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 電話が切れると、ビジネスホテルの部屋はとたんに静かになった。薄い壁の向こうから、シャワーの音がかすかに聞こえてくるだけ。
 耳の奥に、陽彩の陽だまりのような声の余韻が残っている。
 その余韻に引きずり出されるようにして、陽彩の笑みが頭をよぎった。
 いつも仕事に一生懸命で、人当たりもいい。事務所の皆に愛されているからか、必要以上に変な遠慮をすることもなくぶつかってくる。
 ひと言でいうと、見ていて気持ちのいい女性。
 しかし人付き合いなど不要だと思っていた俺からすれば、少しばかり鬱陶しい存在。
 それが陽彩だった。
 彼女が本来の自分を必死で隠すのも、言いかたは悪いが滑稽に思えた。隠す必要性が理解できなかったからだ。
 しかし、そう思っていたのは最初だけだった。
 仕事を通して彼女を知るうちに、いつのまにか目が離せなくなって、ふと彼女を思い出すことが増えて。
 俺がどうにかのみこもうとしながら内にくすぶらせていた思いを掬いとって、俺よりも怒っていた姿が頭から離れなくて。
 別の男が彼女を名前で呼ぶ光景に、自分でもどうかと思うほど胸がかき乱されて。

「広島は遠すぎるだろ……」

 気づけば、このザマだ。
 会いたい。
 顔が見たい。声が聞きたい。
 陽彩とメシを食いたい。
 それに、電話口で陽彩が一瞬だけ見せた声の翳りも気になる。一度そのことを意識すると、じっとしていられなくなってきた。
 察するのは苦手だ。それが原因で、過去には失敗したこともある。
 だからこそ、陽彩に関してはどんな違和感も捨て置きたくない。心当たりがないから、なおさら放っておけない。
 俺は、電話を切ったばかりのスマホに表示された時刻を凝視した。

「……行ける、か?」

 ひとたびそう思うなり、頭が猛然と回転を始める。
 仕事自体は終わった。あとは今夜の会食と明日の観光という名の接待が残るだけだ。
 弾かれるように立ちあがり、部屋に散った私物を回収してキャリーケースに押しこめる。カードキーを手に、キャリーケースを引いて部屋を飛び出した。
 そうしながら、先方に急用が入ったと謝罪の電話を入れる。
 気づけば新幹線の駅まで全速力で走っていた。