼうとして照れるとこ見るのもアリかって」
「ええ? そんなの、よけいにハードルが上がる……!」
「まあ頑張れ。んじゃ、帰るわ」

 吉見さんはあっさり切りあげてしまった。あっけに取られる私をよそに、食器をシンクに運んで洗い、コートを羽織ってしまう。
 え、待って。だって、こんな時間だよ? もう終電だってないよ。

「ほんとうに帰るの?」

 自分で思うより声が揺れてしまった。
 なんでこんなに、吉見さんの行動ひとつで心が揺れてしまうんだろう。
 付き合えて嬉しいはずなのに。
 帰りの予定を早めてくれただけで、満足したはずなのに。

「顔も見たから。明日は俺も事務所に顔出す、また明日な」
「でももう遅いし――」

 泊まっていかない?
 そう言いかけるのを、私はすんでのところで飲みこんだ。スカートの裾をぎゅっとつかむ。

『ベッドでもがっついて来んのかなって、ふつうに引いた』

 吉見さんにまで、がっついていると思われたら?
 幻滅されたら?
 そうだよ、吉見さんだってこの時間に恋人の家に来て、泊まる可能性を考えなかったとは思いにくい。
 だけど帰るということは、その気がないということ。