仕事は少し残業になってしまった。
先に帰ろうとする彼は、私の耳元で短く「下で待ってる」とだけ呟いた。
結局、オフィスの下で合流して、そのまま並んで駅へ向かう。夜風の冷たさは、いつも通りだけど──心は随分と落ち着かない。
「……改めて、自分が恥ずかしい」
ぽつりと、晴和さんが呟く。
「でも、咄嗟に『父親になる』って……すごいこと言いましたよね」
私がそう言うと、彼は苦笑して、視線を前に向けたまま答える。
「別にさ。莉佳子と一緒に居られるなら、それでいいと思ったんだよ」
今まで空いていた距離はほんの少しだけ、いつもより近い。
「……それに」
彼は一度言葉を切って、息を整えるようにしてから続けた。
「莉佳子の側にいるためには、ちゃんと気持ちを伝えなきゃいけないって……やっと気付いた」
その言葉に胸の奥が、じんと熱くなる。
それ以上、私は何も言えなかった。
『案内したいところがある』と言われて連れて行かれたのは、祖父宅の最寄り駅から少し歩いた場所にある、こじんまりとした新築マンションだった。
ワンフロアに三部屋ほどしかない、落ち着いた雰囲気の建物。
「……ここですか?」
「うん、買ったんだ」
「……買った?!」
思わず声が裏返る。
「うん」
あまりにあっさり言うから、間違いではないだろうかと戸惑う。そんなマンションを買う雰囲気は感じていなかったから。
階段で二階に上がり、鍵を開けて中へ入る。
ドアを開けた瞬間、広めのリビングが目に飛び込んできた。
白を基調とした内装で、まだ誰の生活感もない。
「一応ね、ここ、猫は二匹まで飼育可能なんだ」
彼はそう言って、少し照れたように視線を逸らす。
「だからさ……リリーの子どもは、俺が引き取るよ」
「……えっ。じゃあ、リリーは?」
「多分さ、リリーはまだまだハルに甘えたいと思うんだよ」
彼の声は、猫の気持ちをちゃんと考えているそれだった。
「子どもがいると、ハルに思いきり甘えられないだろうし。ハルがもっとおじいちゃんになったら、その時に考えればいいと思う」
「……それも、そうかも」
確かに子どもがいれば、どうしても目がそっちに行ってしまう。
今は、リリーがリリーでいられる時間を大切にしたい。
「もうすぐ、肇先生……退院するんだよね?」
「うん」
「しばらくは、一緒に暮らすの?」
「まあ……そうなるかな。リリーの出産までは、居ようかなって」
少しの沈黙のあと、彼は決意したように私の方を見た。
「だったらさその後は……一緒に、ここで暮らそうよ」
心臓が、ドキンと高鳴る。
「順番はいろいろ間違えたけど」
彼は、珍しく緊張した顔をしていた。
「俺と、結婚してくれませんか?」
「……いきなり、結婚?」
「うん。……ダメ?」
思わず私は、吹き出してしまった。
「順番、間違えすぎです」
そう言うと、彼は涼しい顔を装っているくせに、耳まで真っ赤だった。
「……前向きに、考えさせてください」
逃げでも拒否でもない、正直な答えだ。
「絶対に、うんって言わせてみせるよ」
その言葉のあと、彼はそっと口づけた。
確かめるような、約束みたいなキスだった。
先に帰ろうとする彼は、私の耳元で短く「下で待ってる」とだけ呟いた。
結局、オフィスの下で合流して、そのまま並んで駅へ向かう。夜風の冷たさは、いつも通りだけど──心は随分と落ち着かない。
「……改めて、自分が恥ずかしい」
ぽつりと、晴和さんが呟く。
「でも、咄嗟に『父親になる』って……すごいこと言いましたよね」
私がそう言うと、彼は苦笑して、視線を前に向けたまま答える。
「別にさ。莉佳子と一緒に居られるなら、それでいいと思ったんだよ」
今まで空いていた距離はほんの少しだけ、いつもより近い。
「……それに」
彼は一度言葉を切って、息を整えるようにしてから続けた。
「莉佳子の側にいるためには、ちゃんと気持ちを伝えなきゃいけないって……やっと気付いた」
その言葉に胸の奥が、じんと熱くなる。
それ以上、私は何も言えなかった。
『案内したいところがある』と言われて連れて行かれたのは、祖父宅の最寄り駅から少し歩いた場所にある、こじんまりとした新築マンションだった。
ワンフロアに三部屋ほどしかない、落ち着いた雰囲気の建物。
「……ここですか?」
「うん、買ったんだ」
「……買った?!」
思わず声が裏返る。
「うん」
あまりにあっさり言うから、間違いではないだろうかと戸惑う。そんなマンションを買う雰囲気は感じていなかったから。
階段で二階に上がり、鍵を開けて中へ入る。
ドアを開けた瞬間、広めのリビングが目に飛び込んできた。
白を基調とした内装で、まだ誰の生活感もない。
「一応ね、ここ、猫は二匹まで飼育可能なんだ」
彼はそう言って、少し照れたように視線を逸らす。
「だからさ……リリーの子どもは、俺が引き取るよ」
「……えっ。じゃあ、リリーは?」
「多分さ、リリーはまだまだハルに甘えたいと思うんだよ」
彼の声は、猫の気持ちをちゃんと考えているそれだった。
「子どもがいると、ハルに思いきり甘えられないだろうし。ハルがもっとおじいちゃんになったら、その時に考えればいいと思う」
「……それも、そうかも」
確かに子どもがいれば、どうしても目がそっちに行ってしまう。
今は、リリーがリリーでいられる時間を大切にしたい。
「もうすぐ、肇先生……退院するんだよね?」
「うん」
「しばらくは、一緒に暮らすの?」
「まあ……そうなるかな。リリーの出産までは、居ようかなって」
少しの沈黙のあと、彼は決意したように私の方を見た。
「だったらさその後は……一緒に、ここで暮らそうよ」
心臓が、ドキンと高鳴る。
「順番はいろいろ間違えたけど」
彼は、珍しく緊張した顔をしていた。
「俺と、結婚してくれませんか?」
「……いきなり、結婚?」
「うん。……ダメ?」
思わず私は、吹き出してしまった。
「順番、間違えすぎです」
そう言うと、彼は涼しい顔を装っているくせに、耳まで真っ赤だった。
「……前向きに、考えさせてください」
逃げでも拒否でもない、正直な答えだ。
「絶対に、うんって言わせてみせるよ」
その言葉のあと、彼はそっと口づけた。
確かめるような、約束みたいなキスだった。



